前編
都会の喧騒に疲れ果てた社会人の田中直樹は、毎日を機械的に過ごしていた。朝起きて、電車に揺られ、仕事に追われる。残業しても終わらない仕事を抱えながらまた帰路について家に帰っても寝るだけの日々。心の余裕を失った彼は、いつのまにか仕事以外のものが目に入らなくなっていた。朝何を食べたかも、どんな道を通って会社に来たのかも覚えていない。
そんな彼がふと正気に戻ったのは朝、通勤ラッシュ中の駅のホームのことであった。彼の家は郊外で、まだホームに転落防止策が取り付けられていない。酔っ払い以外はめったに線路に落ちることはないとはいえ、意思があれば数歩踏み出すだけで落ちていくことが可能であった。人がごった返す中、それを迎えに来るように列車が高速で駅に突っ込んでっ来る
――ホームと、線路の境界を越えられればもう会社に行かなくて済む。
それはまるで魔法で操られるかのようだった。自分の意志で体を動かしているはずなのに、まるで実感がない。彼にとって幸運だったのは自分の他に白線を越えた人がいて、列車が警笛を鳴らしてくれたことだった。大音量でならしたそれが、直樹を我に返らせた。数秒、身体が硬直し直後冷汗が噴き出る。
――俺は今、何をしようとした?
自分が思っている以上に深刻な状態であることを悟った彼は、自分の頬を思いっきりたたいた後に、しばらく会社を休むと上司に告げた。電話越しで何か喚き声が聞こえてきたが、直樹は無視し一方的に電話を切った。
――まずは日常を取り戻さないと。
彼はそう思い、ホームを離れ改札を出た。何をすべきかはわからない。けれど今まで失ってきたことを取り戻すには幸福の象徴のような体験をする必要がある。仕事以外のことを考えられなくなった頭で論理的にはちょっとよくわからないことを考える。幸福の象徴……。食べ物、旅行、女……。俗っぽいことを片端から考えている中で、目に飛び込んできたのは一枚の落ち着いた色合いのした看板だった。
「カフェ・セレンディピティ」。
カフェ、喫茶店。社会人になってから一度も一人で入ったことはなかったが、子供の頃からの憧れだった。休みの日にくつろぎながら本を読み、コーヒーを嗜む。優雅な時間の使い方であり、平和の証。幸福の象徴と呼ぶにふさわしい体験かもしれない。おまけに今日はとても寒い。体が温かい飲み物を欲している。勇気を出して入ってみることにした。