玻璃の静謀1
松平雪臣。現職大臣の息子にして誰もが振り返る美貌の持ち主。だがその舌は鋭く、心臓に爆弾を抱えた複雑な生い立ちの高校3年生でもある。
父の秘書でお目付け役の同居人、但馬恭四郎に過保護に見守られつつ、婚約者・伊達綾に振り回されながらもそれなりの穏やかな日々を送っていたーはずだった。
婚約発表の夜、雪臣は何者かに誘拐される。
背後で糸を引いていたのは、父の政敵、そして雪臣を憎む継母。
政治と愛憎、忠誠と裏切りが入り乱れる中、恭四郎と綾は雪臣を救うために奔走する。
誰が味方で、誰が嘘をついているのか。
透明な檻〈玻璃〉の中で繰り広げられる静かな駆け引きの果て、彼らが見出す真実とはーー。
声なき願いが、今静かな謀となる。
1️⃣
キーンコーンカーンコーン…けたたましいチャイムの音が張り詰めた空間を破った。やがてテスト用紙が机の上から姿を消すと代わりにざわめきや嬌声が教室中に満ちあふれる。
松平雪臣は机の上に転がっていたシャープペンシルや消しゴムをペンケースにしまい、それをリュックに押し込むと無造作に肩にかけて教室から出て行こうとした。
「おい、雪臣ちょっと待て!俺をおいてく気か?」
「俺もいるぞー薄情な奴だな、どっか行こうぜって紙をテスト中に回しといただろうが。見なかったのかよ」
「見たさ」
廊下を足早に歩きながら雪臣は追いかけてきた男子学生達の方を振り返った。雪と見紛う白い頬に少し長めの黒髪がゆったりとかかった。病気のせいで進学が1年遅れた為、18才とはいえかなり水準よりは華奢な指で髪をかき上げる。
「見てたからこうやって急いでるんじゃないか。せっかく期末テストが終わって公然と遊べるってのにこんなとこでボヤボヤしてたら担任につかまるぞ。HRがまだあるんだから」
「それもそうだな。じゃ、早いとこ出ちまおう。まずはどこへ行く?昼めしか?」
「ああ、とりあえず小田急に乗ってって新宿に出ちまおう。それから久しぶりに渋谷にても出てみるか?」
「おおそいつはいいな。”109”の通りに行ってみようぜ。知ってるか?あそこの通り、結構カワイイ子が多いらしいぜ、うまくいけばだな・・・カワイイ3人組をつかまえて一緒にお食事…なんてなっ」
ニヤけた顔付きで言ったのは髪を短く刈り上げた川田という少年。
「それでこの前みたいにいざ別行動しようってなったら相手の3人が3人とも雪臣目当てだったって落ちか?やめてくれよ。それより俺、服が見てぇな。この間ビームスのちょっと洒落たやつ見つけたんだ」
雪臣を挟んで川田と反対からひょこっと首を出したのは茶色っぽい髪にゆるく天然パーマのかかった菊池少年だった。
「わかった、お前らの言うことは何でも聞くから、俺の頼みも聞けよ。いいか、今夜は酒盛りだ。代官山の俺のマンション提供するから帰ったりするなよ」
雪臣の言葉を聞くと川田は片目をつぶって頷いた。
「おう、うまい酒おごれよ」
「もちろん!親父の所からこっそり持ってきた、年代物のヘネシーX・Oだ」
雪臣はその美貌のうちのひとつである朱い唇に軽い笑みを浮かべて階段を降りていった。
ここは東京は世田谷の閑静な住宅街の中にある、都内でも著名な名門校S学園。近くには小田急線が通っていて約30分ほどで新宿まで出ることができるという交通事情のよさ。平日ならば見かけることのないS学園の生徒達の姿が、その駅に向かう姿をちらほらと彩っている。今日で1学期の期末テストが終わったので生徒達が下校するのだろう。
雪臣達3人組もそういう生徒達に交ざって正門を抜けようとしていた。ところがー。
「おい、あそこ何か変だぜ」
最初に歩みを止めたのは菊池だった。後の2人が菊池の指さす方を見てみると正門を通って外へ出て行く生徒が皆、右の方を向いて歩いていく。どうやら、何かがいるらしい。妙な表情で振り向き振り向き去っていく生徒、失笑をこらえきれず、口許をおさえながら足早に去っていく生徒ー中には立ち止まってそれを見ながら匕ソヒソとをしている女生徒達。
するとその中の1人がークラスに残っている友人に知らせるつもりなのだろうーこちらに向かって引き返してきた。
「あっ、ねぇ君!」
雪臣は素早く通り過ぎようとする少女の腕を掴んだ。勢い余って雪臣の方に倒れ込んだ少女の胸に赤い学年章と”藤堂”と書いた名札が光った。
「おっと失礼ーちょっと聞きたいんだけど…正門の外に何かいるの?」
「きゃあ、松平さんっ‼!」
少女は雪臣に抱き起こされながらその顔を見上げていたが、至近距離気がつくと悲鳴を上げて飛びずさった。
「何?」
「誰かを待っているみたいなんですけど、なんかやたらカタギの人っぽくなくて…ダーク スーツにサングラスだし、赤い車と全然合わない雰囲気でー」
話を聞いていた3人は同時に何か思い当たることがあったらしい。まず最初に川田が鞄を菊池に投げ出して正門の向こうに消えていった。
「そうか。どうもありがとうー2年の藤堂さん?…だったね。このお礼はいずれまた」
ボウッとなっている女生徒を尻目に雪臣は正門に向かって歩き出した。その後を追って走ってきた菊地がからかう口調で声をかける。
「雪臣…お前ってほんと悪い奴」
「何が?」
「また、いたいけな女の子をたぶらかしてさ。見ろよ、彼女完全にブッ飛んじまってるから。ま、”麗しの松平様”に声をかけられたんじゃしょーがねぇよなぁ」
「てめぇ顔のことは言うな!こんな女顔、俺は大っ嫌いだ」
「あれ、じゃお前ってば自覚もなしにやってるわけ?こりゃの天性の女たらしかな。いやたまに男でも見とれてる奴がいるからな。気をつけた方がいいぞ、男女兼用たらし」
「この野郎っ!」
「ーそのたらしを守るナイトのご登場だぜ」
雪臣が菊池を殴ろうとして手を上げかけた時、先に行った川田が正門の柱の影から姿を現すと雪臣の肩を叩きながらニヤッとした。
「雪臣、今日のところはとりあえず中止だなーナンバも酒も」
こうしてあらわれた第4の男によって雪臣達のささやかな楽しみは流れたのだった。
2️⃣
小田急線の線路を右手に、S学園の馬場を左手に臨むのどかな道路を,赤いアウディが1台走っていく。その助手席では松平雪臣が運転席の男に向かって噛み付いていた。
「だから今日は迎えにこなくていいと言っただろう!テストが終わってようやく遊べると思 ってたのに、なんだってお前は邪魔するんだよ。親父と何か打ち合わせがあったんだろう?」
「テストが今日終わることは先生もご存じで、おそらく雪臣のことだからテストが終わったとなれば、その足で代官山のマンションの方へ帰ってしまうに違いない。せっかくだから今晩の夕食ぐらいは成城の本宅の方で食べていくようにとのご伝言でしたので」
「ったく勝手な親父なんだから!テストの期間は少しでも勉強できるように近くの本宅から通うことなんて見え透いた条件をつけやがって…自分が寂しいだけじゃないか。成城の家は親父にとっちゃ家かもしれないが俺にとっちゃ赤の他人の家なんだぜ、いや赤の他人の家だってあそこまで居づらくはないよ。恭四郎、お前見たか?あのおばさんの表情ー一見笑ってるのに目だけ笑ってないんだ。妾の子が何でこんな所にいるんだってね。自分だって赤坂の芸者あがりがたまたま親父の先妻が若死にしてくれたから後妻に入れたくせにさ」
「先生は雪臣様のことを心配なさっておられるのですよ」
恭四郎と呼ばれた男は信号が青になったのを見ると今までしていたサングラスをセンターコンソールの上に置いてギアーを入れる。アウディは再びなめらかに走り出した。
「奥様としてはご自分は本妻の座に収まったもののお子様にも恵まれず、先生が雪様を可愛がられるのを見て、ふとご自分の将来に不安を抱かれたのでしょう」
雪臣はふと主人夫婦の観察を淡々と語るこの男を眺めた。
但馬恭四郎は今年25才。3年前、雪臣がS学園入学を機に成城の本宅を出て代官山に移った時に、大学を卒業したばかりの彼が雪臣の保護者代理兼ボディガードとして共同生活を始めるようになった。
雪臣がこの同居人と出会うまではかなり複雑な環境を必要とした。
雪臣の父親は現在の国家公安委員長、松平桂之介である。若くして政界に身を投じた桂之介は、そこで自民党の大物松平敬司に見込まれて、彼の1人娘であった敏子を妻とし敬司の後継者となったのだった。
ところが敏子は若くして病死、その後正式な結婚もしないうちに雛子という女性との間に雪臣をもうけたのだが、もともと丈夫でなかった雛子は難産が祟って、雪臣が3才の時に亡くなった。やがて何年かして桂之介は後妻を迎えたが雪臣はその女性と折合いが悪く、結局は本宅と別居という結果になった。
そこへ大学を卒業した但馬恭四郎が桂之介の秘書見習いとして入ってきたのである。
溺愛する息子との別居生活を渋っていた桂之介は、恭四郎の秘書見習いという曖昧な立場をいいことに彼を自分の身代わりとして雪臣につけたのだった。
公私混同もいいところだーと雪臣は思うのだが恭四郎は一体どう思っているのか、黙々として何も語らず、ひたすら雪臣の面倒を見ている。それが自らの将来の為にやっているようにはどうにも見えない。桂之介に取り入るだけの手段の子守りなら1年前心臓病で倒れた時に雪臣は"お荷物"のレッテルを貼られてさっさと見捨てられていたはずだろうからー。恭四郎は心臓病に倒れても尚、家には帰らないと言い張る雪臣を献身的に看病した。雪臣が退院して学校へ復帰してからは、朝夕車で彼を学校に送り迎えし、その合間に桂之介の秘書の仕事をしているらしい。
その多忙さのせいか白誓、切れ長の涼しげな目許、加えてスラリと均整のとれた180cmの長身と条件がそろった美丈夫の割には恭四郎の浮いた噂を雪臣はこの3年間1度も聞いたことがなかった。
「それからなぁ恭四郎、お前自分がとんなに恥ずかしく目立ってたか知ってるか?」
「は、どこでですか?」
「ー校門で、だよ。ったくこんな真っ昼間から真っ赤なアウディなんか正門の前に乗りつけちまって!ナンパじゃないんだぞ」
「しかしこれはこの間ベンツでお迎えに来た時、あなたがもっと目立たない車にしろと言ってたからですよ。真っ赤なアウディなんてそこら中に走っているでしょう?」
雪臣は雪のような額に細長い指を当てて、クッションのよい席へ深々ともたれた。
「じゃ、恭四郎…お前その格好だけは何とかしてくれ、サングラス…はまだいいとしてそのダークスーツは何なんだよ。もうちょっと車に合わせるって事を考えろよ!」
「一変ですか…やっぱりこの色がよくないのだろうか…?」
恭四郎はそういって自分の光沢のあるグレーのグークスーツを見た。
「違う!アルマーニが悪いんじゃない!要はお前のセンスが悪いんだ。俺と暮してるならもう少しましになれ!」
「ええそうですね、勉強しときますよ…雪臣様!」
声を荒げたせいで思わず雪が息を切らすと、それまで穏やかに微笑んでいた四郎の表情が一変した。
「ー大丈夫だ。運転を続けろよ……」
恭四郎の視線はハンドルと雪臣の顔を交互にさまよっていたが、雪臣の表情が次第に平静になりつつあったので彼はそのまま車を進めた。
「一実は雪臣様」
「んー?」
しばらくの沈黙の後、先に口を開いたのは恭四郎だった。
「実は私がお迎えにあがったのはもうひとつ、取り急ぎの用事ができたからなのですよ」
「何だ?」
「伊達賢章氏をご存じでしょう、雪臣様。自民党の黒幕の山内氏の第1秘書」
「ああ、綾さんの叔父だっけ?彼女の家で何回か会ってるな」
「その賢章氏からあなた宛に歌舞伎観劇のご招待状が届いているのです。ところが困ったことに、この券は明後日のものなんです。夜の部ですけど」
「そんなぎりぎりに届いたのか?じゃ行っても行かなくても返事はいらないってことだよな」
「ところがこれには裏話がありましてね、今朝、雪臣様を送って成城の本宅へ戻ったんですが、玄関の所で奥様付きのお手伝いとすれ違った時、彼女がこれを落としたんです。雪臣様宛になっているのに封が開いてるので気になりましたから、そのお手伝いを問いつめてみたのですよ。するとこれは1週間前に本宅の方に届いた手紙で、これを代官山のマンションに送ろうとした所を奥様が見咎められて封を切り内容を読まれた後、処分してしまうようにと言われたのをそのお手伝いがすっかり忘れていて処分しようと思い立って出てきた所を私に見つかったと白状しました。ま、いわゆる嫌がらせでしょうけど、これで伊達銀行の融資が受けられなくなったら松平家にとってもマイナスでしょう。銀行家というのは信用が基本の商売ですからね。1度約束をやぶると大変ですよ。信頼を取り戻すのに時間がかかる。松平先生としてもせっかく口約束だけでも取りつけた未来の姻戚ですから……で、どうしましょうか、お返事は?」
「どれ」
雪臣は制服のネクタイを緩めながら、差し出された券と手紙を受け取った。
「あれっ、この券2枚もあるぞ。どうしろってのかなぁ」
恭四郎はちらっと雪臣の顔を見ると再びサングラスをかけながら言った。
「送ってきたのは伊達氏ですよ。伊達令嬢と行けということに決まってるじゃないですか。早く婚約者殿にお誘いの電話をなさって下さいよ。私は賢章氏に連絡を差し上げますから」
「あ、綾さんならたぶんだめだろうな」
「だめ?どうしてそんな事がわかるんですか」
「綾さんは遊び回ってるから…今日は六本木、明日は横浜ーこの間なんか夜通しブっとばして小田原辺りまでドライブだってさ。"私に会いたい時は少くても 1週間前には連絡してね"って言われたし…毎日毎日助手席に日替りで男を乗っけて車乗り回して…いや元気だねあの女王様は」
「あの白いロードスターでーですか…」
「そ。だから明後日どうなんて電話したらそれだけで大目玉喰らっちまう」
「じゃ、お断りですね」
恭四郎がため息をつきながらそう言ったのは雪臣の話した内容が容易に信られたからである。
伊達綾は今年19才、この春S学園の高等部を卒業し、4年制大学部の英米文学科に入学した。黒くて豊かな髪を肩の所でブッツリ切りそろえてボブカットにし、くるくるとよく動く瞳と理知的な頭脳、咲き誇る大輪の牡丹を思わせる美貌の娘である。彼女の父親の伊達賢邦氏は日本で屈指の伊達銀行の総帥であり、互いの財力と権力を認め合った松平・伊達両家は先年、非公式なものではあるが雪臣と綾の婚約を交わしたのだった。
しかし、婚約とは名ばかりで、勝気で自由奔放な綾はプレイガールの浮き名も高く、1つ年下の心臓病の婚約者の所にはたまにしか寄りつかない。
一方の雪臣の方もそのたおやかな見かけによらず馬鹿にされて黙っているほど決して大人しくはなかったのだが、どういうわけか綾とは妙に気が合うらしくどんな噂が立っても綾のしたいようにさせてやっているらしい。
だが恭四郎はこんな2人の将来に密かに危具を抱いていた。
将来2人が結婚して暮らし始めた時、自由奔放な綾は心臓病の雪臣の寿命を縮めてしまうのではないだろうか?まるで華やかな牡丹が臈たけた白梅を圧倒してしまうようにー。
雪臣を守る者として恭四郎の綾に向ける目が厳しくなってしまうのは仕方のないことだった。
「いや、行く」
雪臣のつぶやきを聞いた恭四郎は煙草に火をつけようとしていた手を止めて驚いたように言った。
「行くんですか。お1人で?雪臣様、そんなに歌舞伎がお好きでしたっけ?」
雪臣は笑いながら恭四郎の片手からライターを奪い取るとその煙草の先に火をつけてやった。それも束の間、今度は恭四郎の口許から煙草を奪い取って自分の口に運ぶ。
「お前と行くんだよ。いいだろ、別に。綾さんは都合が悪いんだし、他の女を連れてくわけじゃないしー行かなかったら行かないで不都合が生じるだろう。痛っ!」
再び煙草を口に持っていこうとした時、横から突然恭四郎の片手が出てきて雪臣の細腕を捻上げた。予期せぬ痛みに雪臣の手から煙草は離れた。
「っ痛えな、何するんだよっ!煙草が欲しけりゃもう1本新しいの出せばいいだろ。ったくケチなんだから」
恭四郎はハンドルを握りながら片手ですばやく落ちた煙草を拾い上げて吸うとジロリと雪臣を睨む。
「あなたは未成年でしょう。それに心臓病なんですから、こんなもの吸うんじゃありません。発作を起こして死にますよ」
「ほーお、その病人の前で毒の煙を撒き散らして俺の寿命を縮めてるのは一体誰だよ。とにかく明後日は行くから、そのように返事を出しといてくれ」
「でもー」
「いいんだってのに。綾さんを連れてこいなんてこれのどこに書いてあったのさ。それくらいでヘソ曲げちまうほど伊達のおっさんは気が小さいのか?毒を喰らった心配はメインディッシュを食べた後にすればいいさ。目の前にはただでありつけるディナーが待ってるんだから」
雪臣の黒目がちの瞳が運転している恭四郎の顔を覗き込んで悪戯っぽくるめく。
「恭四郎、確か今月のは見たがってた演し物だったろう?伊達氏に感謝することだな」




