第6話 時空の深淵で無窮の悔恨
腕がひきちぎられるより、はるかに痛い事実だった。
ぜいたくをあきらめたくない、生活を切りつめたくない、そんな自分勝手な欲望が引きおこしたとっさの黙殺が、愛娘の惨殺へと姿を変えたという、冷酷すぎる事実。
(なんてこと・・・嗚呼・・・嗚呼・・・
・・・飢餓だけだろうか? 私たちが、領民に与えてしまった苦痛は? )
引き延ばされた時間のなかで、ながながと後悔の念にさいなまれたあげく、少し落ちつきを取りもどしたものか、彼女にはそんな疑問がうかんできた。
領民の娘を召しだすのには、両親や本人の了承を得ていたとの記憶。それも彼女は、何度もはんすうし直した。
もうすでに百回ちかく繰りかえして思いだしていたことだが、改めて、何度もはんすうしてみた。
2百回ほどはんすうしたところで、また、嫌な予感をともなう違和感を覚えた。
何か気になるものが目にとまったのに、それも、見てみぬふりをして、忘却の深淵におしやっていた。そんな気がする。
都合の悪い事実に、気づなかったという記憶をでっちあげるために、気づいていた何かを強引に闇にほうむっていた・・・ような。
このことに関しても、すばらしすぎる自己暗示にかかってしまっていたような。
だが、それが何か、直ぐには分からない。
よほど都合の悪い事実だったのか、よほど自己暗示が効きすぎていたのか、彼女の脳は、忘却したのだという記憶に執着しつづけた。
だが、記憶の想起が3百回を越えたかどうかというころ、彼女は、思いだした。思いだしてしまった。
(そうだ、それを報告していたときの夫の顔が、左右非対称にゆがんでいたのだわ)
夫の顔が左右非対称になる理由は、彼女には、考えるまでもない。
結婚して30年、何度も見せられてきたものだ。
(嘘をついているときの顔だ)
いつの時代の夫婦にもありがちなように、30年のあいだに彼女は、さまざまな嘘を夫からつかれつづけてきた。
だから、その顔を彼女が見逃すはずはなかった。
見逃していないのに、気がついてしまっては都合が悪いから、見逃したことにしていたのだ。
見ていないという自己暗示をかけたのだ。とっさに、無意識に。
領民の娘を召しだすのは、両親や本人の了承を得たうえで行っている。その言葉は、嘘だったのだ。
そのことを彼女は、左右非対称の顔をみたときに、瞬時に見抜いていたのだ。
だがそれも、彼女には都合の悪い事実だったのだ。
わざわざそんな嘘をつくということは、真実は夫の言葉と正反対だったのだろう。
家臣たちは、むりやりに領民の娘たちを召しだし、めかけとして囲い、欲望のままに毒牙にかけ辱めていたと考えてまちがいない。
その事実を認識してしまったら、家臣たちから娘たちを取りもどし、領民のもとに返さなければならなくなる。
家臣たちを糾弾したり、説教したりしなければならない。
そうなれば、不平をぶつけられるかもしれないし、離反を招くかもしれない。
(その手間、そのリスク、それらを恐れ、あるいは面倒がり、私は、見て見ぬふりをしてしまっていたのだわ)
領主としての責任を考えれば、家臣たちの非道をいましめ、指導や監督を徹底しなければならないのに、自分が負わされる手間やリスクをきらって、見なかったふりをした。
責任から、逃げていたのだ。
また、愛娘を取り囲んだ男たちの顔を思いだした。
彼らの娘は、どんな目にあったのだろうか。
あんなにまでたけり狂うのだから、生半可なことではなかったのだろう。
よその所領からの醜聞は、彼女も耳にしたことがあった。
領民の娘を、家臣である大勢の男たちが、よってたかって慰みものにし、ついには自害に追いつめるほどの恥辱にまみれさせたという話も、いくつも聞いたことがある。
精神に錯乱をきたし、ぼろ雑巾のようになって家族のもとにもどってきた、という話だって聞いた。
それと同じ悲劇が、彼女たちの領民にも、振りかかっていたのかもしれない。
(嗚呼・・・嗚呼・・・私が、夫の嘘を、見てみぬふりなんてしたことが、領民をあんなに怒らせる事態を、まねいてしまったのね。
その怒りが、愛娘の一身に向けられて、可愛いあの子が、罪もないあの子が、あんなにも残酷な責めをうけることになってしまったのだわ・・・嗚呼・・・嗚呼・・・)
領民を使役した作業で、死亡事故はおこっていない。その記録も、こうなったら、信じる気になれない。
領民のくらしに関するデーターを改ざんしていた家臣たちが、領民を使役しての労務に関しては正しいデーターを見せていたなんて、思えない。
死亡事故も、おこっていなかったのではなく、彼女に報告されていなかっただけの可能性がたかい。
(きっと、使役による事故でも、多くの領民が傷ついたり命をうしなったりしていたのだわ。
よその所領からは、毎年百人ちかい事故死の報告がもたらされていた。
同じような作業をさせていて、自分の所領だけ死亡事故がおこっていないなんて、よく考えれば不自然だった。
きっと、同じくらいの死亡事故が、おこっていたのだわ。報告されていなかっただけで。
あの表情・・・愛娘をとり囲んだ男たちの、あの表情からしても、そう考えた方が、筋が通るというものだわ。
嗚呼・・・嗚呼・・・私たちは、領民たちを飢餓に追いやり、領民たちの娘を恥辱にまみれさせ、使役による事故で傷つけたり命を奪ったりしてきた。
そしてそれらの事実から、無意識のうちに目をそらし、自己暗示によって記憶を書きかえ、見なかったことにしてきてしまった。
なんていう、非道な領主なの。なんとお粗末な、所領経営だったの。
後ろ盾の政府が転覆すれば、そんな領主は、領民の暴動で押しつぶされるのが当然だわ。
反乱軍をまねき入れ、自身も武装して私たちの居住施設を襲撃したのも、領民たちにすれば、当然の行動だったのね)
何度目かも分からないが、もう千回近くにもなるかもしれないが、愛娘を取り囲んだ男たちの顔を、彼女は思いおこした。
かれらをそんな表情にしたのは、自分たちだ。自分たちの所領経営が、領民たちをしてあれほどの憎悪に燃えあがらせてしまったのだ。
自分の命をおびやかされたり、家族の命をうばわれたりする恐怖や怒りは、彼女にも痛いほどわかる。
つい最近、身をもって、それを味わったのだから。
狂おしいほどの憎悪だ。おさえることなどできない敵意だ。
それを彼女は、愛娘を惨殺された瞬間には、領民たちへとむけたのだった。
だが今、憎悪は、敵意は、180度方向を変え、彼女自身にむかってきている。
自分自身の心を満たした感情だから、領民の気持ちも、いやというほどよく分かる。
愛娘を惨殺されたときに燃えあがった憎悪と、まったく同じ感情を、領民も彼女たちへとむけていたのだと思い知った。
それを一身に受けることになってしまったのが、愛娘だった。
彼女の無責任な、見てみぬふりという悪行の結果を、一人で背負うことになってしまった愛娘だった。
(私たちが、この手であの子を、地獄につき落としたようなものだわ。
嗚呼・・・嗚呼・・・嗚呼・・・)
さらに、さらに、時間は激しく引きのばされる。
ブラックホールに近づいていく宇宙船のなかで、時間は、どんどん、どんどん、長くなる。どんどん、どんどん、遅延していく。
時間のおくれは脳のなかにまで忍び込み、彼女の思考ですら、とてつもなくゆっくりとしたものになっていく。
脳で感じる一秒が、通常空間での何年にも、何十年にも、何百年にもなってしまう。
ブラックホールの重力は、それが生み出す時空のゆがみは、それほどにすさまじいものだ。
(嗚呼・・・嗚呼・・・嗚呼・・・、私たちがあの子を。この手で、大切な愛娘を。嗚呼・・・嗚呼・・・嗚呼・・・)
とてつもなく伸ばされた時間のなかで、遅すぎる回転の思考で、彼女は、後悔の想いにさいなまれた。
一つの思念が、一つの後悔が、何百年をもついやす事業に、なってしまう。
それでも時間は、引きのばされる。さらにさらに、遅れて行く。
(嗚呼・・・嗚呼・・・見てみぬふりなんて、しなければ・・・領主である夫に任せきりになんて、しなければ・・・・自分は領主の妻でしかないからなんて言いわけで、責任から逃げなければ・・・・・百年以上も良好だったから、これからもそうだと決めつけたりしなければ・・・・・家臣に説教をする手間を面倒がったり、離反を招くリスクをおそれたりしなければ・・・・・自分にも、こんな事態をさける力はあったのだから、それを正しく使っていれば・・・・あの子は、愛娘は・・・・嗚呼・・・嗚呼・・・)
何十年間にもわたって、何百年間にもわたって、ただ、後悔だけをつのらせる。
領民の貧苦に、気づいていたのに。
領民の娘の悲劇を、知っていたのに。
事故死している領民たちにも、気づけたはずなのに。
見てみぬふりをし、自己暗示でごまかし、自分に責任はないと言いわけをし、さけられた憎悪を、くい止められた敵意を、大切な愛娘に背負わせてしまった。夫の体も四散し、自分の命も、絶望的になってしまった。
(嗚呼嗚呼・・・嗚呼嗚呼・・・なんていうことを・・・嗚呼嗚呼嗚呼・・・嗚呼嗚呼嗚呼・・・私は・・・嗚呼嗚呼嗚呼・・・嗚呼嗚呼嗚呼・・・嗚呼嗚呼嗚呼・・・・・・・)
際限なく時を引きのばされ、遅れさせられて行く彼女の脳は、もう思考とよべる活動さえも成し得なくなってきた。
夫の姿もまだ目に入りそうにない。
激痛の信号も、脳にとどく気配がない。
それから何千年のながきにわたって、彼女の頭のなかは、形をともなわない単純な情念だけに、ただただ、ずっと、みたされつづけてしまうことになった。
嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼
嗚呼嗚嗚呼嗚呼嗚嗚呼嗚呼嗚嗚呼嗚呼嗚嗚呼嗚呼嗚嗚呼嗚呼嗚嗚呼嗚呼嗚嗚呼嗚
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今回の投稿は、ここまでです。 次回の投稿は、 2024/6/15 です。
本シリーズの他作品を読まれている方には同じことの繰り返しで恐縮ですが、この後(次回の投稿)にエピローグが控えています。
そこまで読み終えたところで読了ということになります。本編は今回で終了ですが、ここで満足せず、ぜひ最後までお読みいただくようお願い申し上げます。
時間の遅れが脳の中にまで忍び込み、なんて書いていますが、それ以前からずっと、彼女の脳内時間も遅れています。
ブラックホールから十分に離れている、通常空間と比較しての話です。
脳の時間と手足等の時間に、進行速度の差が出てしまっているために、痛みの信号がいつまでも届かないといった現象が生じていますが、通常空間と脳内空間の時間には、もっと大きな差ができてしまっています。
彼女が自身の過ちに気づいたとき、通常空間では何百年とか千何百年とかの時間が、経過していたことでしょう。
そこからさらに、脳内にある細胞一つ一つにおける時間の進行速度にも、大きな差が生じてきました。
脳内に時間の遅れが侵入し、というのはそういう事態のことを指しているつもりです。
それが原因で、彼女は思考を紡ぐことすらままならなくなっていったのです。
単純な情念だけに頭の中が満たされるとは、このような事態だとご理解ください。
脳内の細胞ごとの時間進行が違ってくると単純な常念だけが残る、というのも作者の想像の産物で、事実かどうかは分かりません。
エリスの時代には「嗚呼嗚呼嗚呼・・・」と叫び続けるだけになっている、という結末に導くためにひねり出した想像でもあります。
こんな具合に、徹頭徹尾眉唾なことばかりが並んでいる物語ですが、それでも、絶対にありえないと言い切れることもないと作者は考えています。
あり得るのかあり得ないのか、いつか誰かが答え合わせをしてくれたらいいなと、作者は切望しています。