第5話 欺瞞の統治に鍍金の剥離
その数値が、なんだったのか。どんな数値だったのか。それは、思いだすというより、考えれば分かる、というたぐいのものだった。
(日付だわ。データーシートのすみには、そのデーターを採取した、日付が記されていたのだわ)
データーシートの書式なんて、そうそう変わるものじゃないから、それは、考えればわかることなのだった。
(その日付を、見たのに、無意識に、見なかったことにしたのだわ。なぜ、見なかったことに?
・・・それは、その数値が、自分にとって、都合の悪いものだったから・・・・)
そう思って、改めて記憶を想起する。
どんな数値だったのかは、なんとなく見当がつけられる、だから、日付の記憶の想起も、容易なはずだった。
それでも、簡単には思いだせない。
都合の悪い数値がそこにあったのだと分かっているから、どういう数値だったかの推測はできるのに、それでも直接その記憶そのものを想起するのは簡単ではなかった。
(それは、自分がその記憶を、何としても忘れてしまいたいと強く強く思ったからなのでは・・・?
日付なんて、見ないことの多い数値だから、くらしぶりを知るために見たデーターシートだから、日付なんて関係ないと思うのが普通だから、見ていないのだと、自分に強く言い聞かせたのだわ)
都合の悪い数値を見てしまったから、瞬時に、無意識に、強力に、その記憶を忘却の深淵に押しやり、見なかったという激烈な自己暗示を、かけることができてしまっていた。
簡単には、思いだすことができないくらいに。
想起の回数が3百に近づいてようやく、彼女はその事実に、驚愕の新事実に、たどり着いたのだった。
(そうだ。私は、あのデーターシートに、とんでもなく都合の悪い数値を見つけた。
そして、それを、とっさに、見なかったことにしてしまったのだわ)
3百を超えたか超えないか、それくらいの回数の想起をへて、ようやく記憶がはっきりとした形になった。
データーシートのすみにあった数値の内容を、彼女は思いだした。
(十年前の、日付だった)
現在の、住民のくらしぶりを報告しているはずのデーターシートに、十年前の日付があったのだ。
家臣が間違って、そんなデーターを見せるなんて、ありえなかった。
わざと、昔のデーターを引っ張りだしてきたと考えるしか、納得のいく説明はない。
なぜ、わざと、昔のデーターなどを、見せたのか。
(現在のデーターを、見せられなかったからに、違いないわ)
その理由は、考えるまでもなく分かる。
(見せられないということは、領民に重税を課していた、ということになるわ。
今住民に課している租税が重すぎるものになっていたから、それを私に知られたくない、と思った家臣たちが、昔のデーターを引っ張りだすことで、私をごまかそうとしたんだわ。
日付なんて見ないだろうと、高をくくって)
データーシートの記載内容を変更するのは、棟梁か彼女の許可が無ければ、できない仕組みになっている。
だが、日付なんて見ないと高をくくれば、十年前のデーターシートを見せることで、現在の領民への租税が重すぎるものではないとの嘘の情報を、偽造することはできるのだ。
そして、現在課している租税が重すぎるものだと判断されたのであれば、減らさなければならない。
善政をつづけてきた先代の領主たちの方針を守りとおすためにも、領民との信頼関係をそこねないためにも、租税が重すぎると判明したのならば、直ちに是正する必要がある。
けっして重税を課さないのが、彼女たち一門の信念であり誇りでもあるのだから。
だがそれは、領主一門や家臣たちにとっては、実入りが減るということだ。
生活水準を下げなければ、いけなくなるということだ。
出費を切りつめ、ぜいたくをがまんしなければならなくなる、ということだ。
けれど、それはいやだから、不都合なデーターを闇にほうむろうとしたのだ。
愛娘に、おいしい御馳走や高価な衣服を与えてあげたとき、自身の胸中に満ちる喜び。
愛娘のうれしそうな顔を見たときの、幸福感。
租税を減らせば、それらを味わう回数も、減らさなければならない。
蠱惑的な衣服を身にまとうことで、夫との愛を確かめ合えたり、さらに深めることができたときの高揚感や満足感。
それらも、租税を減らしてしまえば、これまでのように楽しむことはできなくなってしまう。
日付が十年前のものだと気付いた瞬間に、そんな計算が頭のなかを、意図せずして勝手に駆けめぐってしまった。
重税を課していたという事実に気がついてしまうのは、とてつもなく都合の悪いことだと、思ってしまったのだ。
家臣たちは、もっと意識的に、そんな計算をしたのだろう。
(そして、家臣たちは昔のデーターを引っ張ってくることで、私は、とっさに、無意識に、日付なんか見なかったことにすることで、領民に重税を課しているという事実を、もみ消してしまっていたんだわ)
十年前から、領民の数が3割ほど増えているのを、彼女は知っていた。
(現在の収穫と、十年前の領民の数をもとにして、税額を算出していたとしたら、今の住民の数では、全員の分を確保できるだけの食料が、領民の手元には残らないことになるわね。
それも、決定的に少ない量の食料しか、領民は確保できなかったに違いないわ。
おそらく、餓死者がでていてもおかしくはないくらい、領民たちは、食料不足の状況に追いやられていたはず・・・)
愛娘をとり囲んだ男たちのたけり狂った表情が、また思いおこされた。
十年前の領民の人数にもとづくデーターを見せられていた事実と、その表情、この2つだけで、彼女には十分だった。
はっきりと確信できた。
(私たちの所領経営は、領民を、飢餓に追いこんでいた。
善良な所領経営をしているなんていうのは、データーから目をそむけたうえでの、いつわりの、でっちあげの事実だったのだわ)
引きのばされた時間のなかで、他にやることがないがために、3百回にもわたって記憶を想起するという普通ではありえないことをやってのけたおかげで、ようやくあぶり出された真実だった。
百回目くらいのころに違和感を覚え、それに不安を感じたりしていた。
(私は、心の奥そこでは薄々気がついていたんだ。
善良な所領経営をおこなっているというのが、まやかしでしかない、ということに・・・)
とっさに目をそむけ、無意識かつ強固に封じこめた記憶、そこに真実があった。
真実に気づいていたからこそ、目をそむけたり封じこめたりしたはずだが、一度目をそむけ強固に封じこめた記憶は、3百回にわたって想起しなければ、意識の表層にのぼらせられない状態になっていた。
自己暗示が、あまりにもすばらしい効果を発揮してしまっていた。
(嗚呼・・・嗚呼・・・なんということかしら。
私たちは、領民を飢餓に追い込みながら、それに目をそむけ、気づかなかったことにしてしまっていた。
飢餓におちいり、家族や仲間を飢えによる死で失ったであろう領民たちが、私たちを恨み、怒りの矛先をむけてくるのは当然だったのね。
・・・嗚呼・・・嗚呼・・・嗚呼・・・)
改めて、愛娘を取り囲んだ男たちの表情を思いおこす。
自分たちが飢餓においやり、当然の怒りや恨みを燃えあがらせたかれらが、愛娘を取り囲んでいたのだ。
それはまさに、自分の所業が招いた事態。
(嗚呼・・・嗚呼・・・嗚呼・・・、私が・・私たち自身が、罪もないあの子を・・・自分たちの愛娘を、地獄におとしいれてしまったのだわ・・・。嗚呼・・・嗚呼・・・)
腕がひきちぎられた痛みがくる前に、彼女の脳は、ちがった痛みに打ちひしがれた。
都合の悪いデーターを、無意識に、見なかったことにしてしまった。
そのことが、大切な愛娘を凄惨な死へと、追いこんでいた。
愛娘の喜ぶ顔を、これからも見たい。夫との愛を、これからも確かめ合いたい。
そんな願望が引き起こした、見てみぬふりというとっさの軽率な行動が、愛娘の惨殺や夫の体の四散という悲劇をまねいた。
領民を直接に見るということ怠っていなかったら、早期に気付けた過ちでもあったはずなのだが、20年近くにわたって、彼女はそれをしていない。
怠惰と見て見ぬふりの、2つの不誠実が重なったからこそ、取り返しのつかない結果になってしまったのだ。
(嗚呼・・・嗚呼・・・、どうして私は、見なかったことになんか・・・。
租税を減らして、高価な食べ物や衣服が手に入れられなくなったとしても、娘を喜ばせる方法は、夫との愛を確かめあう方法は、ほかにいくらでもあった。
ぜいたくなくらしなど、領民の怒りをかってまで、こだわるものではなかった。それなのに・・・)
彼女自身、おさない日に、彼女の母と領民のために手料理をつくって、ふるまってあげたことがあった。
その時にも楽しかったし、うれしい気持ちになれた。
領民から感謝され、なおかつ自分たちも、幸せになれた。
重税を課して高価な食べ物や衣服を手に入れるという、恨みをかうやり方でなく、領民のために何かをしてあげるというやり方でも、それを愛娘や夫と共有するという方法でも、幸せな気持ちは味わえたのだ。
(嗚呼・・・嗚呼・・・それなのに私は、高価なものを手に入れる幸せに固執し、租税を減らさなければならなくなるデーターから目をそらし、領民の怒りをかう結果を、まねいてしまった。
領民を直接見ることもサボっていたから、間違いに気付くことすらも、できなかったのよ)
今回の投稿は、ここまでです。 次回の投稿は、 2024/6/8 です。
都合の悪い記憶が消えてしまうとか、別の内容に書き換えてしまうとか、作中に起こったようなことはあり得ないと思われる読者様もおられるかもしれません。
作中と全く同じことが起こるかどうかは疑問ですが、記憶の消去とか書き換えは、結構起こることだと作者は認識しています。
待ち合わせに間に合わないと思って時計を見て、「なんだ、まだ間に合うじゃないか」と認識したけど、どうも胸騒ぎがするからもう一度時計を見直してみると間に合わない時間だった、なんて経験が個人的にはあります。
時計を見て間に合わないと認識した瞬間に、それが都合が悪いから、記憶を書き換え間に合うという認識をでっちあげてしまったのでしょう。
胸騒ぎがしているからには、心の底には間に合わないという認識もあるのに、意識の表層には間に合うという思い込みが出来上がってしまったのだと思います。
その際は、ほんの一時的な思い違いでしたが、長期間思い違いが続くこともあるでしょうし、もっと深刻な事態を招くこともあるでしょう。
見通しの良い道での自動車事故にも、そんな思い込みが関与していることがあるかもしれません。
急いでいる時に、横から車が来ていることを視認したのに、来ていると認識してしまったら減速しなければならなくなるので、それを嫌だと感じて、来ていないという記憶をでっち上げてしまう、なんてこともあるかもしれません。
その結果、視認できていた車とぶつかってしまう、なんてことも。
後方確認していないのにしたという記憶をでっちあげ、確認しないまま車線変更して事故になる、なんてことも。
アクセルからブレーキに踏み換えていないのに、換えたとの記憶をでっちあげ、ブレーキのつもりでアクセルを踏み込み急加速して事故になる、なんてこともあるのかもしれません。
といっても、今回の場面のように三百回も繰り返したら想起できる、なんて忘れ方とか書き換え方とかがあり得るかどうかは、疑問です。
そもそも三百回も繰り返すほかにできることがなくなるような、絶妙な時間の遅れ方などあり得るのか、全く分かりません。
そんなわけで、今回の場面にあまり信憑性がないことはご承知おきください。
といっても、絶対にあり得ないとも言い切れないと思うので、荒唐無稽でもないのです。
あり得るともあり得ないとも言えないラインを狙う、これこそが、SFというものだと作者は信じます。