第1話 高貴な女性に無残な事故
何日か前のことだが、自分の腕がひきちぎられるのを、彼女は見た。
何日か、というのは、体感での時間だ。
いや、体感というよりは “脳感 ”といったほうが、適切か。
体と脳で、時間の流れるはやさがずれてしまっていて、体ではなく脳のがわの感覚において数日前、ということなのだから。
引きちぎられた腕からの痛みの信号は今、けんめいに痛感神経をかけのぼっているのだろうが、いまだ脳にとどかないようだ。
激痛の知覚が、数日にわたって遅延している。
時間のおくれが、実にはなはだしい。
ブラックホールにおちると、こんなことになってしまうのか。
強大な重力は時間のすすみかたを遅らせる、とは彼女も聞いたことだけはあったのだが、こんな現象までひきおこすとは。
頭部と首から下の部分とで時間のすすみかたが違いすぎて、痛みを感じるまえに腕が引きちぎられたことを忘れてしまいそうだ。
ブラックホールのまきおこすあまりに激しい潮汐力が、腕の引きちぎられた原因だ。
体のブラックホールに近いがわと遠いがわで、重力差が絶大すぎることで、こんな惨劇がもたらされた。
体だけでなく彼女が乗っている宇宙船も、もうすでに原形をとどめぬまでに破壊されていて、生存は絶望的だ。
そのことを認識したのも、脳が感じている時間でいえば、数日前くらいのことだった。
30年つれそった夫の体が、4つに引きさかれたのも見た。
目の前にある壁に映っていた夫の影が、4つに分かれて別々の方向に飛んでいったのだ。
思わずそちらに目をやろうと視線を転じているときに、自分の腕が引きちぎられるシーンも目に入った。
今はもう、引きさかれた夫の姿を見たいとも思っていないし、むしろ見たくないとすら思っているのだが、夫の方に視線を向けようとした運動は依然として継続されている。
見ようとする動きを止めさせようとする脳からの信号の、体への伝達もおくれてしまっているのだろう。
ただ激痛と死を待つだけの時間が、ずっとつづいている。
せまり来るそれらへの恐怖は、言語に絶するほどにすさまじいものだ。
そうだったはずなのだが、しかし、数日にわたってそれに曝されつづけていると、ひとしきり気持ちに整理がついてしまい、落ち着きをとりもどしてしまい、今となっては、彼女はヒマでヒマでしかたがなかった。
時間のおくれは、どんどん大きくなっている。
ブラックホールに近づくごとに、重力も巨大になって時空をもっとゆがめるから、時間のながれも、とんでもないくらいにおそくなってしまうのだ。
視界にあるディスプレイの点滅が、その間隔をどんどん長くしている。
1秒間に十回点滅するようになっていたはずだが、今の彼女には、半日おきくらいに感じられている。1日くらい前までは、数時間おきには明滅していたはずなのに。
時間のおくれがどんどん激しくなっていっているので、痛みの信号の伝達速度も、どんどんスローダウンしていることだろう。いつになったら来るものやら。
点滅しているディスプレイよりもブラックホールに近い位置にある彼女の腕のあたりでは、もっと時間は遅れているのだから。
激痛の苦しみが、いつ来るかいつ来るかと待ち構えている時間はつらいものだったが、その状況が脳の感覚で数日にわたって続いていれば、なれてくるし覚悟も固まってくる。
それよりも、体を動かすこともできず眠ることも失神することもできない数日という時間の長さが、彼女にはきびしかった。
彼女の意識は、死や激痛への恐怖をわきにかたづけて、あれこれともの思いにふけるようになっていた。
(それにしても、いったい、どうして、こんな事態になってしまったの?)
めぐらせた思いからわきあがった疑問を、彼女は心でつぶやいた。(われらの領民たちは、なぜあんなにも残虐な行為におよんだのかしら?)
怒りくるい理性をうしなった人々の顔が、うかんできた。
脳が感じている時間で数日前、腕の引きちぎられる前日くらいに見たものだ。
彼女の夫は、名門とよばれる領主一族の棟梁であり、広大な宙域を知行していた。
15個もの星系と2万人ちかくの領民が、彼女の一族にはあたえられていた。
豊富な資源をもたらしてくれるガス惑星が30個弱も含まれていて、一門の所領から得られる収益はとても潤沢だった。
銀河系全体の平均からすると、彼女たちのくらす帝国のある星団は軽元素がおおく、周期律表のまんなかあたりから後ろにある重元素や中間元素といわれるものの割合が、すくなかった。
人が生活するのになくてはならない物質の確保が、ひどくむずかしい星団なのだ。
その星団にあって彼女の一族が領有する星系群は、どちらかというと重元素などを採取しやすかった。 “ 肥えた星系 ”という言われかたもする。
逆に、採取がしにくい星系は “ 痩せた星系 ”となる。
そして、彼女を含めた棟梁一門の数十人もその家臣団の数百人も“肥えた星系 ”の領有によって、この星団帝国の標準にてらせば、ずいぶん裕福な生活をおくってきたといえる。
領民との関係も、良好なはずだった。
歴代棟梁16人によるながき知行のあいだ、強訴や逃散はおろか抗議の声ひとつあげられたことのない彼女の一門の所領経営は、多くの領主たちから模範とさえ思われていたのだ。
先代たちの善政を引き継いで現在の棟梁である彼女の夫も、重い租税を課すようなことはせず、領民たちの慰撫につとめてきたはずだ。
領民たちは、それなりにゆとりのあるくらしができていたといえるだろう。
一門や家臣団ほどでは、ないとしても。
よその領主のもとでなら下層民は、ケミカルプロセスフードとよばれる食べ物しか口にできない場合がほとんどだ。
ガス惑星や星系ガス雲などから採取された元素を使って、生物の関与なしに化学的人工的に合成された食材だ。
栄養バランスに問題はないが、味わいに乏しいし、食生活が退屈なものになってしまう。
だが彼女たちの領民は、たまにではあってもバイオプロセスフードやバイオオリジンフードとよばれる食材も、口にすることができていた。
バイオプロセスフードは、生物体そのものは登場しないが、生物が関与してつくられる食べ物だ。
細胞培養でつくりだされた肉や、遺伝情報から合成した酵素を使ってつくられた調味料などがある。別の時代には、バイオテクノロジーと呼ばれた技術かもしれない。
バイオオリジンフードは、完成された生物体から得られる、時代が時代ならそれしか食材などなかったはずのものだ。
完成された植物体から葉や茎や根を採取してきたものである野菜や、完成された動物を解体して得たものである精肉などが、それに属する。
人類が発祥の惑星である地球に閉じこもっていた時代おいては、当たり前のものだったそれらの食材が、この時代では貴重なものとなっている。
銀河連邦を通じて地球系人類の技術がつたわってきたことで、少しずつこの星団帝国にも、それらは普及しつつある。
といっても、多くの下層民には滅多に口にすることのないものなのだが、彼女の領民たちはちょくちょく味わうことができていたのだ。
だから彼女たちの領民は、ほかの所領の住民とくらべれば恵まれていて、彼女たち自身のくらしぶりには遠くおよばなくても、大きな不満などあるはずがなかった。
実際、よその所領では強訴や逃散が何年かおきには発生しているのに、彼女の一門の所領では百年以上にわたっておきていない。
領主と領民の信頼関係をしめす実績といえたし、彼女たちはそれに誇りをもってきた。
なのに領民たちは、突如として牙をむいた。
家臣たちを蹴散らし、一門の者たちを皆殺しにし、彼女の愛娘までをも惨殺した。
かろうじて命からがら逃げのびた彼女とその夫も、今こうしてブラックホールに飲みこまれようとしている。
夫の身体は四散したようだし、彼女自身も死が避けられぬところにまで来てしまったと言える。
(嗚呼、なぜ・・・なぜ・・・なぜ・・・)
彼女は、なげいた。
信頼関係をきずいた領民たちの上に立ち、裕福で満ちたりたくらしをおくってきたこれまでを思い起こし、悲嘆にくれてしまった。
彼女たちの一門の権力の後ろ盾であった政府の転覆が、直接の原因といえる。
皇帝から武力で実権を奪い、星団帝国の統治を百年あまりに渡ってになってきた政府が、この数十年で顕著になった悪政の末に、怨嗟を募らせた民衆や皇帝寄りの門閥におしつぶされ、壊滅してしまったのだ。
政府によって権力を与えられてきたあまたの一門も、政府と運命をおなじくしていった。
彼女たちの一門も、その政府から権力を与えられてきたのではあるが、彼女たちは楽観的にかまえていた。
今回の投稿は、ここまでです。 次回の投稿は、 2024/5/11 です。
作者はブラックホールに堕ちたことがありません。
ですから、ここでの描写が正確であるかどうかは、全く分かりません。
巨大な重力によって時間の遅れが生じるし、強烈な潮汐力で物が引き裂かれたりもするらしいとは、聞いたり読んだりしたことがあります。
しかし、だからと言って、腕の引きちぎられた痛みがいつまでも知覚されないなどという現象が起こり得るのかどうか、描いた本人も首をかしげています。
それでも、ブラックホールに堕ちた経験のある人などおらず、誰もその眼で確認したことが無いのだから、そんな現象は起きないと断定できる人も、いないはずです。
ここでの描写は、荒唐無稽とは全く言えない、ということです。
本シリーズは、荒唐無稽を完全に排除する、という方針で書いています。
ハードSFとはそういうものだと、作者は信じています。
SFとはサイエンスフィクションなのだから、科学的にあり得ないことを描くべきではない、とまで言うと石頭に過ぎるかもしれません。
でも、ハードSFとなると、やはり科学的に絶対にあり得ないことは、避けるべきではないかというのが作者の持論です。
魔法や異世界が出て来る小説をSFと呼び、科学的にあり得そうにもないことが続出する作品がハードSFと呼ばれていたりすると、作者は疑問に感じてしまいます。
と言っても本シリーズにも、荒唐無稽は生じています。
超光速移動に関しては、徹底的に荒唐無稽です。
光より速く物体が動くことはない、という科学の常識を、強引な屁理屈で覆してしまっています。
銀河を舞台にした歴史物語を描くのに、超光速移動はどうしても必須だからです。
この点の荒唐無稽は、避けては通れません。
超光速移動についてはこれでもかという程に荒唐無稽であり、それ以外については荒唐無稽を完全に排除する、というのが本シリーズの基本方針です。
そして今回のブラックホールに呑まれた女性の描写にも、荒唐無稽は一切出て来ておりません。
作者はそう信じていますが、読者様に置かれましては、全ての描写を眉に唾して読んで頂くことを、強く推奨いたします。
ブラックホールに呑まれたらこんなことが起こるらしいと、今回の場面について誰かに話したりしたら笑われるかもしれません。
本シリーズに出て来た科学技術を鵜呑みにした結果、読者様が恥をかいてしうような事態になったとしても、作者は一切の責任を負いかねますので、悪しからず。
荒唐無稽を排除したつもりで描かれたものを、眉に唾しながら読む、というのがハードSFの正しい取り扱い方だと、作者は思っております。