9.魂の解放
9.魂の解放
「女連れで鉄火場とは豪儀だな、マイク」
私はフリーズした。ハロウィンにはまだ間がある。
長藻だった。慣れた手つきでブローニングHPの弾倉を交換したあと、私に・四十五口径を投げてよこした。エルメスのスカーフでとめられた、磨かれたブルガリのバングルの好い音が木霊する。
ジャマにならないのか? 美しさに見とれていた私は自己嫌悪しながら受け取った。後ろ腰にさす。
「――どうして女装なんだ!?」
「趣味だ」
倒れている男の顔をのぞきながら言った。
「しゅ趣味? ……」
由子がやっと言葉を発した。
――でもきれい。しなりがある。
長藻が、唇をなめた。蠱惑。……美しいのは認めよう。ただし公序良俗に反するだろう。風紀紊乱だ。
「ジョークだよ。まぁ公認だがな」
なんだそれ?
面妖不可思議な顔をしているだろう私だったが、由子は真剣に聞いていた。
「公認……」
「なりゆきだよ。――私は長藻、あなたの代理人です。こちらが……ご紹介しましょう。フランボワーズ・S・ブレル少佐です」
ブローニングHPを手にしたフランボワーズがゆれる天井の明かりに照らされる。陰翳ににじみ顔の半分の薔薇の感電痕がうかびあがる。眼鏡を正す。ブラウンとグリーンのオッドアイ。
由子はその視線をかえなかった。
心の奥底には誰しも魔物を飼っている。由子であれ例外じゃあないことを私は知っていたが……。魔物が主を喰うことだってある……。美しいものがくずれるから恐怖がうまれる。それもまた人の生なのだが。
それにしても……昇進していたのか、フランボワーズ……。佐官には絶対になれないはずなのに……。
少佐以上は、一つの作戦を任される。大尉以下の実行部隊とはまったく別の階級だ。いくら作戦遂行能力が高くても、指揮管理能力とは関係がない。作戦は、的に当たらなくては話にならないが、当たるように指揮する人間にとっては、当ててから的を描けばいいだけだ。作戦指揮官にはそうした政治的配慮も要る。だから無神経で自分勝手なブレル大尉が少佐になれるはずはない。「兵は詭道なり」――裏取引をしたんだろう。あの身体の代償に。何があったか聞きたくもない。
「今回の指揮官です。〝彼〟平橋弘行氏、略取の」
長藻が静かに言った。
「いちおう業務終了です。依頼人」
感情がこもっていないな、長藻さん。殺しの代償がそれか?
「どうして弘行さんが!」
「なりゆきだよ。由子さん。彼にはもう会えない。帰ろう日常に」
「あなたが言うなよ」
反論した。あきらかに私の台詞だった。女装のほうが威圧感があるのはどうしたわけだ?
「いや!」
由子が、倒れている男の銃をとろうとした。ダメだ! フランボワーズは容赦ない!
「よせ!」
私は由子を引きよせた。
「いやぁー!」
由子が、泣きながら私を引き離そうとした。私の胸を叩く。母親に殴られているようだった。心が痛い。
「死んでもらおうか」
フランボワーズが通達した。そう通達、命令だった。
それでわたしは死ぬことになった。
ブローニングに弾倉を入れ遊底を引き初弾を装填しながらいう、一切の感情のない抑揚のない一言。構えてはいないが、安全装置もしていない。
「意味が解らない」
そばには赤木南々子と呼ばれていたボディ(死体)があった。
「知る必要が?」
フランボワーズが左手で眼鏡を正した。右手は銃口を下にしたままだ。
眼鏡のレンズにハニカム(蜂の巣型)構造の網が見える。ネッツペックコーティングレンズのレンズだ。網の隙間からのまっすぐな光しか通さないので、乱反射しやすい青色光は通りにくい。無理に反射させていないので青くギラギラしない、自然なレンズだ。高いが。
環境を整えるのがプロフェッショナルの証だ。フランボワーズは、良く調べてそれだけの対価を支払っているのだろう。
フレームは増永だった……。増永眼鏡といえば昭和天皇に眼鏡を献上したところだ。職人ふたりは毎朝、禊をし、白装束に着替えて製造を行っていた。その神聖な場所には増永でさえ立ち入ることができなかったという。今ではあの縄手の職人は一人しかいない。伝統はもろい。守る価値はある。
何かいろいろ理由がありそうだな。深読みが違っていてもいい。どうせすぐになくなる灯火だ。勘違いと息抜きが人生の本質さ。
わたしは助命を考えていたが、相手は殺しが本職だ。兵站は整えているだろう。必要かつ十分に。MECE――Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive――モレなくダブリなく。
どうしてすぐに殺さない?
フランボワーズの〈セイレーン〉は確かにあった。しかしわたしには聞こえなかった。あるのはわかるが、どういったものかフランボワーズ自身が遮蔽していた。〈死〉がとなりにある職業だ。そうしたことに慣れているのだろう。いや、だからこそ生き残ってこられたというべきだな。
時間がすこし動いた。
わたしは、南々子だったものを観察した。全身美容された優雅な肉体。デリケートなVIOラインも丁寧に脱毛されている。イイ女だった。もったいないことをしやがる。まだまだ使えたのに……。
ふっと理解した。
「あんたのものだったんだな」
フランボワーズがもう一度、眼鏡を正した。無表情なままだったが、わたしには分かった。そうだということが。ポーカーには勝てそうだ。
振動。フランボワーズがポケットからiPhoneを取り出した。
フランス語だった。よく聞き取れない。
「Roger.」了解。
フランボワーズは、マホガニーのテーブルの上にブローニングをおいた。
「冷静だな」
そうでもなかった。手が震えている。口に手をやり吐き気をおさえた。目をつむっても、フランボワーズの絵があった。恐怖は魂に刻まれるものだ。
「そう……でもない」
「普通は錯乱するものだ」
フランボワーズが、ソファーに深く身を静める音がした。位置からいってわたしのほうが銃に近いが、緊張していてまともに動かないだろう。生死のやりとりをしてきた女は強い。
「……勝てない勝負はしない。……最後は一休のように……『死にとうない死にとうない』と言って嘆願するもんだと思っていた……」
涙鼻水たらしながら。
「どうしてしない?」
「今はあんたが神だ。手のうちの雛鳥の可否を問える立場とは思えない」
目を開いたわたしは、フランボワーズに言った。創造主(神)に、パンと赤ワインが原料の糞尿製造機が。
「チャンスはあるだろう」
天然マホガニーの木目が目にしみた。ワシントン条約で規制され今ではもう取引されていない。
「プロメテウスの弟エピメテウスは、兄の忠告も聞かずパンドラと結婚した」
わたしはチャンスを探った。
「箱の中の希望が罪悪だとでも?」
「壷の中身は予兆だよ。ギリシアの神神は残忍だがそれほど邪悪じゃない」
壷を箱にしてしまったのは、キリスト教の影響だろう。
叶わぬ希望を与えるのはいつだって人間だ。奴隷は鎖を自慢する。
「質問がある」
表情を変えずフランボワーズが言った。
「どうぞ」
ブローニングを見ながら手をさしだした。痛い。忘れていた。両手とも折れている。肋骨も。心も。財布が薄いのがなにより辛い。バーナード・ショーか。
「小山田由子について話せ」
「知っているんだろう?」
フランボワーズは、右手の白手袋を正しながらわたしを見た。手をさしだしているようにも見えるが、交渉の余地なんてない目をしていた。
「お前は賢い。繰り返す必要はない」
何を知りたいんだ? 「依頼人の情報をしゃべると思うのか?」とか言いたいが、むこうは諜報のプロだ。知りたい情報なんてとっくに知っているだろう。ただ、何か引っ掛かるんだろう。それが何かをこちらに教えてはくれないし、教えてもらっても分からないし、うまく答えられるかどうか……。
「小山田由子。国籍―日本。性別―女性。年齢―二十一歳。髪は黒、瞳はダークブラウン。身長一五八センチ。体重四九キロ」
マイクが入力したデータを〈画像再生〉して読み上げる。つまらん。
「スリーサイズは上から八八・六二・八五。アップしたうなじがセクシー――」
「――お前の感想など要らない」
さっきも言われたな。六里だ。疲れた。気が滅入る。
「ファックしたい」
わたしは真面目な顔をして、前に座る、若く美しいフランボワーズに素直に言った。いまでは奇異な目で見られるだろうが、顔の痕さえなければ誰でも認める美しさだった。最後の相手としては十分だった。まだ三十もいっていないだろう。
予想外の言葉だったが、フランボワーズは白手袋の左手で南々子だったものを案内しただけだった。
「死んだら〝もの〟になる。〝もの〟とはファックできない」
死者に対しての尊厳など微塵も感じていないわたしだったが、人には人の生き方がある。第一、屍姦(ネクロフィリア―― necrophilia)の趣味はない。眠っている女を犯すようなことをして楽しいのか?
「BJは?」
BJか……。
「知らない。今日はじめて会った」
あんなきれいな美少年に会っていれば覚えている。……口舌の感覚が残っている。そっちの趣味はないはずなんだが……開発されたか?
「感じたのか?」
「……そうだ」
フランボワーズが、わたしをのぞきこんだ。女にいたぶられることに慣れていないわたしはソファーからずり落ちそうになった。
見上げると、フランボワーズが、わたしの上になって止めていた。痛い。テーブルを一瞬で? 両膝で、わたしの両ギプスを押さえている。動けない。
フランボワーズの吐息が、顔をなでた。レール・デュ・タン(L'Air du Temps)。
「感じたのか?」
残酷な笑みをしたフランボワーズが、わたしの左耳にささやいた。わたしからでは、美しい半面しか見えない。
この世の悪徳の半分は恋が原因だそうだ。異論はない。たぶん正解だ。
フランボワーズは容赦なかった。南々子だったものの下の口に消火器のノズルをつっこんでわたしの証拠を消した。
半端ねぇ……。こわいよママ。
シャワーで匂いと汗を流す。両手を上げているわたしに見えているのは、洗ってくれている金髪と、脳裏に残る無残な遺体だった。映像を〝再生〟しても、フランボワーズといっしょに少年が出てくる。酷だぞこれは。
ウォークインクローゼットで、服を物色した。当然だが全部女ものだった。フランボワーズは赤みの強い紫のワンピースを手にしている。バレンシアガの初期モデルだ……。いったいいくらするんだ?
わたしは、紺のスーツにした。銘に〝Masymiya〟とある。そういうことか……。
フランボワーズと南々子の体型はほとんどいっしょだった。わたしとも……。軍人さんはデカイな。
「彼女で何人目なんだ?」
「知らない。私が受け持ってからは二人目」
工作員だったらしい。本物のエージェント(スパイ)だ。フランボワーズの影もしていたんだろう。
「わたしを見張っていたのか?」
「お願い」
フランボワーズが背中を向いた。わたしはファスナーを上げ、左右の肌の違いを隠した。わたしには、三人で楽しんだような感覚が残っていた。
「ミシェルよ。彼ダイアを持ち出したの」
マイク……。
「知らんな……」
「当然よ。誰も知らないもの。盗られた本人でさえ」
フランボワーズが靴を選んでいる。壮観だ。独裁者夫人か。
「それは別にいいのよ。事故だったんだから」
「それは知っている」
不幸な事故だった。
靴は、フェラガモを選んだ。いちおうお揃いだがあわせた訳ではない。サイズが一緒だっただけだ。
「目的は静寂」
紅をさしながらフランボワーズが答えた。あまりを、わたしの下唇にも右手の薬指でさした。爪が紫色だった。赤味がかった京紫。
静寂……。いろんな意味がある。日本の平安か、それともベネルクスのか。戦争屋が世界平和を語るなよ。「秘せずば花なるべからず」だ。「肝要の花」はいずくにや。
うにうにして紅をなじませた。甘いが、美味しくはないな。フランボワーズの葉巻の苦みのほうがキツイ。
「そのためには人ひとりぐらい関係ないと?」
「弘行の肝臓が、天才に適合した」
やはり亡くなっていたか……。そういう雰囲気だった。どいつもこいつも結論を急ぎすぎる。わたしが一番そうなのだが。もっと分かりやすく説明してくれ。
「非合法でなくても……」
「数億分の一の確率で術後の拒否反応もない計算だ。だがこの緊張の最中『有職故実』の弟が渡米できる訳がない。テロにあう可能性もある。テロとは交渉しない。これがOTANのルール。それに臓器を輸出するのにパスポートは要らない。税関で生きている臓器を開封させられることもない」
おまけに高額取引だろうな。OTANが資金源にしているとは思えないが……。
「どこがちがった?」
「八犬が金に困って茶泉を強請はじめた」
しっかりと白手袋をする。わたしにも投げてよこした。手は口ほどにものを言う。
「負け犬に金を支払うのが惜しくなった?」
「ちがう。問題は白美央」
丹棟澪の本名だな……。大陸系か……。
「どうしても美央は、発表する気だった」
金に左右されない人間は厄介だ。信条で生きる人間は特に。人間は血で出来ている。血=金だ。経済は「経国済民」。世の中を治め、民を救済する事。イコールお金。お金は「人を救う為に生まれてきた」んだ。「世の中お金じゃないよ」と言う人は人を救わない救えないと自慢しているようなものだ。要るのは金だ。兵站は専門家に任せればいい。路傍の水溜まりの金魚に水を与えるような優しさはわたしにない。水を与えるぐらいなら、他の水辺に放してあげるか、無視することだ。力ないなら見殺しにするしかない。期待を与えるようなことが一番の残酷なんだ。壷の中身は予兆だ。水辺に放しても金魚のそのあとは誰にも解らない。
それでも、それでもだ。水を与え続ける人間もいる。ある男は糸車を廻し続け、ある女は陋巷で教え続けた。誰もが「ガルシアへの手紙」を届けられる人間にはなれない。しかし届けようとする人間を応援することはできる。それさえできなければ、何もできなければ、祈ることぐらいはできる。
「さっきのが、処分した連絡か?」
「交通事故で亡くなった」
あの大規模災害……。
「……いっしょに何人やったんだ?」
「さぁ……」
フランボワーズが、ジュエルを見ながら、顔をかたむけた。悲しみよこんにちは。
わたしはダイアモンドに吐息をかけた。本物だ。
「どうでもいいことだわ。必要なのは、平橋の『有職故実』であって、日本ではない」
「彰子すら要らないと?」
沈黙が答えだった。ピアスとブローチをあわせる。わたしにも。
たしかに空手も柔道も相撲も、海外優勢だ……。それにしても……。
「美央の開けていないファイルがまだ一つある。それを開けろ」
「それが仕事か?」
「そうだ。そのためにはお前の存在は不要だ。日本人が開けるべきではない」
「言ってくれるぜ。ベルギー人になれとでも?」
「アメリカ人はどうだ?」
魅力的な提案だ。世界最強の軍隊を持つ世界最大の国の一員。なったとたんに消されそうだがな。
今の時代、国籍など意味はない。愛国主義者など、愛社精神といっしょだ。国がなくなれば消える。「露と答へて消えなましものを」だ。
ウイッグをといて髪をなじませた。鏡が写しているのは、美しい女だった。変態は、ある日突然そうだと気づくものだ。雷撃に倒れ起きた時のように。「おお、運命の女神よ」だよ。まったく。
フランボワーズが、わたしの腰に手をやった。確かに女だ。
「骨盤が女だ」
「それでか……」
どうりで吊るしがあわないはずだ。
「行くぞ」
フランボワーズが急がせたが、わたしはブルガリのバングル一式と、エルメスのスカーフを二枚とった。
オートロックの扉を出て、エレベータに向かう。
スカーフを器用に巻き、バングルを左右のギプスの上にそれぞれ固定していく。
「音が鳴る」
苦言といっしょに、眼鏡とイヤホンを渡された。
「鳴るときには女らしくないということさ」
眼鏡の表面に画像が流れている。イヤホンを渡された。
「聞こえるな?」
『聞こえるな?』
フランボワーズの声が二重に聞こえる。
「ああ」
『それがファイルだ。開けろ』
開けろと言われても、キーボードもないぞ。
一階駐車場に出た。S2000かと思えば、バイク――Honda XR250BAJA――オフロードだった。
というか、あなたワンピースじゃなかったか? 躊躇なくフランボワーズは、バレンシアガの裾をたくしあげた。どういう基準の兵站なのだか……。
SHOEIのヘルメットの施錠をはずしながら跨ると、キック一発でかけた。
……前から下着丸見えだよな。これだから外人は……。
はいはい、乗りますよ乗ればいいんでしょう。
男は、寝たら女を信用する。女は、信用したら男と寝る。女は過去の過ちで現在を不安にする。男は未来の不安で現在を過ちにする。「マクベス」だ。
男と女の違いはあるが、正直、二度と乗りたくないと思った。女の二尻でバイクは。まぁバイクなんて一人で往くもんだが。
軽くウイリーさせて門のチェーンをこして、ジャックナイフでターンさせた。
おい、ここ神戸(市街)だぜ?
その間にも画像データは延々と流れていた。プログラムのコードだ。これは……。
「成原さんに聞けばいいんじゃないのか?」
どんな専門世界にでも世界一はいる。ハッカーの世界にも。しかしそれはたった一人(あるいは一組)だ。ランドマークの成原はその二番目だった。ただし、世界で二番目は数百数千はいる。数万かも。
……ちがうな。わたしが書いたコードに似ている……。
理解した。もとのコードを成原さんが分解したんだ。それでわたしが書いたコードに近くなったということだ。LMの仕事をしたときに、互いに補完しているから、彼がわたしに分かりやすく分解してくれたんだろう。雛形がいっしょだから、そうなる。
考えながら、身体が左右にゆられて気分がよくない。
フランボワーズの唾液が口に甘く残っている。
チラっと外を見た。法定速度をこえるスピードで市街地を爆走していた。座高が高いのに同じ速度の流れだということはかなりのスピードだ。不思議と信号にもひっかからず、平気で車輛のすき間をすり抜け、黄色の信号をノンストップで通過した。制御システムでも使っているのか?
わたしは、作業に集中することにした。どうせこの後、殺される。
しかし便利だなこの眼鏡。イヤホンからはフランボワーズの吐息が聞こえた。微エロ。ニナ・リッチ。
着いたのはLM――ランドマーク兵庫警備会社だった。
フランボワーズが、ヘルメットを脱いで眼鏡を正し、風にとかれた髪を指ですくった。いい女だった。運転は上手だったんだろう。わたしのウイッグは飛んでいかなかった。
「まだ生きていたんだぁ、長藻さん」
ぼーっとした態度の成原だったが、快く? 出迎えてくれた。
対外的には、成原がポテトチップスを食べている絵が流れているはずだ。
成原が、倒したパネルの上に湖池屋の「のり塩」をさしだしてくれたが、わたしは二日酔いで食べられなかった。それに美味しいにしろ海苔は口に残る。女身では遠慮したい気分だった。初デートでイカスミを食べたいといった女の子を思い出した。
……そういえば成原さん。わたしの姿を見て驚かなかったな。もう好きにしてくれ……。
フランボワーズにはすすめなかった。フライドポテト(フリッツ―― frites)は、ベルギー発祥だ。おいしくてもカリフォルニアロールは寿司ではないだろう? 食が生き方を決める。
「三分だ」
フランボワーズが、部屋を出た。コイーバだ。
「下村努にはなれたかい?」
意地悪な質問だ。下村努氏は、希代のクラッカー、ケビン・ミトニック(今はFBIに協力)の逮捕に協力した人物だ。ちなみに父の下村脩教授は、ノーベル化学賞を受賞している。
LMのセンタールームは、電磁的に一番静かな場所だった。モニタには、平橋邸の画像があった。
弘行失踪直前の画像だ。さっき見た。わたしは白手袋で、もういいと言った。手は人類の歴史、人そのものだ。
「追われるのはゴメンですよ」
わたしは返した。成原は、前にNATOのデータを改竄したことがある。拘束に協力した一人がわたしだ。つまりかなり意味深な言葉だ。
「何のファイルを開けようとしているんです?」
「それすらも問題らしい」
「チューリングの遺産ですか? まったく」
英国のアラン・チューリング(Alan Mathison Turing)は、WW2(第二次世界大戦)当時、ドイツの暗号機エニグマ(Enigma)を解読した天才だ。チューリングの発案したチューリングマシン(Turing Machine)は現在のコンピュータの青写真とも言える。
その天才が唯一解けなかった暗号がたった一つだけある。ドイツに占領されると考えたチューリングは、戦争直前に全財産を銀塊にして山奥に埋めて座標を暗号化したのだが、戦争が終わって財産を取り出そうとしたが、暗号が解けなかったのだ。笑うしかない。当時世界一の暗号解読者チューリングが解けないのだ。他の誰でも不可能だろう。金属探知機まで使ったが見つからなかったらしい。
「二人の釣書(つりがき――既存データ)から推測は?」
「やったよ」
当り前だが、確認だ。電源コードが抜けているかも知れない。そうした時には「電源コードがささっているか確認してください」とは言わない。「コードを抜いて五秒たってもう一度電源を入れてください」だ。確認したほうも、コードがささっていないことをお客様相談室には言わない。
「丹棟澪か……」
大陸系は、思考パターンが違うからややこしい。
暗号解読には、数学者が一番だが、数学者は論理的にあまり考えない。なんというかごちゃごちゃの中から唯一の論理を見つけるのが、数学者だ。数学は美しい。オッカムの剃刀だ。センスがモノを言う。
そのセンスが、わたしにはあった。
〝Cherchez La Femme.〟女を探せ。
フランスの諺、「犯罪の陰に女あり」だ。
「女がいれば、男もいる」
「八犬は調べたよ。クラウドの全てを澪に明け渡している」
基本的に成原は愉快犯だ。純粋な悪ではない。
「というより澪が乗っ取ったんだろうな。……澪の今の〝彼氏〟は?」
「捨てられたのか?」
成原が、八犬の画像を見た。胡散くさい。格好はつけているが、あるべきはずの品性が欠けている。生来の家柄を消し去るぐらいの悪烈さだった。
通信データから、直近の発着信をピックアップした。数字が読めないわたしには全部へんな記号に思える。
〈着―〇〇時〇〇分―東春出版関西支社野澤晋吾チーフ〉
〈発―〇〇時〇〇分―東春出版関西支社代表〉
〈発―〇〇時〇〇分―東春出版関西支社代表〉
〈発―〇〇時〇〇分―東春出版関西支社三島伸江さま〉
「この三島さんは?」
「受付嬢だよ。三十八歳。良い声をしていた」
あら、そう。
〈発―〇〇時〇〇分―八犬穣訓さま〉
「八犬って呼ばれていた」
公達の末裔も哀れだな、うん。
〈着―〇〇時〇〇分―東春出版関西支社代表〉
〈発―〇〇時〇〇分―東春出版関西支社野澤晋吾チーフ〉
〈発―〇〇時〇〇分―東春出版関西支社三島伸江さま〉
〈発―〇〇時〇〇分―周悠さま〉
「周悠?」
「そう。焼鳥屋らしい。けっこう行っている」
関係ないか……。インターネットにも画像があった。美味しそうだ。終わったらゆっくり食べたい……。
〈着―〇〇時〇〇分―ホンダ神戸緑が丘店藍河雅仁さま〉
「車を買うらしい」
検索しても画像データは出てこなかった。
ぁゃιぃ。
「金が入るんだから普通じゃないか?」
ちがう。投資の評価基準といっしょだ。「ヒゲ・金髪・フェラーリ」はNG項目だ。
あの女が、男を捨てた後に一人だと? 逆だろう。新しいのができて、替えたんだ。宿借が貝を替えるように……。陰翳礼讃。ファム・ファタール(Femme fatale)。
わたしは、成原にピアスのことは言わなかった。保守的な人間だ。絶対に拒否反応をしめすだろう。
「行くぞ」
フランボワーズが帰ってきていたらしい。iPhoneをポケットに入れると、うながした。気配が読めない人間は気味が悪いったらありゃしない。死人ばかりだ。ブラム・ストーカーが「葉隠」を朗読している感じだ。ジョージ・A・ロメロが「武士道」を、C・L・ムーアが「菊と刀」を。
フランボワーズが先を急ぐ。アタリだったらしい。フランボワーズは澪のピアスを知らないはずだが、何か感じたんだろう。それが答えだったということだ。この後どうやってファイルを開くのかは知りたくなかった。その中身も。
「いる?」
成原が、コンビニの袋に入ったポテトチップスを。わたしに渡した。デスクの一番下はポテチ入れだった。数種類はいっている。
「数があわなくなる」
確かに二袋ぐらいは食べているだろう。画像では。
「バイクなんだ」
「そうじゃ仕方ないな……」
成原が、袋をなおし、倒していた家族の写真パネルを立てた。
白手袋で挨拶したわたしは、フランボワーズの腰を抱きながら、続きを考えた。六里周――西川衞――の件は……。
フランボワーズが発車させた。上空をヘリコプターが往来していた。
次は、地獄か……。