7.分水嶺
7.分水嶺
日曜の深夜二五四二――月曜〇一四二――に平橋弘行が失踪した時点で、ロイズは事件として行動を開始していた。
ロイズ系のサックス損害保険の玖珂晶課長は、翌朝報告を受け取り、業務の継続を承認しただけだった。他の案件とかわりなかった。数列だけがすべてだ。確率(数字)の炎陽物語。起こる可能性があって、それが起こっただけ。何人何百何千死のうが、数字だけが残る。数字は数字でしかない。百年経てば、誰もいなくなる。アガサ。
それから玖珂は、自分用にローストしたコンゴのコーヒーを自分でいれ、複曜な香味を楽しんだ。オフィスは平和だった。
支払があれば利益が減るが、それすら計算に入っている。そしてそれだけの支払ができる体力が会社にあるという広告にもなる。あとの処理は会計の仕事だ。玖珂は有能だった。アーサー王伝説のカラドクのように萎えた腕をしていていも、バカ歩きする公認会計士ではない。
すべての保険はロイズに通じるといわれている。組織としてのロイズの歴史は古く、十七世紀後半に、エドワード・ロイドがロンドンにコーヒー・ハウスを開店したのがはじまりだ。男たちが集まってやることといったら、全世界どこでも同じバカ騒ぎ――飲む打つ買う――だ。紳士の国、英国でも例外ではない。話題づくりにニュースを提供したロイズ・コーヒー・ハウスでは、船がちゃんと帰ってくるかを賭けたのだ。結果は大アタリ。南海泡沫事件(なんかいほうまつじけん――バブルの語源)のおかげもあって海上保険はロイズが一手に引き受けることになった。
ロイズというと一つの会社に思うかもしれないが、実際はアンダーライターと言われる保険引き受け業者が無限責任で保険を引き受けている。無限責任は、有限会社や有限責任とちがって聞き慣れない言葉だが、賭けに負け、払えず自殺しても遺族が最後の一ペニーまで補償しなくてはならない。ほんとうの無限だ。それだけにアンダーライターは名誉とされる。奇特あるアンダーライターたち自身が、得意分野ごとに三百あまりのシンジケートを組織して相互に補完している。実質、破綻して無間地獄に落ちるのは、なるべくしてなった落伍者と無謀な新参者というのはいつも通りの世の中だ。それでなくても、保険は儲かる。生命保険であっても例外はない。人間は必ず死ぬのに儲かる。不思議だと思うのは商才がない証拠だ。パチンコで稼ぐぐらいなら、パチンコ店を経営すればいいという訳だ。胴元は博打を打たない。
賭け事の歴史はもっと古い。世界でもっとも古い、女の職業が売春なら、男の職業は賭博だろう。あるいは殺し屋か。
平橋弘行が失踪したことで、ロイズは賭けに勝ったのか負けたのか。
平橋家に機縁する美術博物館とロイズ――サックス損害保険の強い関係を疑問視するかもしれないが、美術関連の保険は高額で専門性がある。各種の展示会に必ず保険会社が名を連ねている理由だ。たとえば国内の美術関連の保険は、旧安田火災である損害保険ジャパンが第一だ。ノウハウがちがう。
美術品が盗まれれば人類の不幸だが、保険はおりる。保険会社は再保険をかけている。その最後がロイズというわけだ。保険証書の下に署名するアンダーライターはすべてを知っており、誰も首をくくらず、保険代が上がるだけ。たとえば、三億円事件では再保険で補填されている。
対価(金)を支払ったものが、対価(金)を受け領める。対価(金)を持たざるものは生命(時間)という対価(金)を支払うことになっている。世の中はそうして廻っている。ナポリのジョークだ。イタリア人のオペラ――悲劇――好きは、日本人の滅びの美学に通じる。平家物語。
およそ勝ちに美しさなどない。腕をもがれても勝ちは勝ち。勝利とは約束された形だ。そこに美を感じるのは狂人でしかないし、負けに美を求めるのは邪悪な自己満足だ。手首を落とされた女神ニケの幻肢痛(げんしつう―― Phantom Pain)。存在しないはずの痛み。パラダイス(楽園)にでもファントム(見えざる敵)はいる。
平橋から連絡を受ける前にロイズ・シンジケートのサックス損害保険は、身の代金目的の略取と考え、契約していたランドマーク兵庫警備会社に情報収集の強化を求めた。セキュリティホールの〝見えない〟通信プログラムの捜索だ。
日本人には誘拐というと、恐怖の対象だが欧州ではちがう。ビジネスだ。金を払えば返ってくる。特に商品が高額であればあるほど、バカラのクリスタル細工のように無事に返ってくる率は高くなる。
失踪から七十二時間が経過した。その間、犯人からの連絡は一切なかった。ロイズは略取事件ではないと判断し、次の段階へ移行した。
小雨に煙る芦屋の平橋邸前、古松の下に一人、初老の男がいた。躙口のような小さな脇戸をくぐった。
屋敷の中は仄暗い。明明と照らされた西洋見では違和感があるだろう。時間がゆっくり流れるような、それでいてとどまるような感を感じるのは日本人だけだ。
――よのなかは かがみにうつる かげにあれ あるにもあらず なきにもあらず――
現身――空蝉――世界にも蝉の話は多い。蛇と同じく、輪廻転生か。尾をのみこむ蛇……。源氏物語の空蝉……。
陰翳。そこに両儀がある。大いなる一つのものからの表裏――陰陽。暗さ――陰というとどうしても辛気くさい感があるが、陰陽の陰は、まったくのマイナスではない。表の陽を際立たせる、いうなれば基礎としての陰影で、陰あっての陽、陽あっての陰だ。確かに西洋細工は、完全な陽だ。「私が作りました」と制作人ですら表看板にしてしまう。〝いき〟ではない。芝居が終わったあと再度、幕を上げ俳優に拍手をするようなものだ。興醒めする。日本には「黒衣に徹する」という言葉がある。西洋細工は、全員が主役。客人も主人も職人もWin-Win-Winの関係だ。日本の細工はちがう。客人が主役、主人は脇役、職人は黒衣だ。整然とした秩序があり、そこに勝ち負けがあってはならない。調和させるために、あえて引く何かが陰だ。
男は、扇子を前に、書を観ていた。
――高山風易起 深海水難量 空際无人察 法身獨能詳――
……高山は風起り易く、深海は水量り難し、空際は人の察する無く、法身のみ独り能く詳らかなり。「遍照発揮性霊集」だ。
……高い山は風が起こりやすく、深い海の水は推し量ることはできない。空の果ても人の考えの及ぶところではない。大日如来だけがひとり知っているだけだ……。
花は、紫陽花。うつろう色の花言葉は縁起の良いものではない。
太い柱には節一つなく、古いが丁寧に使われている屋敷らしく、天井ちかくも塵一つなかった。凛とした静けさがある。今となってはもう買うことも手に入れることもできない価値がそこにはあった。
部屋からひろがる庭はそう広いものではなかったが、木木は十分に手入れされ、地元の御影石を使った灯籠が雨に濡れていた。実に上品で丁寧な仕事がなされた庭だった。塀上の空間までが一つの「絵」に仕上がっている。職人は魂を削ったらしい。見事だ。
手水鉢あたりから琴の音がしんなり聞こえた。雨の水琴窟は、しんに響く。こんな日は特に。
平橋之尚は、弘行そっくりの目を赤くそのままに正座していた。五十半ばの小男だったが、真面目なのだろう。微動だにしなかった。
馴染みの店であつらえた深い緑のスーツが人をあらわしていた。見るからに善人だ。それゆえかなしみも深い。
平橋家はその所業からか、長らく男子が生まれなかった。駆け落ち同然で恋愛結婚した之尚の願いもあり、次期当主の定子の無理をおして、ようやく弘行が生まれた。彰子とは三つ離れている。之尚がどれほど喜んだかはその名前にある。そもそも平橋家は、嵯峨天皇の系ゆえに空海の教示とも親しい。ふつうは弘法大師の名前など恐れ多くて付けない。之尚のかわいがりは異常とも言えた。定子が産褥の日も浅く亡くなってしまったことも原因だった。
幼い彰子にはそれが不思議でならなかった。生まれながらにして事案を継承することの意味を含めて、彰子は物言わぬ父に少なからず愛憎を求めていた。結果それが年の離れた許嫁との別れであり、日本に帰りサックス家との関係を深める原因にもなっていた。
時代はうつろう。きょうは父の友人に願うこともあり之尚の次席であったが、彰子が平橋家の当主にかわりはなかった。
間を楽しんだ男は、日本人らしく座高が高いがそれは長身のせいでもある。立てば之尚の頭一つ半は高い。
刈り込んだゴマ塩の頭にバリトンの美声。吊るしの背広が野暮ったいが清潔にしている。それほど目立ってはいけない職業もある。塩谷長次郎は、兵庫県警察の緑が丘署の警部だった。
ロイズが出した結論は〈一般家出人〉としての家出人捜索願だった。「事をあらだてるな」である。
捜索願には、二種類ある。一つは〈特異家出人〉で、事故・事件や自殺など人命にかかわるような案件の場合、すぐに捜査が開始され、情報は公開される。もう一つが〈一般家出人〉で、こちらは単に届け出だけ。捜索はされない。
表立って公開できない理由が、平橋家にあるらしいことは、塩谷は知っていたがそれが何かは知らなかった。定年までのあと一年半。窓際の警部の引き際としては十分であり、事実、難題だった。ベルギーのサックス家との関係もある。
日本人はベルギーと聞いて何を思い出すだろう。チョコレートやベルギーワッフル、ベルギービール? とても美味だ。あるいは美しく輝くダイアモンド……。
ほとんど知られていないが、オランダとフランスに挟まれているベルギーは、オランダ発祥の地であり、フランス揺籃の地だ。
気楽にフリッツでも食べながらというわけにはいきそうもなかった。
ランドマーク兵庫警備会社のセンタールームで、成原が湖池屋の「うすしお味」ポテトチップスを食べていた。箸で。ふつうは飲食厳禁なコンピュータルームだが、成原は無視していた。欠落した常識を持つエリートだけに許された特権だった。だが素手でそのままというわけにはいかない。特注のUIがドロドロになるのは許せなかった。
ナナオのモニタEIZO FlexScan L997二枚を中央に、L565を四枚使うテーブルの上には、東プレの静電容量無接点方式のキーボードREALFORCE91UBKがあった。両手で使えるように同じく東プレのテンキーREALFORCE23UBが左右一台ずつ。それにダイヤテックFILCOのタッチパッドGP-415UBまで二台使っていた。すべて黒で統一している。城だった。
テーブルのむこうの壁一面に、契約している企業のビルや個人の住宅のセキュリティ画面がリアルタイムで表示されていた。国産IPSの美しい画面に、成原のポテトチップスの領収書が表示される。つづき、それが福利厚生費として計上される会計事務所の経理ソフトの画面。となりには、玖珂のコーヒーの領収書やスーツの明細も表示されている。熱くキスをかわしているのは、マシミヤ商会の社長と秘書だった。少女を受け止める長藻秋詠。鈍い音。縞パン。区域内の送受信されたデータまで、それぞれの箇所にタグがうたれ、リスト化されていく。重要なものもそうでないものも、メタなデータとして集積される。数が質をつくる。
「事実を使って科学をつくるのは、石を使って家をつくるようなものだ。事実の蓄積が科学でないことは、石の山積みが家ではないのと同様だ」ポアンカレ。
情報は分類され、整理されてやっとデータとして成立する。それをどう使うかは、金を出したクライアントが決めることだった。欲しい情報など、ネットの海にいくらでも浮いている。知っているだろうか。海水には金が含まれていることを。
センタールームの画像が二重になった。成原が使ういつもの手だった。記録には、成原がボーっとポテトチップスを頬張っている画像しか残っていない。
暇そうに、横にいた部下の三島が、ひろげられたチップス袋から割り箸で食べた。
「塩分とり過ぎですよ。成原さん」
成原が底にある残りの細かいのをひろうが、たしなめられる。
「分かってるんだけど、好きなんだよね。これが……」
「検査ちかいんでしょ? またひっかかったら奥さんに叱られますよ」
三島が、成原の家族のポートレートを見ながら言った。口の大きな美人の妻と、そっくりな娘がいる。
「うぎょ……かんべんしてくれ……」
平橋邸の画像が流れている。音声データが自動的に文字化され、画面に表示される。
『――大人の事情があるようですな――』
『――ベネルクス展です。ご存知の通りベネルクスはEUの中心です――』
険難。成原の目が細くなった。
「塩谷さん(おやっさん)こっち来るなぁ。……追加で画像増やせるか?」
問われた三島が口まわりの塩をなめながら、左手でキーを操作した。
「そんなこともあろうかと、あと2バージョン用意しています」
似たような画像だが、微妙にちがう画像が二つ。
「よぉし」
成原が、データを修正した。速い。
「お茶いります?」
伊藤園の〈おーいお茶 濃い味〉のペットボトルを飲みながら三島が聞いた。成原のはもう少ない。
「今はいい」
「まだ続くんですか? ヤケド女に――」
「――あれは火傷じゃあない。感電痕だ」
「感電痕?」
「落雷か、電気事故か……まぁそんなとこだよ」
――戦慄の女王……軍の女神ニケ……死の女神……薔薇の傷顔……。
「どっちにしろよく死にませんでしたね。……まぁ、見ようにはキレイですね。でもどうもあぁいうのは苦手だなぁ」
「もとは美人だけに、か?」
「そうそれですよ。タトゥーなんて論外ですよ。どうして自分を傷つけるんだか……もったいない。あると抜けない……」
成原が、苦笑した。趣味で人の価値が決まるわけではない。
「美女ってのはある意味バケモンだからな」
三島が、成原の美人妻を見た。口が大きいだけで、バケモノではない。美は魔だということを知らない三島であった。
「あの女は何者なんです?」
「玖珂さんに聞いてみたら?」
成原は親しく名前でよんだ。
「課長にそんなこと聞けませんよ。……そんな勇気があれば、こんなところでくすぶってませんって。……それにあの高圧的な態度……なにか解せないなぁ……」
「世の中そういうもんだよ」
「成原さんだってNATOに侵入したことがあるんでしょ?」
「私じゃあない。知り合いだよ」
「またまた……。で、バチカンは誰なんです?」
バチカン――ローマ教皇庁の電脳聖堂は、アメリカ合衆国国防総省をこえるセキュリティがあると言われている。そのバチカンに唯一侵入したハッカーがいる。誰か? バチカンは発表していないが、簡単に人物は特定された。それだけバチカンはネットワーク犯罪にも優れている。バチカンはどうしたか? 罰を与えたか? バチカンはその人物をセキュリティのチーフエンジニアに雇った。ただしその後、失踪している。
「さぁ知らないなぁ」
成原は、ポテトチップスを箸でつまみ、知らぬ顔をした。
「課長の許可はどうするんです?」
成原のスマートフォンが鳴った。
〈P.緑が丘.塩谷長次郎〉
「それきた。……はい成原です。……はいどうぞ。……どれぐらいですか? はい」
電話を切った成原が、残っていたペットボトルのお茶を飲み干した。
「西宮のヨットハーバー経由だそうだ……玖珂さん怒るだろうな」
まるで他人事のようにいう成原だった。放り投げたボトルが孤をえがいて燃えないゴミ箱におちた。
「誰も来る予定はないし、誰も来なかった?」
三島が呼応して言った。三島も飲み干した。
「そう、世は事もなし」
成原は、モニタの壁紙を読んだ。
〝God's in His heaven. All's right with the world.〟神は天にいまし、なべて世は事もなし。
その背景に「天知 神知 我知 子知 何謂無知」とある。楊震の四知だった。
岡山から新幹線にゆられていたヒゲの男――スマイルス――がゴディバ(Godiva)のチョコレートをかじると、ベルギービールを流し込んだ。
着信。
スマイルスは笑みもなく、小傷の多いスマートフォンのメールを一瞥した。
〈ジローノート〉
うんざりした顔で、隣のジャケットの上に放り投げた。チョコの箱にヒットする。
――ベネルクスにジローノートだぁ? フランボワーズめ。戦争おっぱじめる気か? まっ、裏切者はどこにでもいるってこったぁ。……ホームに帰るまでが休暇だ。まぁ双子の片割れが処理するだろう……。時間はまだ、ある。
スマイルスは飲み干した缶を、二本の指で軽く握りつぶした。
SIS(Secret Intelligence Service ――英国情報局秘密情報部)――通称MI6(Military Intelligence section 6)――のスマイルス大尉が、ベネルクスに懸念をいだくのは、ややこしいからだ。
欧州の中心ベネルクスがヨーロッパのどのあたりにあるか、地図で確かめてみよう。
【図】ヨーロッパの地図
確かに中心にある。欧州連合(EU)の中心でもある。
ヨーロッパは、日本と比べるとかなり高い位置だ。東京とパリが同じ緯度だと思っている人も多いが、パリはかなり上だ。パリの冬はとても寒い。凍える。
【図】ヨーロッパの地図と日本の地図を重ねて表示
ベルギーの首都ブリュッセルは、日本でいえば、北海道稚内市の宗谷岬よりまだ上、千島列島の択捉島より上にある。稚内市の位置は、イタリアのミラノやヴェネツィア(ヴェニス)と同じぐらいだ。
ベネルクス(Benelux)の複雑な事情を、スマイルスが楽しんでいるビールとチョコレートという「キーワード」から解いてみよう。
ベネルクスは、ベルギー・オランダ・ルクセンブルクの三か国で経済協力を行っている。小さな国家がまとまり大国に対抗しているわけだ。結果、列強を含めた欧州連合(EU)の中心になっている。台風の目だ。賢い。
まずビールだ。オランダのハイネケン(Heineken)は日本でも有名だ。特にベルギーが秀逸で、トラピスト会修道院で作られているトラピストビールから始まり、ホワイト・レッド・ブラウンなど多種多様なビールが楽しめる。ただし、ベルギービールを飲むときには、専用グラスが必須だ。美味しさを十分に味わえる。グラスを並べていないパブなら出たほうがいい。それはベルギービールとは言えない。
もう一つが洋菓子。チョコレートやベルギーワッフルが有名だ。ベルギー王室御用達のチョコレート――コートドール(Côte d'Or)・ガレー(Galler)・ゴディバ(Godiva)・メリー(Mary)・ノイハウス(Neuhaus)・ヴィタメール(Wittamer)――を代表に、頬がおちると言っていい。
この二つのことから調べなくても解ることは、しっかりしたカトリック教会の地盤があり、行政の中心機能を持っている(いた)ということだ。
「1.ビール(カトリック信仰)」
ベネルクスはかなり北だ。ブドウの栽培はできない。必然的にワインも不可だ。フランス人がワインを洗練させたように、ベルギー人はビールを洗練させた。それが前述の、トラピストビールを代表とする多種多様な美味しさだ。
ビールを作るには、大麦の栽培から収穫、熟成という長い時間が必要だ。安定したビール製造には、しっかりとした信仰の地盤があってしかるべきというわけだ。
ビールに限らずワインでもコーヒーでも、土づくりからはじまる。上質な土地は雰囲気からしてちがう。そこに踏み入れたなら、ただよう香りの甘さ、靴につたわる土の感触がやわらかいことに驚くだろう。バイヤーは土を食べて価格を決めていると言っていい。嘘だと思うなら食べてみるがいい。上質な土はやわらかく甘い。バイヤーが土の風味を知らず、現地にも行っていないなら、そんなものは買わないほうがいい。これは工業製品でもいっしょだ。工場を見ればいい。機械を道具を、床を工具箱を。そして従業員の顔を。作り手の笑顔をつなげるのがバイヤーの仕事だ。お客様に対するアンカー営業パーソンが作り手と同じ顔をしているか――それしかない。
キリスト教といっても、プロテスタント教会には修道院はないので、必然的にカトリックの信仰が篤いといえる。※ルーテル教会を除く。欧州以外は割愛。
修道院がお酒を作っているというと、日本人には疑問符だらけだろう。蛇口をひねって飲み水がでるのは世界的にみて希なのだ。日本は水の豊かな国だ。だから水の言葉がたくさんある。水のつく漢字なら小学生でも両手いっぱい言えるだろう。言葉は文化だ。たとえば北極圏に住む民族には、雪の状態をしめす言葉がたくさんある。はじめに言葉ありき。
逆に、ヨーロッパでは飲み水が少なかった。神秘的な泉の話があるのもそのためだ。英雄がいた国は不幸と決まっている。三文オペラだ。
冷蔵庫もない時代は、ふつうの水よりアルコールのほうが日持ちする。保存がきくビールやワインを作るのは生活の知恵だったわけだ。
それに、もともとキリスト教の儀式として、アルコールを使っている。教義でワインは、イエス・キリストの血だ。
修道院には、巡礼者を労るホスピス(宿泊所)としての役目もあった。医療行為としてアルコールを飲ませていた。「酒は百薬の長」とはよくいったものだ。リキュール(薬草酒)は旅人を心安らかにさせただろう。ホスピス(hospice)という言葉はやがて、病院(hospital)になった。
「2.お菓子(文化)」
美味しいお菓子があることが、イコール行政の中心機能というと大げさかもしれないが、文化の中心であることは確かだ。お菓子は生活にどうしても必要というわけではない。砂糖が貴重だった当時を考えれば、美味しいお菓子があるイコール世界の中心といえる。洗練された甘さは、イコール美しい知的文化だ。
お菓子と行政といえば、マリー・アントワネットの「パンがないならお菓子を食べればいいのに」がある。食うも食えぬ飢えた市民を怒らせフランス革命(一七八九年)につながったとか。本当は言っていないのだが、それぐらい憎まれていたということだ。
ベネルクスを読み解くのに、二つのキーワード、「1.ビール(カトリック信仰)」と「2.お菓子(文化)」を使ってみよう。
ベネルクス(Benelux)の名称は、それぞれの頭文字――《Be》ベルギー《Ne》オランダ《Lux》ルクセンブルク――をあわせたものだ。
ただし国名でさえ、ややこしい。
【ベネルクス(Benelux)】
《Be》ベルギー
Koninkrijk België(オランダ語)
Royaume de Belgique(フランス語)
Königreich Belgien(ドイツ語)
《Ne》オランダ
Koninkrijk der Nederlanden(オランダ語)
《Lux》ルクセンブルク
Grand-Duché de Luxembourg(フランス語)
Großherzogtum Luxemburg(ドイツ語)
Groussherzogtum Lëtzebuerg(ルクセンブルク語)
表にするとこうなる。そう、公用語でさえそれぞれ複雑に重なり合っている。
北から順に並び替え、「1.ビール(カトリック信仰)」を当てはめてみる。
《N》オランダ――――プロテスタント(新教)
《B》ベルギー――――カトリック(旧教)
《L》ルクセンブルク―カトリック(旧教)
特色が出てきた。ベネルクス三国は、かつてネーデルラント(Nederlanden、低地地方)と呼ばれていた。オランダの正式名称は、日本ではポルトガル語の影響で「オランダ王国」だが、オランダ語では「ネーデルラント王国(Koninkrijk der Nederlanden)」だ。どうしてオランダだけがネーデルラントと呼ばれ、ほかのベルギーやルクセンブルクがそうでないのか。それはオランダだけが「太陽の沈まぬ帝国」スペインから自由を勝ち得たからだ。
オランダ独立戦争ともいわれる八十年戦争(一五六八年~一六四八年)当時、スペインは、文化面ではスペイン黄金世紀と呼ばれる素晴らしい時期だった。エル・グレコ(El Greco)、ディエゴ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez)、ミゲル・デ・セルバンテス(Miguel de Cervantes Saavedra)……。だが、実際のスペインの台所は借金で火の車だった。
そこでスペイン王フェリペ二世が目をつけたのが、国際商業都市アントワープのあるネーデルラントだった。政策変更と増税は世の習いだ。ちょうどそのころ、フェリペ二世にとっては運悪く、オランダにとっては運良く、ネーデルラントにも宗教改革の波がやってきていた。最初は旧教スペインもゆるやかに統治していたのだが、新教プロテスタントは政治的側面が強く、しだいに対立するようになる。やがてフランダースから発火してしまう。スペインにとっては反乱だ。政治と経済、それに宗教の対立だから無理もない。
ネーデルラント十七州のうち北部七州は、一五七九年、ユトレヒト同盟を結成する。徹底抗戦だ。これが今のオランダになる。ここまでオランダが抵抗したのは、干拓の文化とプロテスタントの考え方が合致したからだ。詳細は割愛する。
南部はというとカトリック強し。結果、スペイン領のままとなった。多くの有能なプロテスタントの中小工業者は、新教国オランダに逃げてしまった。
次に、「2.お菓子(文化)」を当てはめてみる。まずは「言語(公用語)」だ。
《N》オランダ――――新教―オランダ語
《B》ベルギー――――旧教―オランダ語・フランス語・ドイツ語
《L》ルクセンブルク―旧教―フランス語・ドイツ語・ルクセンブルク語(ドイツ語に近い)
泣くだろう? ややこしい。ベルギー語なんてない。一般の日本人が無垢に信じている〈一つの民族〉〈一つの言葉〉とは、まったく異質な世界がそこにある。ヨーロッパは地続きだ。ベネルクスには「日本史」のような自国だけの歴史はない。すべてが世界史だ。分けて考えることはできない。それどころか一つの国を知るには、世界を知る必要がある。話が全部つながっている。もっといえば王朝・血族か。
ここからは、ベネルクスの中心ベルギーに絞って考えてみよう。もう一度、「2.お菓子(文化)」から「言語」だ。
【ベルギー】
フランダース地域―オランダ語
ブリュッセル―――フランス語・オランダ語
ワロン地域――――フランス語
リエージュ州東部―ドイツ語
【ベルギー】地図(言語記載)
かなり、すっきりした。ベルギーは南北に、言語が二分している。北のフランダース地域はオランダ語で、南のワロン地域ではフランス語だ。
首都ブリュッセルはフランダース地域の真ん中にある。ちょうど東西に分かれていたころのベルリンのようだ。哀しい時代だった。
一部のドイツ語を話す地域はリエージュ州東部にある。こちらに関しては以下、割愛する。
言語が変われば、民族も変わる。
オランダ語をつかうゲルマン系のフラマン人(Flamand)は、身長が高く金髪。
フランス語をつかうラテン系のワロン人(Wallon)は、身長は中くらいで褐色の髪。
こうなってくると、行政は大変だ。話し合うにしろ、言葉が違う……。実際、言語的な対立をうけて、行政政府を分けて、一九九三年に連邦制になった。
この境界線がいつ頃からあったのだろうか。百年? 二百年? 二百年前といえば、ワーテルローの戦いがあった。
「コルシカの血を持ったラテン系のフランス皇帝が、イギリス・プロシアのアングロサクソン・ゲルマン同盟軍に敗れたのであり、しかもその地はラテンとゲルマンの混成国家ベルギーのなかの民族境界線上だったのである」(三〇九―三一〇頁)
――小川秀樹『ベルギーを知るための52章』(明石書店、二〇〇九)――
実は、ナポレオンより、もっと、ずっとずっと昔だ。かなり古く、二千年以上前に遡る。そう、イエス・キリストが誕生する前のことだ。
ベルギーの名前が最初に登場するのが、西ヨーロッパ中央のガリア地域の属州総督をしていたガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー―― Gaius Iulius Caesar)が、ラテン語で書いた『ガリア戦記』だ。ローマ帝国の属州だったガリア・ベルギカ(Gallia Belgica)は、現在のオランダ南部からベルギー・ルクセンブルク・北東フランスとドイツ西部からなる地域だった。当時のガリア・ベルギカには、ケルト人とゲルマン人がいっしょに住んでおり、ベルガエ人(Belgae)と呼ばれていた。この混色ベルガエ人が住む地域ベルギカから、ベルギーは名付けられた。そう考えると、ベルギーの標語もロマンチックだ。
【図】ガリア・ベルギカ周辺図
ガリア・ベルギカと、その北東の属州ゲルマニア・インフェリオル(Germania Inferior、低地ゲルマニア)との境界線が、現在のベルギーと、オランダとドイツとの国境線にほぼ重なる。これが原形だ。なお、ゲルマニア・インフェリオルの東側は、大ゲルマニアと呼ばれ、ローマ帝国の侵略を許さなかった。このことが後に国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP ―― Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)アドルフ・ヒトラー総統の狂気の闘争につながっていく。偽り、愚かさと臆病との戦い。
ベネルクス――特にベルギーは、ヨーロッパの中心で、なおかつ平野で豊かな耕作地だったために、侵略されやすく、何度となく戦火に見舞われた。
同じく欧州で、広大な平野があるポーランド共和国も、幾度となく焦土となった。ポーランドの語源はそのまま「平原」だ。なお、南部のオシヴェンチム(Oświęcim)は、ドイツ語でアウシュヴィッツ(Auschwitz)という。アーメン。
平地が多いということは、イコール道路も作りやすい。道路があるということは、イコール侵略もしやすいということだ。平地での豊かな耕作物が、目的の一つだ。
ローマ帝国は、ヨーロッパに広大な道路網を作った。
〝Tutte le strade portano a Roma.〟すべての道はローマに通ず。
流石に諺にもなっている。ローマ帝国は、大ゲルマニア(現在のドイツから東)こそ征服できなかったが、地中海を中心に、ヨーロッパのほとんど、海を渡ってブリタニア(イギリス)まで征服している。道路から得た結果が、「パクス・ロマーナ」(Pax Romana ――ローマの平和)であり、「パンとサーカス」(panem et circenses)という訳だ。
人類は自ら多くの境界線を引き、分水嶺で戦ってきた。最初は生存のために止むなく引いた線だった。世界には、さまざまな言語・思想・主義・主張・宗教・民族・人種・性別・国家・体制・政治・個性・感情・情熱……がある。
ベルギー王国の標語を見てみよう。
【ベルギー王国の標語】
L'union fait la force(フランス語)
Eendracht maakt macht(オランダ語)
Einigkeit macht stark(ドイツ語)
「団結は力なり」だ。見事というしかない。
どれだけの分水界があろうと、それに続く道は必ずある。今は見えなくても、清冽なる地下水はある。