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5.〝C'est la vie.〟

5.〝C'est la vie.〟


 思い出は人をなごませる。


 生きかえったわたしが、福原のマンションを出たのはそれからすぐだった。麻の白いシャツに、綿混の麻のベージュのジャケットに、ベージュのコットンパンツ。デュバリーのデッキシューズ。昼からの面談には事務所にシャワーとスーツがある。


 もう雨は止んでいたが、一応ヘリーハンセンのレインコートは持っていた。防水のPCケースを肩に下げている。中のMacBook Pro Retinaは起動済だ。


 芦屋のマイクから電話があり、iPhoneで操作を開始した。


 朝からソープランドに出勤する勤勉な泡姫が、わたしに会釈した。彼女たちは金にはシビアだが、それ以上にやさしくされた人間は覚えているものだ。困ったときに思い出す程度には。


 ボンキュッボンの次は、厳正な救世軍(The Salvation Army)のフランス人の小隊がにこやかにゆきすぎた。


 軍と名がついていても宗教団体プロテスタントだ。兵站へいたんはもともと軍事用語だ。それがWWW(While Women Weep ――女性が泣いている限り)助けることにつながる。クリスマスに場違いな軍服をきて募金している社会鍋(クリスマス・ケトル―― Christmas kettle)なら見たことがあるかもしれない。むかしわたしが、破産寸前までいったときに、有り金の半分を社会鍋に入れた。次の日に融資がおりた。人間どうなるか分からない。信仰に関心のないわたしだったが、教育と福祉だけは認めていた。


 コマンダン少佐と目があい会釈した。少佐のミドルネームはマジョール(Major ――メイジャー)だそうだ。


 わたしはいわゆる裏の人間ではない。探偵もしているが、本業はシステムエンジニアだった。今月は。先月はダイエットを教えていたし、その前は税理士事務所で兵站を教えていた。多芸は無芸。器用貧乏人宝。雑用係。皿洗い。ただし、殺し屋や掃除屋は映画の中の話だ。普通のただの〈嘘つき〉〈偽善者〉〈酔っぱらい〉だった。


 マイクとの共同戦線を切るころには、PCケースの上からでもMacBook Pro Retinaの熱が腑甲斐無ふがいなかった。


〈追跡〉されていないはずだった。iPhoneに〈LM_Narihira,_Mr.〉と赤く表示されていた。ランドマーク兵庫警備会社の成原なりはらだった。


 すぐにガラパゴス携帯に電話があった。


「はい長藻です」


『シミュレーション、ですよね?』


 成原が挨拶もなく不快そうに言った。


「抜き打ちオーライのはずだけど? 成原さん」


 何があったんだ?


『ちょーっと問題が……』


「行ったほうがいい?」


〝逃げたほうがいい?〟


 マイクとの符牒は、もともとわたしと成原の会話が発端だった。


『そうですね……あっ、ちょっと待って……ええ、はい』


 電話口を押さえても聞こえるものだ。あるいは成原ならワザとなのか?


『伺うそうです。いまどちらですか?』


 社交辞令だ。位置は〝追跡〟されているから、〝逃げるな〟か。


「事務所近くです。事務所にどうぞ。あぁ成原さん?」


『なんです?』


「手間をかけてすみませんでした」


『あなたのせいじゃありませんよ』


 MacBook Pro Retinaをひろげるまでもない。iPhoneのパネルにあるクラウドのデータは成原によって、きれいに消去されていた。これはいつもの事だが、何があったんだ? 何が。


 マイクに連絡するか? NG。状況不明で連絡するのは不粋だ。どう処理すべきか……。


 考えるうちにわたしは見慣れない道路に出てしまった。神戸で迷うなんて……。


 ふっと前を歩く女子高生を見た。そうそれはたぶん気のせいだった。しかし〈本当〉だった。女子高生のスカートがふわっと舞い上がるのが〝みえ〟た。近くのビルに、女子高生が入っていく。


 自殺か……。わたし自身、善人か悪人かと問われれば悪人と答えるような人間だったが、目の前の不幸を見過ごすことはできなかった。実のところは、呼び出しから逃げたかっただけなのは自分でも理解していたが、そんな時ほどフラグは立っているものだ。


 追うと、エレベータが閉まる瞬間だった。彼女は気づき開いた。八光ビル。末広がりで縁起が良い。八階まである。七階にマシミヤ商会株式会社。そういう事か。いつも通りだな。


 無意識に、マシミヤ商会に来てしまったらしい。言い訳だが。


 七階に降りる。少女はそのまま八階へ。屋上の鍵は閉まっているのか、いないのか。


 こうした時に、わたしはいそがなかった。数があっている。必ず当たる。


 普段の足取りで、マシミヤ商会の開いたドア近くのインターホンの受付ボタンを押した。今日は販売促進の担当者だった。いつものように紹介だから名刺はもっていない。


 連絡を受けていた金髪ブロンドの秘書が、奥に案内した。


 不謹慎に、アンダーも金髪という本物のブロンド女性なのかを想像するのは楽しい。想像するだけなら、だれにも迷惑はかけない。


 マシミヤ商会は、東欧系らしい。日本人ぽい顔もあるのはそのせいだ。好みのブルネット。微笑。えくぼ。


 社長室のちょうど真下が道路だった。


「お早いですね。午後からだとばかり思っていました」


 ダーク・トール・ハンサムと三つ揃ったマシミヤ社長が、わたしをソファーに案内した。


 どうせ二日酔いだからと午後からにしてほしいとわたしからレイさんに頼んでいたのだ。


 ソファーに荷物をおくときに、ふっとテーブルを見ると、マシミヤ社長と、金髪さんの〈残像〉があった。〈死〉が近くにあると、見えてしまう類の〈生〉の戯言ざれごとだった。きのう聞いたとおりマシミヤ社長の趣味プレイは上質だった。食材も本物だろう。期待できる。


「朝早くから、お手間をかけて申し訳ありません。少し空気を変えてもいいですか?」


 ソファーには座らず、窓にむかう。


「はい構いませんよ」


「あっわたくしが……」


 金髪さんの長い指が印象的だった。


「こういうのはコツがあるんです」


 ブラインドを一動作で上げ、窓を開けたときにiPhoneが鳴った。


 わたしはiPhoneを左手に持ったが、表示を見る時間もなく、右手を前に差し出した。


 片手で、落ちてくる少女を実際につかめるかどうか、わたしに自信はなかった。


 一つ言えることは、落ちた少女の右足をつかんでいたということだった。左手でiPhoneを持ちながら。


 言い忘れたが、窓の下枠に打ちつけたときに胸から鈍い音がした。百ユーロ賭けてもいい。肋骨が折れている。


「持って……」


 息も絶え絶えにわたしがいうと、手前にいた金髪さんが、少女の足を持とうとする。


 違うって! 人命も大切だが、データも大切だ。少女が助かっても、マイクを死なせることになるかも知れない危険性があった。……すまん、マイク。


 すぐに社長が、少女の足を持ち上げてくれた。すっと上にあがる。


 少女が気づいて、悲鳴を上げた。


「きゃーーー」


〝A5〟


 良い声をしている。アルトだ。


 少女の左足が、わたしの右手に直撃した。いつ聞いてもイヤな音だった。自分のは特に。中から聞こえてくるから、録音した自分の声を聞いているような違和感がある。痛み。


 引き上げられた少女は、顔面蒼白だった。世の中、死ぬより恐いことはいくらでもある。


 iPhoneは無事だった。社長室がやわらかいOAフロアだったからだろう。環境にお金を払うところは大好きだった。


 iPhoneに着信。マイクからだった。左手で取り、右耳で聞いた。


「はい」


『何をしているの?』


「はい?」


『写真おくったでしょう?』


「いいや」


『来たよ。どうしてこんなものをクラウドに?』


「後で確認する。LMから呼び出しがあった」


『どうする?』


「5361」


『Roger.』


 助けた少女は、美しかった。ただし〈いじめ〉の残像が見えた。〈死〉はいつだってそばにある。


 論語にあるとおり「生の価値すら分からないのに、死の価値なんぞ分かるものか」だな。


 痛い。オフィスにあるシンワの定規を借りて添え木にした。金髪さんの長い指はこれか。慣れているので聞くと、金髪さんは一次救命処置(BLS―― Basic Life Support)を受講しているらしい。やるもんだ。マシミヤ売れるぞ。


 肋骨は……まぁいい。さらしでも巻いておくか。


 振り向くと、ブルネットの笑顔。遠慮はしないほうだ。


 サンプルの食材――ナレキというタマネギの一種らしい――をスライスして胸に貼ってくれた。素肌に冷たいが、痛みが上だ。胸をラップでぐるぐる巻きにする。故国に伝わる民間療法だそうだ。冗談みたいだが少しは楽になった。偽薬プラセボ効果だろう。


「内容成分を調査してくれませんか。レイさんの会社にあります」


 検査方法を言おうとしたがやめた。いまは言う元気がない。それに前にやっている。担当者が変わっていなければソツなくこなすだろう。


 ブルネットに着せてもらう。折れた腕を、ナポレオンぽくジャケットの中に入れて三角巾がわりにした。貝ボタンが取れなければいいが……。


「分かった。すぐに手配する」


 社長が答えた。ハンサムだ。言う必要はなかったみたいだ。それも数のうちか。


「それと社長……」


 金髪さんが少女を介抱しているあいだに、わたしはマシミヤ社長に小声で言った。


「社内で軽はずみな行動は厳禁です」


 朝のエスコートガールが金髪さんに似ていた。そういう事か。


「! どうしてそれを……」


 動揺を隠せない社長だった。それはそうだ。初対面でいきなり人を助けて、情事をいさめるなんて普通はしない。というかできない。したくもないが、それが仕事だった。


「私はプロフェッショナルです」


 どうしてそうなるのか。教えることはできるが、本人ができるかどうか分からない。そんな〈ルール〉が実際には、ある。


 サイレン。救急車だった。


 ソファーに深く深く沈んでいる少女の名前も聞かずに、部屋を出た。階段で降りる。正直、乗っていきたい気もあったが、今はそうしたことはできなかった。仕事をしよう。


 息が苦しかった。手も痛い。肋骨を確かめた。右の五番六番だった。息が浅くなる。


 階下におりるころには、少女が救急車に乗せられていた。救急車を呼べば必ず乗らなくてはならない。


 飛び降りたビルの屋上を見た。何もない。空だけがあった。雨雲をヘリコプターが二台飛んでいく。海からの反射光に異様に照らされ輝く雲に消えていった。


 ……つぅ……痛い。途中iPhoneで写真を確認した。階段で見なかったのは正解だった。絶対に転んでいる。九鬼周造もびっくりの紺の縞パンだった。ジョークが解らないなら「九鬼周造 縞パン」で検索すればいい。いやするな。片腹痛い。いや実際マジで。




 レンガ造りのビルヂングを前にして、わたしはふっと立ち止まった。警報だった。


〈セイレーン〉だと?


 招かざる来訪者は死の装束ドレスをまとっている。ただ彼らは来訪する前に、警報を鳴らしてくれる。何かが聞こえるわけではない。身体に感じる何かだ。魂をむさぼらう〝彼らが来る〟と。その警報に例外はない。昼夜関係なく場所も問わず、必ず鳴る。悪い予感――何か言いようがないが今日は変だと思う感覚――の最大音量版だ。他の誰にも聞こえないが本人には、絶対に聞こえる。当然、警報だから逃げることはできる。しかし根本的に回避することなどできない。それが来訪者からの警報〈セイレーン〉だ。


 ただし普通の人が聞こえるかというと、それは違う。普通は耳栓をしている。冬彦さん(寺田寅彦)の言うように、天災は忘れたころにやって来る。


 慣れれば、他人の警報を聞くこともできる。わたし長藻秋詠もその一人だ。あの夜、平橋彰子の警報を聞いた。その報酬が〈書〉の閲覧だった。あのままボストンに行けば天狗で失敗するのは目に見えていた。警報が聞こえるように耳栓を抜く。それがわたしの仕事だった。


 わたしが自分の警報を聞くのは久しぶりだった。こんな時にかよ。右前腕および右肋骨二箇所骨折。疲労困憊こんぱい+空腹。こんな時、だからか。数はあっているらしい。


 これは本人には解らない。あの飛び降りた少女が、無意識にエレベータの扉を開いたような出来事があったらしい。後からでしか解らない。生き残ることだ。


 しかしいつ聞いても慣れない。慣れないからこそ価値があるのはわかっているが。狼少年や、周の幽王のようにはなりたくない。


 ビルヂングの正面玄関はかたく閉じられていた。管理人の話では特別な時にしか開けないそうだが、管理人と同じくわたしも開いたところを見たことがなかった。いつものように脇の小さな扉――通称ネコ扉――から入ろうとしたが、痛みから屈めない。コサック・ダンスを習っておくんだった。


 見知らぬ女を思い出しながら地獄の門を通り抜けると、痛みがマックスだった。正面玄関の扉にもたれ、中央から天上に両翼を広げるような階段を見ていた。時間にしては十秒もなかっただろうが、時間が止まった中で一時間も立っているような感覚だった。両翼の上には一対のロダンのブロンズ像があった。目がかすむ……。……カミーユ。あぁサックス氏の孫娘か……。どうしていま思い出す? カミーユ……あぁカミーユ・クローデル。ロダンの愛人だ。イザベル・アジャーニがオスカーをとっていた。……そうあのブルネット。似ていた。生きよう……。まずはお茶からだ。子猫ちゃん。〝What's up, pussycat?〟


 猛烈な睡魔がわたしを襲っていた。身体は造血で多用なのだろう。


 目をつむり、ゆっくりと肺にある空気を吐きながら、左手の手刀で鳩尾みぞおち近く、そして背中に入れた。鼻腔の空気が抜けるのに時間がかかる。ゆっくりと吸った。食べなくて正解だった。たぶん吐いている。


 一時的だが痛みが消えた。深く息をしたり動けば痛みが増えるが、今はそうも言っていられない。


 階段をゆっくり上がった。こんな日に手動エレベータは遠慮したい。


 ゆっくり上がるが、左肩が動きにくい。右をかばったんだろう。いまは集中して癒すことはできない。折れた右腕で、左肩をズラした。AKA(Arthrokinematic Approach ――関節運動学的アプローチ)の応用だ。いまは動けるようにズラした。急激に痛みが増えるが、目覚ましにはいい。痛みは無視する。


 三階から少し上がったところで立ち止まった。


 確かに〈セイレーン〉だった。それも今世紀最大級の。


 ビルは普段と同じ風景だったが、何かが違っていた。わたしはiPhoneを手にしようとして止めた。


 違うこっちじゃない。ガラパゴス携帯で、転送を解除してから事務所に電話した。


 長い呼び出しの後に、音声ガイダンス。


『発信音の後に留守番電話の応答メッセージを録音してください。終わりましたら#を押してください』


 自分の事務所の音声ガイダンスを聞くのは久しぶりだった。ゆっくり、冷静にわたしは言葉を選んで話した。


「聞いてくれ。脅しはらない」


 瞬間、警報の針が振り切った。視界が歪む。回廊がとける。違う違う!


「そうじゃない」


 Runawayしてもいいかな?


「手を引くということ。何も知らないし知りたくもない。この街から出ていけと言うなら出ていく。二度と帰ってこないし二度と関わらない」


 鳴り響いていた警報がピタッと止まった。ブルーのフィルタをとって自然色になったような感覚だ。今までのは何だったんだという……。フランス映画にあったな。なんだったっけ? 〝Un flic〟か? あとで調べよう。


 電話を切った。携帯の発信記録がぼやけている。耳まで冷や汗をかいていた。


 深い溜息をついた。強い痛み。……生きている証拠……だ。


 スラックスの右後からハンカチを出して携帯を拭いた。


 階段を降りてくるタイトスーツにピンヒール。〝Cool Struttin'〟な女は敵じゃない。


「全館放送してるわよ。秋詠あきえいさん」


 秋詠ときながの本名を知っているのは仕事をした人に限られている。


「またフラれたの?」


 小粋に歩く赤木南々あかぎななこが、わたしの耳にささやいた。鼻がムズムズする。


 ティファニーのプラチナのチョーカーとピアス。香港のデザイナー黄琳玲こうりんれいのダークスーツ。そこまではいい。及第だ。しかしここからが問題だった。南々子に似合っていないゼロハリバートンのアタッシェケース。せめて他の形にしてくれ。せっかくのゼロハリが泣くぞ。一番許せないのは、香水だった。


「慰めてくれるととても嬉しい」


 南々子の手を取り、たいをまわして「うなじ」にキスをした。少しは〝Vol de nuit〟の匂いも消えるだろう。昼間っから〈夜間飛行〉なんて、ボスの趣味を疑う。


「夜は中華がイイな。〈Relaxin'(リラクシン)〉なんてどう?」


 あそこの広東料理は美味だった。しかし、さっきの件がある。思い出したくもない。


「じゃあ船の上でフレンチとか?」


 停泊中の世界一周クルーズだ。船内で各国料理が楽しめる。トルコ料理もあったな。


「今日は家でゆっくりしたい。というかどうしてヒールで階段なんか?」


「点検しているのよ。じゃあ作ってよ。もう長いあいだ秋詠あきえいさんの料理食べていないんですもの」


「それもできそうにない」


「もう!」


 南々子の身体が優雅にしなった。こうした時はどうしていつもスローモーションのように感じるのだろう。


 南々子の弓が、わたしの全身を撃った。今日はそんな日だった。




 南々子によりかかりながら事務所に到着すると、わたしはソファーに横になった。


 失神しなかったのが不思議なぐらいだ。ママ、丈夫に産んでくれてありがとう。


 南々子がテーブルにあったバスタオルを枕にする。


「大丈夫? 秋詠あきえいさん。救急車呼ぶわね」


「もう呼んでいる」


 目をつむりながら、わたしは答えた。


「えっ!?」


「もう呼んでいるからいい。仕事にもどれ。すぐに来る」


「ほんとう?」


 南々子がひざまずいて、わたしをのぞきこんだ。


「大丈夫。折れているだけだから。すぐに帰ってくる」


「でも……」


「大丈夫だって。ギプスするだけ。夜に行くから何か食べさせてくれ」


「はい……」


「あ~んって」


「そっち!? でも手つかえないもんね?」


「実は左利きなんだ」


「そうなんだ……」


「ジョーク」


 夜はね。


「もう!」


 ついクセで南々子は、軽く叩いてしまった……。




 一人になったわたしは、依頼人クライアントにどういうか考えていた。使った費用といえば、旅費交通費と通信費ぐらいか。知れている。それと振込手数料を引いた額を返すべきだろう。


 恥ずかしい? 〝C'est la vie.〟これが人生さ(セ・ラ・ヴィ)。


 マイクになんと言うかが、問題だった。そういえば連絡していない。


「ん?」


 成原の件を思い出していた。MacBook Pro Retinaを開く。LinuxのFedoraにパスワードを入れて目覚めさせた。


 平橋邸のセキュリティチェックの案件は残っていた。結果報告は、わたしの個人電子メールに届いていた。いつものように〈状況クリア〉だった。マイクには作業内容は伝えていない。もし何かあってもわたしだけで済む。


 マイクに連絡する前に成原に連絡することにした。業務内容としては成立している以上、連絡はできる。むこうは多用だろうが、こちらは疑問符だらけだった。


 それに、結果的にわたしが〝ビビって〟仕事を断っただけなのだ。手懸かりがない以上、相手の出方をみるしかない。〝さしてみよ〟か……。


 発信しようとした電話を止めた。


 待て。これがもし、案件が残っていなかったら? 脅迫は事実になる。わたしもマイクも(いまのところは)無事。ただしわたしが成原に電話するのは〝残っていなかったら〟今はNGだろう。ここはマイクの意見が必要だ。わたしだけでは済まないし、第一、依頼人クライアントや紹介者も危険だった。


 そこまで考えたわたしは、先にマイクで電話することにした。気のせいだと言われるかもしれないが、それはそれでいい。気のせいで死んだヤツは大勢いる。


 ……なにか好い香りがするなぁ……。




 二件目の喫茶店〈ミーミスブルナ〉で、私は温かいセイロン紅茶とケーキセットを食べていた。「仕事」だった。


「5361」


兵站へいたんを整えよ〟


 兵站はもともと軍事用語だが、今はロジスティックス(logistics)として物流の管理システムのことだ。いま飲んでいるこの紅茶も、セイロンでの生産管理から輸送管理、店舗での在庫管理、そして提供までと全て管理するのが兵站だ。


 意訳すれば〝何があっても対処できるようにしておけ〟だから、まずは落ち着くためにケーキを食べていた。言い訳だが。せっかく芦屋に来たんだから、楽しみたいじゃあないか。おいしいものはおいしい。人間素直に生きなければ。


 長藻からの着信がスマートフォンに表示された。


「外に出る」


 雨は上がっていた。レインコートは、椅子にかけたままだ。


「どうぞ」


『手を引く』


 第一声に、驚かなかった。何かあったのだろうことは私も知っていた。しかしその何かを知るために、命を賭けることはしたくない。依頼人クライアントの安全も保証できないのに仕事なんてするもんじゃあない。


 小山田由子に対しての、私個人の思い入れが全くないと言ったら嘘になる。しかし仕事は好き嫌いではできない。一旦は清算すべきだろう。


 引き上げるという長藻の意見に、私も賛成だった。異様な何かを私自身も感じていたからだ。


 唯一反対したのは、契約金に関してだった。


「長藻さん、そこは全額返すべきでしょう。振込手数料も引かずに全額」


『任せる』


 基本的に私の意見に、長藻が反対することはなかった。長藻が私に求めているのは、絶対のノーマンだった。部下がイエスマンでは決断の刃が鈍る。もっともなんでもNo!を言うわけではなく、ディベートで話をすすめるためのノーマンだった。たとえ私も賛成だと思ってもまずはNo!を言い、お互いの思考を深めることで解決策は見えてくる。何事にも絶対の正解などない。どれだけ成功率を上げるかだった。


『どう依頼人クライアントに説明する?』


 確かに説明しようがない。正直に説明してもわからないだろう。一般社会では決して理解できないこうした事が、あらゆる専門世界には存在する。


『〝簡単な案件すぎて責任者に反対されましたごめんなさいてへぺろ〟?』


「それが無難でしょう。レイさんには何と?」


『ナレキの販促で手を打ってもらうというのは?』


「ブツは確かなんですか?」


 長藻が、マシミヤ商会での一件を語った。


「こちらの言うことを聞いてくれるなら数字になりそうですね」


『久しぶりに優秀な会社だった』


 長藻がほめるなんてとてもめずらしいことだった。だから怪我をしたんだろう。


「どうせそのブルネットが目当てでしょう? 長藻さん」


『だよ』


 見ているだけで満足できる女はいる。私が知るかぎり、長藻は仕事と恋愛を分けていた。


『成原さんに連絡してから、病院へ行ってくる。石田さんにも会いたいし』


「ジャンピング・ガールの親に請求すればよかったのに」


『そうしたものはすべきじゃないよ。その分はマシミヤさんの数字が上がることに賭けたい』


 それもそうだ。


「お大事に」


 電話を切って、縞パンを思い出した。〈画像再生〉だ。長藻なら「縞パン日記」とか書きそうだった。私はゆっくり座ると、紅茶ポットにお湯のおかわりを頼んだ。


 熱い湯がそそがれる。そういえば今日は煙に縁がある。


 自殺しようとした家族に少しだけ興味があった。ある日とつぜん娘が帰ってこないんだ。親は知らないんだろう。請求すれば、助けたのにまた地獄になってしまう。


 ……自死しようとした娘か……。ほんとうに死んでいたら家族はいたたまれないだろうな……。


 私はあえて〈自死〉という、長藻から聞いた言葉を使って考えた。「残された家族が、自分たちが殺したような感覚になるからなのか?」私の問いに、長藻は答えなかった。


 長藻が私に言ったのは「自死は止めようがない」だった。


 生きようともがく人間もいれば、死のうと苦悩する人間もいる。努力のしようが違うだろうといっても、人が生き方を選ぶ以上、選択の自由はある。


 選び方にもいろいろある。ビルから飛び降りたとして、下に人がいれば、下の人が亡くなって本人が助かってしまう場合が多いらしい。ビル街を歩くときは、頭上注意だ。


 聞いた話では、心中で飛び降りて、どんなに固く手をつないでいても、地上に激突するときには頭をかばっているそうだ。本能的なものなのだろう。


 人の生き方をどうこう言うつもりはない。自分も言われたくないから。だが目の前でやってくれるな。見捨てれば、見捨てた人の傷になるんだ。


 私に自死した身内はいなかったが、友を見捨てたことがある。生きるためだった。言い訳だ。それを知ってなお人は生きる。


 今日ほど長藻に教えてもらった技を恨めしくおもう日はなかった。


 ……コードレス・バンジージャンプをした娘の内腿には、自傷した痕が無数にあった。




 おいしい喫茶で勇気のわいた私は〈ミーミスブルナ〉をあとにした。


 小山田由子に会って、振込先をきくためだ。こうしたことは電話やメールでも問題ないといえば問題ないが、会って話すのが礼儀だと私は考えていた。


 またいずれ依頼人クライアントになるかもしれないし、紹介してくれるかもしれない。……両方とも可能性はゼロに等しいが。


 会って謝りたかった。理由を説明しても分かってはくれないだろうが。


 違うな、これは、単に会いたいだけだ。素直に生きよう。会ってもどうせ泣かすだけだが……。


 私は、自分だけで業務を継続することを考えた。


 無理だろう。長藻は好きにしろというかもしれないが、紹介したレイさんも絡んでいる。それに継続するには、由子の安全も保証しなければならない。一人じゃあ無理だ。


 だが。だが、だ。長藻の感じた警報が誤報だとしたら? 自分が感じている何かが、何でもなかったら? ランドマークの成原の対応によっては、動けるかもしれない。


 やはり無理だな。可能性はない。


 警報がハズレることは絶対にない。誤報を無視して死んだ人間は山ほどいる。私は、由子を死なせたくなかった。由子がコードレス・バンジーをしているのなら、止めたい。


 素直じゃあないな。それが本音か。


 スマートフォンの音声変換アプリから、由子の勤める〈はざま企画〉に電話をした。今日の店舗がどこかを聞くためだ。由子は、仕事中だから電話には出ない。二コールもかからず出た。


『はい、はざま企画、田澤です』


「わたくし小山田由子さんの友人の田中と申します」


 はじめてのところは、本名で電話するとややこしいので〈田中〉名義にしていた。


 最初のころ、自分の声が女性に変換されるのは奇妙な感覚だったが、今では慣れたものだ。女言葉でふつうに電話している。きゃは。


『田中さまですね。いつもお世話になっております』


「お世話になっております。小山田さんはおいででしょうか?」


『はい、少々お待ちくださいませ』


 保留音は、カーペンターズの「トップ・オブ・ザ・ワールド」だった。カレンは可憐だった。


 昔の探偵はどうやって女性の居場所を聞いていたんだろう?


『お待たせ。田中さん?』


 出たのは、さっきの田澤さんだった。フランクな言い方になっている。友人だからか。


「はい、聞こえてます」


『驚かないで聞いてね。さっき連絡があって由子ちゃんのご家族が事故にあったみたいなの』


「えっ!? 大丈夫なんですか?」


『由子ちゃんは行かなかったから大丈夫なんだけど……いま社長と一緒に病院にむかってるわ』


「ご家族って……?」


『家族旅行だったからご両親とご姉弟……きゃあ! ちょちょっとぉ! 音量あげて! 田中さん知ってる? 小山田広さん恵美さんって……』


 TVのニュースか。由子が二十一歳だから、名前から判断して両親か……。友達でも両親の名前を知らない人は多い。ここはスキップしよう。


「あたしも心配なんで、病院へ行ってみます」


『あぁちょっと待ってね……。どこ? あぁここ? 茶泉記念病院』


 田澤さんは仕事ができる人らしい。


『茶泉記念病院。聞こえてる? 田中さん。場所は……ちょっと待ってね――』


「――茶泉記念病院なら場所わかります」


 さっき長藻が行くと言っていた、石田医師のところだ。


『よかったら行ってあげて。間違いなら良いけど……』


「あたしもそう祈っています。失礼します」


『田中さん? もしなにもなくても一緒にいてあげて。こんなときにお友達の助けがいるのよ。お願いね』


「はい」


 由子は、良い人に出会っているらしい。弘行が〝好き〟になるのもそれが理由なのか?


 私はしばらく、切ったスマートフォンの画面を見ていた。


 ちょっと待て。これはヤバイんじゃあないだろうか?


 茶泉記念病院は神戸。ランドマーク兵庫警備会社も神戸。小山田由子も神戸。長藻秋詠も神戸。どうして私マイケル・コンチネンタルだけ芦屋にいる?


 おりょ?


 とりあえず、駅にむかうことにした。電車が一番速い。


 なんてこった! レインコートを〈ミーミスブルナ〉に忘れてきた!


 かまわず歩きながら長藻に電話をした。二コール、三コール……十コール。留守電になった。


「病院に行くな」


 切って、長藻に、件名のみのメールを送る。


〈件名――病院NG〉


 本文を考えているヒマはない。


 考えろ! 考えろ!





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