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4.〈セイレーン〉

4.〈セイレーン〉


「セイレーン?」


 声が漏れていたらしい。彰子が聞き返した。


 彰子は、濃紺のスーツだった。紫のストライプが光の加減でやわらかく補色している。蝶のブローチ。クリアネイル。


 時計はセイコーのコンセプトモデル。特注だ。蝶のブローチのデザインとあわせていた。


 ――本人のデザインか?


 鞄はソメス。国産のサドルのメーカーだ。これも市販品ではない。もうオートクチュールはしていないはずだが、よほどのコネがあるのだろう。


 靴は、リーガルの特注。これも製造は日本だ。リーガルの旧社名は日本製靴株式会社だ。


 メイド・イン・ジャパンな上質の美女だった。


 そんな美しい女性が、ハンサムの顔を見ていた。


「セイレーンって、なんですか?」


 配りおえたりんが聞いた。それでもまだかなり残っているので、ぜんぶを花瓶にいれようとするが、あまりに不作法だった。


「……私から説明したくない。どうぞ」


 目線をはずした彰子が、秋詠にうながした。きれいだがとてもしっかりした掌だった。


「セイレーンって、ギリシア神話のサイレン?」


 賢い彰子の同期らしく、裕子もよく知っている。


「どんな話なんですか?」


 無邪気なりんだった。


「美しい歌声で人を魅了して難破させる人魚なの。……確かに彰子もそんなところあるし……」


「話を変えましょう。はい、責任者」


 彰子が、秋詠を見ずに話題をふった。


「お花、そのままじゃかわいそうだから、りんちゃんいけてあげて」


「あーわたしできません。それにあれがないし」


 ――あれ? あああれか……。


「あれなら確か四番目の引き出しの下にあったはず……」


「あるんだぁ……どうして知っているんです?」


 裕子が驚いている。


「前に働いていたんです……あったぁ!」


 りんが見つけたかなり大きな剣山である。古びてはいるが十分使えそうだ。


「じゃあお料理できるんですね?」


「ここでは皿洗いですよ」


 ――嘘。絶対にちがうでしょ、それ。


「裕子いけてあげたら?」


「いやよ。彰子がしなさいよ。ぜったいあとで手直しするんだもの」


「それが先輩のつとめです」


「えっ!? あれ同期じゃなかったんですか?」


 りんでも気づく疑問だった。


「会社では同期ですが――それもあやしいですが――お花ではかなーり先輩です」


「あなたは努力が足りないの!」


「またそうやって努力のせいにするぅ。あなたみたいに物心つく前からいけている人とは世界がちがうんです。わたしはわたしなりに――」


「――出来てから言いましょう。はい!」


「ぜったいにしません」


「やはりりんちゃんがどうぞ」


 できて当然でしょうというとでも言いたげな秋詠だった。


「できませんって!」


「ありがとうございました」


 テーブルの女性が帰るらしい。彰子に礼を言った。


「こちらこそありがとうございます。もらっていただいて嬉しいです」


 立った彰子が、ていねいな口調で答えた。


 りんが、外まで見送りに行った。


「ありがとうございましたぁ」


「さぁ早く!」


 座る彰子がせかせた。


「い、や、で、す」


「もう仕方ないわね、あとで帰りがけに……」


「彰子が一瞬でいけるのは圧巻よねぇ……あっそうだ! 責任者、お願いしまーす」


 裕子が、秋詠に言った。


「私がいけるんですか?」


「お願いします」


 彰子がぞんざいに言った。


「仕方ありませんね……」


 ふっとした気遣いや優しさが秋詠の魅力だった。すっと心の扉のうちに入ってきて、心地好い。そんな人間は少ない。そんな秋詠に人が頼むのは、厄介事だった。秋詠は、人には言えないとても困った事を相談できる相手だった。そんな人間は滅多にいないが、いることはいるのだ。マイクも助けられた一人だ。


「どっどちらかの……先生……でしたか?」


 彰子がかわいらしく聞いた。


「いいえ」


 ――どうしよう……。


 彰子があわてた。冗談では許されない事がこの世には、ある。


 秋詠がカウンターをおり、上を脱いで丁寧にたたんだ。腕をまくる。


「えっ!? 大丈夫なんですか? 冗談です」


 ――そんな意味で言ったんじゃないので、無理しなくても……。


 りんが帰ってきた。


「助かったぁ……長藻さんがいけてくれるんだぁ」


「あのほんとうにもう……」


 彰子でもルールは知っている。無茶は言っても無理をさせてはいけません。


「長藻さんわたしなんかよりずっと上手なんですよ」


 秋詠が、剣山と一緒にでてきた鋏を確認した。とても切れそうにない。


「アルミホイルある?」


「はい」


 りんが、秋詠にさしだした。適当に切っていく。じょじょに切れがもどってきた。


「へぇーそうなんだ」


 りんがじっと見ていた。


「感心していないで、手入れぐらいしたら? お花習ってたんじゃなかったっけ? 中に入ってもいい?」


 カウンターの中である。勝手に客が入ることは許されない。


「どうぞどうぞ。やめました……」


 ――ぐすん。


 手招きしていれるりんだった。


 秋詠がカウンターで、花の向きを確認した。花には生えかたで、右向きと左向きがある。逆にさせば花の正面がこちらを向かない。


 確認してから、カウンターの中に入って、水をためて中で切っていく。水切りという方法で、こうすると花が長持ちする。


「つかぬことをお伺いしますが、もしかしてどちらかの先生ですか?」


 裕子も同じことを聞いた。


「まさか」


「まさかですよね……」


 適当に切ったような長さだが、並べた順にいけていく。


「あれって……」


 裕子が、彰子に聞いた。


「選んだときからそうだと思っていたわ」


 すっすっと迷いもなくいけていく。仏師は仏を彫っているのではなく、石木のうちにある仏を彫りだすだけだという。そこに一つの迷いもない。秋詠は、そもそもそこにいけられていたであろう姿にもどしただけだった。仕上がりの絵が見えているだけだった。


 ――負けた……。


 裕子が絶句した。彰子をみると、いつもなら絶対に一つは文句をいうのに黙っている。


「これよけいなんじゃないんですか?」


 りんが質問した。


「あってます……もう十分すぎるぐらいあってます……」


「たぶん同じ流派ですよね?」


「はい……」


「えっ!? 長藻さんお免状もってるの?」


「持ってるよ。確か――」


「言わないで! 当てるから」


 彰子が言った。裕子と相談している。


「皆伝(師範)は持っていると思うの……わたしより上だわ」


 裕子が答えた。


「それは明白。……目代もくだい?」


 彰子がかなり悩んで言った。


「もっと上じゃないかしら。法眼ほうげんとか」


「そんな歳ではないと思うの。それにそのクラスなら私が知らないはずがないもの。男性だったら目立つし……」


「決まりました?」


 化粧室で、手を洗った秋詠が席に戻り、聞いた。


「はい、せーの――」


「目代!」


「目代!」


 彰子と裕子が同時に言った。


「NG」


「……正解はなんですか?」


「CMのあとで……りんちゃん、ABCください」


 喉が渇いた秋詠が注文した。


「はーい」


「なんですか? ABCって?」


 彰子が聞いた。


「XYZなら知ってますけど……」


 お酒に詳しい裕子が言った。


「オリジナルのカクテルです」


 りんが答えた。自分で順番を確かめるように、作り方を唱えながら作っていく。


「ビールグラスを用意して……まずはC。カナディアンクラブのC。なければクラウンローヤルなどカナディアン。1オンス。次はB。バドワイザーのB。なければ他のビールで。適量。最後はA。アンゴスチュラ・ビターズのA。2ダッシュ。ステアせずに。さぁ召し上がれ」


 見た目はビールだが、二つ赤い点がある。別名、スネーク・アイズ。


「おいしそうですね……」


 裕子が静かに言った。飲みたいが、一杯だけの約束だった。


「おいしいですよ」


「見た目より強そう……」


「何杯も飲めません。倒れます」


「……で、答えを教えてください」


「はい、初伝しょでんです」


「嘘! それは嘘。だってわたしより上だもの」


「裕子さんは何をもってらっしゃるんですか?」


 りんが興味本位で聞いた。


「准皆伝(師範代)です。彰子は――」


「――言わないで。当ててくださいませんか?」


「覚えていませんよ。そんな順番……」


「称号と特別階級があって、称号は、上から法印ほういん権法印ごんほういん〈院号〉・大刀自だいとじ権大刀自ごんだいとじ刀自とじ権刀自ごんとじ。特別階級は、総目代そうもくだい目代もくだい准目代じゅんもくだいです」


 裕子が、答えた。りんがきょとんとしている。


「けっこう上にみられた訳ですね?」


 肩書に興味がない秋詠が、静かに答えた。


「では、刀自で」


「残念、彰子は権刀自でした」


 ほっとする裕子だった。


「どうして刀自だと思ったんですか?」


 彰子が、秋詠に質問した。


「知っているのが刀自ぐらいですから」


 秋詠が静かに答えた。


「トジってなぁに?」


 りんは「なにそれ、おいしいの?」状態である。玉子とじが頭に浮かぶ。


「年配の女性の敬称だよ。……それに、海外に行くならそれぐらいは必要かと」


「これが日本最後の夜か……先生でもない男の人にいけてもらうなんて……。お礼がしたいな。それに、何か私の職業を知っているみたいですね? あっ! 職業は知っていますよね。では、ボストンに行く目的で」


「また質問ですか? 答えたらお礼とあわせて二つ叶えてくれますか?」


「どんな事をです? できることとできないことがあります。」


 静かにいう彰子だった。


「一つは、ボストン行の飛行機を次の便にすること」


「はぁ!?」


 これにはその場にいた全員の頭の上に疑問符があった。


「どうしてです? あっセイレーン……」


 裕子が秋詠に聞いた


「それはできない相談です」


 当り前である。もう当日になっている。キャンセル料は全額だ。


「それだけの価値があると?」


「それを決めるのはあなたです」


 ――決めるのは本人だ。本人の人生なのだから。


「もう一つは、あなたの家にある本を一冊」


「それなら。品によりますが……どのような本ですか?」


「考えておきます。言っていいですか?」


「その前に……耳と関係がありますか? よかったら先に教えてくださいませんか?」


「あります。嵯峨さが天皇の耳に似ています」


「はぁ!?」


 二回目の疑問符だった。


 秋詠が、iPhoneで検索した画像を見せた。


「うわぁほんとうそっくり!」


 りんが見てびっくりする。


「確かに似ているけど、どうして?」


嵯峨御流さがごりゅうは、嵯峨天皇が最初だからね」


「……彰子の家、古い古いとは聞いていたけど……」


 裕子が、彰子と画像を交互に見た。たしかにそっくりの耳をしていた。


「答えをどうぞ」


「折紙職人としてボストンへ」


 彰子が真顔になった。


「えっ!? 彰子、それってほんとう!? あーだからか、みんなして挨拶をしていたのは……」


「そんなことないですって! 私にできるわけありません!」


「折紙職人って?」


 りんがとても不思議そうに言った。千羽鶴が舞っていた。


「折紙は鑑定書のことだよ、りんちゃん。『折紙つき』の折紙」


「ほんとう、折紙とか勘弁してください。そんな大それたことできません。私のような小娘ができることじゃありません」


 彰子が謙遜して言った。


「でもするかもしれないのでしょう?」


「しーまーせーん」


 ――かわいい。


「でもあきらかに間違っていたら? 他に人がいなかったら?」


「……可能性はなくはありませんが、いいえ、やはりありえません」


「どうしてそう思ったんですか?」


「東材社長のセンスは良いですからね」


「覗いたんですか?」


 裕子が、東材のカードをみた。気品がある。


「まさか。式典に私もいたんです。美しいあなたをお見かけした」


「それは嘘。近くにいた人の顔は全部おぼえているもの」


 彰子の得意技らしい。


「ウェイターも?」


 秋詠が、どうして参加していたのか聞きたそうな裕子に、説明するように言った。彰子はそんなことは聞かない。もう打ちのめされていた。


 ――ウェイター? いた? いたかも……。覚えていない。


「あなたは、シャンパンの追加を頼んだが、もう飲まれたあとで、仕方なく白を頼んだ」


 スパークリングワインじゃなく、本物のシャンパン「クリュッグ・グラン・キュヴェ」だ。クリュッグ社は家族経営で、カトリックのフランスではめずらしくプロテスタントの家系だ。最高の葡萄の初絞りだけを使い、三十年以上の古樽で第一次発酵させる。そして不出来はすべて捨ててしまう。それだけの手間隙をかけた職人技の一滴には、魂を奪われても仕方ない。各界の舌の肥えた連中なら浴びるほど飲みたいだろう。


 白はル・モンラッシェ(ブシャール・ペール&フィス社)。かのアレクサンドル・デュマをして「脱帽して、その前にぬかずいて飲むべし」と言わせた逸品だ。


「それもあまり飲めなかったようですが」


「……あなたスパイ?」


「よく言われます。ただの普通の人です」


「オマール海老おいしかった?」


 りんが聞いた。


 ル・モンラッシェとオマール海老は定番である。


「絶品のソースに仕上げておいたよ」


「食べたかったなぁ……エビさん。裕子さんも食べたの?」


「わたしエビカニ系ダメだから……あれを味付けしたのが、長藻さんなんですか?」


 思い出すだけでサブイボの裕子が、前腕をかきながら聞いた。


「手伝っただけですよ。……各界の著名人――代議士の西川さんにまで挨拶をしているぐらいですから、かなり期待されたボストン行なのでしょう」


 秋詠がもう一杯たのんだ。


「幼いころからの習いがあって、神戸中央美術博物館の学芸員キュレーターで、ボストン行。とくれば、ボストン美術館……」


 りんがABCをカウンターにさしだす。


「期待はされています。でも私は岡倉天心おかくらてんしんにはなれません」


 岡倉天心は、アーネスト・フェノロサに師事して、ボストン美術館の中国・日本美術部長になっている。なお、岡倉天心の愛した女性の子が、九鬼周造くきしゅうぞうである。


「なる必要もないでしょう。あなたはあなたです。平橋彰子さん」


 彰子は、秋詠が名字を言っても、もう驚かなかった。


「ただ、そのままではどうかと思いますよ。上から下まで『日本』ですから。それでは親善大使ではなく、戦争をしにいくようなものです」


「私は自分の仕事に誇りをもっています」


「それは結構です。でも人をないがしろにするかぎり、成功するとは思えません」


「失礼な方ですね。私となんの関係が?」


「日本の未来を背負っているのでしょう? ですから……〈セイレーン〉が聞こえませんか? そのままでははじめる前に撃たれます」


 彰子にも聞こえていた。目覚めたままの悪夢だろう。ボストンに行く前の夜。時刻では当日になるが。彰子の自信をコナゴナにする人間がこの世にいるとは……。


「……それでどんな本がよろしいのです?」


「『遍照発揮性霊集』とか」


 秋詠がいうが、彰子は丁寧に、しかしきっぱりと断った。


「あれはダメです――というかそのようなものはありませんし……。他の願いをしてください」


「三ついいですか?」


 秋詠が指を見せて言った。人差指と中指と親指。


「どうして増えるんですか!?」


 ――猿の手ですか!


 彰子が苦笑している。


「では、お酒をもう一杯」


「それもダメです。私は一度自分と約束したら守り通します」


 秋詠を見ず、正面を向いて、はっきりとした言葉で宣言した。


「それがほんとうのあなたなんですか?」


 彰子が、ゆっくりと、秋詠を見た。とても哀しそうな顔をしていた。


 その瞬間、彰子の聞こえていた〈セイレーン〉が最大音量になった。耳をふさぐが、聞こえつづけている。


「えっ!?」


 りんも裕子も、聞こえていないようだ。


「どうして聞こえないの? ねぇ裕子聞こえるでしょ?」


「何が?」


「……どうすれば……あっ! 飛行機の便を変えます」


 音量がとたんに落ちた。


「えっ!? なに、これ」


「これからはずっと聞こえるよ。危機に直面したときには。どう一杯? おごるよ」


「はい、いただきます」


「えっ~~。彰子が約束やぶったぁ! わたしも飲もうっと!」


「あなたはダメ――あぁー――いいわいいわ。飲みなさいよ。なにコレなんなの?」


「こっちを見て」


 秋詠が、左手を彰子の顔の前にさしだした。


 彰子が向く。少し影ろいがある。


「ゆっくり吐いて、ゆっくり吸って」


 すっとおさまった。頬がほのかにピンクになっている。


「何をしたの?」


 裕子が秋詠に聞いた。


「ちょっと心を、ね」


「あぁー楽になりました。ありがとうございました……ん? どうしてそんな本があると思ったのですか?」


陽動フェイントです」


 秋詠も実際に平橋家にあるとは思わなかった。


「! そんなものはありませんから、ええありませんとも!」


 あるとすれば文化財としての価値は計り知れない。


 裕子がおいしそうにABCカクテルを飲んでいる。彰子は同じタラモア・デュー。


「撮っておこうっと……」


「それはちょっと……」


 手のあいたりんが、きれいに活けられた花を携帯に残そうとするが、彰子が止めた。


りんちゃん。こうしたものは心に残すもんだよ」


 秋詠がフォローした。


「砂で描いたマンダラといっしょ。いずれ消えゆくものだからこそ価値がある」


「あなたが男性なのでとても残念です」


 彰子がやわらかい笑顔で語った。


 ――スカートが似合う?


「私は平橋家の有職故実ゆうそくこじつの継承者です。あなたが女性だったら、本をあげても惜しくない。……というか私より深いのですか?」


 これには秋詠が、きょとんとした。


「見せてもらうだけでいいんですが……」


 秋詠の言葉にはいつも齟齬そごが生じる。ゆきちがいばかりだ。


 彰子も、きょとんとしている。


「……それはそうですよね。いきなり家宝をくれとか……いえあの……」


 照れた姿がかわいかった。


「というか、そうしたものは家にありませんから!」


 ――まま全部が全部、神戸市に寄贈することはないだろうが……。


「正本なんですか?」


 秋詠が聞いた。


〝本〟には三種類ある。〈正本〉〈寫本(写本)〉〈偽本〉だ。


〈正本〉はそのままの直筆。本物だ。信じられない価値がある。


〈寫本(写本)〉はいうなれば写し書きだが、昔の時代は高価な〝本〟を読むことができるということは身分が高い証拠だったし、また写せるだけの才能も必要だった。


〈偽本〉はそのままの偽物だが、これも〈寫本(写本)〉同様に、本物がないと偽物もありえないからこそ価値がある。


〝本〟の蒐集家の中には三冊すべて揃えているのがステータスだと考えている人もいる。


「そうしたものはございません」


「はい、もちろんありませんよね。で、話は変わりますが『空と海』の詩集を見せてほしいんですが」


 ――話が変わっていませんよ!


 彰子が破顔した。


「まぁ『空と海』の詩集があるとして、原本なんですか? コピーなんですか?」


 秋詠がやさしく彰子の顔をのぞいた。


「『空と海』の詩集……ありませんが、もし仮にあるとしてもコピーです」


 少し照れた彰子が答えた。


「で、実のところは?」


「これは私だけの考えなのですが、もしかしたら原本の可能性もなきしもあらずと言うか……」


 だとしたら歴史に残る大発見である。というかありえない話である。


「なぁる……。見せてもらえませんか?」


「あげませんよ」


「要りません。もらっても保管できませんよ」


 空調とか虫よけとか大変です。


「写真一枚でいいです」


「ダメです! というか私、明日ボストンですし」


「お父さんにお願いできませんか?」


「……それなら。でも撮影は絶対にNGですよ」


 撮影はどうしても作品を傷めてしまう。特に素人の強い光での撮影は、作品の破壊行為でしかない。


「わかっていますわかっています。でもこう、大切な一人娘が海外に行ってしまってお父さんが心労から『あれおかしいなお腹が……』とかありませんか?」


「しーつーこーいー」


 彰子はもう笑いをこらえるのが必至だった。残ったお酒を飲み干し、彰子はペリカンの万年筆で、今日辞任した神戸中央美術博物館の名刺に走り書きをした。


「どうしてそこだけ日本じゃないんだ?」


「そういうものなのでしょう?」


 声が届いたらしい。彰子の中身がそうだと答えていた。


「父の連絡先です。用意ができたら父から連絡させます。よろしいですね。くれぐれもご内密に」


「感謝です」


「あす朝に飛行機を変えてもらいます」


「もう大丈夫ですよ。そのままで」


「えっ!?」


「聞こえているでしょう?」


「……なにか頭の中でずっと鳴っているんですけど……」


 裕子もりんも聞こえない。〈セイレーン〉は、基本的にその人しか聞こえない。秋詠が聞こえる彰子の〈セイレーン〉が不快だったが、かなり小さくなっていた。


「聞こえているうちは大丈夫です」


「ほんとうは初伝じゃないんでしょう?」


「いいえそうですよ」


 ――最後の最後まで……。ほんとうにもう……。


「ところで、平橋家の有職故実ゆうそくこじつとは何ですか?」


「私です。平橋家の有職故実が私です」


 タクシーを頼み、帰り支度をしながら、酔った彰子が秋詠に宣言した。


幽斎ゆうさい古今伝授こきんでんじゅのようなものですか?」


「も、う、こ、れ、以、上、私を追い込まないで~~。ああ〈セイレーン〉が聞こえる……。やっと認められて、晴れて明日はボストンで、楽しみに飲んでいたのに……」


 戦国時代、細川幽斎ほそかわゆうさいは、歌道の三条西さんじょうにし家に伝わる古今伝授を一時的に継承していた。そのため関ヶ原の戦いの時に、古今伝授の途絶えることを恐れた後陽成ごようぜい天皇が、勅命により幽斎を助けた故事がある。


「そんな時だからです」


「もしボストン行の飛行機が落ちたら、あなたが女になって跡を継いでくださいね!!」


 ――無茶だろ。


 そもそもどのような継承にも、体躯たいくは関係する。どんなに優秀な技でも、型に入らなければ使えない。「五輪書」にも「万日の稽古を練とす」とあるぐらいだ。


「大丈夫。盆には会えます」


 ――ブラックジョーク。


「今度生まれてくるときは女性でお願い」


「でもあなたが男だったりして」


「イケズ」


 それが、秋詠が彰子に会った最後だった。





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