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3.仕事

3.仕事


 歩きながら、ポケットの高速通信ルーターが熱くなるのがわかった。


 ここからは私と長藻の二人とも〈符牒ふちょう〉で話をするから、漏れても何かわからないだろう。


【建前】『このあいだ病院に行ったら四万円も支払わされた。保険証を持っていなかったから仕方ないが……』


【本音】〝〈レベル4〉裏ルートで進入した〟


 いきなり〈レベル4〉かよ!


〈レベル4〉は、セキュリティレベルの数値だ。四段階の一番上、こちらにしては最悪のセキュリティレベルだ。バイオセーフティーレベルでいうなら、エボラ・マールブルグ・狂犬病・天然痘の類だ。バレたら起訴されてしまう。


 OSINTオシントでは分からなかったから、簡単に行くとは思わなかったが、用心の用心の用心をして、コレだ。予測としては、〈レベル2〉のインフルエンザか、高くて〈レベル3〉の黄熱ウイルスぐらいだった。


 一人で探らなくて正解だった。いまは「外部から何者かによって、私〝が〟ハッキングされ、ハッカーが平橋邸を覗いてる」状態だ。


 逃げるか?


「足りたの? こっちにまわすなよ」


〝大丈夫か? 支援できない〟


『あとで持ってこいってさ。できるだけ早く』


〝時間制限あり。早めに切り上げよう〟


「御愁傷様」


〝了解〟


 長藻は携帯電話で話しながら、iPhoneでアプリを操作しながら話していた。


 何をしているかというと、セキュリティホールの調査だ。この辺りの高級住宅地はほぼすべて、いずれかの警備会社が警備している。ただしどんなに警備していても穴はある。その穴に〝見えない〟通信プログラムを入れてやれば、すべてのデータを覗くことができる。知られずに付け、知られずに外す。たいへん困難だが不可能じゃあない。


 もちろん許可なく情報収集をするのは違法だし、しようとも思わない。第一、違法な情報収集は〈しませんし、できません〉と契約書にもうたっている。つまりそんな〝見えない〟通信プログラムは、実際には〈存在しない〉し、もし仮にあったとしても、〈ウチのモン〉じゃあない。


 ふつうなら、弘行に会うか、会えなくても家のかたに「弘行さんおられますか? 小山田由子さんが会いたがっているのですが」と聞くだけの話だ。で、「うちの弘行は、カミーユさんと婚約しておりますのよ、おほほほほ」で報告書を書いて、メールして了。


 それを最初にしなかった理由が、OSINTオシント――オープン・ソース・インテリジェンス(Open source intelligence)――での、情報の違和感だった。


 OSINTは、合法的に資料を入手して、合法的に調べて解答を得る情報収集の方法だ。ネット検索の上級版ともいえる、そのOSINTの答えがどうも変なのだ。確かに自然な流れなのだが、何か――どう変なのは伝えることはできないが――変なのだ。


 それが今朝、私が、ぐっすり眠っている長藻を叩き起こした理由だった。長藻も違和感があったのだろう。私の資料をもとにカミーユという答えを出してきた。しかしそれが本当の答えかどうかを確認しなければならない。できるだけ〈合法的〉に。


 多少SIGINT(シギント)――シグナル・インテリジェンス(Signal intelligence)――通信・電波での情報収集――で細工しても、弘行とカミーユの会話でも録音できれば、由子もあきらめがつくだろうと私は考えていた。


 しかし、これは違う。〈レベル4〉だ。CIAやFSB(旧KGB)のデータに侵入しようかという勢いだった。起訴だけじゃすまない。一生出てこられないかもしれないか、消される危険性があった。


 そして、考えたくないことだが、もしかしたら由子がハニートラップ(Honey trap)を弘行に仕掛けているかもしれないという可能性に私は愕然とした。


 あの由子さんが? 可能性はある。自覚しないスパイほど恐いものはない。


 どうする?


 すぐに車庫が見える。が、やはり閉まっている。


「そういえばアスコットの調子はどう?」


〝車の検索は?〟


 アスコットは古い。会話としておかしくはないだろう。


『まぁまぁだと思うけれど、私じゃ分からないよ。ディーラーで見てもらうしかないな』


〝車はあるが、検索できない。外注するしかない〟


 門に近づく。〈ランドマーク兵庫警備会社〉のプレート。


『担当の営業さんは誰だっけ? 覚えている?』


〝警備会社を見てくれ。(見ているとは思うが)確認だ〟


 言われなくても確認していたが、念のために長藻も言っている。こういう〈事〉が要になる。


「名刺は車にあったから、後で見たら?」


〝確認した。後で話す〟


『ごめん。キャッチ入った』


 ルーターの温度が下がる。〝来た〟んだろう。


「Roger.」了解。


 ポケットから出したスマートフォンに通話が切れたことが表示されていた。


 ポケットに入れようとした時に、邸内からランドマーク兵庫警備会社の制服が二人組ツーマンセルで走り出してきた。屈強。アルバイトじゃあない本物だった。


 私は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。こうした表情は得意中の得意だった。バレることは滅多にない。


「ちょっとよろしいですか?」


 言うなりスマートフォンを取り上げた。


 もう一人がボディチェック。慣れてやがる。




 人が憤怒ふんぬ――どうしようもないいきどおり――を感じるのはどんなときだろう。罵倒されたときか、除け者にされたときか、あるいは人に裏切られたときか。私の場合は、いずれも違った。


 実のところ、〈被害者〉の私はすぐに解放された。警備員は、スマートフォンとルーターを確かめたが、分からなかったようだ。状況から見て「私〝が〟ハッキングされた」〈被害者〉であり、これを問題にしたら、大変なことになることをランドマーク兵庫警備会社は知っていたからだ。街行く人が知らずにハッキングされ、無意識に健康保菌者として感染を拡大する可能性があるのは、警備会社の常識だった。疑いだしたらキリはないが、まずは疑うことだった。そしてどんなに強固にしたところで、解けない〈解〉なんてない。イタチごっこだ。


 もっとも小山田由子からの依頼があったと知れば、事は別だろうが、今は解放を喜ぶべきだろう。小雨の平橋邸を後にした。


 外国人登録証明書を控えられたぐらいか……。欧州じゃまず普通に路上に倒されているだろう。撃たれなかっただけマシだ。


 それに、見た目は日本人だが、私は外国人だ。最悪、国際問題にもなりかねない。そうした利用で、私は飯を食っていた。


 もっとも、解放された理由は、私の使用責任者長藻秋詠(ながもときなが)とランドマーク兵庫警備会社との関係にあった。ランドマークのセキュリティソフトを開発した一人が、長藻だった。私も更新プログラムのデバッグを手伝ったことがある。


 ある種の防衛は、大丈夫かどうか無作為にチェックされる。防衛ラインの確認だ。そうした部門がランドマークにもある。今回もそうした〈チェック〉を、長藻が行ったのであり、私はガス漏れ点検をしているだけのはずだった。どうした基準で行われるのかは私は知らなかったが、一定期間でしているようだ。もしかしたら長藻は自分の顧客にそうした〝見えない〟ソフトを入れているのかも知れない。可能性はあるが、私は聞かなかった。


 何事も知りすぎるのは良くない。知識より智慧ちえさ。


 平常心にもどった私に怒りが訪れたのは、芦屋の駅前の喫茶店だった。人間、最強に頭にくると、脱力しか残らない。


 触られたスマートフォンとルーターを、丁寧に拭いて掃除までして電源を入れなおした瞬間に受信したのは、長藻が撮影した女子高生の縞パンだった。




 iPhoneに着信。ベーシスト岩麻増時いわまますときのデビュー曲だ。


〈Michel_Continental,_M.〉


 死ぬように眠っていたわたしは、目を開けた。


 ……なんてこった。まだ生きてやがる。


 刹那せつな、頭上に落雷!


 いつもなら、ゼウスとトールとインドラが『カルミナ・ブラーナ』を合唱コーラスしているところだ。アキュフェーズのアンプとタンノイのスピーカで魂をいたぶるように「おお、運命の女神よ」を永遠に……。


 今日は、俵屋宗達たわらやそうたつの風神雷神が仲良くダンスしていた……。分身して尾形光琳おがたこうりんの風神雷神も……。冗談じゃない、結局「おお、運命の女神よ」のリズムじゃないか! お前らなぁ……。おい! 酒井抱一さかいほういつもかよ。琳派勢揃いじゃないか! ――鈴木其一すずききいつ……。わあった。わたしがわるかった。良くなかった。……たっ探幽たんゆう……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。


 狩野探幽かのうたんゆうだと!?


 そこで目が覚めた。


 マイクに起こされたわたしは、一通り話したあとで電話を切るとすぐにお風呂を沸かした。二度寝するなというありがたい忠告だが、その心配はなかった。昨日のレバーブローが効いている。目をつむると北斎まで参加していた。


 ……あの女、化物バケモンか。まぁ女をそうするのは男なんだが……。


 美女の痛みをやわらげるために、濡れタオルで頭をしぼった。遠慮なく。強く。しぼり落ちた水が脳漿のうしょうに思える。……思い出してしまった。


 映像で記憶するのはいいが、逆に忘れられなくなるという致命的な欠陥がある。だから恐怖映画はなるたけ見ない。作った絵は恐い。本当に恐い。恐がるように作ってあるのだから、恐がらないほうがおかしい。だが、実際の恐怖は、もっと異質なんだ。


 作り物になれてしまうと、実際の恐怖を感じなくなって通り過ごしてしまうことになる。それはイコール死を意味する。有史以前の本能的な危機回避機能のスイッチが切られた状態だ。飛び降りて夢から抜けでる(覚める)映画を見たら、現実なのに「夢だと感じて」実際に飛び降りてしまう。そして頭を抱えて大地にキスをする。さながらマクベスのように。現実と虚構の区別ができなくなると、夢から目覚めるために死ぬことになる。残念だが本当の話だ。


 ベッドで現実の痛みと戦いながらまどろんでいたが、部屋は静かだった。お湯が入ったチャイムもしない。


 わたしは、血を抜かれたクレタ島のタロスのように歩き、底をのぞいた。風呂栓がきっちり入っていなかった。水量センサが異常を感知して止めたのだ。どうりで静かなわけだ。


 投げ入れていた栓を手で押さえる。All right. ――おっと!


 反動で中に落ちそうになるが、右手でサイドにあるバーにつかまって止めた。筋トレはしておくものだな。


 着痩せするタイプだが、十分に筋肉はついている。身長一六九センチ。体重は六五キロ。鏡に映っているのは不惑前の引き締まった男の身体だった。長い睫毛に大きな瞳のハンサムだが気をつけたほうがいい。わたし長藻秋詠は、悪人だ。


 お湯がたまるあいだも吐き気はつづいていたが、なにも出なかった。


 タロスの血は出てしまい、ベッドまで帰る力はもうなかった。浴室そのままの位置で下着を脱ぐと、冷えきった身体をシャワーであたためた。


 浴槽に入って、中の椅子にすわり、入浴剤を一袋いれ足湯をする。そのあいだも恵みの雨は降りつづいていた。


 シャワーで濡れたタオルが重くなる。さらにきつくしぼった。右手が悲鳴を上げている。これ以上はNGだ。腕を痛めてしまう。


 目をつむり、ゆっくりと深呼吸をした。肺にある空気を底の底まで吐きながら、左手の人差指と中指を手刀にして、脇腹と右肩に入れた。


 口や鼻腔にある空気まで吐いて、ゆっくりと吸った。


 一瞬で痛みが消える。


 わたしがほどこしたのは、古い中国医学の一つだった。気・血・水のバランスを少しだけ調節してやるだけ。応用すればダイエットになる。


 住宅でいうなら、空調・電気・水道か。上手にしないと、気功だけではダイエットは効かない。それに脂肪のほとんどが水(水素と酸素)だから、電気の配電盤をさわっても意味がない。水道を調節して、空調から酸素を取り入れて炭素を燃やしてやれば簡単だ。


「上医は国をいやす」か……。


 まだ手に痛みが残っている。飲み過ぎは身体に毒だ。


 わたしは、集中力があれば、一瞬で痛みの部分をズラすことができる。


 手をあわせて集中するが、発動しない。今日って日はまったく。


 AKA(Arthrokinematic Approach ――関節運動学的アプローチ)を使って少しズラした。痛みが完全にとれた。


 瞬間に、風神雷神がかえってきた。発動するまでは集中できないとはいえ、普通には集中はしていたらしい。だがさすがにもう追加のキャラクターは出てこなかった。


 腰まで入るぐらいの湯になったので、シャワーを止め椅子を出して、横になった。半身浴。温度は三十七度。身体が冷えているときは、ぬるま湯でじっくりならさないと芯まであたたまらない。冷凍の肉を高温で煮ても中は凍ったままだ。ゆっくりコトコト煮込めばいい。


 安心したのだろう。頭のなかにある恐怖フォルダが開き、いつものように戦慄するような画像の閲覧がはじまった。自分の顔がうねり、子供の顔になり女の顔に変化しやがて人とも動物とも違う変な生き物とも呼べないそれでも目があるものになる。目が大きくひろがり分裂して多数の目になりその目に写っているどろどろしたものが自分の顔になる。何百何千何万あるかもしれない恐怖の画像がつづいていく。


 痛みをやわらげるために、わたしは防水にしたiPadで、クラウドのデータを見た。脳に焼き付けるように画像データとして記憶する。表示履歴が更新され、恐怖データは奥に奥に深く古く沈んでいった。常にデータを入れつづけなければ上書きしなければ、恐怖は消えない。


 映像記憶術は、他の人よりはわたしのほうが数段速いが、今ではマイクのほうが上だった。わたしは自分より能力の高い人間しか雇わない。


 画像から連想できるデータをインターネットやクラウドの個別ファイルから、今日のクラウドデータに結びつけていく。


 平橋之尚に見せてもらった弘法大師の「遍照発揮性霊集へんじょうほっきしょうりょうしゅう」の画像データもあった。


 わたしは、データにはない平橋彰子の顔を思い出していた。イイ女だった。日本に帰ってきていたのか……。




 あれは彰子がボストンに旅立つ前の夜だった。送別会の花を捨てるのがもったいないと、彰子が日本で最後の飲みがてら、神戸山手にあるジャズのライヴハウス〈Relaxin'(リラクシン)〉に届けたときだった。


 その日は神戸中央美術博物館の創立三周年でもあり、記念式典があった。財界にコネをもつ〈Relaxin'(リラクシン)〉のオーナー夫妻も参加していた。式典のあとは、めったに会えない来賓(お偉いさん)同士の、いつもの通りのおしゃべり会だった。


 ゆかいな仲間たちの密談とは別に、彰子の送別会が行われた。上のいない内輪だけの楽しい会だったが、彰子は祝賀パーティのときに別れの挨拶をしていたので疲れていた。早々に切り上げたが、いつもなら持ちかえる花もボストン行では荷物だった。


 夜も深い時間で、彰子は、店が開いているうちは生演奏があるものだと勘違いしていたらしい。演奏がないなら一杯だけと、彰子が約束して、花束をならべたカウンターの奥に、日本に残る同期の裕子と座った。


 髪をボーイッシュにカットしたばかりの美しいバーテンダーのりんが、タラモア・デューのロックとキール――白ワインとカシスのカクテル――を提供した。


 彰子の丸い氷の奥は、万華鏡だった。カウンターにハンサムが座った。


 裕子が、花束からメッセージカードだけを取り分けている。


「彰子、これなんて読むの?」


「んー? 八犬豊訓やいぬとよくに社長よ。どうして?」


「最近聞いたような気がして……あーこれはこれは?」


「どれ? あーこれは茶泉王仁王さいずみわにおう会長。来てすぐに帰られたわ」


「あの背の低い? ふーん。……ってことは茶泉グループの?」


「そうよ。……あっ! 東材とうざい社長。あいかわらずセンスあるわ。会いたかったわ」


 上品なベビィブルーのカードだった。


「来てたわよ」


 おつまみは、おかき&せんべいである。


「えっ!? どうして言ってくれなかったのよ裕子!」


「ハンサム独り占めです――ウソウソ。西川先生と話をしていたもの、彰子。社長がよろしくって」


「もう! 私がよろしくしたいのに。東材社長がボストンの部屋を手配してくれたのよ」


「そうなの?」


「そうなの!」


 テーブルの女性客があの花がきれいわと囁くのが聞こえた。もちろん彰子に聞こえるように言っていた。


「あげたいけど、お別れにくれた花だし……」


 彰子がさみしそうに言った。


「縁起よくないもんね」


 裕子があいづちをうった。


「〈Relaxin'(リラクシン)〉ならいいんですか?」


 洗い物をしていたりんが不思議そうに言った。


「そうですよね。……すみません、お手間ですが捨ててもらってもかまいませんか? 家だと分別しなければいけませんので……」


 彰子の答えに、裕子が変な顔をしてつづけた。


「でも彰子、ここも同じ分類だと思うけど……」


「あぁここはいいんですよ。業務用なので……あぁでももったいないなぁ……」


 りんが花を見ていうと、テーブルの女性客からも溜息がでる。


「ここは水に流す場所だからいいんですよ。水商売ですから」


 カウンターの端にいた秋詠が言葉をつないだ。席は二つぶん空いている。


「そっか!」


 りんの笑顔がかわいい。アラサーだが。バツイチ子持ちだが。


「それに栄転なさるのでしょう?」


 秋詠が、彰子に言った。


「栄転です! 日本でも評価が高いんですよ!」


 彰子の背中から顔をのぞかせた同期の裕子が断言した。


「裕子、言いすぎ言いすぎ。……栄転と言っていいか……このまま一学芸員キュレーターとして日本にいたほうが良いのか……日本で評価されたのならまだしも海外ですし。……でも確かに栄転と言えば栄転です――でも、縁起がよくないと思います」


 彰子が正直に言った。


「でも、このままだとどうせ枯れてしまいますよ。それならもう一度だれかに笑顔を見せてあげたほうがいい」


「……それもそうですね。お任せします」


 彰子が、りんに託した。


りんちゃん配ってあげて。幸せのお裾分け」


「はーい」


「あぁそれ素敵な言葉ですね。使わせてもらっても?」


「どうぞ」


 彰子が、ふっと秋詠を見た。


 軽く会釈するハンサム。紺のダークスーツ。テーラーの三つ揃え。ネクタイと同系色のポケットチーフ。襟のあるウェストコート。深夜なのに、スラックスのクリース(折り目)が残っている。生地はありふれたものだが、仕立が丁寧な一品だった。


 ――何者!? でもそれだけして、どうして肩に皺があるの?


 幸せのお裾分けをもらったテーブルの女性たちは上機嫌だった。蘭や薔薇など高価な花ばかりを選んでいた。たしかに自分で買うには高すぎるが、その悪趣味にあうような派手な靴を履いていた。財布も。


 人を判断する一つの例が「時計・鞄・靴」だ。


 秋詠は時計をしていない。薬指がかなり長い。ていねいに手入れされた爪。むかしの懐中時計のように、ウェストコートのポケットに携帯を入れていた。


 鞄は、PC用のありふれたものだった。ただ、持ちやすいように別の緩衝材をベルトに巻いていた。


 ――目立たないようにしている?


 彰子には判断ができなかった。職業も。


 靴はカウンターの下で見えないが、さっき秋詠が化粧室から戻ったときに彰子が見たそれは、黒のストレートチップで、ハンカチもチーフと同系色だった。


 ――家に帰ればシューキーパーが待っていそう……。というか絶対にしているわ。


 二人が見つめあった。


「私の顔になにか付いています?」


 ずっと、ハンサムな秋詠に見られていた彰子がきいた。


「あまりにおきれいですので、つい」


 彰子は、すっと心を覗かれたような気がした。


「お世辞がうまいんですね」


 彰子は視線をはずし、正面を見て言った


「ほんとうの事しか言わないようにしています」


 秋詠の言葉が、やわらかく肩をなでた。


「お上手ですね。そんなんじゃ他の誰かさんは落とせても、私は落とせませんよ」


「落とす必要がありません」


「えっ!?」


 彰子の疑問はもっともだ。秋詠の言い方がよくない。


「あぁそういう意味ではなく、もう落ちているとか――違うな……」


「酔ってらっしゃるんですか?」


「あなたに」


「ぜったい酔ってらっしゃる。お迎えは?」


「歩いてホテルです」


 今日はりんだけなので、家まで送ってあげるのが、オーナーに頼まれた秋詠の役目だった。


「タクシーを呼んだほうが良いと思いますよ。親切な忠告です。……一緒に行きませんかとか言わないんですか?」


「どっちが口説いているのか分かりませんね。振るんですか?」


「えっ!? どうしてわかったんです?」


 たまには、秋詠も正解する。ということは彰子も変だということだ。


「私のことを『落とせた! ヤッター!』と思う人を、最後の最後で振るのが趣味なんです」


 ――あまり良い趣味ではないが、からかっているのだろう。あるいは本気か。


 秋詠にとって、酔っているこの女は摩訶不思議だった。


「彰子、許嫁いいなずけがいるもんね」


 楽しんでいた彰子に、裕子が水をさした。


「形だけです。でも決まったことです。すこし……私はすこし抵抗しているだけです。……そんな古い習慣はどう思います?」


 ――まだ子供か……。


「見合いのほうが離婚率は低いですからね」


 価値観が似ているのだから、同じ方向を見ていられる。誰もが星の王子さまにはなれない。


「いろいろな愛の形があって、いろいろな生き方があって、選ばされていると思っていても選んでいたりしますからね。――来ますか?」


「行こうかな……なんちゃって」


「彰子! やめなさいって!」


「冗談よ」


「まぁ来てもらっても困りますが」


「はぁ!? ホテルで女性と待ち合わせをしているとか?」


 裕子が覗きこんで聞いた。


「待ち合わせは女性とは限らないと思いますよ」


「そうなんですか!?」


 ――そういうネタが好きなのか? かわいい顔して腐ってやがる。


「いいえ違います」


「変な人」


 また彰子が、正面を向いた。


「自覚しています」


「あぁおもしろい……。でもどこに興味をもたれたんですか?」


 振り向く彰子が笑った。耳が、小さくゆれている。だが、距離は前のままだ。


「耳です」


 真面目な顔をして長藻秋詠がいった。


「耳? 耳ですか?」


 女性が耳の形をほめられることは少ない。彰子の耳が赤くなった。


「彰子が照れてる。めずらしい……」


 彰子は特徴のある耳をしていた。秋詠は仕事がら、耳の形を覚えていた。尾行の指標になる。化粧や変装をすばやくできても、急に耳の形を変えることはできない。そもそも事故や追われているのでもない限り、形を変えることはしないものだ。


 秋詠が、彰子を見ながら頭をかしげた。


 時間が止まっている。


 秋詠は、ゆっくりと深呼吸をした。


 ――間違いない……。


 ――〈セイレーン〉だ。





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