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2.恋心

2.恋心


 小山田由子が平橋弘行に出会ったのは、地始凍ちはじめてこおる寒い冬の午後だった。


 高認こうにんの試験会場だった。


 甲南大学の購買部で豚まんを買った由子は、寒空のなか大樹にもたれ口にしていた。吐息が白い。十七歳。ショートの黒髪に、姉に借りたルージュ。レモン色のブラウスに色褪せたジーンズに深めのブーツ。お古のニットに毛玉がすこし残っている。どれも姉と共用しているものだった。自分だけのものは小指の大きめのシルバーぐらいだった。


 以前は大検(大学入学資格検定)といわれた高認(高等学校卒業程度認定試験)は、十六歳から受験ができる。文字どおり「高等学校を卒業した者と同等以上の学力があるかどうかを認定するための試験」だ。理由はさまざまだろう。世界的にみても、きちんと学べる環境があるということは素晴らしいことだ。チャンスがあるということは、持てぬものからは何物にも変えがたい幸運だ。多くの人はそうしたチャンスを見過ごし、いきている。


 由子もそうだった。小学校からのいじめ。かわいらしい由子は一番の目標だった。二番目はあいらしい白井一葉しらいかずは。由子と一葉はいつも二人して泣いていた。


 いじめと一言でいうのは簡単だが、実際は犯罪だ。暴行、傷害、侮辱、脅迫。ちょっと顔かせ? 略取だ。カツアゲ? 恐喝。強盗。万引きしろ? 窃盗だ。その教唆きょうさ。幼稚な考えだが、これらは全て犯罪行為だ。やわらかい言葉で本質を隠すと、欺瞞ぎまんがとおる。人が腐っても発酵なんてしない。食えないシュールストレミングの出来上がりだ。


 それでもまだ二つ上の和美かずみが身体をはってかばってくれたので学校には行けた。和美の幼馴染みの余市鉄雄よいちてつおがいじめっ子をシバいてくれたせいでもある。もっともそのせいで父の余市忠善よいちただよしは、加害者の父だった部長の怒りを買い、ひとり岡山に転勤させられてしまったが。鉄雄はしばらく父のいない日々を過ごすことになった。


 いじめを終わらせるのは簡単だ。暴行があればすぐに司法手続すれば良い。暴行は親告罪ではない。すぐに終わる。学校が、犯人蔵匿や証拠隠滅をするほうが立場をあやうくする。加害者の「少年の未来」という考え方もあるだろうが、それは少年法の問題であって、断じて学校の問題ではない。暴力があること自体がおかしいだけだ。燎原の火(りょうげんのひ)をとめよ。


 そうしたことが実際になされていたら、由子や一葉も泣きつづけることはなく、余市忠善がムリに転勤させられることもなかっただろう。


 だが、結果的には良かったのかもしれない。苦汁をなめた忠善は奮起して、後のゼネコン山田栄やまださかえ建設の専属工務店として独立した。前の会社は金融ショックをもろに受けて粉飾決算をしたあげく内部告発から株価急落、上場廃止、受け皿なしで倒産。私情をはさむ会社の行く末は古今東西どこも同じ。退職金を全額自社株にあてていた加害者の父は、文無しで場末をさまよい、寸借詐欺で捕まったそうだ。場所は岡山。笑うしかない。


 由子の学生生活は、中学一年がいちばん平安な日々だった。上級生に和美と鉄雄がいたから。一葉といっしょに夕暮れを帰るのが日課だった。


 それも和美と鉄雄の二人が公立高校に入学するまでだった。二年からはまた地獄だった。生真面目な由子は、理不尽には理由があると思っていた。だがその理由が連中の単なる享楽でしかないと知ったとき、由子は学校に行くのをやめてしまった。父のひろしも母の恵美えみもどうすることもできなかった。ときおり一葉が来ては、今日あったことを話すだけのたいくつな日々だった。


 三年になると一葉が神戸に越してしまう。由子は一人になってしまった。


 姉の和美は、さっさと高校をやめて働きだした。


「勉強よりもっと大切なことあるやん」


 未来は鉄雄の妻、つまり山田栄建設の専属工務店の二代目の奥さま。そう決めた和美は屈託くったくもなく笑うのだった。


 ニートでいるのも辛くなった由子はスーパーに働きにでた。自分のお金で好きなものを買う和美にあこがれたのだ。高価なものは鉄雄に買わせていたが。


 ――事故の前も、ソニア・リキエルの赤いアンクレットを自慢していたっけ……。


 由子は思い出していた。


 茶泉記念病院の集中治療室(ICU ―― Intensive Care Unit)に横たわる和美は、包帯だらけのミイラ状態だった。


 ――ねーちゃんと晋一しんいちをトイレットペーパーでぐるぐるにしたっけ……。晋一まだっちゃかったし……。おかーはん帰ったらエライ怒ってたなぁ……。丁寧にたたみなおして、トイレにおいて……。たたんだトイレットペーパー見たおとーはんが「こんなん懐かしいなぁ」とか言ってた。


 ――あれ? うち……なんでこんなん思い出すんやろ……。


 働きだしてすぐに買ったのが、シルバーのリングだった。ほんとうは両親に何かしてあげようと思ったのだが、恵美が頑として断ったのだ。


「あんたはいずれ出ていくんやさかい、うちらは晋一にしてもろたらええ。あんたは好きな相手に何かしてあげい」


 好きな相手もいなかった由子だったが、そんなことを言えば恵美があーだこーだ言うに決まっている。


 大きめのシルバーを選んだ。これなら彼の指にあわせて形やサイズを変えられるからだった。


 職場でもいじめはあった。中卒だから、見習いだから、ミスしたから、口答えしたから、いつのまにか最低賃金をこえて引かれる数字。残業がついていないのが当り前だった。


「イヤなら辞めえや。他にも人はいるんやさかい」


 訴えたパートの先輩の名鳥羽なとばを怒鳴る店主の声に、由子は何もすることができなかった。


 人間はある時期、自分を知ることになる。夢を語ることも許されない場所で。自分がどういう人間かを。何ができるかを聞かれない場所で。心を折られる場所で。


 それでも三月みつきはがんばった。「中卒はオツムが弱いが手が早い」と言われるまでは。


 事務所の金が三万足りなかった。


 立ちすくむと影がうすく小さくなる。ほんとうだ。心がちぢむ。


 それまで、心安く声をかけてくれていた名鳥羽までが白い目で由子を見ていた。なんのことはない、店主の妻が遊びに行くのに抜いたのを忘れていただけだった。


 店主は謝りもせず「気にするな」と言った。


 名鳥羽は「忘れなさい」と言ってくれた。


 ――それで忘れることができるならしたいわ!


 由子は言えなかった。


 帰って母の恵美にだけ言った。


「そう見られるほうがアカンのちゃう?」


 一言だった。にべもない。ビクビクしていたら、そう見られる。確かにそう。由子は泣いた。


 ――でもどうしたら?


 泣き顔を風呂に流した。濡れ髪をタオルで乾かしながら部屋にかえると、由子の机に就職情報誌があった。ドッグイア。折ってあるところを開くと赤く丸がしてある。


 旗川はたがわ紹介有限会社。マネキンの仕事だった。時給は普通だったが、交通費が全額支給だった。これはうれしい。


「あんた並べるのはうまいから、上手に並べたら売れるで!」


 和美が鉄雄あてのメールを携帯片手に、カーペットに転がりながら言った。二段ベッドの下に何冊もあった。


「うち、よう売らんわ」


「だーいじょぶだーいじょぶ。教えたげるから。まず笑い!」


 命令口調でいう和美だった。


「あんたかわいいんやさかい、笑ったらエエ人見つかるって」


「うん」


「は、あ、い!」


「はい……」


「シャキッと!!」


「はい!」


「よぉーし」


 コネでゼネコンの受付に採用された和美が、研修で習ったばかりの接客マナーをさっそく由子に教えていた。教えは学びの半分だ。和美も復習になる。


 笑顔をつくる簡単な方法は割り箸を使えばいい。口にはさんで鏡にむかってニコッ! ニコッ! これはもう練習しかない。最初、頬が痛くなる。どれだけ笑っていないか、それを伝えることをしていないかを知る良い機会だ。


 調教の様子は――小さい家だ――居間まで聞こえていた。


「笑う門には福来る」


 ロールプレイングゲームをしながら晋一の一言。


「あんたニートは許さへんで」


 TVを見ながら、せんべいを食べていた恵美がポツリ。


「働かざる者食うべからず」


 ゲームに夢中になっている晋一が、恵美を見ずに答えた。


「顔見てしゃべり! 子供はオネムの時間」


 恵美が、ゲームの電源をコンセントから落とした。


「あぁ~~セーブしてないのに!」


 最悪。本体が破損する可能性も高い。


「また遊べるやん」


 いやいやそんな問題ではないのだが。


「なんでねーちゃんらはエエの!」


「仕事してたら許されるねん」


 母強し。金強し。


「あの子も時間みればエエのに」


 和美が言いながら、由子の口の割り箸をずらした。


 ――うぐうぐ。


 じゅるじゅるよだれ。


 ――かわえー。


 翌は午前の半勤だった由子は、電話をして午後から神戸の旗川紹介にむかった。


 早く着いたので、前の面接組に入るように言われ従った。名札をつけながら席につく。


 面接は無事通過した。


 面接をした男性社員の指導で、そのまますぐに研修にはいる。翌日にシフトが入っている子もいるからだ。


「いらっしゃいませ」


 やわらかい笑顔をした人だった。由子は襟のあるウェストコートを見たのは、はじめてだった。ハンサム。


「小山田さんの笑顔が素敵ですね。もう一度。全員注目してください」


 いっしょに受けた誰よりも、ほめられる由子だった。それはそうだゼネコンの受付と同じ笑顔なのだ。他よりも一際ちがう。


 ――ありがとう、ねーちゃん。


 ニコッ! ニコッ!


 ――頬が……痛い……。


「どなたかに習いましたか?」


 彼が聞いた。


「姉に……」


「割り箸で?」


「えっ! どうして知っているんですか?」


 ――えぇーーカタがついてるとか? マサカ……。というかやっぱり割り箸で笑顔って基本なんですか?


「それだけだとどうしても固くなるんですよ。頬が痛くなりませんか?」


「はい……」


「慣れていないせいもあるでしょうね」


 彼が由子の前に立つ。


 ――緊張……。


「ちょっと失礼。こちらを見て」


 彼は、両のてのひらを由子の左右の目尻に近づけた。


 すっと痛みがひく……。


 ――えっ! どうして?


「営業スマイルと言われますが、自分がほんとうに楽しければ自然と笑顔になります。ブスっとしていたらブスに。美人にしていたら美人に」


 顔がかなり変化して思わず笑ってしまう。


「そうその笑顔。お互い隣を見て。まぁまだ箸が転がっても笑うころかしら。コロンって」


 一気に場がなごんだ。


 その後は、きちんとした行動予定の説明。カラーで印刷された手触りのよい冊子。小さい会社なのでそんなにきっちりしているとは思わなかった由子は驚いた。


 web登録は、スマートフォンはもちろん携帯からでもアクセスするだけだった。あとは順に進めばわかる。


「これ簡単ですね」


 由子が、彼に聞いた。


「もちろんです。簡単に使えるように作りましたから」


 笑顔で答える彼だった。


「そうなんですか。すみませんがお名前は?」


「こちらこそすみません。長藻ながもです。途中からだったので名乗っていませんでしたね」


「長藻さんは、こちらの会社は長いんですか?」


「三日目です。今日でおわりですが」


「そうなんですか?」


「そうなんです。小山田さん、手が止まっていますよ」


「はっはい! すみません。すぐに登録します」


「アッキー!」


 奥から声がする。顔をだしたのは女優のデボラ・カー似のすごい美人だった。


「なに?」


 気安く答える長藻だった。


「モナ迎えにいくからあとお願いできない?」


キーは?」


「わたしが」


 ランドマークのキーを見せたのは、由子を案内した女性だった。田澤良子たざわりょうこ。かわいい系の顔だが、美声だった。


「良子、アッキーを頼むわね」


「はい」


「どっちが?」


 デボラが歩きながら携帯をとっている。


「はいはいすぐ行きます……ってもうまったく誰に似たのかしら」


 由子がふっと長藻たちの顔を見た。全員が「あなたに似たんだ」という顔をしていた。由子が自然に笑ってしまう。


「彼女、良い笑顔をしているだろう?」


「ほんとう。良い人生を歩んできたのね」


 田澤が答えた。長藻もやさしくほほえんでいる。


 由子は、そのときまで自分が恵まれているとは思わなかったが、知ったのだ。そうしたチャンスを得ることすら恵まれているということを。


 人生の多くはチャンスすら与えられない。手にすることすらできない。舞台に登ることも、舞台裏から見ることも、ましてや客席の切符さえ買えない。


 帰った由子は、和美に告げた。自分が誰かの何かの役に立つことができるということを。和美はやさしく抱いて頭をなでるのだった。


 月末までのシフトが入っていたのでスーパーには顔を出したが、辞めると言った瞬間にくびになった。自己都合で給与を半分にされた。訴える気もあったが、当面の交通費のアテにはなったので、すっきりした。


 表に出てすぐに店主の妻から電話があって「半分すらもったいないので返せ」と言われた。どうせそんなこともあると思っていた由子は「労働基準監督署に訴える」と言った。


 長藻の作ったネットに書いてあったことを伝えただけだった。


〝わたしたちもきちんとしますから、あなたもきちんとしてください〟


 当り前のことだった。それが通用するところを知ったなら、もう戻れなかった。


 罵詈雑言が電話口から聞こえていたが、店主にかわった。「それだけは勘弁してくれ」だった。言われる由子が泣いていた。


 ――どうしてそんなにまでなってしまうの? どうして? どうして?


 由子は「今までの分を払ってくれたら訴えません」と言った。訴える気などなかった。「勘弁してくれ」の一言が許せなかった。心のこもっていない言葉だけ。お金もない。


 ――ごめんなさいでいいのに……。


 言うだけは言ってみたのだ。反応は速かった。


「来月には必ず払うから待ってくれ」


 ――何を待つの?


 知れている額だ。しかし十五歳の由子には大きい。


「月末までにお願いします」


 電話を切った。


 翌日には振り込まれていた。多少すくなかったが、イイカゲンな妻の計算だったから由子は文句を言わなかった。話はこれで終わったと思っていた。


 急に旗川紹介にシフトを入れて働くことにした。


 近所のスーパーとはちがい、神戸のスーパーは大きかった。同じ名称の店舗が連なっているから、迷いそうになる。


 最初はイチゴのマネキンだった。


〝重曹水できれいに洗う。ヨゴレがとれて色が鮮やかになる。イチゴは先が甘い。だから先を食べやすいようにカットする〟


 技だった。バックヤードで切って「どうぞ」と言って笑顔で手渡す。簡単な仕事だった。


 翌日は、ヨーグルト。


〝上澄みが美味しい。ぜったい捨てちゃダメ。くずさないようにていねいに分けて、どうぞ召し上がれ〟


 それから十日つづけてシフトに入った。わからないことは由子は、田澤に聞いた。とても親切丁寧に田澤が教えてくれた。副社長のなおみも教えてくれるが、半分は世間話になって進まない。


 ――良い人なんだけど……。


 仕事も慣れたころ、やっと明日は休めると思った神戸の帰り道、後ろから殴られた。倒れたところをさらに蹴られる。


 由子が上を見ると、名鳥羽だった。由子は涙を流しながら気絶した。


 由子が目覚めると、すべてが終わっていた。茶泉記念病院の個室でデボラ・カー似の旗川の元妻・松風まつかぜなおみが、両足にギプスをした由子の頭をなでていた。翌檜銀二あすなろぎんじ弁護士の手配だ。


 名鳥羽の襲撃理由は、由子が足らずを請求したので、スーパーがケチって――ちなみに従業員の給与はなによりも優先される――名鳥羽の給与が支払われなかったからだった。金の足らない名鳥羽は仕方なく他に職を探していて、たまたま旗川紹介へ。社長の旗川とネンゴロになり、寝物語に由子のことを聞いたのだ。それは怒るが、由子に過失がない名鳥羽の単なる逆恨みだった。以前から、夫がスタッフに手を出していると感じていたなおみは、長藻に依頼。長藻が調査をして、該当の女性を解雇。人数が少なくなったので、効率の良い派遣ソフトの開発。出資は翌檜で、別の人材派遣会社に販売するのが蒲沼励かばぬまれいというわけだ。流れは出来ている。なおみはモデル会社の提供とバックマージン。


 で、たまたま由子がスケープゴートになってしまった。相手のいない旗川が、名鳥羽に手を出すのは予想の範疇はんちゅうだったが、由子が名鳥羽に暴行されるのは話が別だった。神が欲する生贄サクリファイスの代償は高い。


 名鳥羽は傷害罪で執行猶予はついたが有罪。ただし民事で由子から多額の賠償金を請求された。名鳥羽に支払能力はなし。ただしローンの残るマンションがあった。夫名義だったが、一緒に生活して長い。半分は妻のものだ。これがなぜか由子が請求している額と同じという……。翌檜は速かった。すぐに仮執行宣言をとって転売できなくしてしまった。詳細は割愛するが、あとは締めるだけ。名鳥羽の夫用に、離婚の慰謝料が支払えない妻から、妻の実家に矛先をかえ締め上げた。結果、妻は老いた父母ともども宿無し直行。容赦ない。


 旗川はもっとかわいそうだった。なおみも気丈夫だ。一度や二度の浮気は許す覚悟だった。それが調査を入れてすぐとは。まえまえから別れる気もあったが、一気に恋心がついえた。傷害の教唆で前科者にする覚悟でなおみは詰めた。旗川はあっさり別れ、家・会社全部を残して、手持ちの現金を持ってどこかに行ってしまった。下人の行方は、誰も知らない。


 ――女ぐせがなければ良い人だったのに……。


 それだけのことを翌檜は涼しい顔でさっさとやってしまった。どれだけ悪徳なのだろうか。ちなみに翌檜となおみは友人関係だ。翌檜が同性愛者ゲイなのは公然の秘密だ。


 旗川紹介有限会社は商号を変更して、はざま企画有限会社に。なおみは副社長から社長に。蒲沼励の取締役はそのまま。一人足りない取締役に小山田由子。出資金はあるところにはある。ただし未成年なので親権者の同意が必要。それも由子が寝ている間に、翌檜が処理してしまっていた。


 由子は急にお金持になった。タナボタなので実感がない。寝ている間になった汗疹あせものほうが切実だった。


 由子を推薦したのは長藻だった。由子が理由を知ることはなかった。


 由子もうすうす感じていた。ギプスの両足はほんとうは折れていないのだということを。由子は知らなかったが、実際は折れている。折ったのは石田医師だが。電磁的に損傷させ再生させたのだ。例の実験の続きだ。石田はよろこんで楽しんでいた。


 ベッドにいる由子はヒマだった。恵美と和美は毎日来てくれたが、話題はつきる。


 人間なにも入力されないと、情報を欲するようになる。アシモフ。


 由子は、勉強をしようと思った。いくら取締役だといっても実権はないのだ。手に職をといっても、マネキンだけで一生を過ごすにはベッドの汗疹はかゆかった。


 晋一に用意してもらって、勉強をはじめた。


 血液をサラサラにする薬などもあって、脳の回転が良くなるのが自分でもわかった。勉強がしだいに身についた。ことわざ好きな賢い晋一より覚えが速くなる。


 一年あまりはそうしていた。個室はもったいないと、大部屋に行きたかったが、なおみが許さなかった。治療費を含み出資金は、なおみが管理していた。差額でなにかしているのだろう事は感じていたが、任せるしかなかった。


 一度、名鳥羽が謝りにきた。彼女にはもう二度と足は動かないと伝えられていたそうだ。


「許すからもう来ないで」


 と由子は言った。以来、会っていない。


 足がなくても生きていける。由子はしっかり自分を見ていた。自分の芯ができるころには足は回復していた。


 リハビリにもう半年経かった。信じられないぐらいに細くなった足は、軽くなった由子ですら支えることはできなかった。和美が言ったものだ。


「このままのほうがオシャレやん」


 次の瞬間、恵美にはたかれていたが。


 そして十一月。夏で落とした数学と物理Ⅰの試験だった。前は別の専門学校が会場だったが、今回は大学での受験だった。


 はじめて見る大学のキャンパスが新鮮だった。進学していれば高二の由子には、休日の大学生がとても大人に見える。するとさっき購買部でいっしょに並んでいた男性が近づいてきた。目が大きなハンサムだった。髪をなでるちがう手に由子と同じ豚まんを持っている。


 ――あれ? さっきは買っていなかったのに……。


「いっしょに……いい?」


 彼が聞いた。


「……どうぞ」


 由子はいつもの笑顔で答えた。あいらしい。彼もほほえむ。


 二人して、大樹にもたれながら食べる。


 ――おいしい……。


 食べ終えると、由子が彼の分まで包み紙を袋に入れた。彼は「ありがとう」と礼を言いながら、後ろからハンカチにつつんだ温かい緑茶をさしだした。


「どうぞ」


「あっ……いいです自分で買います」


「じゃあ後でお金を払ってくれればいいよ。これ熱いんだよ」


 彼の手が由子の手にふれた。


「あつっ!」


「あぁごめん」


 彼が、由子の手を自分の耳にあてた。由子がうつむいた。真っ赤になっている。


「ねぇ……」


「はい……」


「見かけないけど、B1?」


「えっ!?」


「あぁごめん。一回生?」


「いえ……」


「そうなんだ……自信あったのに……。じゃあ二回生? でも三回生っていう――」


「――大学生じゃありません」


「えっ!?」


「高等学校卒業程度認定試験の……」


「あぁ、高認の! そういえば村崎むらさきが今日明日……じゃあ十八なんだ」


「十七です」


「えっ!?」


「すみません……」


「なぁに?」


「手……」


「あっごめん」


 やっと彼が手をはなした。由子の手が温まってほんのり赤い。


「そんなに謝らなくてもいいです。お茶ありがとうございます」


 ハンカチにつつまれたお茶を由子が飲んだ。まだかなり熱い。


「おいしいです」


「それは良かった! じゃあまた明日」


 彼が、学舎にむかった。


「えっ!? あのぉお茶のお金……」


「明日おごってくれたらいいよ……そうそう名前を教えてよ」


「小山田由子です」


「ぼくは平橋弘行。平らな川にかける橋――」


 弘行が段差でこけそうになる。


「大丈夫ですか?」


「大丈夫大丈夫。明日必ずだよ!」


「あのぉ明日は……」


 さっと弘行が消えてしまう。


「どうしよう……明日はシフト入っているのに……」


 由子が小傷のある折り畳みの携帯をひろげて、会社に電話した。


『はい、はざま企画です』


 なおみだった。


 ――良子さんならよかったのに!


「由子です」


『あ! 由子どうだった? 満点とれた?』


「満点はムリですけど、なんとか合格したんじゃないかと……」


『やったじゃない! 今日はお祝いね!』


「あのぉ……そのことなんですが……」


『なぁに?』


「明日のシフトを……」


『あっいいわよ。ちょうど一葉いちようが入りたいって言ってるし』


「えっ!? 一葉いちよう……ってもしかして白井一葉しらいかずはですか?」


『うん、そうよ』


 電話口で『……一葉いちようあなた、一葉かずはっていうの? ほんとうは?……』と聞こえる。『……社長が間違って覚えているんです!……そうだったんだ。てっきり……どなたなんですか?……由子よ。小山田由子……えっえっー由子!?』


 声が大きくなる。


『由子!? 由子なの!?」


 一葉が電話に出た。


一葉かずは! 元気だった!?」


『由子だぁ、久しぶり! そっちこそ元気だった?」


「元気よ。今は」


『なぁにその言い方。ついさっきまで病院のベッドで寝てましたっていうの?』


「うん、一年ちょっと寝てたから」


『えっ!? 大丈夫なの? 由子!』


「大丈夫よ。一葉。今は勉強して、今日は甲南大学です」


『あなたサバ読んでた?』


「ちがうわよ。高等学校卒業程度認定試験」


『あぁ大検かぁ。それなら去年とったよ』


「えっ!? あなたも高校行ってないの?」


『セクハラ教師を訴えたら退学になっちゃった』


「なに、それ」


『そうでしょそうでしょ』


 後ろで田澤が、会社の電話だと言っている。


『怒られちゃった。じゃあ切るわね』


「あっ明日のシフト――」


 切れている。


 ――一葉らしい。でもちゃんとする子なのよね、あの子。高認の先輩か……。いつのまにか追いこされちゃった。


 ――それはいいとして。明日なにを着てこよう。第一印象が毛玉ニットだなんてもう……。





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