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C.長いお別れ(The long goodbye)

C.長いお別れ(The long goodbye)


 中庭に出た私と由子を迎えたのは、セーラー服の美しい少女だった。静かな笑み。午後の光のしずくが輝かせていた。足が悪いのかくるぶし上が腫れて、ゆっくりとしか歩かないが、手にした・四十五口径は本物だろう。レンズをハニカム構造にコートした眼鏡をしているが、弱視であれ当たれば痛いではすまない。画像データが「残1」と表示されている。


 私と由子は後ろ足に戻った。第二手術室の前を通るが中はすでに片づけられていた。フランボワーズは手早い。


 少女が静かに近づいた。


 吸いよせられるように、二人は暗い第三手術室に入った。


 薄明かりの中に目玉が二つ浮かんでいた。いや正確には一つは人の目ではなかった。義眼――カメラアイ――だった。


「マスマイヤー」


 私は静かにつぶやいた。


 マスマイヤーとよばれたものは、猫足の台座におかれた顔と胴体だった。手は義手で何やら背後でうごめいている。肩からのびているのではなさそうだ。四本ある。母親に言いつけられ、食事前にムリに片づけさせられた玩具箱のようだ。造作の心が折れている。


 私の目がなじんだ。カメラアイというよりイカやタコのような目だった。光を求めて動いていたが、私を認めると焦点をしぼった。


「生きていたのか……」


 言葉がもれた。


 しかしはたしてこれが生きていると言えるのだろうか。私には自信がなかった。受精卵は生命だとして、ウイルスは生命だろうか。眼鏡は人体の一部だとして、カメラアイは?


〈……ミシェルか。久しぶりだな。武装を解除しろ。一度しか言わない〉


 肺を含め身体の一部も動力で動いているのだろう。言葉にはなっているが無機質な機械のようだ。


 私は由子を支えたそのままの体勢で観察した。後ろ手になにか持っているのか?


〈お前には絶望を味あわせてやろう。残された人間がどうなるのかをな〉


「あの時の少佐の判断は正しかった。でなければ全員が死んでいた」


〈そうでもない。現におれは生きている。こんな姿だがな〉


 由子が顔をそむけた。


 顔といっても半分だけで、左はくずれていた。何度も移植したが〝あわなかった〟のだろう。その痕さえ幾重いくえにも残っていた。左の義眼だけが蟹のように突出している。


 ……生体移植。拒絶反応から人間はおろか軟体動物デビルフィッシュまで使ったのか……。


「いまは移植も進んでいる。人工細胞だって……」


〈そうさ。巨大な市場だよ。ミシェル。人工細胞だって生体細胞だってある。ノーベル賞の作品だ〉


「どういうこと? どういうことなの?」


 由子が私の腕をにぎりしめて言った。


〈これはこれはお嬢さん(マドモアゼル)。シンデレラになりそこねたな。おれも最下層の出だ。それには同情する。ただ、彼の身体は有益に使わせてもらった〉


 たしかにマスマイヤーの言葉は由子を絶望にした。


〈彼の角膜はチリの実業家の愛娘に。最愛の娘の瞳に自分がうつるのを見て涙を流して大金をさしだしたよ。肝臓は在米のクリエータに。腎臓はカナダの若き実業家の妻に。長い闘病生活ともお別れだ。やっと二人していっしょに歩める。心臓はコロンビア・カルテルの旦那に。もっともすぐに撃たれてしまったが。万人が万人に有益になる。これほど素晴らしい商売はないじゃないか!〉


「狂ってる」


 倒れそうな由子を、私はしっかりと支えた。由子は壁の一点をぼんやり見つめていた。


〈何を? 何をもって正しいとするんだ? お前の正義はどこだ? 教えてやろう。この素晴らしい世界を! 見ろ! 助け助けられる理想の社会を! これが現実だ! 富の生命の再分配だ。きわめて人道的だ。各界から援助サポートされている。美しい関係じゃないか。与え与えられる。そうは思わないか? 思えよ。ミシェル。ヘリの上からでしか判断できない幸せなど無意味だということを今から教えてやろう。そう、あのローズフェイスのことなら気にするな。今は関係上、共闘してやっているが、忘れてはいない。お前の後でやってやる。そうお前はあの女を殺して、おれを助ければ良かったんだ。すぐにそう思えるようになる。そうす――〉


 由子が私の腕をはなれ、壁上のブレーカを落とした。


〈――ぐにな……〉


 空気の抜けたラヴドールのように、マスマイヤーの世紀の演説は終了した。ヴァイツゼッカーにかなうわけがない。


 濁った目には何もうつっていなかった。


 ある程度の施設には停電用に予備の電源設備がある。この茶泉記念病院の旧館も独自の電源設備を持っている。発電するほうが電力会社から買うより安くなるのだ。そのぶん初期投資は大きくなるが、これだけ大きな病院設備ともなると十分ペイできる。


 私はマスマイヤーだったものの後ろ手を見た。


 ナイフだった。影が動く。


 金髪碧眼の美少年がうつっていた。もちろんUSP .45ACPだ。


「人殺しめ!」


 由子を突き飛ばし、少年が通電させた。猫足の台座にぼんやり電気ともる。


 一瞬、イカ目が獲物をさがすように動くがそれだけだった。再度ブレーカを落とし通電させる。二回三回。もうかすりとも動かなくなってしまった。


 内臓バッテリーだけでは容量不足だったのか……。


「殺した! お前が殺した!」


 少年は左指で由子を指差して、心を傷つけた。


 由子は哀れに少年を見ていた。大人の視線だった。


 少年が由子を撃とうとした刹那、由子が膝カックンして倒れてしまう。


 斜め後ろにいたのは、セーラー服の少女だった。


 銃声が三発。少年の銃弾は、由子がいた空間を抜けていった。少年が構えそのままに横にしたところで、少女がもう一発撃つぐらいの時間はあった。


 倒れる少年に、もう一発。


 少女が近づいてとどめを刺そうとした。


〈セイレーン〉


「止まれ!」


 私は叫んだ!


 少女が止まれず、腰を落とした。というより転倒コケタに近い。反射的だが正解だった。


 少女の首があった位置に虹影ができている。大型ナイフの残像だ。


 少女はUSP .45ACPを続けて撃った。肉片がはじけ飛ぶ。少年が血肉と脂肪の塊になった。ラ・マルセイエーズ。


「もういい!」


 私は叫ぶが、ホールドオープン。少女は撃ち尽くしていた。


 オーバーニーソックスにはさんでいた弾倉マガジンを取って交換すると、立ち上がり、脳幹に一発撃った。冷静さを取り戻している。


 少女は私を一瞥すると、ラヴドール・マスマイヤーの心臓に一発撃った。乾いた音がした。中は空洞で、本体は猫足の台座らしい。


 ドールのナイフを取ると、少女は台座のすき間に刃を立てた。


 地獄の扉を開く音はいつだって不気味な悲鳴がする。


 精巧な細工だった。中央の心臓らしきあたりにスクリューが静かに回っていた。鼓動は聞こえない。無拍動流ポンプの人工心臓だった。心臓というとどうしても鼓動が必要だと思ってしまうが、それはちょうど飛行機を作るときに鳥がはばたくのを似せても飛べないのと同じことだ。無拍動流ポンプの人工心臓の鼓動の音は聞こえない。耳に残るは君の歌声。


 予備でもう一つスクリューがあった。動いていない。この保険が負荷になって再起動しなかったのだろう。笑えない。ロイズがおりたわけだ。


 少女はリンパのチューブを破ってから、血液のチューブを切った。負荷のなくなった血液は逆流し、リンパに流れ込み床に流れ出た。動脈の朱の鮮血と静脈の赤の汚血がまじりあいながら流れしたたる。マスマイヤーだったものが灰紫色になった。


 私と由子は黙って見ていた。


 分解しおえた作品は不可解なものだった。たとえるなら、ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)の「快楽の園」の右翼か。マスマイヤーには似合いだ。


 少女は構えると、残りの弾すべてをその作品に叩き込んだ。弾倉マガジンを二度まで替えて。


 私が振り返ると、扉ちかくで双子の一人が立っていた。


 少女は銃と眼鏡を渡すとそのまま、ゆっくりと歩いて行ってしまった。


「送って行こうか?」


 ジャンあるいはミシェルが言った。


「結構です」


 由子が答えた。双子に笑顔はない。社交辞令だ。こういうときは断るに限る。


「帰ろう」


 私が笑顔で由子に言った。


「はい」


 ほっとした表情からとびきりの笑顔をする由子だった。


 スライドを戻した双子が、二人を見送った。




 緑のシトロエン・XM(Citroën XM)が新神戸駅に止まっていた。


 新幹線を降りたヒゲのスマイルスが後席にデイパックを放り込み、右の助手席に座った。


「お疲れさまです」


 走り出した双子のジャンがスマイルスに挨拶した。


「お疲れさん! 食え。内緒な」


 ゴディバの残りをジャンに渡した。


「ありがとうございます」


 期待して包みを開けるジャンだが、半分以上食べられていた。


 ――ぐすん。


「首尾は?」


 シートベルトをしながら、スマイルスが新しい缶ビールを流し込んだ。顔の赤味はとれている。


「ホームに帰るまでが休暇じゃあないんですか?」


「お前らがもうすこし上手うまくやってくれればそうもしていたいが、どうせアレなんだろう?」


「申し訳ありません……」


 ジャンがチョコレートを食べた。美味いらしい。


「〈ジローノート〉です」


 まじめな顔をしてジャンがその名を口にした。


「それはあれがするだろう。マスマイヤーは?」


「残り一箇所です。向かっています」


「All right.」


 スマイルスが静かに眠った。缶ビールはきれいにつぶされていた。


 着いたのは市郊外にあるエル・ヴェ・マテリエル製薬株式会社神戸研究所だった。広く、そして高い。フーツラ(Futura)書体で描かれたLVMの文字。〝Futura〟はラテン語で「未来」だ。


 入口から素直に入った。LM(ランドマーク兵庫警備会社)の身分証明書で通過する。


 構内の車幅の広い道路を一台だけが走っていた。


 停車。第五研究施設。


 ジャンが、FN Five-seveNの初弾をセットした。


「得物はなんにします?」


「当たればなんでもいい」


「とは言っても、Five-seveNかHi-Powerしかありませんが」


「相変わらずシケてんな。……バケモン相手だからな。弾数てんすう稼ぐか」


 スマイルスがFN Five-seveNを手にした。二十発撃てる。動作確認。


「注意点は?」


「クラス3のボディアーマーを撃ち抜きますが、人のようなやわらかいものにヒットすると回転して、止めます」


 XMの後席のバッグからFN P90を出した。FN Five-seveNと同じ弾丸のPDW(Personal Defense Weapon ――パーソナル・ディフェンス・ウェポン)、いわば短機関銃だ。一九九六年の在ペルー日本大使公邸占拠事件で有名になった。もともと5.7x28mmの弾丸はこちらがメインだ。五十発。


「P90(こちら)は――」


「――転ぶな、だな」


 右手の手首あたりから、空薬莢が下に排出される。弾倉の予備と、渡された紙に包まれたものをデイパックに入れた。観光客に見えなくはない。


 ――見えねぇな。


「All right. セキュリティは?」


「少佐が押さえています」


「どうしてあいつはFive-seveNを使わないんだ?」


「グリップが良くないらしいです」


所詮しょせんは女か?」


「相性ですよ。慣れたものが一番ですからね」


 確かにそうだ。どんなに優秀な新型でも、使い慣れた旧型のほうが身体が慣れている場合はそちらが優先になる。だからできるだけ良い製品を良い先生のもとで習うほうが良い。上の習いは大変だが、劣化はすぐだ。人はすぐに腐る。


 電子錠の開いた扉を抜け、奥へと進む。明るく照らされているが、使っていなかったのだろう、ほこりが多い。二人の足跡がつづく。


 三重のセキュリティはすべて解放されていた。


 実験装置の中心にあるのは、人工の胚だった。他にもあるていど育成された金髪碧眼の美少年の部品がそれぞれ保管されていた。


「トラップは?」


「ありません」


 確認したジャンが、スマイルスに伝えた。


「これが金太郎飴の正体か……」


 不気味な物体を見ながらスマイルスがつぶやいた。


「金太郎って誰です?」


「ggrks.」詳しくはwebで。


 ジャンが紙に包まれた爆薬にコードをさした。スマイルスも指示された場所に配置していく。


 ときおり視線を感じるが、眼球が水槽にういているだけだった。数が人を不安にさせる。


「もうこれであいつの顔を見ずにすむと思うとほっとするぜ」


 同じ通路を用心しながら戻った。コードがつづいている。


「何もないのが気になる」


 スマイルスは不快な表情そのままに言葉に出した。彼が少佐になれない原因の一つだった。


「本体を守るほうを優先したんでしょう」


「憶測だ。警戒そのまま」


「Roger.」了解。


 ジャンが従った。他に気配はない。およそ生命といわれるようなものは。


「データは消しましたし、材料もこれだけです。他にも製品として東欧に出荷されていますが、発現しない限り問題ありません」


「金を集めるのに、自分をスナッフフィルム(殺人ビデオ)に出すんだから〝HENTAI〟も恐れ入る」


「少佐が言っていましたが、案外そっちが本当にしたかったことなんじゃあないのかと……」


 施設の外にコードをつづけた。遠くでほかの研究員が見ていた。


「自分を殺すのはふつう一回きりだからな。自分で自分を痛め傷つけ犯し殺しまた犯し壊す。悪夢ナイトメアもいつかは醒めるもんさ」


 〝馬に蹴られて死んじまえ〟


 フランボワーズのいつかの言葉に納得したスマイルスだった。


「準備クリア。押しますか?」


 スマイルスは笑わない。


 鈍い音がして、発火した。柱がゆっくりと折れ曲がり、屋根がそのままふわりとふたをした。内部では炎上が続いている。パイ包みの灼熱スープ。原始の地球に還れ。


「成功です」


「〝HENTAI〟さえなければ、優秀な戦士だったんだがな」


 ――生きる時代を間違えたな。ジャンヌ・ダルクのいない世界だ、ジル・ド・レイ。


 ジャンがぼんやり遠くを見ていた。


 ――なにが正しいのか……だれかしらどこか変だ……。


 火器を持つ手をゆるめなかった。


 燃え上がる地獄の前には、一発も撃たなかった戦士が二人いるだけだった。




 中国自動車道半夏生(はんげしょう)事故の被害は、死者三十四名・負傷者百四十九名だった。この数字には事故で負傷しなかった家族のPTSD(Posttraumatic stress disorder ――心的外傷後ストレス障害)を発症した数は入っていない。


 原因は一匹の〈鳩〉だった。先頭車輛の三菱・エクリプスのフロントガラスに激突したのだ。回避運動をとったエクリプスだったが、バイクは急に止まれない。左後方のスズキ・ハスラー(TS250)を巻き込んでしまった。あとは数珠つなぎに、追突――衝突――激突。スローモーションの新世界より。


 TVで中継された道路は瓦礫の山だった。どのチャンネルを見ても人人人――負傷者であふれていた。神戸のCMはいつものように場違いな豪華客船の船旅クルーズの申し込みだった。庶民には縁のない話だ。あるとすれば医師が足りないのでヘリコプターで搬送したぐらいか……。それすらCMだろう。安いものだ。人の生命は。


 不幸な事故だった。長藻秋詠は巻き添えで亡くなった。私は事務所のPCの電源を落とした。合同通夜の時間だ。


 マダガスカルのコーヒーは切れていた。豆がなければBMWのコーヒーメーカーも使えない。こういうときに素面しらふでいるのも変だが、ほんとうにかなしいときには、どれだけ飲んでも酔わないものだ。いつもは飲まないスチームミルクで心と身体をあたためた。由子のために買ってきたミルクだ。フォームミルクが口にやさしい。あたたまった指に、由子のやわらかい唇を思い出した。今日くらいは許されるだろう。


 あれから私は小山田由子を松風なおみのもとに届けた。なおみがあわてて液体絆創膏を由子の左手いっぱいに塗りたくってしまったのが笑えた。野口英世か。


 由子の父と母が亡くなった。姉の和美は今もICUで眠っている。ただし起きてももう両目で見ることはできないし両足で立つこともできない。和美の婚約者余市鉄雄も亡くなっている。由子は不謹慎だが目覚めないほうが良いのかもしれないと考えていたらしいが、看護師長の新庄鼎かなえが由子の考えを正した。人に恵まれている。弟の晋一は惨劇をまのあたりにしてPTSDでひとり心を閉ざしたままだった。


 私は歩きながら、由子のフランス語の《プライベートなことを聞いていいですか?》を思い出していた。


 感傷だった。


 私立探偵フィリップ・マーロウの言葉にある。


〝If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.〟


 もっとも蝋燭ロウソクが残っているなら、探偵なんてしないもんさ。他人の人生の後始末だからな。


 神戸市中央区の会場に近づいたときに電話がなった。長藻のiPhoneだった。


『どこ?』


 一七〇三。きれいな声の女性だった。


 おおかたの連絡先にはメールで伝えていたが、長藻個人のこと(プライベート)はノータッチだった。そんなもの知るか。


「長藻に不幸がございまして……」


 私は言葉を選んで答えた。


 一秒。


 深呼吸が聞こえた。言葉は人だ。一秒あれば、感謝も憎悪も伝えることができる。


『お花を添えたいのですが』


 ていねいな大人の女性だった。間違いない美人だ。私は会場を案内した。住所を言おうとしたが、知っていると切られた。


 夏の送りはつらい。まだ夜だけにマシだった。明昼が暑くなるのをみんなが知っていた。白井という若い女性が受付をしていた。


 親族席に和服の由子がいた。となりには親御さんが亡くなったのか学生も。痛ましい。


 別に挨拶をしたいわけではなかったが、由子を見た私だった。静かな目をしていた。


 会釈と会釈。


 何も言えなかった。


 何かできるわけでもない。


 ……それに私が慰めるにしても弘行を思い出すだろう? すっと私は自分の心の琴線をまた一つ切った。


 膝カックン。


〈セイレーン〉も何もない、不思議な感覚だった。殺気すらない。


 デカ! カックンした美女は、私と同じほど背があった。紅は落としていたがシックなシャネルのスーツ。本気マジモードだった。勝負パンツだよ長藻さん……。はいていないかも……。


 私と女は借りた数珠を戻し、表に出た。


 陰気な夜だった。


「飲もう」


 そうなった。


 女の名前は桃葉ももはというらしい。本名かどうかは知らない。仕事じゃあないんだ。女は謎のほうが美しい。


 到着。看板に〈鶏炙り 周悠〉とある。見事な書だった。ルビは〈とりあぶり しゅうゆう〉筆記体だ。


王羲之おうぎしよ」


 見とれていた私に桃葉が答えを教えた。私も名前ぐらいは知っている。


「あっあぁ~ん。受け売り。どうぞ」


 桃葉がほほえみながら引き戸を開けた。


 カウンターの予約席に案内されると、すぐに突き出しが出てくる。


「生中二つ」


 桃葉が私の意見も聞かず、注文を言いおわる前にビールが二つ並べられた。速い。さっきまで冷凍庫にあったジョッキのうちから凍ったしずくが浮き上がってくる。


 軽く乾杯して、新鮮な国産生ビールを飲み干した。……うまい。


 夏には生ビールが定番だが実はこの時期ハズレを引く確率が高い。大麦の収穫時期である麦秋が一か月前だからだ。熟成には三日と経からないのに、物流がわるいと前のにあたってしまう。


 マスターを見ると、戸に影が三つ見えた時点で突き出しをデシャップに用意している。速いはずだ。


「いらっしゃい!」


 いただきます。突き出し(お通し)は、蛸の胡瓜の酢のもの。ていねいに蛸包丁で一口大に切られていた。香りづけと彩りに大葉の千切りがすこし添えられている。あわく山椒。……うまい。突き出しだけでオーラスできるぐらいだ。


 すぐに鶏のタタキが出された。きれいな色をしている。


「ここは注文がきてから串打ちするから新鮮なのよ」


 注文すらしていない桃葉が言った。お任せコースを頼んでいたのだろう。一人で食べるにはもったいない。楊貴妃。


 桃葉が二杯目を頼んだ。私もつづく。


 桃葉がかなしいのは知っている。長藻が好きそうな気の強い女だった。


 よく見ると南々子さんっぽい。……関連?


 私は考えるのは後にした。まずは食べよう。金もある。


 マスターが無口に串を打っていた。


「乾杯しましょう」


 出されたジョッキを前に、桃葉が言った。賛成だ。見透かされているような感覚……長藻といっしょにいた私が、別の人間に感じる感覚だった。


「乾杯!」


 飲み終えた桃葉が見ていた。イコール乾杯――飲み干せだ。


 すっと飲んだ私に次のジョッキがあった。いつのまにかマスターがそそいだらしい。


 美女は容赦ない。で、あの朝か。


 次の約束はしなかった。




 あれ以来、私は由子には会っていない。経費の明細を「身辺警護」として送付したきりだ。報告書は書いていない。いま一度伝える必要なんかないだろう。どんな答えであれ結果は得たのだから。


 はざま企画のホームページは〈代表取締役会長 松風なおみ〉〈代表取締役社長 小山田由子〉になっていた。なおみは営業に専念するのだろう。とても事務方じゃあない。残務整理で、長藻がwebを作ったときの法人登記を見ると、由子は未成年で取締役になっていた。もう一人の取締役が蒲沼励。ファクス送付元は〝Asunaro-Tax〟だった。


 ……紹介でレイさんだと聞けば、一見さんだと思うじゃあないか。ぜんぶ翌檜さんの手筈か……。


 上階の翌檜の事務所では、新しい女性が雇われたらしい。赤木南々子に似た別の美女だ。いつもながらセンスは一流だった。それは認めよう。香り以外は。


 さてどうするか。営業(長藻)がいなくては実務は回らない。廃業の届け出は、廃止の日から十日以内。印鑑証明もいらない。手数料もいらない。簡素なものだ。


 コーヒーが切れていたのを思い出した。買いに行こう。


 通りを上がった。雲間がみじかい。すっきりしないがまぁ晴れている。


 南京町の管鮑商行でパンクな少女がお粥を食べていた。ニューオーリンズっぽいパラソルの下でオーナーの管立斤が相手をしていた。斤さんいくつだった? 若いな。


 昨日はさすがに食べ過ぎた。いまは食べられない。通りすぎようとしたとき、ふと少女と目があった。ほほえむ少女。軽くほほえみ返し、ゆきすぎた。案外きれいな顔をしていた。パンクだなんて美人がもったいない。……というか、学校に行けよ。


 先山さきやま珈琲で物色するがマダガスカルは売り切れていた。ほかに〝おもしろそう〟な品はなかった。


「明日にはコンゴがはいるけど、おすすめはしないね」


 私の好みは知っている。はっきり言う先山さんだった。奥の喫茶からマダガスカルの香りがした。たしなんでいたのは片手が不自由なスーツの男性だった。私は名前を思い出せなかった。……挨拶をするほどの仲じゃあないことは確かだ。


 結局、アメリカン・ブレンドを頼んだ。理由は特売だったから。


 先山がいやそうな顔をした。


「もう一人のですよ」


 長藻がたまに買っていた。私が言葉をつづけると安心したようだ。知らない人間がアメリカンを豆で買うなんて気が狂っているとしか思えないだろう。


 袋に入れるだけで店内に香りが充満した。先山の煎りは日本一だった。世界でも五本の指に入る。もちろん農園と契約して、土の風味を知っている。そんな人間は身近にいるものだ。


 アメリカンはエスプレッソのお湯割りではない。コーヒー好きには外道だ。浅煎り(シナモンロースト)の豆を粗く挽いて、水みたいにガブガブ飲むのだ。カウボーイがテンガロン(キャトルマン)に入れて叩き割ったのがルーツらしい。繊細に挽くと苦味よりエグミになる。


 つまりもとより美味しいわけがないのだ。それを世界ナンバー5がつくっている。ひねくれた長藻の頼みそうなことだった。しばらくはそんなコーヒーも楽しいだろう。


 コーヒーの香りで満たされた私はふっと振り返った。遠くに海が見える。


 ちょうどあの日も振り返った……。


 ――医師が足りないのでヘリコプターで搬送した――


 私は海を見ながら笑ってしまった。……あの船には医師がいた。では、病人は? 移植を待つ裕福な人は? ……神戸のTVのスポンサーは茶泉グループだ。


 過ぎたことだった。次の停泊先を調べるようなことはしなかった。サックス損害保険に聞けば教えてくれるかもしれない。サックス生命保険か。


 ……思い出した玖珂くがさんだ。むこうはこっちを知らない。挨拶せずに正解だった。


 その意味ではマスマイヤーは社会に貢献したのだろう。マゾヒスティックな彼のことだ。地獄は楽しいにちがいない。アーメン。


 まぁ待っていろよ。


〝So long, goodbye.〟そう長い時間じゃあない。じゃあな。





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