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B.回廊

B.回廊


 美少年BJだったものが担架に載せられ、シーツをかぶせられた。


 フランボワーズに命令され、双子の一人が押して消える。


 人間はどこからが生でどこからが死なのか、わたしには解らない。生命は均質にあるものでもなく、複雑に絡み合い、そして簡潔にただただ、そこにある。最初はどこからだろう。受精したときか。それとも羊水の中で人の形になったときか。あるいは産まれでたときか。産声をあげたときか。目を開いたときか。寝返り、い、歩き、立ち、自分の意見を言えたときか。


 存在するだけでは生きているとは言えない。ジャン=ジャック・ルソーを思い出す。


 哲学者イマヌエル・カントは昼の散歩を忘れたことがある。正確無比なカントがどこを歩き、どの角を曲がっているかで時刻を知っていた村人が驚いた。カントは本を読みふけっていた。ルソーの「エミール」だ。感銘を受けたらしい。もっとも理想と現実はちがう。ジャン=ジャックの私生活はおよそ哲学者とは言い難い。いや、だからこそ哲学者なのか。詳しくはwebで。R18+だが……。むすんでひらいて。結縁開運。


 死はもっと不可解だ。心臓が止まったときか。それとも脳か。意識がなくなったときか。植物人間は情報を外部出力できていないだけかもしれない。


 どちらにしても解りづらく、簡単ではない。


――三界狂人不知狂 四生盲者不識盲 生生生生暗生始 死死死死冥死終――


……三界の狂人は狂せるを知らず、四生の盲者は盲なるを識らず、生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く、死に死に死に死に死んで死の終わりにくらし。「秘蔵宝鑰ひぞうほうやく」だな。


……迷いの世界で狂っている人は、狂っていることを知らない。真実を見抜けない生きとし生ける者は、何も見えていないことが分からない。生きて生きて生きて生きて、生の始めが分からない。死んで死んで死んで死んで、死の終わりが解らない……。


 四生のうちでも化生けしょうの身となれば、いかなるものか。


「三千世界の鴉を殺し、主と添い寝がしてみたい」


 むかしの都々逸(どどいつ)だ。だれだったっけ?


〝It was the nightingale, and not the lark.〟


 わたしがぼんやり言うと、フランボワーズが返した。ジュリットの台詞だ。「あれは夜鳴鶯ナイチンゲールよ、雲雀ヒバリじゃないわ」ナイチンゲールの別名は墓場鳥というのだが……。


 そういえばこの回廊はナイチンゲール病棟に続くのか……。


 フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale)は、統計によって世界を窯変ようへんさせた天才の一人だ。


 クリミア戦争(The Crimean War、一八五三―一八五六)の時代、看護師の身分はとても低いものだった。良家の娘として素晴らしい教育を受けたナイチンゲールは従軍し、「白衣の天使」として看護師の地位を向上させた。家族に反対され、どう生きるべきか悩んでいた時に相談したのがパーキンス盲学校の校長サミュエル・グリドリー・ハウ(Samuel Gridley Howe)だった。ハウはナイチンゲールを励まし、看護師の道へと歩ませた。意外かも知れないが、実際に看護婦として奉仕したのは、戦争中の二年間だけだ。英雄としての名誉をためらったナイチンゲールは人知れず帰国し、豊かな教養から統計に基づく医療衛生の改革を推進した。


 パーキンス盲学校といえば「奇跡の人」アン・サリヴァンと、ヘレン・ケラーだ。「電話を発明したアレクサンダー・グラハム・ベルは、三重苦のヘレン・ケラーと友だち」というのがわたしの好きなジョークだ。実はジョークではなく本当の話なのは、いつものわたしだ。ベル(Alexander Graham Bell)が、ヘレン・ケラー(Helen Adams Keller)に紹介したのが「奇跡の人」(The Miracle Worker)アン・サリヴァン(Johanna "Anne" Mansfield Sullivan Macy)だ。よく勘違いされているが、ヘレン・ケラーは「奇跡の人」ではない。彼女に生きる光を与えたアン・サリヴァンが「奇跡の人」だ。


 ナイチンゲールの末裔である病院スタッフ二人が床を拭き、薬莢を拾っている。グルかよ。


「残りを片づけろ。今日で終わらせる」


「Roger.」了解。


 フランボワーズが残った双子の一人に命令した。


「来い」


 双子が先導した。わたしもつづく。フランボワーズはiPhoneを使っている。


 旧館に入った。


「残り何人なんだ? ジャン」


〈セイレーン〉は鳴っているが、ほんとうにこいつなのか?


亡霊ファントムは数字が読めないんだろう?」


 質問にも名前にも答えず、質問を返した。


 数字が読めないのは生来だが、フランボワーズの隊はいつもこんな調子なのか? というか亡霊ファントムが名前なのか……。


「五人だ」


 すんなり答えてくれる。


「さっきのを入れて?」


「入っていない」


 兵站へいたんだ。残りどれだけで仕事をする。養生の足りた建築現場は赤仕事かやり直しと相場は決まっている。


「ほんとうは三つ子なのか? 五つ子?」


 双子の気配が変わった。右手にFN Five-seveNが握られている。


「五つ子だ。生まれてすぐ一人は死んだ。くっついていた二人は一人になった。……軍関係者でも知らないことを……本当なんだな〝みえる〟というのは」


 正確にはみえない。そんなにも精密には感じられない。朧月だ。まったくいきじゃない。月に叢雲むらくも花に風。


「マスマイヤーはどんなヤツなんだ?」


「気が狂った変質者だ。元はフランス対外治安総局の中尉だ。有能だったが、女子供を殺して楽しむ狂人だ。やっと処分できる」


「置き去りにされるわけだ」


「ちがう。全員の時間はあっていた。撤収時間が急に変更になった。少佐も――当時は中尉だが――助けるつもりだった」


「ハインドか……」


「命令を無視して、あの三人を助けるために全員を危険にさらすことはできなかった。少佐の判断は正しかった」


「それにしてもどうしてハインドが七機も――」


 ……そういうことか。本当はマスマイヤーの処分ではなかったんだ。ヤツごとき二機一組で十分だ。あの時、フランボワーズに問われたコックピットの男は……。


 つながった。


〈セイレーン〉


 双子が振り返った。無表情。


 わたしは反射的に銃を撃った。自然に。躊躇なく。フランボワーズのように身をひるがえす。


 流石に双子は速い。撃ち返しながら、視界から消えた。


 無意識に心臓をかばった左手のブルガリのバングルが弾丸をはじいた。もったいない。


 金風鈴の音だけが響いていた。


 実質的には、自分で撃ったという感触があったのは今のが最初だった。その前のは感覚が一部ショートしているような感じだった。


 敵はまだ生きている。


 残響で、やっと痛みがでてくる。まだ、生きている。


 遠くで銃声がした。新館だな。さてはて、次に双子にあったときはどうすれば良い?


 フランボワーズに連絡するにも携帯もない。それにどちらか一方が裏切者だと知っている。今さらどうこうもない。しかし、マスマイヤーの残党狩りをするにしても、この病院はおそろしく広いんだが……。さてはて行くか……。


 救急治療室に近づくと美女が走ってくる。バツイチだが。子持ちだが。歳はいくつだったっけ……。


「こちらにどうぞ」と、手で松風なおみに部屋を案内してやる。なおみは目がいい。見えたらしい。


 すぐに戸を閉めて中に隠れてしまう。おいおい。


 何気なしに、近くの消火器を手に取ってピンを抜いた。忘れていた。やっぱ痛い……。気配を消して隠れながら、消火器の口を固定した。


 つづくマイクと若い美女が走ってきた。入れないので怒っている。まぁそれはそうだ。どう考えても、なおみが悪い。帰ったらお尻ペンペンだ。


 すぐに敵が二人。どうして分かるかといえば、銃口をこちらに向けたから。


 ファイア。


 消化剤を敵にかける。同時に撃っている。


 実際は三人!だった。一人は後ろで気配を消していたらしい。


 一人が逃げた!


 追う。マイクがいれば早いが、女が二人では話にならない。


 それに前の敵も素早いが、所詮しょせんは少年だ。わたしのほうが速い。もう二日酔いは醒めている。


 チャンス!


 狙うが、ムリだとフランボワーズのカンが教えてくれる。走る。今日はなんて日だ、まったく。


 意識の中に、BJの記憶が流れて込んでくる。関係者全員の無意識の画像から、一つの映画に仕上がった。


 ……簡単な話だった。敵に情報をリークして、ハインド七機で殲滅せんめつさせた。そして間に合わなかった時間。変更されたもう一つの時間。マスマイヤーは、かろうじて生き残ったのだろう。だから恐喝した。


 誰を?


 本来の目標は、アンリ・ルネ・サックスだったんだ。アンリ・ルネが死んで一番得をするする人物は誰か? 決まっている、アルベール・ギ・サックスだ。アルベール・ギが自分ですることはないだろう。眷属けんぞくが勝手にやったんだろう……。いやちがう、リプレイ……ヤスミンの彼氏、つまりカミーユの父親はもしかして……。


「マスマイヤー!!」


 通路の角を曲がりしな、美少年の笑みを見た。BJそっくりのクローン体。ちがう! こちらがオリジナルだ!


 マスマイヤーはヤスミンと別れさせられたから、アンリ・ルネを供物にしたんだ! フル装備の人狩りハインドから逃げられるわけがない。最初から用意していたんだ。逃げられぬ兎の穴を。自分を餌に戦場を狩り、全員を茶泉の実験材料にしたんだ。実験映像。ゆがんだ映像。ひずんだ映像。セルロイドのようにとけながら燃える映像。高笑いする男の声。享楽を告げる口。情熱を告げる口。傲慢を告げる口。


 狂ってやがる!


 ヤスミンはマスマイヤーの性根を知って逃げ帰ってきたんだ。かわいそうに美しい顔が挽肉ミンチになっている……。アントワーヌ翁がショックで倒れている。復讐の眼光。黒く長い手がのびる。それでマスマイヤーはフランス対外治安総局、つまり情報機関に逃げ込んだのか……。


 フランボワーズの目的は「静寂」だ。永遠の美少年マスマイヤーの、完全な「死」だ。


亡霊ファントム聞こえる?』


 眼鏡からフランボワーズの声が聞こえる。これって近距離以外でも使えるのか? そうかそうなのか。軍用だもんな。何をしているんだ、わたし。


「まだ生きている」


 弾倉マガジンを交換しながら冷静沈着に話す。双子がジャマしてたんだ。


『そのまま死んでいて。マスマイヤーを追い詰めたわ』


 画像が表示される。ラストは第二手術室だ。わたしの場所からは遠い。


「私が追っているのは?」


偽物フェイク


「こっちがオリジナルだろう?」


『もうそんなものはないのよ。焼却して』


 以下ふじこ。


『お前の感覚がこちらに流れ込むんだがどうやったら止められる?』


 フランボワーズがすこし哀しそうに言った。慣れているとはいえ、あんな絵を見せられたらムリもない。部下のジャン(もしくはミシェル)が犯人だと確信はしていても間接的に知るわけだから。


「リンクを解除するか、死ぬか。要は意識を止めれば、止まる」


『Good luck!』


 亡霊ファントムには相応しくない言葉だな。


 追い詰めた。


 ファイア。


 病室から飛び降りようとするマスマイヤー#2を撃つ。


 ヒット。


 腹部盲管射創。


 つづけて心臓に二発、脳幹に一発ずつ入れる。いい加減にしてくれ。ジェットコースターも二回つづけたら楽しくない。


 不用意に近づくようなことはしなかった。ナイフがある。銃口をそのままで俯瞰ふかんした。床にブービートラップ。飛び出す絵本か、まったく。ガキの考えそうなことだ。マイクじゃなくて良かった。踏み込んだ瞬間にズドンだ。


 一呼吸ひいて作動させる。――いやちょっと待て。


〈セイレーン〉だ。


 右奥のベッド上の寝具を撃った。


 悲鳴。マスマイヤー#3だった。


 これだけ多いと金髪碧眼の希少価値はないな。


 後ろに歩み、病室を出て〈セイレーン〉の歌声が小さくなったところで、狙いをさだめて撃ち、トラップを作動させた。


〝Air on the G String〟・四十五口径の「G線上のアリア」だった。こんなヤツにはもったいなさすぎる。


 生命が複数あるというのなら、単価はそのぶん安くなる。死を恐れない軍隊。帝国陸軍(昭和戦争)の亡霊ファントムめ。


 天上にある天使あめのつかいは十二の翼をひろげ、その顔その身を隠し、大きくはばたき焦土に羽毛を落とす。地表は、血肉を這う蛆虫が羽毛をまとい毛虫の咆哮をあげさなぎから蝶へと変貌する舞台になる。しかし蝶がどんなにはばたいても鱗粉が落ちるだけ。天使あめのつかいの翼の風に流され消える定め。やがて陽は落ち、花の蜜をすう蝶は、月明かりに照らされ蛾となる。蛾は口を巻き閉じる。蛾の光は月の光のあまり。月の光は太陽の光のあまり。太陽の光は天上の数多あまたの光のあまり。天使あめのつかいは翼を閉じて眠る。まだ地獄は地表につづいている。砂時計はまたひっくり返されるだけだ。


 土は土に。灰は灰に。塵は塵に。


〝Dust thou art, and unto dust shalt thou return.〟


 ――汝、塵より生まれうは、塵に還するものなり――


 そろそろ時間らしい。


 喉が乾いた。「ニーベルンゲンの歌」に血潮を飲むシーンがあったな。酒より美味いそうだ。


 静かな旧館を一人の少女が歩いていた。セーラー服だ。後ろ姿から察するに高校生か……。


 慎重な足取りだった。やや緑がかった青の上着に白の襟と同色の色線。スカートはやや暗めだが室内のせいだろう。


 一つだけ問題があるとすれば、その少女が銃を手にしていることだった。オーバーニーソックスに弾倉マガジンをはさんでやがる。


 Heckler & Koch Universal Self-loading Pistol .45ACP――H&K USP .45ACP――セーラー服と・四十五口径……。


 気配をそのままに通り過ぎた。


 マスマイヤーの別バージョンか? 疑問は残るが、そこまで変態(HENTAI)じゃないだろう……。いやあるいは……まぁいい、今は目標じゃない。フランボワーズも感じているだろう。


 女子供を撃ちたくないとかそういうのではなく、あの気迫というか殺気というか……。普通ではない。それだけは分かる。〝触れるな〟だ。


 それ以上は考えずに進んだ。いま考えても答えはでない。


 前に人影。歩いているのはマイクとさっきの若い美女……依頼者クライアントじゃないか!


 深呼吸をした。どうして小山田由子さんがここにいる?


 フランボワーズに訳を話して……通じることはないな。逆にフランボワーズが彼女を案内したのかも……。目障りにはちがいない。さてはて。


 到着。


 第二手術室。手術といっても、修復ではなく分解のほうだ。移植するための。


〝臓器を輸出するのにパスポートは要らない。税関で生きている臓器を開封させられることもない〟


 確かに。……フランボワーズの言葉がよみがえる。医師の書類があり、人道的にも支援されるような仕事だ。誰がジャマをするというのか。新鮮なレタスを書類不備で空港に一日おいておけばどうなるか子供でも分かる。


 ふっと疑問が解ける。今回の大規模災害も、無作為に移植するためなんじゃないのか? 大きな事故で片目が見えなくなっても腎臓が一つなくなっても、助かっただけで幸せだと思うだろう。入れ食い状態……産地直送……。まさか神戸空港って……。


 マイクと由子がよせばいいのに手術室を覗いた。


 閃光弾。ホワイトアウト。視界が真っ白になる。


 予測していたわたしは、ピンポイントで射撃する。慣れたものだ。


 金風鈴の音。


 フランボワーズがむこうから歩いてきた。動く可能性のある標的にとどめを刺す。


 全滅。容赦ない。


 玲瓏れいろうとした金の音が木霊こだましていた。身体は正直だ。これから言うことを聞きたくないらしい。


「なりゆきだよ。由子さん。彼にはもう会えない。帰ろう日常に」


 弘行が死んだ事実を知った由子が、銃を手にしようとした。


 言葉では止めるわたしも、銃を手にしたまま、ただただ待つしかなかった。


 案外、銃は重い。ましてや・四十五口径だ。ポリマーフレームでもフル弾倉マガジンだと一キロはある。プロフェッショナルでも両手をそえる。ましてや女性がまともに撃てる代物ではない。撃った反動で銃を頭にぶつけるぐらいならマシだといえる。


 結局、由子がマイクの胸を叩いておわりだった。由子のきつく握った左の拳から血がにじみ出ていた。それが答えだった。


「どういうことなんだ?」


 マイクがフランボワーズに問うた。さっきわたしが渡した銃をもったままだ。銃口は下になっていたが、照準は彼女にあっている。


「もういない。帰ろう」


 声をかけたが向こうともしない。


「あなたは黙っていてくれ。私はブレル少佐に聞いているんだ!」


 わたしは、眼鏡を正した。白手袋に硝煙の香りがしみていた。画像データには「残2」とある。


「お金で解決しよう。ミシェル・コンティナンタル元曹長。好きな額を言え」


 フランボワーズがマスマイヤー#4だったものの前で通告した。右手はブローニングを手にしたまま、眼鏡を正した。眼鏡がなくても正確に当てるだろう。マイクでは勝てない。


「お金なんていりません! あの人を返してください!!」


 涙に濡れる由子の固く握りしめた拳に血がひろがっていた。マイクが左手で支えている。


「返して……弘行さんを返してください!!」


 それはできない相談だ。由子さん。死人しびとは生き返らない。緊張のなか直江兼続の冗談を思い出した。死人しびとは生き返らない。エントロピーはどうあっても増大する。どうあっても。


 二人を誘導しようとわたしが一歩前に出ようとした瞬間に、マイクが反応した。


「あなたを撃ちたくない」


 静かにマイクが言った。わたしもそうだよ。心の中で答えた。伝わっているから答えたんだろう。




「私は彼女の代理人エージェントだ。理由を知りたい。伝える義務がある」


 結局、泣かせてしまった。私は朝の自分の言葉を思い出していた。……別れを聞くことになるかもしれません……たぶんそうなるでしょう……君が泣くのを見たくない……。


「……君が泣くのを見たくない」


 私は言葉に出して由子に言った。


 うなだれた由子が言葉を返した。


「……わかっていたんです。きのう社長と伺ったときから……」


 一体なんの話だ?


翌檜あすなろ先生から『地雷を踏んだんだ』と言われました。連絡先も何もかも全部全部消して忘れようとしたのに、でもそれでも……かすかな望みも持ってはいけないんですか?」


 おい! ちょっと待て! 昨日平橋邸に行ったのか? 長藻が私を見た。聞いていないらしい。紹介はレイさんだって……。




 ヤ、ラ、レ、タ……それは大事おおごとになるわな。南々ななこのボスは翌檜銀二弁護士だ。南々子は翌檜を探っていたのか……。アーメン。


 とするとマスマイヤーが、翌檜に蒲沼に力をかけたのか……。フランボワーズの目的は「静寂」だ。ついでに昔の因縁も処分か……。


「南々ななこがマスマイヤーに殺された」


 わたしはマイクに言った。雨がまだ降っているかのように。淡淡と。


「マスマイヤーは死んでいる」


「そのBJ……少年がそうだ」


 マイクは倒れているマスマイヤー#4の顔を見た。


「確かにあのとき死んだ」


 わたしの脳裏にヘリコプターの映像が再生される。あのときのフランボワーズ中尉の声が聞こえる。


『待て! まだマスマイヤーが!!』


 眼鏡も感電痕もない美しい顔のフランボワーズだ。


『時間です』


 コックピットの男が振り返って答えた。ミシェル・コンティナンタル軍曹だ。


『あと三分ある!』


『時間です。出せ!』


 絶望するマスマイヤーの突き上げた拳が遠く地平線に残っていた。光と轟音。そして静寂。ヘリコプターの回転音だけが鳴っている。


「アントワーヌ翁のめいか?」


 わたしはフランボワーズに聞いた。


「時間だ」


 フランボワーズが質問を無視して、言った。正解らしい。




「いくらにする?」


 由子が答えようとするが、私が止めた。


「OTANがそんな金を出す訳がない。生命の値段か?」


「えっ!? どういうこと?」


「自分の生命の値段をつけろと言っているんだ。それで見逃してやると」


 支払う気のない人間ほど強いものはない。借金も大きくなれば融資と名前を変え、支払う方の立場が優位になりやすい。


「弘行さんは……もういないんですか?」


 最後の最後だ。由子の言いたいことが誰にもわかった。


 フランボワーズは白手袋を水平に切っただけだった。話はおわり。これまでもこれからもない。あなたはここにいなかった。




 わたしにつづき、由子を支えてマイクも出口にむかった。


 人の気配がする。わたしは足をゆるめなかった。双子の一人ジャンだ。


〈セイレーン〉はない。


 ただしFN Five-seveNがあった。5.7x28mmはライフル弾のような形をしている。


 NGだとわたしが判断したときには、遅かった。


 かわしきれない。わたしの右目が最後に見たのは、FN Five-seveNから発射された5.7x28mmのSS193亜音速弾の白い弾頭だった。くずれる。




 由子の悲鳴が第二手術室に響いた。かつては生きながら生皮をはがされた血ぬめる獣のような悲鳴だった。


 フランボワーズは無表情に、倒れている長藻の首筋に手をやり、心臓に二発撃つと、片目を閉じた。


「アーメン」


 私は躊躇ちゅうちょした。長藻がいれば優勢だが、動かないとなるとこれはもう手を上げるしかなかった。どのみち長藻がいてもフランボワーズ相手に勝てるとは思わなかった。由子を連れて逃げるにしてもどちらかが犠牲になっただろう。


「彼女だけでも……」


 私は陳情した。


 フランボワーズは眼鏡を正しながら、安全装置セーフティをかけた。おわり。


 ジャンは私から銃と弾倉を受け取った。


「長藻さんが……長藻さんが……」


「行こう」


 生きているだけが奇跡なのだ。私は由子を連れて旧館から緑の中庭に進んだ。


 すっと気配が消えた。


 由子が振り向くと、そこには何もなかった。古い旧館の回廊が長く長くつづいているだけだった。


「彼は……」


「もういない」


 由子の問いに答えた。その彼が、平橋弘行をさしているのか長藻秋詠をさしているのか、私は聞かなかった。どちらにしてももういない。


 もういないんだ。


 歩きながら、そう死んだんだと実感しているのが自分でもわかった。長藻との付き合いはフランボワーズより古い。


 日本人の私が、マリスト国際学校に入学したのは父の再婚からだった。継母はフランスの製薬会社に勤める研究者だった。それまでは普通の小学生がいきなり外国人の仲間になったのだ。いじめがない訳がなかった。マリストに入ってすぐは、される立場だったが数年のうちに体格がぐんとのびて、する側になった。たちまちやんちゃなカナディアン・アカデミーともケンカになった。その帰り、灘から芦屋までの国道を歩いているときに拾ってくれたのが長藻だった。


 いつものように人通りの少ない深夜の国道を私は歩いていた。止まったのは古いホンダのアスコットだった。ただ逆方向だった。三宮まで行く用事のあった長藻は、その帰りに私を乗せて芦屋の駅まで送ってくれたのが最初だった。


 長藻が〈Relaxin'(リラクシン)〉の店長をしていたときだ。黒の比翼仕立のカッターシャツ。胸のポケットすらない特注の黒服だった。あまくないクリース(折り目)。


 長藻は、未成年なのに飲んでいた私をとがめようともせず、名刺を渡しただけだった。白タクでもなく、料金も取らずに私を一人芦屋の駅前に残して長藻は消えた。私が払おうにもポケットの中には大一枚もなかったのだが。


 名刺には手書きで携帯の電話番号が記してあった。


 しばらくして小銭を貯めた私が電話して一緒に飲むことになった。そのときも長藻は歳を聞かなかった。考えてみれば不思議な縁だったが、とぼけた長藻にすこしずつ引かれている私がいた。


 私の継母の勤める製薬会社が茶泉製薬に買収されてからは、帰りも遅くなり、それと同時に父の帰りも遅くなった。結果、父は猟奇殺人の被害者として海に捨てられた。愛人が捕まったが否認したまま刑に服している。継母との距離はそれまで感じなかったが、二人になってしまえば、よそよそしいものだった。その継母も臨床事故で亡くなってしまった。


 後ろ楯のなくなった私は非行一直線。いかがわしい連中とのいざこざから逃げるように国外に脱出した。


 金の足りない私は長藻に無心した。すぐに振込があった。日本に帰ってから聞くとそのお金は、親に借りたのだという。〈Relaxin'(リラクシン)〉に出資していた長藻は手持ちがなかったのだ。


 フランスに渡った私が何をしたか。手っ取り早く金を稼ぐには力仕事だった。私はフランス軍に入隊した。そして事故。


 日本に帰ってもロクな仕事はなかった。金も尽きたころ事務所に誘われたのが縁だ。いまでは私のほうが事務所を切り盛りしている。


 その長藻がもういない。アーメン。


 帰ってまなしのころ私は、長藻に聞いたことがある。どうして未成年の飲酒を止めなかったのかと。答えは簡単だった。


「責任は取れるだろう」


 長藻はパートナーとして、私を扱っていた。


 私は由子を支えながら、回廊から中庭を見た。


 常緑は三角草みすみそうだった。


〈自信〉〈信頼〉


 心がかわく。





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