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1.半夏生

1.半夏生


 雨。月曜。春先から降りつづいた雨も終わろうとしていた。ただし蝋燭ろうそくの炎が消える前のように雨脚が強くなるのは、いつも通りの憂鬱ゆううつだった。ここ神戸でもそれは変わらない。


 依頼人クライアントはていねいな人間だった。レインコートを、手にしたデイパックのポケットに入れていた。つまり玄関で露を払ったということだ。たぶんタクシーに乗るときも傘を振るのだろう。時刻は〇六三八。午後の六時でもなく十六時でもない。〇六時。それだけが気がかりだった。


 その時間、レンガ造りのビル〝ヂ〟ングの四階にいるのは依頼人クライアントと、代理人エージェントの二人だけだった。


 約束の時間は〇七時だったが、上がってもらった。用意――髭をあてる、熱いシャワー、整髪――ができて、雨音にゆれるロールカーテンを開けるとコーヒーの湯煙と雨煙のむこうに、女はいた。私がゴミを捨て、仕事前に軽く歩こうとビルを出たときにはいたから、少なくとも二十分は立っていたことになる。


 手渡されたバスタオルで、女は礼を言って、まずスマートフォンを拭いた。NTT DoCoMoの国産最新型だった。防水はされているだろうが習慣だろう。


 案内されたソファーに、レインコートのかわりに出したであろうタオルをひいて、デイパックをおいた。濡れ髪をふく若い女の匂いが古い事務所に満たされた。


 キッチンで沸かしなおしたお湯でコーヒーをおとしている間に、契約書を読んでいる依頼人クライアントを観察した。彼女の位置からでは私は見えない。アップにした黒髪。淡いルージュ。ピアス穴がないのは雰囲気からわかるが、イヤリングはおろか指輪・ブローチすらしていない。時計はセイコー・クレドール。濃紺のブラウスに、動きやすい淡いブルーのパンツ。デイパックは重くソファーに沈んでいた。


 冷えた身体をあたためてもらおうと、少し大きめのマグカップでコーヒーをさしだした。白く細い指がカップを交差する。やわらかい笑顔。惚れる男は多いだろう。私にとっては今日四杯目のコーヒーだったが、美味しかったのはいうまでもない。


「おいしい。……マダガスカルですか?」


 正解だ。


「ええ。お好きなんですか?」


「売ったことがあるものですから」


 おまけに賢い。自分の感想は言わず、過程を答えた。よくない徴候サインだった。裏を返す。


「マネキンで、ですか?」


 私の言葉に、彼女がほほえんだ。


「はい、そうです」


 華奢なイメージの彼女だったが、物言いは丁寧でしっかりしていた。声もいい。


「どうしてそうお思いになるのです?」


 ミルクをいれず、彼女は三温糖さんおんとうを一スプーンいれた。白砂糖ではなく。


「理由は三つ」


 それは、疑問を返すときの常套句で、三という数は適当だ。話しながらつなげばいい。数えた指をおろした。今回の場合は三つ以上あった。ゆっくりと彼女を観察できる。


「一つ。マダガスカルのコーヒーを知っている人は少ない。つまり味がわかって販売している人は限定される。コーヒーショップの場合は、銘柄を知っていても飲んでいない人が多いし、この時間では遅刻してしまう。店舗の場合ほぼ飲んでいないし、個人で楽しんでいて友人知人に売ったとしても、好きであれば香りで気づく――」


「――すみません、質問はよろしいですか?」


「どうぞ」


「どうして気づくとわかるんですか?」


 質問があるのはいいことだ。それが信用の深みになる。


「口にしたからです。マダガスカルという言葉を。飲んでそうだと確信した。香りだけではわからなかった――だから言わなかった。前に少なくとも一度は口にしていて、それほど好きではないが覚えている――そんなケースです」


「失礼しました。つづけてください」


 もう一スプーンを足した。立てた小指がいじらしい。


「インターネットで販売しているとしても同様です。大量に扱えば自然とわかるものです」


 わからない人間は雨のなか二十分も観察したりしない。


「残るのはマネキンです」


 マネキンは、ショーウィンドーの人形じゃあなく(それはそれで見がいはあると思うが)、試食販売の人だ。


「マネキンは、販売前に試食します。でないと説明できませんからね。いくらメーカーの販促文があるからといっても、個人の感想が第一ですから」


 良好。


「二つ。アクセサリーを身につけていません。若い女性がファッションを楽しんでいないのは不自然です」


 高価な時計は業務中はポケットだろう。


「三つ。マネキンであれば、デイパックの重さも納得がいきます。朝の七時に持ち歩くには重すぎます」


 デイパックの中は電磁調理器とフライパンだろう。


 四つ目は、スマートフォンだ。スケジュール管理の有料アプリがあった。マネキンは催事の内容や場所が一定期間で変更になる。今日は神戸でコーヒーを売っていても、明日は西宮でイチゴというように。


 五つ目は――。


〝Un ange passe.〟天使が通りすぎた。


「私はどうですか?」


 カップの角度から、半分は飲んでくれたらしい。口にはあっていなかっただろうが。


「試験ですか?」


「そうではありませんが、どう見えているのか気になったので」


 それを試験という。


「身長は、一五八±(プラスマイナス)一センチ。ドアに目印があります」


 私は質問される前に答えた。話を折られるのは好きじゃあない。誤差は髪のボリュームがわからないからだ。


 彼女が玄関ドアの柄を見た。よく見れば柄が一定間隔になっているのが分かるだろう。コンビニにもあるが、こちらは優雅なペイズリーだった。微妙に複雑な上段の柄が、下段にいくほど粗く簡潔になるのは、空間を広く見せるよくある技法だ。


「体重は四九±・五キロ。靴のサイズは二二・五センチ。これは玄関マット」


 当然だが、ソファーのデイパックの風袋ふうたいは引いている。見た目より少し重いのは立ち仕事をしているせいだろう。筋肉は脂肪より重い。


 ……スリーサイズは上から八八・六二・八五。


 最後は理想を含めているが、美しい女性には違いない。モデルのように振り返る美しさはないが、家において楽しみたい系のかわいらしさだ。香りもいい。


「聡明で、勉強熱心。知識も豊富。自分の魅力をどう表現したらよいのか常に疑問に思うタイプ。仕事はまじめで上司からの信頼も、あつい」


 販売した銘柄を覚えているし、初心者がフライパンを使った試食販売はできない。


「恋人は裕福で、あなた以上に優秀だ」


 若いマネキンの給与であの時計は買えないし、信頼関係もないのに高価なプレゼントを受け取るようなことはしないだろう。それにああしたものを若い女性が自分で買うのはおかしい。正規の店舗なら「恋人を連れてきなさい」と返すところだ。マリー・アントワネットがブレゲに頼むようなことをしちゃあいけない。


 結婚はしていない。結婚指輪をするタイプだ。時計をしているからアレルギーではない。試食販売ではアクセサリーは禁止されているが、結婚指輪だけは例外だ。


 どうやら及第したようだ。席を立たないでいてくれた。


「さてご要件は何でしょう。小山田由子おやまだゆうこさん」


 〇七時の依頼人クライアント、小山田由子はそういう人間だった。




 もう十分にあたたまったらしい。コーヒーは冷めていた。


平橋弘行ひらはしひろゆきさんに会いたいんです」


 神戸中央美術博物館のA4のリーフレット(ちらし)と名刺のコピー、それに丁寧に書かれたメモをさしだした。


 左手の中指のはらに液体絆創膏があった。


 メモの住所は芦屋の上のほうだった。下段に由子の住所・氏名・電話番号がある。生年月日や勤め先も書いてもらった。二十一歳。弘行は二つ上。由子の家は西宮の新興住宅地だった。


「恋人ですか?」


「大切な人です」


 肯定も否定もせずに、言葉を選んだ。


「もう四日も連絡がないんです」


 男が女に連絡しないときは三つある。一つは仕事。「私と仕事とどっちが大事なの?」という質問は、「生命と地球とどっちが重いか?」と同じ質問だ。くものじゃあないし、言わせるほうがよくない。独裁者夫人と避難ヘリコプターのジョークを思い出した。マリア。


 二つ目は新しい女。


「急な出張とか?」


「いつも連絡をくれていました。それに特別展の準備があります」


 ベネルクス展は秋――三か月も先だった。由子が違うリーフレットを持ってくるとは思えなかった。


「会いに行かれたんですか?」


「職場には。風邪で休むと連絡があったそうです」


「どなたから?」


「わかりません。でも弘行さんは風邪一つしたことがないんです」


 金持ち病気せず。


「自宅には?」


「行っていません」


 小説にある物憂ものうげな表情というのはこういうことをいうのだろうな。真意は通じにくい。


「どうしてですか?」


「……弘行さんがいないと取り次いで――くれないんです」


 疑問符が三つ。


「契約をする前によろしいですか?」


 私は指を交差させて言った。


「はい」


「他の興信所に頼んではどうでしょう? 簡単な案件ですし、すぐに解決してくれると思いますよ」


「理由をおっしゃってください」


 まばたきもせず彼女は言った。


「誰にでもできる仕事は誰かがすればいいというだけです」


「〈ほんとう〉の理由を教えてください」


 依頼人クライアントは結論を求めている。それを解決するのが代理人エージェントの仕事だ。対価は金とは限らない。


「所在をつきとめたとして、彼が会いたくなかった場合、ムリヤリ会わせるのは好きじゃあない」


「――好き嫌いで仕事をするタイプには見えません」


 言うね。この


「……君が泣くのを見たくない」


 女は目にいっぱい涙をため、それでも泣かずにハンカチを出した。


「おかわりは?」


「……結構です」


 私は席を立った。見せ物じゃあない。


 保温していたコーヒーを口にした。おいしいはずがなかった。流しのミルクの上に残りを捨てて水で洗い流した。〇六五〇。


 由子は、三角草みすみそうの柄のハンカチを膝に、正視していた。


「どうしてもと言うなら引き受けます」


 戻った私は、彼女に告げた。


「どうしても、です」


 言葉を返した。


「別れを聞くことになるかもしれません……たぶんそうなるでしょう」


「不釣り合いなのは知っています。でも、それでも……なんとか二人で……やってきたんです。別れるにしてもちゃんと会って言ってくれる約束です」


 三角草みすみそうの色合いが深まった。弘行、罪だな。


「了解しました。契約書は読んでいただけましたか?」


「はい」


「念のために――」


 契約書の該当ページを開いた。


「――入金を確認しだい業務を開始します。契約金は業務の結果にかかわらず返金しません。本件の場合、所在をつきとめ進退を確かめるまでが目的です。つまり所在がわからない場合があっても返金しません。必要経費は契約金とは別途お支払いください」


「二つ質問があります」


「どうぞ」


「どういったものが必要経費なのですか?」


 書いてあるのだが――内容を読み下す。


「旅費交通費や通信費、資格の必要な書類作成などです。たとえば司法書士や弁護士の資格が必要であれば、こちらから依頼して作成することになります。法定費用も別料金です」


「全部でどれぐらい必要なのですか?」


 指で示した。そういう事か。


「そうですか……」


 納得はしてくれたらしい。


「もう一つは?」


代理人エージェントのマイケル・コンチネンタルさんが実務をなさるのですか?」


 プリントされた代理人エージェントの欄に二人の名前があった。


「私がマイケル・コンチネンタルです。マイクで結構です」


 見た目は普通に日本人だから仕方ない。よく間違えられるが、利用しているのだから文句はない。


〈すみません。こちらの長藻ながもさんだとばかり……。長藻ながもさん、であっていますよね?〉


 由子が英語で質問した。上段の責任者の長藻の名前はふつう読めない。


〈あっています。長藻秋詠ながもときながです。読みにくいですが、字書にはあるそうです〉


 私も英語で返した。


〈そうですか。知りませんでした。勉強になります〉


《プライベートなことを聞いていいですか?》


 今度はフランス語だった。


《〝長く〟なります。仕事を終えて時間があればどうぞ》


 たぶんそんな時間はないだろう。


「そうですね。失礼しました。すみません」


「慣れています。気にしないでください」


 由子が選ぶときの条件が英語とフランス語だったらしい。仕事で使えるか確認したかっただけのようだ。ベネルクス……。


 署名は、メモと同じ丁寧な筆跡だった。割印をしていく。紙が中指の液体絆創膏をはがしてしまった。うっすらと契約書の小口こぐちが朱色になる。


「ごめんなさい」


 紙で切るとかなり痛い。デイパックから液体絆創膏を出した。やはり中身は電磁調理器とフライパンだった。包丁も入っているだろう。


「大丈夫ですか?」


「大丈夫です。……よごしてしまってすみません」


「問題ありません」


 二組あるうちの血に染まったほうを由子が取った。私がさしだしたクリアファイルにいれ、その上から手持のポリエチレンの袋にいれた。雨避けだ。


「一つわからないことが……」


 帰る段になって私のほうから質問した。


「はい何でしょう?」


「いつ契約しようと思ったんですか?」


 コレという確かなサインがなかった。


「はい?」


 通じていない。長藻がうつったか。


「あなたが〝ここにしよう〟と決めた瞬間です」


 女性が妊娠したときにふっと分かる瞬間といっしょだ。徴候サインがある。それを見逃すなんて……。


「あぁそれでしたら、最初に指で〈三〉を見せたときです」


 由子が、指を〈三〉に立てて見せた。人差指と中指と親指を立てている。


「はぁ?」


 今度は私に通じていない。


「日本人ならこうです」


 笑顔の由子が人差指と中指と薬指を立てた。


「なるほど……あぁあと一つ」


「はい」


「ご紹介者はどなたですか?」




 レインコートが小さくなるのを確認して、ロールカーテンを閉めた。時刻は〇七〇六。


 メールで届いた弘行の写真を、Windows PCからプリントして確認した。画像があらい。前の携帯で撮影したものだろう。事務所のクラウドに転送した。さすがナナオの四画面は使いやすい。


 神戸中央美術博物館のホームページを確認した。外資系か。平橋弘行の名前はなかったが、副館長が平橋之尚だった。父親か親戚か……。


 検索すると、之尚は「ゆきなお」と読むらしい。


 一通り調べおえ、予定表をつくるころには八時をこえていた。データをクラウドにのせた私はレインコートを着込み、通りを上がった。由子と同じコースだ。こうして歩くと、普通の日本のサラリーマンと変わらない。だが私はこの街でも「異邦人エトランゼ」だった。


 身長一七九センチ。体重は、前にはかったときは八九キロあった。言っておくがほとんど筋肉だ。白いが。


 最近イエスさまより年上になってしまった私だが、長藻のダイエット術で二桁まで落としていた。リバウンドなしでもう半年だから、夏服がなかった。腰で支えきれないスラックスをベルトで止めるのも、もう限界だった。財布のキツイときだったので、今回の件は私にとって朗報だったといえる。


 南京町の管鮑商行であたたかいお粥を胃にいれた。食欲はなかったが習慣だった。広東人のならいだ。「空は飛行機、水は潜水艦、陸は机」以外食べる。食えるときに食う。生きている証だ。


 さらに北上して、阪急電車にむかう。昨日の話だと長藻が車――ホンダ初代アスコット――を使うかもしれなかった。


 イヤホンをして長藻に電話した。長い呼び出し音。


『……ふぁ~い』


「まだ寝ていたの? 長藻さん読んでいないな」


 予想はしていたが、不愉快を隠さず私は静かに言った。


『ごめんなさい』


 長藻は過ちは素直に認めるタイプだった。


「昨日の事は覚えている?」


『ごめんなさい』


 忘却レテの川。まったく。


「レイさんに頼まれたマシミヤ商会さんの食材のサンプル――」


『――それは昼から行くよ。大丈夫』


 二日酔いか。言われて思い出したにしろ、数字をあげてくれれば文句はない。


「お礼を言っておいて。レイさんの紹介だったから」


『あい』


「仕事。平橋弘行さんって知っている? ――平らな石橋を弘法大師が行く――」


『平橋……平らなブリッジだよね。聞いたような……』


「じゃあ神戸中央美術博物館のベネルクス展は?」


『もうやっているの? あれはいいよ。ルーベンスだよルーベンス。ヒエロニムス・ボスもきているし、フェルメールの〈真珠の耳飾りの少女〉なんてもう二度と見られないかも――』


「――まだだよ。で?」


 放っておくと永遠に解説しかねない。


『平橋……神戸中央美術博物館……あぁ平橋彰子(あきこ)さんなら知っている』


之尚ゆきなおさんは?」


『彰子さんのお父さんだよ。館長だ』


「今は副館長だよ」


『そうなの? 何があったんだろう……』


「――今は平橋弘行さんの案件」


 長藻がいろいろ考え出す前に先をいそいだ。ドッグイア。


『その人がどうしたの?』


「探しているんだ」


『確か弟さんがいたなぁ。〝彼〟かも』


「連絡とれる?」


『――行ってくれば?』


 気軽に言う。


「今日は何曜日?」


『♪~~♪~~』


 長藻が歌いだした。カーペンターズ。


「自宅に行ってみる。アレ、お願い。着いたら連絡いれるからそれまでに読んでおいて。二度寝はしないでくれよ長藻さん」


『All right.』


 切ろうとして思い出した。


「あぁそうだ――三角草みすみそうの花言葉は?」


『〈自信〉〈信頼〉』


「Thanks.」サンクス。


『Not at all.』どういたしまして。


 私はふと振り返った。


 遠く眼下に海が見える。北が山、南が海。神戸で迷う人は少ない。左手にのびる海岸が大阪湾につづいていて、晴れていたら淡路島が見える。今は雨煙にまぎれていた。




 阪急三宮から芦屋川まで普通で十六分。特急のフレックス通勤をさけたのもあるが、入金がまだだ。不用意に頭をつっこむと、駝鳥ダチョウになる。


 芦屋の雨は小降りになっていた。すぐ上が六甲山・有馬温泉だ――天候はすぐに変わる。このまま駅をおりて国道まで下れば、業平橋だ。在原業平ありわらのなりひらが住んでいたらしい。桜が泣いていた。ふと思い出す。「桜の木の下には……」といったのは誰だった? 検索すればわかることを覚える必要はないし、長藻ならすぐに答えるだろう。


 〇九〇二。由子はあの足で入金すると言っていた。


 周囲を確かめて、スマートフォンを使って事務所の口座を確かめた。高速通信のルーターを使っているから、速い。


 入金有。毎度ありがとうございます。


 駅前のタクシーをひろわず、歩きながらキャッチした。ここらへんは五分も歩けばつかまえられる。山むこうの適当な場所を告げながら、口頭で左右を指示した。地図は頭の中にコピーしている。


 アップダウンの繰り返し。雪が積もればタクシーも上がれない場所だ。


 平橋邸。すぐに通りすぎてしまった。一ブロックも続く大邸宅を予想していただけに、私は面食らった。画像を再生するように〝みた〟記憶を思い出した。


 私は〝みた〟映像を、フィルムのように脳に焼き付ける〈画像記憶〉ができる。ダイエット術以外に、長藻に教えてもらった〈技〉だった。誰でもできるという技術ではないが、練習しだいで上達する。私には特性があったらしい。必要に迫られていたという原因もあったが。


 花崗岩かこうがんの塀石に松の木がつづく。玄関は古松の門構え。防犯カメラ。そしてシャッターのおりた車庫。欧州の古城をイメージしていた私には疑問が残った。由子が家族に反対されているとしても、ハプスブルク家じゃあるまいし、どうかしている。


 到着を告げられ、タクシーをおりた。少し乗りすぎた。


 長藻に電話した。さすがに二コールで出た。


『どうぞ』


「入金があった」


『……確認した』


「どう思う?」


『……どう、とは?』


 聞き取りにくい。長藻も歩いているらしい。


「聞こえない。家の問題に口をはさむのはどうかと思う」


 がさごそという音。マイクの位置を調整してくれたらしい。


『適当に切り上げれば?』


「できれば苦労はしない」


『そうだな。仕事。弟さんの名前は弘行さんで、たぶん〈目標〉だろう。生年月日が同一の人物が甲南大学のゼミの名簿にあった』


 同じ能力は必要ない。長藻は別の検索をしてくれていた。大学か……。


「卒業しているんじゃあないのか?」


『講師だよ』


 先に言え。長藻の言い方は、いつも齟齬そごをきたす。ゆきちがいばかりだ。個々の言葉の捉え方に問題があった。だからこそ私がいるわけだが。


「講師? あの歳で?」


 学芸員キュレーターには資格が必要だ。ふつう講師になるとしても修士課程はおえているだろう。とすると二十四歳以上。飛びスキップしたのか? 日本にあったか?


『あれは特別。サラブレッドだよ平橋家の。嵯峨さが天皇の青い血(ブルーブラッド)をひいている』


 青い血は、貴族の血統という意味だ。ハプスブルク家も真っ青だ。


『応仁の乱のときに芦屋にのがれたらしい』


「応仁の乱? いつの時代だ?」


『信長の前だから何年だろう……』


 長藻はディスレクシア(失読症)なので数字の認識があまい。だからこそ〈画像記憶〉の技を使っていた。


『足利義政の慈照寺の前あたり?』


 よけい分からんわ!


 インターネットで調べると応仁の乱は、応仁元年~文明九年(一四六七年―一四七七年)だった。しかし、私マイケル・コンチネンタルは外人である。無茶もいいとこだ。


 ――いちおう解説しておくと、東山慈照寺とうざんじしょうじは、室町幕府八代将軍足利義政が創建した銀閣寺の正称であり、義政の祖父である三代将軍足利義満が創建した金閣寺の正称が、北山鹿苑寺ほくざんろくおんじである。両方とも同じ相国寺しょうこくじの山外塔頭(たっちゅう)であり、臨済宗相国寺派の大本山である相国寺の正称は、萬年山相國承天禅寺まんねんざんしょうこくじょうてんぜんじだったりする。なお、金閣(舎利殿)には金箔が使われているが、銀閣(観音殿)に銀箔は使われていない――


『嵯峨天皇は平安時代――』


「――だとしても、彼女を断る理由がわからない」


『平橋家の有職故実ゆうそくこじつは女型なんだ』


 私は一つ溜息をついた。ゆっくりと深呼吸にかえる。


『有職故実はそうだな……言うなればその道の知識とか作法だね。それを知っているのが有識者ゆうしきしゃ。平橋家はその知識とか作法の女性版を今に伝えているんだ』


「女性版? じゃあ弘行クンは何を教えているんだ?」


『マイク、知識を得るということは、海水を飲むようなもんだよ。腹に満たせば満たすほど渇く。吸血鬼と変わらん。一滴で十分さ」


 かたよっているとはいえ、生き(ウォーキング)字引(・ディクショナリー)のあなたが言いますか?


長藻ながもさんが吸血鬼だとは知らなかった。……ジョークは別として、ということは彼女には、万に一つの可能性もない?」


『ない』


 きっぱり言いやがる。


『ただし彰子さんが継承者だから、弟さんと一緒になっても問題がないと思うけれど、中身は知らない』


 パンドラの底か。


「質問」


『どうぞ』


「女系だとしたら、之尚さんは?」


『養子だよ。前に空海の書を見せてもらったことがある。戦火を逃れたお宝さ』


「どさくさにまぎれて火事場泥棒?」


『失敬な。〝丁重に預かっていた〟んだよ』


「いっぱいありそうだな」


『あるよ。もう〝返した〟けどね』


「……神戸中央美術博物館」


『正解』


「ん? どうして芦屋じゃあないんだ?」


『あの辺りの地所は、平橋家のものだよ』


「いつも通りか」


『そういう事』世はなべて、だ。


 だいたい中身はつながっている。そして迂闊うかつに手を出せない。


『ただ最近は法人の事業内容がかんばしくないみたいだね。今回のベネルクス展でてこ入れするんだろう。「真珠の耳飾りの少女」は「オランダのモナ・リザ」だからなぁ……。かなりの来場が期待できる。今の館長は、ブリュッセル在住のアントワーヌ・サックス氏。ベネルクスのサックス財団の総帥そうすい


「サックス氏に年頃のお嬢さんは?」


『私もそう思った。アントワーヌ翁の子供は二男一女、男男女の計三人。長男のアンリ・ルネは戦争で亡くなっている。次男のアルベール・ギが次期総帥。一人娘のヤスミンはフランスの大学生と逃避行。帰ってきたときには身ごもっていたそうだ。孫娘の名前はカミーユ、十八歳』


「到着。……これは私の予想なんだが、彼女、甲南大学のゼミの聴講生じゃあないかな?」


『正解』


 出来できレースか。当たって死ぬな、これは。平橋邸を前にしての私の感想だった。


「長藻さんの意見は?」


 スラックスのウエストの皺を調整した。


『あなたと一緒、金は血さ。血が通わないのは人間じゃない。それに解らなければ〝さしてみよ〟さ』


「どういう意味?」


牽制けんせいして相手の出方をみる。将棋だよ。チェスはするな。必要ならいつでも私を切り捨てろ。後で拾ってくれればいい』


「Roger.」了解。


 開闢かいびゃく





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