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ミステリ作家の異世界日記――小説を書こう、異世界で  作者: 黒井影絵
第6章 冒険者の条件

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a009――カレイドスコープ(2)

 ――冒険者ギルド統括本部。


 中立地帯モヌメントの闘技場に付属している塔に陣取っている、大陸でも有数の巨大組織・冒険者ギルドの本拠地だ。

 その最上階にある会議室では、ギルド幹部たちが集まっている。

「プリムムダンジョンの進捗はどうなったの?」

 本日の議長と思われる幹部、エルス族の魔法博士アイディが別の幹部に声を掛ける。

「一昨日、クロード同志から暗号通知が届き、ダンジョン内部工作は完了した旨、受け取りました」

 六人のギルド幹部で唯一の人間である、謎多き女アサシン・ウルラは淡々と報告する。

「結界の強度は大丈夫なんだろうね?相手はハリボテの高ランクとはいえ、禁じ手も躊躇わない悪党。万が一にも突破されたら……」

 妖魔族の武器商人であるルクルムは怪訝そうに尋ねた。

「ふん、これまでの進捗報告が事実なら、結界を突破したところでどうにもなるまい。何らかの秘法で多少底上げした程度では最下層に到達するのは不可能であろう。あのクロード殿ですら根を上げた鬼畜難易度、小童どもには太刀打ちできまいて」

 椅子の上で胡座をかいているクオート族のサムライ、ジューベーは人形の顔で瞬きもせず返答する。

「クロード様だけでなく、あの狂人コミットでも無理だったとも聞いてます。この件は置いておきましょう。それより今後の件ですが、そろそろ誰がどこを担当するか、割り振りを決めましょう。ウルラは当然、王都の方で良いですね?」

 アイディの言葉にウルラは黙って頷いた。

「ソレガシは自治区の方に行きたいが……ウチの方は方針を巡って、お上がゴタゴタしておってな。今回の祭りも留守番になりそうだ」

 ジューベーは球体関節の指で×を作り、無表情で悔しげな口調で言った。

「そもそもキミは都市部の隠密任務には向いてないでしょう……ワタシが赴くしかないようですね」

 見た目は普通の中年男性と変わらないルクルムがそういうと、それまで沈黙を守っていたギルド長デンスは遮った。

「いや、自治区には俺が行く。お前は待機していろ」


 幹部たちは一斉にデンスに注目した。


「ギルド長がお出になる程では無いと思いますが……」

 マーナガルム種で冒険王のクラスを持つ大陸トップクラスの強者であるギルド長の意向に幹部たちは焦りの色を見せた。

「いや、魔大陸の影が見え隠れする事件だ。中途半端な戦力を投入すれば後手に回ることになる。それに魔族の末裔が関わるのは危険が大きすぎる」

「ワタシが同志を裏切るとでも?」

 ルクルムは銀縁のメガネのブリッジを優雅に中指で押し上げ、如何にも心外であると言わんばかりに不快な表情を見せた。

「魔族の上位種は絶対的な魅了スキルで下位の種族を帰服させる。魔王国の簒奪者はそれを何らかの手段で克服した連中と聞く。何が起こっても不思議ではない。万が一に備えて大事をとるのは間違いでは無い」

「アナタ様は、ワタシの身を案じた風なもっともらしい事をおっしゃてますが、単にご自分が自治区に遊びに行きたいだけですよね?」

 ルクルムの呆れ気味の指摘にデンスは鉄面皮で受け止めた。

「クロードのバカ野郎の報告を聞き続けて、そう思わない者がいるのか?ここに。んな訳ないだろ」


 その言葉に皆の目線の圧が強まった。


「当たり前でしょう!魔術師ギルドに頼らず、今まで見たこともない術式を次々に生み出している若き魔術師が居られるのですよ!その上、大魔術師のモジュロー様まで居られる地です。大陸中の魔術師が注目しているわ!」

 アイディは議長の立場である事を忘れて素で興奮気味に語る。

「ワタシは魔法の力を借りずに大型ゴレムとエルス族を遠距離から倒した武器が大変気になりますね。報告が本当なら正に革命的です」

 ルクルムは静かに、しかし、確実に高揚を内に秘めた様子で言った。

「その武器に関しては大凡の見当はつきますがね……それよりもやはり、未発見の大規模ダンジョン!冒険者なら心ゆくまで堪能したいのは当然であろう!それに加えて、かの地では黄金の林檎がたわわに実っているという噂も気になる。是非、真偽を確認したい所存。それに甘味!新しい“小説”!じっくり滞在して分析したいものだ」

 ジューベーも拳を振って熱弁する。


 ギルド長は深いため息をついた。

「はぁー。真面目なのはウルラだけか?冒険者ギルド始まって以来の大規模改革だというのに呑気なものだ」

「ギルド長、大げさです。こんなのただの大掃除。まぁ、ウルラのことが心配だし、今回は譲るわ」

 肩を竦めるアイディにウルラは感謝の眼差しを向ける。

「ありがとう、アイディ」

「いいの。それに、あなたの悲願なんでしょ王都ダンジョンの解放は。……では、ギルド長とクロード様は自治区。私とウルラは王都。ルクルムとジューベーは本部で待機。この件はこの割り振りで決定とします、では次の議題……」

 アイディが議事進行に戻るとウルラは誰にも聞こえない小声で呟いた。

「……もう少しだから……待ってて……兄さん」


 ・・――◆◇◆――・・


 一方、王都のダンジョンの向かいにある館の一室。

 ソルラエダのリーダー・アウルムはダンジョンの入り口に冒険者が行き交う様を後ろ手を組んで眺めながら佇んでいた。

「……どうしてこうなったのか……どこで間違ったのか」

 それは彼がこの部屋で何度も繰り返し虚空に問いかけた続けた問いだった。

 側から見ているものには、簡単に突きつけられる答えではあったが、当人は決して受け入れることはないだろう。

 何故ならば、それを理解すると、全てを失う事になるからだ。

 そうすれば楽になれると分かっていながら、一から人生をリスタートするには手遅れで、後に退くことは出来ないと常に自分に言い聞かせてここまで来たのだ。


 ・・・――◇――・・・


 ――十数年前、王都ダンジョンの内部で、興奮気味に一人の少年が若き日のアウルムに語る。

 あなたを冒険者として尊敬していると、自分を重用してくれて恩義を感じていると。

 当時の冒険者の実情に染まった彼からすると、少年は良くいる冒険者に憧れる青臭い見習いで、能力の割に安く雇えるので使っているだけであったが、それでも、彼と話していると初心の頃を、まだ良心を信じていた頃を思いだすので、慕われるのは悪い気がしなかった。

 ソルラエダは野良ダンジョンに挑戦して仲間を失って以来、長い間活動は行き詰まっていた。


 そんな時に、少年は、アウルムの心に、爆弾を投げ込んだ。


 それが、王都ダンジョンの隠し部屋、“制御室”だった。


 少年はアウルムを制御室に案内して、彼もダンジョンの管理人に加えたと言った。

 自分を仲間に加えてくれたお礼と言っていた。

 少年はキラキラと輝くオーラを、色とりどりの未来への可能性を撒き散らして眩しい微笑みを見せていた。


 その時、アウルムの心に溢れたのは感謝ではなく、醜い“嫉妬”だったのだろう。


 彼が我に帰ると、足元に背中を刺された少年の死体が横たわっていた。


 ・・・――◇――・・・


 彼が愛人のクルテルに相談すると、パーヴォとコレクチオにも知恵を借りた方が良いと言い、話し合った結果……。

 ダンジョンはソルラエダが独占すること、メンバーでもパリエースには内情は明かさないこと、等を取り決めた。

「あのガキ、二言目には龍族の恩情が〜とか言ってたし、生かしておいたら間違いなく管理者権限を龍族に献上していたよ。冗談じゃないっての。無限の富の山が目の前にあるってのにさ。あたしがその場にいても即座に息の根止めてたよ」

 パーヴォは大きな目をギラギラ輝かせて言った。

「ただ、パリエースは朴念仁だからな。『正しくないと力が出ない』などと宣う馬鹿な奴だ。損得勘定ができない阿呆に打ち明けたら全てを台無しにしかねない。絶対に秘密だ」

 コレクチオは淡々と言いつつも頭の中ではこれからの計画を練っていた。

 制御室のコンソールで特殊なアイテムを持たないものは入場できない設定を施せば、ソルラエダが入場者を選別することができる。

 王都のダンジョン管理委員には既に多くがアウルムの推薦でカタリ派の元官僚を就任させている。龍族やギルドに横槍を入れる余地はない。

「アウルム……」

 クルテルは固く組んでいる彼の手を優しく包む。

「馬鹿な事考えないでね……」

 アウルムと彼女の関係は冷え切っていて、別れるのも時間の問題と世間では言われていた。

「あたしたちは仲間……一蓮托生なんだよ……自分だけ楽になろうなんて考えないで」

「そーだよ。これが表沙汰になったら、アンタ終わりだよ?アウルムちゃん」

「うむ。冒険者ギルドは同志殺しを絶対に許さないからな」

 そう。ギルドの掟で、パーティーのメンバー同士の殺人は兄弟殺しに相当するとして厳しい罰則が定められている。

 正式な手続きを経た決闘を除いて、正当防衛以外の理由での同志殺人は一切認められていない。

 同志殺人罪を犯した者は冒険者ギルドを永久追放の上、公的機関に引き渡される。

 そのような殺人者の殆どは人間領域への逃亡を図るが、龍王国の外に出たことがない大官僚家出身のアウルムには隠蔽以外の選択肢が現実的とは思えないだろう。

「鬱陶しいガキだったけど、アイツのお陰で、あたしたちの人生が……栄光の日々が始まるんだよ!あっはっはっはっは――!!」

 パーヴォの高笑いにつられて、メンバーは微笑みを浮かべる。

 その有様にアウルムはおぞましさを感じたか一瞬顔を歪めたが、気持ちに蓋をしたかのように無理矢理な笑みを作って皆に同調した。


 ・・・――◇――・・・


 現在のソルラエダのアジトでは、アウルムとコレクチオが今月の会計を終えたところだ。

「収益はどれくらい落ちた?」

「現時点で前年度の四分の三まで減少している」

 プリムムダンジョンの情報が公開されてから、王都のダンジョンを利用する冒険者は目に見えて減っていた。

 カタリ家の長男である兄が家を離れ、弟のアルゲンは行方不明、家長の父親は部屋に引きこもったままの現在、衰える一方のカタリ家を支えているのは事実上次男のアウルムだった。

「予約が必要な列車じゃないと行けない辺境の筈だぞ。どうなっているんだ!」

 アウルムは机を叩いた。

「大部分は徒歩と乗合馬車の乗り継ぎで移動している。効率と報酬が美味しいダンジョンだと評判で、口伝えでどんどん広まっている。長期滞在を考えてる冒険者も少なくないらしい」

「信じられん……」

「さらに不味いのが……二、三週間後に転移門がスパピアと繋がる事だ。そうなったら、流出に歯止めが効かないぞ……義援金の額を下げたとしても、例年以下はもう避けられない」

「これ以上は無理だ……この建物の賃料だってギリギリなんだぞ……手下を総動員してドロップ品を売りさばいて何とか凌いでいるが、そろそろ限界だ」

「その上……冒険者ギルドが何か企んでいるとの噂がある」

「くそっ……!人外どもが!!いい気になりやがって!」

 アウルムは頭を掻きむしった。


「おやおや、お困りのようですね……」

 部屋の片隅の闇から溶け出すように男が滲み出てきた。

「あああ、キマリス様!どうか!どうか、お力をお貸しください!!」

 コレクチオは陶酔した眼差しで魔族の男に跪いた。

「我が盟友は気が早いですな。もっと長期的な目で物事をごらんなさい。起こる出来事に一喜一憂しすぎても碌な事にはなりませんよ」

 キマリスは平然とした顔で手に持ったステッキを弄んでいる。

「しかし……ここから現状を打破する手段はないのだが……」

 アウルムは暗い顔で俯いた。

「ご安心あれ、こんなこともあろうかと、切り札の一つや二つ、我が手にありますよ。奴らが何を企んでいようとも、古代の叡智に敵うものは無いことを思い知らせましょう」

「し……信じてもいいんだな!!絶対だな!?」

 アウルムは必死にすがるような表情で問い詰めた。

 キマリスのその端正な顔は微笑み、落ち着いた声で優しく諭した。

「ええ、大丈夫ですよ……そもそも、あなたたちに私を信じる以外の道はないのですから……腹を括りなさい」

「そうだぞ!キマリス様のおっしゃる通りだ!この方を信じて付いていけば間違い無いんだ!」

 アウルムは魔族の男を崇拝する友人と自分との温度差に引っかかりながらも結局何一つ決断出来ない。

 その様を魔族の男は愉悦の笑みを浮かべて眺めている。


 ・・・――◇――・・・


 影から影に渡り、自分の居室に移動したキマリスはため息と共に愚痴を零した。

「やはり、アイツらは“カス”……ですね……」

 彼がこの大陸に来て独自に調査した結果、この大陸の龍族にはとても勝てないと判断した。

 次に秘密結社を通じて、社会的影響力の強い英雄を影から操って龍王国の瓦解を狙っていたが、目を掛けた彼らの実像は英雄とは程遠い人材で、知名度だけはあるが、偉業と言える行為は何一つ成し遂げていなかった。

 それでも彼らの人脈とコネは有用で、綺麗事に拘らない点も相まって駒としては便利な連中だったようだ。

「少しは大衆の支持を得る事を期待していたのですが……すっかり龍族にしてやられましたね……向こうはいい人材を握っているようです……あの男を追い出したのは早計だったかもしれませんね……」

 新興魔族に多い短慮な性質で分かりやすい力に拘る彼は、見るからに軟弱な秘密結社の首領を即座に能無しと判断した事を後悔した。


「それにしても……アレはどこに行ったんでしょうね……あの忌まわしい混成種は?」

 この大陸の支配種族に対する切札の一つとして連れて来て、信者の魔術師に預けた毒使いの少女の行方が気掛かりのようだ。

 切札と言っても実際は雑多な集団である新興魔族の有力者達にとって、彼女は生かすも殺すも悩ましい存在で、現支配者の独断で魔大陸から追放したというのが実情だ。

 彼がパーヴォとアルゲンに少女を預けるに当たって注意した点はいくつかある。

 一つ目は人目に触れないよう幽閉する事。二つ目は出来れば恩に感じる程度の関係は築いておく事。三つ目は決してレベルを上げない事だ。

「アレは念入りに術式で縛ってありますし……探知も出来ないということは、おそらく処分したか……いや、希少性を考えると龍族の宝物庫に収められていると思われますね。それならば逆に安心であります……まさか、人間や魔族とは接触していないでしょう」

 この男の儚い希望的観測に私は思わず笑みを零しそうになった。

「……!」

 キマリスは誰かの視線を感じたかのように急に辺りを見渡すが、当然ながら誰かがいる訳がない。

「……疲れているのでしょうかね?」


 ・・――◆◇◆――・・


 所変わって、ここは王都の中央第三通りの賃貸住宅で未亡人パティアの住処だ。

「ただいま。今、戻りましたよ」

 外から帰ってきた家主が声を掛けたのは一人の女性だ。

「おかえりなさいませ、パティアさん」

 キッチンから顔を出した彼女はホッとした表情で微笑む。

「もう、お腹ペコペコ。何か食べるものはあるかしら?」

「今日は麦と野菜のスープを作りました。今、温めますね!」

 コンロに火が灯る音と共に香ばしい匂いが辺りに広がる。

「彼の具合はどう?少しは良くなった?」

 パティアの問いかけに、スープと平パンをトレイに乗せて運んで来た彼女は思いつめた表情で答える。

「ええ……大分落ち着きました。今は薬を飲んで眠っています……」

「そう……それにしても、ひどい事をするものね。彼らも相変わらずって所かしら」

「……」

 パティアは暖かいスープを口に運んで思わず破顔する。

「ああ、美味しい!空腹の時の食事って、本当、生きてるって感じがして好き!……大丈夫よ、エリノアさん。今は辛い時だけど全部きれいに解決しますから!」

「ありがとうございます、パティアさん」

 パティアの言葉を慰めの励ましと受け取った彼女はぎこちなく微笑んだ。


 ・・・――◇――・・・


 食事を済ませたパティアは、亡夫の部屋の扉をそっと開けた。

 寝台には一人の青年――若き魔術師シモネムが眠っている。

 悪夢にうなされている彼の右腕にはマギアの証が暗闇の中で禍々しく明滅していた。

 彼女は毛布をかけ直して、額の汗をそっと拭いた。

 彼はパティアの夫に師事していた魔術師見習いだったが、夫が亡くなった後は別の人間、魔術師ギルドに所属していた者の弟子となった筈だ。

 エリノアの話によると彼女の父親である師匠と揉めた結果、ギルドによって右腕にマギアの証を強制的に刻まれ、術式を描くことはおろか、まともな生活もままならなくなったそうだ。

「いくら、自由裁量を認められているギルド組織とはいえ、基本憲章を無視するなんて……龍族も黙ってないでしょうに、どういうつもりなんでしょうか……」

「ひどいもんですね」

 部屋の隅に潜んでいた男――オクルスは唐突に相槌を打つ。

「既に先生とゲンマ様に話は通してます。いつ来ても構わないと」

「お二方にお礼を伝えてください。でも、まだ動かせる状態ではないですね……制約があまりにも強すぎです……一体何があったのですか?」

「ただの組織内の足の引っ張り合いですよ。彼は才能ではトップクラスですから、妬む者は少なからずいました。それと最近の新式術式に対する警戒が加わった結果で。彼は魔術師ギルドでも研究対象にするべき、と幹部に主張したそうです」

「ああ……理解しました……困ったものですね、老害たちにも」

 パティアは頭痛を堪えるように頭に手を当てた。

「奴らかなり神経質になってます。もっとも、長い間新しい術式を作らず、古い術式ですら秘伝と称して出し渋っているような組織に龍族が加護を与えるとは思えませんね。詰んでますよ、あそこも……さて、追っ手が来ないとも保証できないので、なるべく早めに王都を出るのをお勧めします」

「そうでしょうね……でも、今のこの状態では長い旅には耐えられません。あちらに行くのは転移門開通後でしょうね。それまで、回復に専念です」

「了解です。それにしても、どうしてこう、腐った連中ってのは、自滅への動きだけは素早いんですかね?」


 眠っている青年は悪夢という名のトンネルの中で必死に運命と抗っている。

 今はただ心無い悪意に翻弄され絶望するしかない状況だが、その暗いトンネルを抜けた先には、彼にとって待ち望んでいた新しい世界が広がっているだろう。


 ・・――◆◇◆――・・


 とかくに人の世は住みにくい……。

 そんな思いが沸き起こり、口直しも兼ねて、私の道化の様子に目をやる。


 彼は今、書斎で執筆をしているようだ。

 オクルスに依頼されて、帝国の大衆向けにアースガード自治区で暮らすアン姫の物語を書いている。

 先日あった、ちょっとした騒動、農業試験場の庭園で少女たちがお茶会を開いたときに、持ってきた砂糖壺が空だったので近くの巣箱から蜂蜜を拝借しようとして大目玉を食らった事件を面白おかしく書いているようだ。

 このお話は吟遊詩人たちが帝都の街角でお菓子を売りつつ子供達に歌い語るのだろう。


 デンに頼んで取り寄せたノートパソコンは使い慣れた感触でその打鍵も軽やかだ。

 執筆が一段落してコーヒーを嗜んでいると、ソファで本を読んでいたヴェールが駆け寄ってくる。

「あるじ様、あの……お聞きしたいことがあるのですが」

「ん?どうした?」

「ナポレオン……さん?というのはどういうお方なのですか?お兄様もご存じないのに、このお部屋にある本では良く名前をお見かけするので……」

 彼はその問いに答えようとして……何か思いついたのか、本棚に歩み寄った。

 書斎の本棚は大分空欄を埋めていて、多くの書物が並んでいる。

 その中から一冊の分厚い本を取り出して開いた。

「ヴェール、これは百科事典だ」

「何のご本ですか?」

「この背表紙の本はあらゆる分野の賢者が集まって教養を求める者のために作られた本なんだ。俺の元いた世界に関する一般的な事柄なら大抵の事が記されている」

「まぁ、素晴らしい本なのですね」

 彼女は道化の著作を切っ掛けに多くの書を読むようになり、今では英語や日本語の本もよく読むようになった。

 夢中で本を読むヴェールを、モジュローは背中から覗きこんだ。

「お前も興味あるのか?」

「……このような書物はエルスの図書館にもありませんでした」

「そうなんだ。システムがあるなら必要ない気もするが……」

 百科事典が地球で作られたのは、十八世紀のフランスにおいて発行された百科全書が始まりとされている。

 道化が今の地球で、あまり読まれる事が無いこの本を本棚に並べたのは見栄え、書斎らしさの演出が主な目的だろう。

「いつか、この世界でもこのような本が作られればいいのですが……」

「お前が作ればいいんじゃないか?」

「……えええ、私一人ではとても無理です」

「いや、お前はたくさんの子供達の先生をやってるんだろ?その中から何人かは学者や賢者になるのも出てくるだろうし、今は無理だとしても、彼らと協力すれば出来るんじゃないか?」

 道化の言葉に小さな大魔術師はハッとして様子で顔を見上げた。

「私に出来るのでしょうか……」

「さあな。でも、お前は子供たちにとっていい先生みたいだし、きっとみんな立派な大人になるさ。まぁ、お前が大人になったら……俺くらい背が伸びた頃には夢物語じゃないよ」

「最後の一言は余計です。私はもう大人なのですよ」

「はいはい」

「どうして、そういつも肝心なことを聞き流すのですか?……あ、頭を撫でて誤魔化すのはやめなさい!」


 この辺境の箱庭は平穏そのものだ。

 しかし、私の道化の何気ない言動一つで、その周囲は激しく荒れ狂う。

 全能ではない私は出来る限りの助力はしたつもりだ。

 ここから先は生きてる者たちによる、剥き出しの生のぶつかり合いとなるだろう。


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