始まりは突然に
それは突然の出来事だった。何の前触れもなくフッと前世の記憶が頭の中で流れたのだ。
そしてその前世の記憶でわかったことがある。それは、ここが前世で流行っていた乙女ゲームの世界だということ。さらに言えば、私が悪役令嬢と呼ばれる立ち位置にいるということだ。
「ローズ・アルカヴィルレア……」
私は全身鏡に映る自分を見つめる。
夜空を溶け込ませたような漆黒の髪は、長く真っ直ぐで腰より少し下まである。するり、とその髪に指を走らせる。まるで漫画や小説、アニメに登場する綺麗な女性たちのように艶やかで傷みひとつない綺麗な髪。そして夕日を飲み込んだような緋色の瞳。
「……」
くるりと全身鏡の前で回ってから、頬をつねってみる。うん。痛い。これは間違いなく現実で、私は前世でプレイしていた乙女ゲームの中の少女に転生している。
そう理解し実感した瞬間――すとん、と体の中に何かが落ちてきて綺麗にはまった。
「そっか。私、死んでしまったんだなあ……」
思い出してしまったら、急にとてつもない寂しさや悲しさが襲ってきた。
私は、この世界で十六年を過ごした。そして何ひとつ不自由なく生きてきた。厳しくも優しい両親。私が散歩だと称して植物採取や昆虫、魔物の生態について調べるのを付き合ってくれる執事長のグライム。料理やお菓子の作り方を嫌な顔ひとつせずに教えてくれる料理長たち。それからいつも庭園を美しく手入れしてくれる庭師の人たちに、笑顔が可愛くて仕事が早いメイドのみんなに囲まれて幸せに生きてきた。
みんな、みんな大好きよ。私の大切な人たち。
「……」
ぼたぼたと大粒の涙が零れ落ちていく。
ここのみんなと一緒にいられるのは、とても幸せだし満たされているの。
だけど、私は思い出してしまった。
前世を、前世の大切な人たちを……。
お母さん。お父さん。まこちゃん。
私が前世で一番大切に想っていた人たち。
ごめんね。ごめんね。もっと私に瞬発力があったら突っ込んできたトラックを避けられたかもしれない。そうしたらみんなに私のグチャグチャになった姿を見せなくて済んだかもしれないのに。
「ごめんね……」
先に死んじゃって、本当にごめんなさい。
悲しませてしまって、ごめんなさい。
私はみんなと過ごせて幸せでした。
まだ小さな私の妹、まこちゃん。きっとこれからたくさん辛いことや悲しいこととかあると思うけど、それ以上にたくさん笑ってね。それからお父さんとお母さん。いつもありがとう。お父さんと一緒にゲームしたり、お母さんとは一緒にお菓子やご飯を作ったりするのが楽しかった。他にもたくさん思い出があるけど、でも……。
「うっ……く……」
誰かが、私の中で泣きながら何かを叫んでいる。私はその誰かを知っている。
『私』が『私』に向かって必死に何かを叫んでいるのだ。だけど私はそれを知ってはいけない。それに気づいてはいけない。
目を閉じて。耳を塞いで。唇をきつく噛み締めて。
私が私でいられるように。
「私がこの世界で与えられた役目を果たせるように……」
そう、私は悪役。この世界、そして彼女にとって必要な存在。だから前世を思い出した『私』は必要ない。思い出す前の『私』でいなければ。
私は彼女を蔑み、陰湿に痛め付けるためだけに生まれた人間。だから私は幸せになれない。彼女を大切に想う人たちによって、私はその行いを罰せられる。命を持って。それが私という悪役の迎えるべき最期。
ほら、私。彼女をどうやって痛め付けるのかを思い出さなきゃ。涙を拭いて、頭を働かせて。忙しくなるわ。大丈夫。大丈夫よ。私ならやれる。
口角を上げ、悪役令嬢らしい美しい笑顔をつくる。
「……」
なんて、情けない顔。笑顔すら上手にできないなんて。悪役失格よ。
頬をつまみ持ち上げる。頬をつまむ指に、いまだに溢れて止まらない涙が瞳から零れてあたる。まるで本当の私の気持ちが溢れ出て止まらないみたいだ。
……嫌だよ、本当は。誰かを傷つけ、悲しませるのは。それが私に与えられた役目でも。
今度は長生きしたいし、誰も悲しませたくない。それから幸せになりたいし、誰かを幸せにできる人になりたい。そして笑顔に囲まれて最期を迎えたい。
「私は、たくさん……たくさんやりたいことがあるの!」
だから、もう悪役を辞める。好きに生きる。でもそれで私が悪役として断罪されるのなら……その時は私が神を殺めよう。うん。そうしよう。それくらいの心持ちで生きよう。ローズ・アルカヴィルレアの人生は。
「ふー、落ち着いてきた」
声に出すと、ふっと肩が下がった。どうやら無意識に肩に力が入っていたらしい。
落ち着いて考えてみると、今現状ヒロインとその攻略対象者の人たちしか思い出せない。あとは自分の立ち位置と最期だけ。一番大切なストーリーには靄がかかったような状態であまり思い出せない。とりあえず私が三年生、彼女が一年生のときに学園で出会うことだけはわかっている。
二年後、私は彼女に出会う。その時、私はどんな気持ちを抱くのだろう。やはり悪役らしい『憎悪』や『妬み』かしら。それとも、ゲームをやっていた時のような『愛しい』という想いを抱くのかしら。
「……」
どちらにしても、今の私にはわかないことだわ。二年後の彼女に会う日を楽しみに待ちましょう。
そう思うと、前世の『私』が少しだけ笑った気がした。