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偽書

作者: くまいくまきち

月がぼんやりと雲間に滲んで見える。明日は雨になるのだろう、と弥五は思った。


  黒々と茂った木立がときおり過ぎる風に騒ぎ立つ。

 

 真夜中である。京を出立したのは朝方のまだ五つ前であった。それから丹波口を抜け、明智領を通って脇街道をひたすら西へ向かった。いまはおそらく播磨へ入ったかどうか。このぶんなら明日の夜半すぎには備中、高松城を囲んでいるという羽柴筑前守様の陣屋へ着けるに相違なかろう、そう弥五は考える。 だがその前にだいじな仕事が残っている。 いままさに峠を越えたのか、道はほぼまっすぐの下り坂になって辺りの景色が急に開けた。といっても夜であるから黒々とした山並みが遠くに見えるばかりではある。


前を行く男が見える。二町ばかり先を男がひとり、走っている。

 弥五は夜目はむろん遠目も利く。

 まるで大亀の甲羅でも背負ったような広い背中、肩越しに尖った顎が見える。

藤佐に間違いはなかった。

じつは、弥五はもう四半刻ばかりもこうして藤佐との間に同じような距離を保ちながら走っているのだ。足の運びの拍子と呼吸を合わせれば、追われる者に気づかれにくいという。それにしてもしかし、


(……間抜けな奴めが)


 と弥五は思った。


「しかし何でまたお頭はこんな間抜けに、しかも小早川様への使いなんぞ大事な役目を任せはったんやろか?」


 てらてらとした赤ら顔に糸屑のように細い目、立田久衛門の好々爺然とした顔が思い浮かぶ。もともとは伊賀の百地家に連なる中忍であったと云う立田は、明智の重臣齊藤利三の配下で弥五たちのような忍びの束ねをしている。


「惚けはったんやろか」


まあ、そんなことはどうでもええわい、弥五は思った。これから儂は変わる。立身するんじゃ。


「待っとれ小菊よ」


 弥五は小菊の裸身の柔らかな感触を想った。搗いたばかりの餅のような白い乳房、その先端のちょんと乗った桜の花びらのような乳首。 羽柴様にお取り立ていただくんじゃ。同じ地下人からあれだけの身代にならはったお人や、儂のように「世が見える男」は必要やと思われるに違いない。 

 もちろんそれだけの土産は持って行く。

 弥五は奥歯を噛み締めた。

 その土産は、前を行く藤佐の小脇差の鞘に仕込んであるはずであった。


 やらねばならない。


 だが、どうやってやるか?


実は先ほどからその思案をしつつ、四半刻ばかり過ごしてしまったのだ。

 弥五は三十をもう幾つか過ぎている。数々の修羅場をくぐってはいる。設楽が原(長篠合戦)の前には甲斐の武田家重臣の屋敷に何度も忍んで密書を届けた。武田忍びに追われてあやうく殺されかけたことも一度や二度ではない。そのたびに弥五は自慢の健脚で逃げ切ったのだ。

つまり逃げ足こそが弥五の武器であった。 弥五たちは侮蔑の意味も込められて単に「足」と呼ばれている。


戦に出たこともなければ、忍び仕事で人を殺めたこともない。腰に小脇差はさしているが、要は逃げられなくなった時の自害のためである。


 しかし今度ばかりはそうもいかぬ。


 藤佐とて弥五と同様、健脚で召し抱えられている忍びである。刃を交えての争いはしたことがないだろう。とはいっても忍びのはしくれ、大事な密書を「はいそうでっか」と差し出すはずもない。 

山道を抜け藤佐の先回りをすることも考えたが、どうにも自信がない。却って道に迷いそうである。

 よい思案もなかった。


 ええい、真正面から当たったれ。なるようになるわ。


弥五は思い切ったように足を速めた。


「おおい藤佐よ」


 藤佐が振り返った。顎の尖った特徴ある顔が弥五を見る。白眼がぎらりと光った。


「藤佐よ」


 藤佐は足を緩めない。弥五に一瞥をくれただけで不愉快そうに黙っている。

 ふたりは黙ったまま並んで走った。山蔭から月が顔を出した。淡い影が道に二筋、仲良く並んで落ちている。

 先に口を開いたのは藤佐だった。


「何しに来たんじゃ」


「決まっとろうが、お頭に頼まれたんじゃ」


「嘘こけ、大かた組ぬけでもしたんじゃろ」

 図星だった。


 藤佐が本陣から走ってくるところに弥五は偶然行き合わせた。藤佐の上気したような緊張したような面持ちに、何か重大なお役目を仰せつかったことを感じた弥五はとっさに、「小早川やな」

 と訊いた。


藤佐はうろたえたように「うへっ」と何事か言葉にならぬ声を漏らした。そしてすっと走り去った。

 実は弥五はこのとき、組を抜け出奔することを心に決めた。

小早川にはすでに尼子浪人の某が光秀の密使として素走りで京を発っていたが、そこは侍のこと、脚はどうしても遅い。そのことに思い至った光秀が直々に立田久衛門を呼び、密書を託したのだった。実際にこの時点でふたりは尼子浪人某を追い抜いている。


 が、それは弥五の知らぬこと。


弥五は弥五なりに、明智の御大将が織田の大殿様を攻め殺すという『どえらいこと』が起こったからには、自分たちが大事な使いに出されるであろうことや、とりわけ毛利の大将小早川様への使いは重大なお役目となることはわかっていた。


そのお役目が自分ではなく、経験も乏しく年若の、しかも日ごろから何くれなく目をかけてやっていた藤佐に振られ、その藤佐も、うへっと言ってまるで昼間から幽霊でも見たかのように弥五の前から消えていった。


 何かが弥五の中で、すぽんっと抜けたような思いがした。

御大将も大殿様を攻め殺したんじゃい。儂もやったるかい。

 通常、組を抜けた忍びには討っ手がかかるが、

(このどさくさでは抜けたことすらようわかるまい)


 と、明智の陣をこっそりと離れ、藤佐の跡を追ったのだった。


「抜けたらどうじゃ」


 居直って弥五は言い放った。

藤佐は弥五を見ない。黙って走っている。


「のう藤佐、儂と一緒に立身せんか。羽柴様の御陣へ行こう」


 藤佐は尖った顎を傾けるようにして弥五の方を見た。白眼だけが月明かりに青白く光る。息と一緒に吐き出すように言った。


「主を裏切った忍びは一寸きざみに切り刻まれるで」


「何言うとんねん。裏切り言うたら、御大将こそごっつう裏切りやんか」


「御大将がたと、儂らとは違うやろ」


「いっしょや。飯を食い、女を抱き、斬られたら血ィながして死ぬんや」


 風が吹く。こんもりと黒い樹木が揺れる。藤佐はくんくんと犬のように風の臭いを嗅いだ。


「風が生臭いな。こら、ひどい雨になるで」


「藤佐。世がみえるかどうかや、立身はそれで決まる。みえん奴は仕えた大将がいくらご出世しはっても駄目や。木崎様の足軽に仁平ちゅうもう爺じいやけど、おるの知っとるか」


「知らん」


「まあええ。仁平はな、大殿様が今川治部大輔をお討ちなすった田楽狭間の合戦のころからずうーと足軽やで。そう云う奴、仁平だけやない。きっと他にもようけいるで。つまりな、阿呆はいつまで経っても阿呆やちゅうことや。足軽のまんまや」


 藤佐はフンと鼻で大きく息を吐いた。あざ笑ったのかと弥五はぎょっと思ったが、笑ったのではなく藤佐は手鼻をかんだのだった。


「立田のお頭が言うとった」


「何と?」


「弥五はもうあかん。足がいろいろ考えるようになったら仕舞いやと」


 糞、あの爺じい、それで近ごろお役目が減ったんか。


「藤佐、よう聞けや。儂らは足やない、人や。人は考えないかんのや」


「儂は足でええ。おのれの才覚だけでこの世の中わたって行くなんて恐ろしいわい」


「藤佐……」


 藤佐の姿がふっと消えた。はっとして、弥五は振り返る。四、五間も後ろに藤佐の姿はあった。這いつくばるようにして立っている。急にたち止まったのだ。

弥五も足を止める。ゆっくりと近づいて行った。ふたりとも呼吸が荒い。弥五たちは走っていた方が呼吸が楽なのだ。


「寄るな」

 藤佐の白眼が光る。見えないが後ろ手に何かを握ってている様子だった。帯に縫い込んであった短刀を引き抜いたのだろう。


「弥五どん後生じゃ、帰ってくれ。あんたの足なら日ィが昇る前に組へ戻れるやろ。このことは儂、誰にも言わん」


 藤佐の目がぴたりと弥五を見据えている。その目には何か得体の知れぬ力がこもっている。

 戻らんかったら、殺す。

 そう言っているように感じられた。


「うへっ」と吐き出すように言った藤佐の表情が蘇った。すぽんっと、もう一度、最期まで残っていた何かが抜けて行った。


「わかった、戻るわ」


 そう言って弥五は目を伏せる。ゆっくりと足を運ぶ。藤佐の脇を抜けようとする。京の方角である。

 藤佐の肩の力が抜けるのが横目にもわかった。


 そのすれ違いざまであった。


 弥五は小脇差を素早く引っこ抜くと、その切っ先を藤佐の背中に叩きつける。と同時に弥五はまるで猿のような敏捷さで地を蹴った。間合いを取ったのだ。

 藤佐はのろのろと身体を回転させる。ふたりは向かい合った。

藤佐は何が起こったのかわからない。


(弥五め、切り付けやがったか……)


 と思ったが、傷がない。きょろきょろと両手両足を見回す。別段なんともない。が、口内が奇妙に青臭い感じがした。

 ふと、目の端に何かがひっかかった。ぎょっとして首を回す。小脇差の柄である。柄が背中から突き出ている。

 藤佐は、うおーっと獣じみた声をあげた。背中に手を伸ばして刺さった小脇差を引き抜こうとするが、届かない。右手がだめで左手を伸ばす。広い背中があだとなって、やはり届かない。


「あーっあーっ」と、叫びながら、藤佐は手を伸ばす。が、届かないからくるくると、まるで狂った鼠のようにまわった。


 弥五はぜいぜいと肩で息をしながら、その様子をじっと見ていた。

まわっていた藤佐の足がとまる。弥五を見ている。口が開く。尖った顎がゆっくり動く。「弥五、おのれ」


藤佐の足が一歩、二歩と近づいて来る。

 弥五は短く悲鳴をあげる、が恐ろしくて声にならない。ひょいと後ろへ飛びのいた。飛びのいた瞬間、石に足を取られ無様にも尻餅をついてしまった。

 藤佐が近づいてくる。

 弥五は手を後ろにつき顔は藤佐を見たまま、尻を引きずるようにして後ずさった。立ち上がろうにも、腰が抜けたようで動けない。  藤佐はついに目の前まで来た。

青白く光る眼が弥五を見下ろしている。怒りと驚きと恐怖が入り乱れ、全身がぶるぶると震えている。


「来るなっ、来るなっ」


 弥五の脚は空を蹴る。

と、その時、ぐぶっという、鈍く籠もったような音がした。藤佐はがくっと肩を落とす。そしてゆっくりと顔を上げる。ぶっと何かを口から勢いよく吐き出した。生暖かいそれは弥五の顔にしたたか降りかかった。弥五が手で拭うとぬるりとして生臭い。血だった。


「――うああっ」


 弥五は悲鳴をあげる。後ずさろうとするが全身が金縛りにあったように動かない。

両の眼をかっと見ひらき、への字の形にあいた口からは血が滴っている。藤佐の凄まじい顔が迫ってくる。


「――わ―っ」


 弥五の顔を打ち据えようとするように片手を大きく振り上げたまま、藤佐の分厚い胸板がまるで大きな墓石のように弥五にのしかかった。

 弥五は手足をばたつかせ、必死に抵抗する。


「――助けてくれい、誰か」

真夜中の脇街道である。他に旅人がいようはずもない。


自慢の足のほかは実に貧弱な体躯の弥五であった。大柄で広い背中の藤佐に乗しかかられると、まるで大亀にひき潰される痩せ蟹のようである。それでもようやくのことで、弥五は藤佐の身体の下から這いだした。


 地面を泳ぐようにして四、五間ばかり離れる。弥五は尻を付いたまま振り返る。

 藤佐は片手を上げたままの姿勢で倒れている。よく見ると片足が細かく震えていた。

 背中に刺さった小脇差の柄が、まるで小さな墓標のようにちょこんと立っている。


「死によったんやろか?」


 藤佐の顔は凄まじい形相のまま、弥五の方を向いている。乱れた髪がひと房、頬に貼り付いている。苦しげに歪んだ唇からは黄色い乱杭歯が覗いている。その眼は、どうやら弥五の姿を捕らえてはいないように思えた。


四つん這いのまま、弥五はそろりと藤佐に近づいていく。

藤佐は動かない。

 弥五はゆっくりと立つ。つま先で藤佐の肩口のあたりを軽く小突いてみる。やはり藤佐は動かない。

 弥五はもう一度、今度は脇腹のあたりをしたたかに蹴り上げた。だが藤佐は呻き声ひとつ上げなかった。


「……死によったわ」


 弥五は大きく息を吐き出しながらそう言った。 

 死んだと知ると弥五は途端に大胆になる。藤佐の背に片方の足をかけ小脇差を引く。しかし傷口のまわりの筋が収縮しているのか、容易に抜けそうもない。両足で藤佐を背に乗り、両手で柄を握って引く。どこかに傷を負わせることができればよいと思い叩きつけたのだが、余程うまく胸骨の間を抜けて刺さったと見え、簡単には抜けなかった。

 弥五には望外の幸運であったが、藤佐には生涯最大の不幸であった。

今度は腰から力を溜め、えい、と気合とともに柄を引いた。


「ぐえっ」


 と、藤佐が呻いた。首筋から鎧通しでも差し込まれたような、冷たい感覚が走る。


「――うわっ、死んだんやないんかい」


 と、口走る。その途端、小脇差が抜けた。

 弥五は両手に小脇差を握ったまま、すとんとしたたかに尻を打ち付けた。

藤佐を見る。


 片足の細かな震えも止んでいる。ぴくりとも動かない。


 気のせいやろ、と弥五は思うことにした。 小脇差の抜き身を片手に握ったまま、弥五は藤佐に近づいていく。念のためにまたつま先で小突いてみる。反応はなかった。すると今度は踝のあたりまで藤佐の身体の下に差し入れた。そしてえいっとばかり足を持ち上げた。藤佐の上体は横になった。上になった肩口を思いきり蹴る。藤佐の身体はそれで仰向けになった。


 懐を探る。小脇差がある。弥五はそれを目の前にかざした。

この小脇差の鞘に密書が仕込んであるはずであった。

鯉口を切って中をあらためようとした途端、弥五は矢庭に足首のあたりを掴まれた。

 ぎょっとして見下ろす。

 藤佐が片手で弥五の足首を掴んでいるではないか。


「やああーごおおっ」 


歪んだ口、黄色い乱杭歯の透き間から低い声がした。地の底から響きわたるようなくぐもった声である。

その目は、確かに弥五を捕らえている。


「――おのれ迷うたかっ」


弥五はわあわあ叫びながら、もう目茶苦茶に小脇差を振り回した。

 何をどうしたものか、よくわからぬ。とにかく弥五は藤佐の手を逃れた。

走りに走った。

 そしてとうとう息が続かなくなり、膝頭に両手をついた。はあはあと肩で息をした。

藤佐は余程強く掴んだらしく、足首にはまだ指の感触があった。

 ――いや感触どころか、藤佐の手はまだあるではないか。

驚いた、と云うより、心ノ臓のあたりに焼きゴテでも押し当てられたような激しい痛みが全身を駆け巡った。


「――うわっ」


 必死に片足を振り、藤佐の手から逃れようとするが指が食い込んでいるのか……はずれない。

 振り回した脇差が切断したのだろう。

 藤佐の手首が、まるでそれだけで生きている奇妙な生物のように、弥五の足首に絡み付いている。

足を振る。まるで見えない魔物と闘っているかのように、弥五は虚空を蹴り続ける。藤佐の手首を振り飛ばそうといるが……とれない。

意を決して、弥五は蹲る。一本一本指を引き離す。手首はまだ生暖かく、その先が存在しないことが不思議なくらいであった。

指は深く食い込んでいて、はずれない。弥五の手も寒くもないのにかじかんだようになって、うまく動かない。

弥五は帯に縫い込んだ小刀を抜き取った。その刃先を外側に向け、足首と指の間に差し込んだ。鋸を使うようにして指を挽き切る。人差し指を落とす。続いて中指、まだ手首ははずれない。

 指はまるで大きな白い芋虫のように、ぽろりと落ち、地面に転がった。

薬指が半ばまで落ちかかったところで、親指が少しずれた。引っ張るとようやくのことで、藤佐の手首は弥五の足首からはずれた。 掌を見せて転がった手首は、まるで魂があるかのように残った三本の指がぎゅーっと曲がっていき、ついには拳固になった。


それを弥五は見つめている。


 魂が、すうっと身体から抜け出すような感じがした。


 気が付くと弥五はマラリア慄えのようにぶるぶると全身をふるわせていた。ふらふらと立ち上がると、手にしていた小刀に気づく。まるで触れるのも忌まわしい不浄物であるかのように「わあっ」と叫んで闇へ向かって投げ捨てた。

 何か痒みにも似た感触が額のあたりにあった。手でさわる。濡れている。

 雨だった。

いつから降っていたのだろうか。全身はもうひどく濡れている。

 雨音がする。雨粒が木々や地面を打っている。いままで気づかなかったことが、ひどく奇妙に思えた。

雨。

 鼻を犬のようにくんくんと鳴らして「風が生臭いな、こらひどい雨になるで」と言った藤佐の顔が目に浮かんで離れなくなった。

そしてそれは、


「やああーごおお」


という、あの地の底から響くようなくぐもった声に変わった。 


「――うあっ」


 弥五はその声から逃げ出すかのように走りだした。

 雨はますます強くなっていく。

 弥五はそのまま走りに走り続けた。


 そしてその日の暮れ六つころには備中高松、羽柴筑前守の本陣がある古寺の近くまで来ていた。

弥五は、あかあかと松明が焚かれた羽柴本陣が見下ろせる小高い山中の薮に潜んだ。


「ここが思案のしどころやて。待っておれよ小菊」


その顔は、額のあたりが腫れ上がり、血走った両眼がまるで驚いた人のようにかっと見開かれている。髪はざんばら、全身血まみれの幽鬼さながらである。


「もう少しや、小菊よ。たっぷりかわいがってやるさかいなァ」


小菊は京の五条河原で春を売る娘たちのひとりであった。年のころは十六、七であろうか。もとは公家であったがふた親が相次いで亡くなり食べるものにも困ったので仕方なしに河原で客をとることにした……と本人は言うが本当のことは誰にもわからない。


 顔立ちはともかく、白い肌が美しい娘であった。

 弥五はお役目のあと、立田久衛門に貰った銭を懐に河原で女を買うのが常であった。

 弥五は小菊を三度ほど買っている。いつも小菊を目当てに行くのだが、弥五の懐に十分な銭がある日と、小菊が客を取る日が同じとは限らない。ならば出直せばよいのだが、結局我慢ができず、つい別の女を買ってしまうのだった。

弥五は小菊と最初に肌を合わせた時、ちょっとした嘘をついた。


「儂はのう、今はお役目でこのようなむさいなりをしておるが、ここだけの話、れっきとした侍なんじゃ。実はのう、羽柴筑前守様のお馬廻り衆での、朝日弥五兵衛と云う者じゃ」


 朝日は弥五の生まれた泉州の村の名だった。咄嗟に思いつきだった。


小菊は、


「はあ、さよかァ」


 と、応えた。弥五の話を信じたようでもあるが……まあ別に弥五のことなどどうでもよいので適当に話を合わせただけなのかも知れない。

弥五は小菊の前で嘘に嘘を重ね、それを女は疑う素振りもなく信じるものだからますます嘘をつくようになった。


 次第に弥五は小菊の前では、本当に羽柴筑前守家来、朝日弥五兵衛であるかのような錯覚をおぼえるまでに至った。

弥五が足である自分に不満を感じはじめたのはこのあたりであった。

そして弥五は最後に小菊を抱いた夜、それはつい一昨日のこと、つまり信長が本能寺に横死する前夜であった。


「おい小菊、儂は決めた。そなたを儂が正室として迎える」


 士分でもない忍びの端くれである弥五に正室もへったくれもありはしない。

だが小菊はいつもの調子で、


「はあ、それはどうもありがとう」


 と、まるで菓子でも貰ったお礼のように応えたものだから、弥五は天にも昇る心持ちである。

いったいその後の嘘をどう取り繕うつもりだったのか。わけも分からぬままに弥五はそう言ったのだが、今となってはそれも運命の糸に操られたようにしか思われなかった。

 そしてその糸の先には本物の羽柴筑前守家来、朝日弥五兵衛がいる。もう、そうとしか考えられない。

弥五はもともと泉州の百姓であった。

 一族ともに熱心な一向門徒であり、元亀のころに石山本願寺に入った。

このころから健脚を以て働くようになり、顕如上人の檄を持って伊勢、近江、越前、加賀、紀州などの末寺を廻るうち外の世界を知るようになる。

 そして次第に本願寺の僧たちや門徒衆に疑いを抱くようになった。


「死人のような目ェしよって、根来衆の鉄砲が筒先揃えとる前へ突っ込んで行くなんぞ信じられんわ。進むは往生、退くは無限地獄なんぞ言うて、もうここは地獄やないかい」


そう思ったらもう本願寺にはおられなかった。檄を持ったまま出奔し、京へ出た。京では盗っ人の一味に組したりしていたが、捕らわれて首を刎ねられるところを明智家中の立田久衛門に救われた。

 以来、立田久衛門の下忍、つまりは足として働いてきたのだった。


……さあ、どうするか?


弥五は薮の中で思案する。

明智の忍びとして捕らわれたのでは仕様がない。特に秀吉の名高い荒小姓連中にでも捕まったら目もあてられない。散々痛めつけられた揚げ句に首と胴が別々になり、穴に投げ込まれるのがおちだ。


「やああーごおお」


 唐突に藤佐の声が聞こえる。あの地の底から響いてくるような、くぐもった声。

 弥五は濡れた犬のように、ぷるぷると首を振った。


「小菊よお、もう少しやからの」


 小菊の裸身を思い浮かべる。搗きたて餅の乳房、その先っちょに桜の花びら。

白い乳房、窪んだ臍、そしてうっすらと毛に覆われた秘所。その、ぬるっとした感触。まるで指が吸い込まれていくような。


「やああーごおお」


 ぬるっとした感触。


「やああーごおお」


 桜の花びら。


「やああーごおお」


 搗きたて餅。


「やああーごおお」


尖った顎。黄色い乱杭歯。手首……。

藤佐がくわっと大きな口を開く。

堪らずに弥五は雑木林の中へ駆け出す。ぶるぶると身体を瘧のように震わせている。ふた抱えほどの橡の幹にしがみつく。そして額を幹に打ち付ける。ごん、ごんと音がする。「わあっー」叫びそうになる。それを必死に堪えた。捕まれば命はない。

ごん、ごん。大槌でぶっ叩くような音である。額が割れ、血が滴る。

弥五は崩れ落ちるようにその場にへたり込んだ。ほとんど失心しかけている。

肩で息をしている。息苦しいのだ。これまでどんなに長い距離を走っても、これほど苦しくなったことはない。

いったい何度こうして額を木の幹や大石に打ち付けただろうか。あたま全体が腫れ上がり、ひと回り程も大きくなった感じがする。 藤佐の声から逃れるために小菊の淫らな姿態を想像する。だがそこにも藤佐の声は侵入してくる。さらに夢想に集中する。藤佐の声はやまない……。

やがて夢想も混乱してくる。搗きたて餅の乳房の上に、尖った顎の生首が乗っかっていたり、潤った秘所を拡げると中から黄色い乱杭歯が覗いていたりする。

藤佐から逃れようと額を打ち付ける。そうするとなぜだか藤佐の声はやんだ。だがそれも長くは続かず、しばらく走ると……また同じことの繰り返しであった。

藤佐を殺したのが昨日の真夜中。あれから朝を迎え、そして今しがた夕日が西の尾根に沈んだ。

もちろん弥五は一睡もせず駆け通した。しかも途中で何度も額を打ち付け、血潮を振り撒きながら……。面変わりして幽鬼さながらとなるのも無理はない。

さあ、どうするか?


 中空を呆然とさ迷っていた弥五の視線がようやく一カ所に集まる。

 羽柴本陣を見下ろしている。


 泉州牢人、朝日弥五兵衛が羽柴筑前守様に火急にお知らせしたきことあり参上つかまつった。お取り次ぎ願いたい。……あかん。弥五は自らの身なりに目をやる。継ぎ接ぎだらけの垢染みた着物が一枚。大刀もない。どう見ても侍には見えない。しかもざんばら髪である。


ええい、真正面から当たったれ。なるようになるわ。

 足らぬ知恵を回していろいろ考えるのだが、結局こたえはたいがいこうなる。


だが……。ここは一生の大事やで。それでええんかい?

ここは儂が立身できるかどうかの切所や。いち大事や。考えるんや。考えるんや。 

そうや。まず儂のことを誰かにみとめて貰わなならん。まず家中のどなたかを訪ねるんじゃ。事情をご説明申し上げて、そのお方から羽柴様に取り次いで貰うんが一番ええやろ。それは誰か?やっぱり儂と同じように「世がみえる」お方でないといかん。


 誰や?


世が見えるお方は。

 やがて弥五の脳裏にひとりの男の名が浮かんだ。

 弥五はにやりと笑った。



やはり和睦のことは上様ご到着を待ってからのことにした方がええやろ。


 上様はやっぱり武田四郎(勝頼)と同様、毛利も滅ぼすおつもりや。それやったら和睦のことをこれ以上進めても仕様がない。


日々水中に没してゆく高松城を挟んで対峙する羽柴、毛利の両軍はこれまで再三にわたり講和の交渉を続けてきた。羽柴側の条件はふたつ。領土の割譲と城将清水宗治の切腹であった。


毛利の使僧安国寺恵瓊によれば、苛酷な条件ではあるが、領土の割譲を三家(毛利、吉川、小早川)は呑むであろうという。問題は城将清水の切腹だが、これも城兵の助命を保証すれば清水宗治は喜んで腹を切るに違いないと恵瓊は言う。


 ここに来て和睦の展開が急に開けた。


それだけ織田殿十万の大軍にて西征と云う風聞はこたえたのだろう。そして甲斐武田の実にあっけない終焉。毛利三家はまさに一族滅亡の危機を感じている相違ない。

 それにしてもしんどいことや。何のためにあんな苦労して水攻めまでしたんや。毛利の三家を引き出したら仕舞いか。

 今度はそれこそ筑前あたりで一からの出直しやな。それにしても上様は本当に人使いが荒い。まるで尻に火をつけるような働かせ方をしよる。

 もてあそんでいた扇子をぱちんと閉じた。それがまるで思案を打ち切る合図であるかのように黒田官兵衛は床几を立った。

 と、その時であった。


「殿さま、怪しき者を捕らえました」


 黒田家家来の若侍であった。 


「当家の陣屋のあたりでうろうろしておりましたので、搦め捕りました。それが、何やら奇妙なことを申すもので一応殿さまのお耳にと思いまして」


「奇妙なこと?」


若侍は頷いた。怪訝そうな顔つきである「明智様から小早川様への密書を持っていると言うんで」


「その者がそう言うのか?」


「はい、これがその密書やと」


若侍は官兵衛に蝋で固く封印された密書を差し出した。


「密書とな?」


密書を持った忍びが向こうから飛び込んで来たあげくに肝心の密書を差し出す、そんな馬鹿な話があろうか?


 官兵衛は密書の封印を爪で丁寧に剥がしていく。紙をほぐしてひらく。

 が、その途端、官兵衛の目はある一点に釘付けとなった。

書面の最後に花押があり、それは惟任日向守と読めたからだ。そして宛て名は小早川左衛門佐殿となっている。

 毛利の謀略か?

くるり、と官兵衛の頭は回転する。

とにかく文面を読んでみる。



「急度飛檄を以て言上せしめ候。こんど羽柴筑前守秀吉事、備中国において乱妨を企つる条、将軍御旗を出だされ、三家御対陣のよし、まことに御忠烈の至り、永く世に伝うべく候。然らば、光秀事、かねてより賜りし将軍御命によりて、今月二日、本能寺において信長父子を誅し候。将軍御本意を遂げられるるの条、生前の大慶これに過ぐべからず候。此の間、よろしくご披露に預かるべきものなり。誠惶誠恐。

  六月二日

      惟任日向守

小早川左衛門佐殿」



何なんだこれは!


 偽書か?本物か?


しかしながらそこに記された驚愕の事態はどうなのだ。

 明智日向守が将軍の命により信長、信忠父子を本能寺にて誅した、それも昨日のことだという。

偽書であるとすれば、誰が何のために?

 くるり。官兵衛の思考が回転する。


 恵瓊か。とすれば和睦の談合は何のためだったのだ。もし偽書であっても人を遣って確かめれば済むこと。少なくとも今対陣している毛利家のためにはならんだろう。

 とすれば……鞆の浦の義昭様(足利義昭)か。このような偽書が出回って上様のお目にとまったら……上様とていいお気持ちはしないだろう。


 それによって織田家臣団の動揺を狙ったとすれば……あり得ないことではないが、あまりに姑息。あのお方もついにそこまで性根が腐られたか。

とにかくその者に会ってみる以外になかろう。


「その者をそこの庭へ引き出せ」


官兵衛は若侍に命じた。若侍は戸惑ったように主人を見上げている。


「どうした?」


「それがそのくせ者、どうも妙なんで。話してると急に脅えたり、かと思うとわあーっと叫んで柱に額を打ち付けたり」


「柱に額を打ち付ける?」


 若侍は頷いた。


「常なら尻でも叩いて追っ払うところですが、お殿さまに会わせろ、密書を持っとると言ううもんで。なら密書を見せェ言いましたら、それを差し出しまして」


「気ィが触れとるんか」


「おそらくは」


「まあええわ。とにかく引き出せ」


「はっ」


 若侍は言うべきことをいったので安心したのか、機敏に立ち上がり官兵衛の居室を去って行った。

官兵衛は城下の大きな百姓屋を借り上げて陣屋として使用していた。官兵衛の居室は一方が庭へ面している。


 灯火を近づける。惟任日向守の花押をもう一度よく見る。官兵衛は明智の花押を何度か見ている。かと云って真贋を判ずるほど熟知している訳もない。

しかし、その迷いのない筆の運びは本人のもののように思えてならない。

 とすれば、上様横死が事実なら、我らはまさに滅亡の危機に瀕していることになる。


 毛利三家の軍は五万、我らは三万。しかし上様横死が知られれば今は味方についている備前、美作の国人どもはなだれをうって三家につくだろう。後ろ巻き十万が雲散霧消したと知れば、三家の軍勢は怒涛のごとく押し寄せる。我らにそれを支える力が最早あるはずもない。

 姫路に帰り着くまでに我らが軍勢はばらばら、落ち武者狩り餌食となるであろう。


「殿さま、連れて参りました」


 先の若侍が、まるでいくさ場から拾ってきた骸のような男の襟首を掴んで官兵衛の前に引き据えた。


「これは黒田様でございましょうか」


荒縄で後ろ手に縛られた男は、割合としっかりとした声で言った。

だがその顔は血まみれで、両目だけが爛々と不気味に光っている。まるで討ち取られたばかりの首のようで、官兵衛には生きて喋るのがまるで何か悪い冗談のように思えた。


弥五であった。


 弥五はあれから夜陰に紛れて羽柴勢の陣屋をまわり、黒田の陣屋を探したのだ。もとより忍びのはしくれである。そのくらいは容易いことだった。そして忍び込むとくだんの若侍を見つけ、密書を持参したので黒田の殿さまに会わせてもらいたい、と頼んだのだ。


「儂が黒田官兵衛じゃ」


 官兵衛は弥五を見下ろしながらそう応えると、床にゆっくりと腰を下ろした。官兵衛は曲がらない方の足をゆっくりと摩る。荒木村重によって水牢へ一年近くも押し込まれていたので、以来片足の膝間接がこわばってしまい曲がらなくなったのだ。


「そなたはどこの手の者じゃ。何ゆえこのような密書を携えておる。ここは筑前守さまの御本陣の近くじゃ、こんなところまで入り込めるところを見ると、どこぞの忍びのようじゃな」 


弥五は官兵衛の表情をじっと見ている。

もうこうなったら嘘言うても仕様ない、全部ほんとうの話をして黒田様におすがり以外に道はなかろう、弥五はそう思った。


「ご賢察の通り、儂は斎藤利三様の手の者で弥五と申します。組頭は立田久衛門様、儂らは素走りを得意としておる忍びの端くれでございます」


「素走り、要は足と云うことか?」


「へい、さようで」


「弥五と申したな。するとこの密書は内蔵助殿(斎藤利三)より預かったのか?」


「いえ、預かったのは藤佐と申す足でございます」


「ならばその藤佐とやらはどうした」


「……儂が殺しましてございます」


「何ゆえに」


「その密書を羽柴様へお届けしようという儂の誘いを断ったからにございます」


 と、その時またあの声が聞こえた。


「やああーごおお」


 びくっと弾かれてように弥五は一瞬反り返った。

 糞、こんな大事な時に。弥五はうろたえた。 搗きたて餅、桜の花びら。


「……これはまことなのか?そなた日向守さまの陣から参ったのなら見ておろう」


 弥五は耐えている。俯いている。

 薄い毛に覆われた秘所の、そのぬるっとして感触。


「やああごおお」


弥五はまた反り返った。


「どうしたのだ?弥五とやら」


一物が小菊の秘所を掻き分けて行く、得も言われぬ感触。

 弥五ははっと顔を上げる。


「まことでございます。密書の中は存じませんが、明智の御大将が織田の大殿様を本能寺に攻め殺しましたのは、まぎれもないことにございます」 

「こら下郎、お殿さまの前で無礼は許さんぞ」 弥五は這いつくばったまま、額を地面に打ち付けていた。ごん、ごん。若侍が手にしていた六尺棒で弥五の背中を打った。


「へえっ」


 と弥五は恐れ入った見せるが、額を打ち付けることはやめなかった。それを見た若侍がまた六尺棒を叩きつけようとする。


「やめとけ」


勘兵衛は言った。

 若侍は振り上げた棒をゆっくりと下ろした。


「弥五、もうひとつ教えてくれ。何ゆえ儂のところへ来たのじゃ」


 そこですかさず弥五は、


「羽柴様の御家中で世の見えるのは黒田官兵衛様」

と言ったところでその視線が凍りついてしまった。


――足首に藤佐の手首がまだ食いついているではないか。


「世が見みえる、何じゃそれは?」


 官兵衛は訊く。が、弥五は固まったままぴくりとも動かない。


「こら、答えろ。お殿さまが訊いておられるぞ」

若侍が業を煮やして棒で肩口を小突いた。 と、その時。


「ぎゃーあああ」


 弥五が突如飛び上がって叫びながら片足で宙を蹴りながら、その場でくるくると回りだした。

若侍は吃驚して、不覚にもその場に尻餅をついてしまった。

数人の番兵が駆けつけた。

 夜間、陣中での大声などみだりに騒擾を起こす者は軍規によってきつく処罰される。場合のよっては切り捨て御免となるのだ。

六尺棒でぶっ叩かれ、弥五はたちまち取り押さえられた。

弥五は六尺棒で雁字搦めにされながら、自分の足首を両手で掴まえていた。

何ということだろうか。

 藤佐の手首と見えたのは、藤佐の指が残した圧痕だった。時が経って内出血がひどくなったので、より鮮やかに見えたのだ。

糞、糞、藤佐めが、こんな大事な時に。

官兵衛が、もういい、というように首を横に振った。弥五は両手両足を捕まれ、さらにきつく荒縄をかけられているところだった。 もうあかんで元々や、言うだけいうたれ。「お殿さま」

官兵衛が振り返った。


「儂は羽柴様の御家来にお取り立ていただきたいんや。それでその密書を奪って、ここへ来たんや。お願いや。お殿さまのお力でお取り立て下されるよう、何とぞお頼み申します」


官兵衛は最後まで聞いて、全く表情を変えずにこう言った。


「ようわかった。筑前守さまには儂からよう言うとくわ。安心せい」

 ひどい飢餓にある者が急に飯を食うと死ぬことがあるそうだが、これまで幸せに縁のなかった弥五はこの望外の幸せに死にこそしないが、息が止まった。


ぽかんと口を開けたまましばし呼吸を忘れていた。


「有り難たく存じます」


 と言って地面に頭を擦りつけた時には、もう官兵衛の姿は目の前から消えていた。

 

何ということじゃ。


 この密書は本物だ。


 それにしても明智とは。

やるとすればお子たちのうちの誰かと思っておったがの。三介信雄(信長次男)か、三七信孝(同三男)。このいずれかと丹羽、柴田のご重臣方が結託して。それならあり得んこともない。


一族での殺し合いは織田家の血筋やからな。

官兵衛は羽柴本陣へ夜道を歩いていた。従う者はくだんの若侍のみである。


若侍は松明で野道を照らしている。本陣まで不自由な官兵衛の足でも四半刻とかからない。

佐久間右衛門尉(信盛)さま追放の一件以来、重臣方はえらく動揺しとる。

 そりゃあそうや。佐久間さまはいうちゃわるいが毒にも薬にもならんお方や。そんなお方がえらい昔のことを蒸し返されて、所領召し上げ高野山へ追放されたんじゃかなわん。柴田さまなんぞ勘十郎(信行・信長弟、家督の争いから信長に誅せられる)さまの一件で一度は上様に弓ひいたお方や。いつ腹切らされても不思議やないやろ。


思えば佐久間さまも気の毒なお方や。設楽ケ原(長篠合戦)の折は根来衆の鉄砲の前に四郎(勝頼)を誘い出すために偽書まで書かされて。これは偽書とは言わんな。本人が書いとるんやから本物や。馬場美濃守の突貫と鬨を合わせ佐久間隊が寝返って上様の本陣を突くと。そんな世迷言を信じる四郎も阿呆やが、可哀想なんは馬場美濃や。あれだけの大将が戦らしい戦もせんと、根来坊主の鉄砲に当たって死によった。


ほんに上様も罪なことや。佐久間さまを使うだけ使こうて敝履のように捨てよった。まるで命を取らんだけ有り難いと思えと言わんばっかりや。あんなことしとったら、いくら上様といえどもいつか高転びに転ぶやろ。


 それにしても明智とは。

 将軍の命や言うとったな。

 そうか、その手があったか……。

 明智はもともと将軍直臣や。将軍から見たら明智も上様もほんまは同格なんや。


 ――いや、同格やない。


 右大臣を返上なさってから、朝廷は三職

(関白、太政大臣、征夷大将軍)を用意してるとはいうものの、家督も譲った上様は無位無官のただの隠居や。


その無礼な隠居を将軍の命で直臣の明智が討つちゅうのは筋としては間違ってはいない。 あ、そうや。


 これに上様追討の密勅があれば完璧や。

 朝廷、将軍。このいずれにも重用された経歴があるのは明智だけや。

 つまり上様追討は明智にしかできん芸当なんや。

勅命はもう出ているか、いずれ出る段取りなんやろ。帝と上様はことのほか仲がお悪い。でなければあの小心の明智がこんな大それたことをやるはずがない。

だんだん読めてきたぞ。


 くるり、くるり。


 官兵衛の頭脳が回転する。

これは絵を書いたやつがおる。明智を唆した奴や。朝廷にも将軍にも、そしてもちろん明智にも深いつながりのある奴。そして相当頭のいい奴やな。

 誰や?


 くるり、くるり。


 堺衆やな。堺衆の誰かやな。


 官兵衛の脳裏に一人の男の姿が浮かんだ。 まさか……。心の中ですらその名を呼ぶことすら憚られた。信長、側近中の側近である。「まあ、詮索はどうでもええわい」

 官兵衛は吐き捨てるように言った。若侍は緊張した面持ちで主人の横顔を見た。

 篝火がだんだん大きくなる。秀吉が本陣として使っている古寺が近くなった。

この虎口を脱出できなければ、陰謀の真相を知ったとて意味はない。とにかく今は生きて姫路までたどりつくことに官兵衛は全能力を注がなくてはならないのだ。


「きんか頭めが、ようもやりおった」


 官兵衛は信長の口調を真似て言った。きんか頭とは光秀のことである。

 とその時、ある考えが閃いた。

 そうや偽書や。

 くるり、くるり。

 官兵衛は懐に仕舞っていた密書を取り出し、ひろげた。


「おい、もっと照らせ」


 若侍は松明を近づける。官兵衛は密書のある部分をじっと見つめている。


「然らば、光秀事、かねてより賜りし将軍御命によりて、今月二日、本能寺において信長父子を誅し……」


ここんところを書き直したらどうなるやろうか?

 官兵衛はぶつぶつと、まるで陰気なお経のように何事か口中でつぶやいた。


そうや、これがええ。

 こいつを我らが退き陣したあとに、小早川に届くようにしたれ。

 官兵衛はしてやったり、とにんまり笑った。 きんか頭め、おのれだけうまくやったつもりやろうが、そうはいかんぞ。


密書を懐に仕舞いこむ。官兵衛は再び歩きはじめた。

ほどなく古寺に着く。

 秀吉が仮住まいしている庫裡へと続く縁側の階段を昇りかけたところで、急に思い出したように官兵衛は若侍を顧みた。


「又よ、又兵衛」


又と呼ばれた若侍は顔を上げる。


「何でございますか殿さま」


 寄れと、官兵衛は目顔で合図した。若侍は顔を寄せた。官兵衛は囁くように言った。


「あの弥五とやら、斬ってしまえ」

 驚いたように若侍は寄せていた顔を離した。


「嫌でございます。あのような気の触れた者を斬っては刀の穢になります」


「これ、大きな声を出すでない。何ゆえそなたはいつもそうなんや。素直にはいと云うことがない」


 と、官兵衛は叱る。がその表情にはどこか慈父のような暖かみがあった。


「まあよい。あの者はの、気ィが触れとるんではないわ。同役を斬ったというたやろ。大かた取り憑かれとるんや。初めて人を斬った気の弱い奴によくあることや。成仏させたった方があやつのためやで」


若侍は何事かを言いたげに見上げる。官兵衛の真摯な視線に合い、俯いた。  官兵衛は若侍の肩をぽんと叩いた。


そして不自由の方の脚を引きずりながら階段を昇る。奏者番には官兵衛が来たことを伝えてある。秀吉はこの先の庫裡で官兵衛を待っているはずだった。

角を曲がって主人の姿が見えなくなるまで見送ると、若侍はくるりと踵を返す。もと来た方へ走り去った。


この若侍、名を後藤又兵衛基次と云う。

後に黒田家中にその人ありと謳われた豪の者となり二万石の大禄を食むが、主を主とも思わぬ勝手な振る舞いが多く、二代長政に疎まれ遂に黒田家を出奔する。その後大坂の役にて城方の総大将となり、その勇名を後世に伝えることとなるのだが、それはまた別の話。 渡り廊下の先が庫裡となっている。


 その入り口に小柄な男が立っていた。

 薄くなった頭頂に申し訳ていどのもとどりがちょこんと乗っている。貧相な男である。だが眼光だけは異常に鋭い。


家来にあだ名をつけることが好きだった主人はこの男を、はげねずみと呼んだ。


羽柴筑前守秀吉である。


さあて、この男にどれだけの運があるかや。生きるも死ぬも所詮は定命。

 弥五とやら、望み通り筑前守さまへ目通りはかなうやろが、首だけやな。

あの者、だいだい儂を訪ねてくるのが大間違いや。儂もこの一件に一枚噛んでるやないかと、痛くもない腹を探られるのはかなわんからな。

 可哀想やがしゃあない。

 いろいろいらんことを考える足は、やはり使いものにはならん。

そうや、小早川と間違えて我らが陣屋の辺りをうろついていたことにしよう。逃亡しようとして、やむなく斬ったと。


夢を見ていた。

 心地よい夢である。柔らかな女の乳房に抱かれている。


 小菊か?


 いや、もっと遠く、懐かしい。そして甘い。 本願寺に捨て殺しにした、母者か?


と、そこで目が覚めた。


見上げると、先ほどの若侍が弥五を見下ろしている。若侍が蹴り上げたのだろう、尻のあたりに痛みが残っていた。弥五は足首から胸まで荒縄でがんじからめに縛り上げられ百姓屋の土間に転がされている。そして縄の端は柱にしっかり結ばれていた。


若侍は矢庭に太刀を抜いた。

 開け放たれた引き戸の向こうから月の蒼い光りが差し込んでいる。それが映って、太刀がぎらりと光った。


(ちょいと待ってくれい。話が違うやないか) と、言おうとしたが言葉にならない。


「ちょっちょっちょっ」


 と吃っていると、若侍は弥五の身体と荒縄の間に太刀を素早く押し込む。


「うわわわーっ」


 弥五は叫びながらのけ反る。


「おとなしくせんかい。縄を切るだけや」


 若侍がそう言うと、弥五は大きく息をついた。


「ええかげんしてくれ。吃驚するやないか」 そうや、こいつは黒田の殿さまの家来や。羽柴さま直臣の儂から見れば又者やんか。と、もうすっかり羽柴の家臣となったつもりの弥五である。


「黒田殿はどうしたんや。御大将のところかい」


 縄目が食い込んだあたりを摩ってりながら弥五は訊いた。が、若侍は応えない。抜き身を下げたまま、かわりに、


「表へ出ろ」


 と、ぶっきらぼうに言った。

 それが羽柴さま直臣の儂にいう言葉かい、とも思ったがしかし、悲しいかなもともと人間の格が違いすぎる。身体が素直に従ってしまった。

雨はすっかりあがり、雲間からまぶしいばかりの月がのぞいていた。

若侍は縄目を解いてから斬ることにした。 素走りを得意とする者ならば逃げるやも知らん。儂も追うが、それで逃げおうせれば、その者の勝ちや。

と、勝手にそう決めたのだ。

若侍は弥五の背後に回り込み、柄を握る手に力を込めた。殺気を送った。

弥五は殺気にすぐ気づいた。そこは忍びの端くれである。

 野郎、本気で斬る気ィやな。

糞、官兵衛め、騙しよったか。


 阿呆め。おまえなんぞにむざむざ斬られるかい。逃げ足だけでここまで生き残って来た儂じゃい。

 よし、こうなったらほんまに小早川の陣まで駆け込むだけや。密書はないが、織田の大殿さまの最期を喋るだけでも十分やろ。官兵衛も羽柴筑前も、この野っ原に首のない屍を晒しやがれ。

若侍は太刀を上段に振りかぶった。


 それを知って、弥五は地を蹴って飛び出す間合いをはかっている。初太刀をぎりぎりで躱し、相手の体勢が崩れたところで一気に飛び出せばもう追いつけない。

 若侍は息を大きく吸い込む。それを弥五も感じている。息がとまる、その寸前に走り出さねばならぬ。


 今だ。


が、足が動かぬ。

 ぎょっとして足を見る。足首を白い手首がしっかりと握り締めているではないか。

「げえっ」

 と、弥五は悲鳴を上げたが、それほとんどは声にはならなかった。

 なぜならちょうどその時、弥五の首は慣れ親しんだその胴と永の別れを告げたところだったからだ。

首は三間ばかり前方に飛び、地面に転がった。少しの間をおいて、その首を追うように弥五の身体は前のめりに崩れ落ちた。

「おまえ、なんで逃げなんだ……」

 若侍は、不思議たまらぬと云う顔付きでそういった。が、いまや首だけとなった弥五がその問にこたえるはずもない。


黒田官兵衛の機転によりその一部を書き換えられた明智の密書は、羽柴筑前一世一代の大芝居が幕をひいたその翌日、小早川隆景の手にわたった。

それはこう書き換えられている。


「……然らば光秀が事、近年信長に対し憤りを抱き、遺恨もだしがたく候。今月二日、本能寺において信長父子を誅し、素懐を達し候。……」


つまり光秀は信長に対して遺恨があり殺したのだ、と書かれている。これでは明智の信長誅殺は私怨による私闘である、と解釈されても仕方がない。


 が、それこそが官兵衛の狙いであった。

 羽柴勢はその後かの有名な「備中大返し」によってあっという間に京へ立ち返り、山崎において明智勢を破った。これが六月十三日のこと。本能寺の信長横死より、わずかに十一日後のことである。


羽柴筑前守秀吉は天下人となり、そして偽書が残された。

 惟任日向守光秀は希代の裏切り者として、その汚名を永く後世に伝えることとなったのである。

しかしこの一件で損をしたのは光秀だけではなかった。


「ほんにおぬしは、恐ろしい男やのう」


 偽書の企てを官兵衛から聞いた時、秀吉は嘆息まじりにそう呟いた。そしてこれは秀吉の本音であったのだろう。

 秀吉はその希有な生涯を閉じるまで、官兵衛には決して大封を与えなかったのである。 黒田家が筑前五十二万三千石に封じられたのは、関ヶ原合戦の後であった。






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