三、葛籠
狐屋敷の旦那。これは環にもすぐに分かった。篝はお狐さまで、だからあの屋敷が狐屋敷と呼ばれているのだろう、と。
だが、漁色家というのは──。
「あの。漁色家ってどういう意味ですか?」
隣の篝に訊ねると、歯切れの悪い反応しかない。
「それは──……まあ、そうだな……」
中々返ってこない答えに痺れを切らし、環から告白する。
「お恥ずかしい話ですが」
そう前置きをして。
「私、それなりに本を読んでいると思っていたんですが、漁色家という言葉を聞くのは初めてで」
一般常識の範囲になるのだろうけれど、それを知らないと打ち明けるのは勇気が要る。現世ならば、すぐに辞書を引けば良かったけれど、ここにはそれがない。
篝に言えば、辞書も与えてもらえるだろうか。
「……魚好きという意味だ」
魚好き。その回答に視界がすっきりと開けた。
「なあんだ! 狐も魚を食べるんですね」
声を上げる環を見て、蒐集家は肩を震わせている。
「……さすが、狐は口が上手えな」
篝をからかう意図が分からず、環は首を傾げる。今度は、篝からの答えもなかったけれど。
「それよりも、葛籠をひとつ借りていく」
「お前さん、どういう風の吹き回しだい。俺んとこに興味はねえんだろ」
「我はな。ただ、これのためだ」
「どうやらヒトみてえだが、誰だい、そのお嬢さんは」
「我の妻だ」
蒐集家はぽかんと口を開けて、篝と環を交互に見て──その後反り返って笑った。
「漁色家の、お前が! 妻!」
町中でも驚かれはしたがこうも笑われはしなかった。篝と並び、釣り合いが取れているとも思えないし、環自身の見栄えが良いとは言えない。そもそも形ばかりの夫婦だ、どう言われても構わないつもりだったが、こう憚りもなく笑われるのはいい気分ではない。
環の表情で、蒐集家も気付いたようだった。
「いや、悪いな嬢ちゃん。この、魚好きの、こいつが妻を娶るなんてこたぁ絶対にないと思っていたからさ」
「そうですか」
魚好きの他にも理由がありそうだが、訊いたところで誤魔化されるだろうから黙っておいた。
「それで、何の用だ漁色家」
「ちょっと、葛籠を探しにな」
「お前にゃ必要ねえだろうが」
「我ではない。妻の手慰みだ」
「嬢ちゃんの?」
「妻は現世の者なのでな」
「現世……って、おい、嬢ちゃん、ヒトなのにこんな輩に嫁いだのかよ!」
「ええ……成り行きで……」
「……ご苦労なことだ」
蒐集家は環を手招きし、耳打ちする。
「あいつを見限って帰りたくなったら、いつでも俺を頼れよ」
思いもしない発言に驚き、蒐集家を見る。
「じゃあ、ごゆっくり」
そして手渡されたのは、太い和ろうそく。
「それを持ってりゃ迷わねえよ」
その言葉に送られて、奥へと向かう。うせもの屋は、入ってすぐに広い土間。そこに一段高く収集家が座っている。その奥に入るには、再び暖簾を潜らなければならなかった。
暖簾の向こうは、ずらりと棚が並んでいた。そこに収まっているのは無数の葛籠。古いものから新しいものまで遥か遠く、奥が見えないほどだった。
天窓から差し込んでくる光は薄暗く、棚に並ぶ手燭を取る。無言で環に手を差し出した。ろうそくを渡せということらしい。篝の手に渡ったろうそくは手燭に立てられる。
「火を……」
「要らんよ」
ふうっと篝が息を吹きかけると、ろうそくに火が灯る。
「気をつけて」
そう言って、手燭を渡された。
「そなたの葛籠を探そう」
「私の葛籠? 私の家は古いですが、でも私物は葛籠に仕舞ったりしてませんでした」
衣類は箪笥か衣装ケース。使わなくなったものは捨てるか、もしくは段ボールに詰めていた。葛籠など、家のどこかにあったかもしれないが、それは先祖のものが仕舞われているのだ。環には関係のないものだ。
「それに、どうして常世に私のものがあるんです」
「それがな、どうしたことかあるのだ」
奥へ歩きながら、篝が説明をする。
「うせもの屋は、名の通り紛失したものを扱っている」
「駅の忘れ物センターみたいな所ですか」
「忘れ物センターか。それはいい。現世で暮らしていた頃、捨ててはないけれど、どこにあるかは分からない。だがいくら探しても出てこない、というものはないか」
「あります……うん、ある」
「そういうものは、全てこのうせもの屋にある」
「へ? ここに?」
「現世で見付からないのは、この常世にあるからだ。葛籠は各々のそうした失せ物が入っている」
常世にあるから、見付からなかったのか。
お祭りで買ってもらった水笛。友達との交換日記。お菓子に付いていたネックレス……。
思い出の断片と共に蘇る。
「本当にあるんですか?」
その懐かしい物を手にできるなど夢ではないか。
「どこかにな。あいつが蒐集家と呼ばれる所以だ」
「見付けられますかね、見付かるといいなあ」
あまりにも子供っぽくはしゃいでいたようだった。篝は苦笑を漏らし環の手元を指す。
「ろうそくの火が案内してくれる」
手燭のろうそくは細く長く辺りを照らしている。この火が、どうやって案内するのか。篝の言葉が信じられずにいると、火がゆらりと奥へと揺れた。
「もっと奥だと言っている」
「……」
常世で暮らして日が経ち、多少は慣れたと思っていた。だが屋敷から一歩外に出ると現世の常識など一瞬で打ち砕かれる。ろうそくの火しかり、蕎麦屋ののっぺらぼうしかり、記憶にある捜し物しかり。
「つくづく、面白い場所ですね」
「我には現世の方が面白いと感じるが」
そういうものか。隣の芝生は青く見えるのだ、現世も常世も。
ろうそくの火は、環たちを手招きするように揺れる。どこまで続いているのかも分からない奥へと誘うのだ。ごくありふれた店構えだったのに、奥は迷宮のように果てしなく広がっている。
葛籠は新しいもの、古いものとあるが、名前は書かれていなかった。
「新しい失せ物が出たら、また葛籠に収まるんですよね」
「そうだな」
「葛籠には名前が書かれていないし、失せ物にも名前が書かれてない、かもしれないのに」
「よく気付いたな」
「そこは、ヒトではない方々の努力で?」
「一言で片付けるならば、そうだな」
「ちょうどいい、見てみろ」
そう言って篝が指したのは、足元を歩く定規。それを運んでいるのは、脚が何本も生えた虫のような生き物だった。長い脚を持ち、身体は小さい。ちょうど蜘蛛に似ていた。
運び疲れたのか、足を止め休憩している。身体を大きく上下させている姿は息継ぎをしているようだった。そしてまたせかせかと脚を動かして運び始める。
「それが、葛籠と失せ物の紐付けを行っている。蒐集家はそれの雇い主だな」
環のものも、そうやって運ばれたのだろう。
「ずっとここに収まっている訳でもないぞ」
「ここから出ていくこともあるんですか?」
「現世の持ち主が見つけ出せたらな。その時は、また葛籠から運び出す」
運ばれていく定規は見えなくなる。どこかの葛籠に収まったのだろう。持ち主が見つけ出すまで。
ろうそくの火が、急かすように揺れた。
暖簾を潜ってどれほど歩いただろう。火が、ぽっぽっと弾んだ。
「ここのようだ」
篝はろうそくと会話をしているようだった。何を伝えたいのか、言葉がなくても分かる。
「後は、御本人が見付けられるそうだが──分かるか」
「私が? 後は自力で?」
ここだ、と連れてこられたは良いが、目の前には棚にきちんと収まる葛籠。ひとつひとつ開けて確認しなければいけないのか。眉間に皺を寄せてひとつの葛籠に触れたが、引き出して蓋を開ける前に気付く。
これではない。
どうしてだか、伝わるものがあった。別の誰かのものが詰まっている。横の葛籠に触れると、これも違う。
そうやって、ひとつひとつに触れた末に、手に伝わる懐かしい感触があった。
「これだ!」
一番下の棚、足元にあったその葛籠。しゃがみこんで引っ張り出す。一抱えはあろうかという大きさだ。生まれてからの失せ物が全て詰まっているのだ。手燭を足元に置き、持ち上げようとした所に、横から手が伸びる。
「我が運んでやる」
「でも。重いですよ」
「そなたより力はある」
そう言って、ひょいと葛籠を抱え上げてしまった。片手で。俵のように肩に乗せる。
そして、しゃがんだままの環に手を差し出すのだ。
「そなたも抱えようか」
みるみる顔が熱を持つのは、どうしてだろうか。手燭を取り、差し伸べられた手を無視して立ち上がる。
「け、結構です!」
蒐集家に礼を言い、夕暮れの道をのんびりと帰る。
「何が入っているのだろうな」
中で物が触れ合う音がする。
「開ける時は一人で開けますからね、見ないでくださいよ」
「良いだろう、減るものではなし」
「減ります」
「何が」
「えーと……私の思い出が」
「思い出か。それは困るな」
失くしたものはたくさんある。そのうちの、どのくらいが詰まっているのか分からない。失せ物を見られるのは、篝に内面を覗かれるような気がするのだ。
それは少し──いや、かなり恥ずかしい。
戻ると、千代が迎えてくれた。
「お帰りなさいませ」
話をしようという件をどうするか相談する前に、千代の姿は奥に消える。そろそろ夕食の支度があるのだろう。
篝に運んでもらった葛籠は、閉め切った部屋で開けた。中には、忘れられない点数をとった答案用紙、フライパンで炒ったビー玉、万華鏡……懐かしいものが詰まっていた。
見る見る間に、辺りは葛籠から出したもので溢れかえる。
「あ」
次は何が出てくるのかと止まらなかった環の手が止まったのは、父から譲り受けた国語辞書に触れた時だった。辞書は何冊持っていても良いから、と渡されたのは良いけれど、高校入学時に購入させられた学校指定の辞書を使うようになってから、本棚の奥に消えてしまったのだ。
さっそく、ケースから取り出し頁を捲る。真っ先に引いてみたのは篝が呼ばれていた名だった。
漁色家──漁色。次々に女性を求めて、もてあそぶこと。
その言葉の意味に、少しかび臭い辞書が畳の上に落ちた。
だから、どういう意味かと訊ねた時に篝は慌てていたのだ。言葉の意味でなく、女遊びをしているとはどういう意味なのか、と問い詰められたと思って。
環が意味を知らないと分かると誤魔化し、蒐集家はそれに笑ったのだ。
このもやもやとした感情は何だろう。篝とは便宜上の夫婦関係だから、女遊びをしていようと、外に本命の人がいようと環には関わりのない。環にはあれこれ口を出す権利はない。それなのに、落ち着かないのは何だ。
これは──。
これは、そうだ。嘘をつかれたことが嫌なのだ。
取り落とした辞書を拾い上げると、間から一葉の写真がひらりと落ちた。
それは家族写真。色褪せた、はるか昔の──まだ若い父、そして祖父が写っている。祖父の横には、猫がしゃんと背筋を伸ばしてじっと環を見詰めていた。