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とこよの花嫁  作者: 甘露寺ちどり
少女と新たな交際関係
8/9

二、町並

 玄関先には、可愛らしい下駄が並んでいた。えんじ色の生地に蓮の花が刺繍されている。

 思わず目を輝かせてしまったが、並んでいるのは環と篝の履物だけ。

「私のローファーは……」

「今は要らぬものだろう」

 そう一蹴されてしまった。着物にローファーは合わないけれど、自分のものがどこかに消えてしまったのは不安になる。

「必要になれば、そのうち出てくる」

 環の不安を消すには至らなかったけれど、どこかにあるのだろう。

「そうだ、環。出かける前にひとつ伝えておく」

「何でしょう」

 上がり框に座り、下駄を履きながら何の気なしに返事をする。

「外ではな、気軽に名乗るな」

「名乗るな、というと……どうすれば」

「狐の妻だと言うておけ」

「いや、まあ……便宜上は篝さんの妻、ですが……」

 まだ誰かに妻だと名乗る気持ちにはなっていない。そう言葉を濁す環に、篝はすっぱりと返す。しかも思いもしなかったことを。

「我の名も言うてくれるな」

「どうしてですか」

「名というものは、その相手をあらわすものだ。本来、口に出すものではなかった」

「でも、篝さんはちゃんと名乗りましたよね」

「そなたを喰らうつもりだったからな。食らう前に名乗るは礼儀だ」

「……」

 あの時、悠長に心情の描写をしていたけれど、篝は食べる気があったのだ。思わず身震いをする。

「我だけでなく、この常世の者はそう容易く名を名乗らん。ヒトとは異なり官職もないからな、屋号なり何なり、相手を示す名で呼び合っている」

「どうして今まで教えてくれなかったんですか」

「必要ないと思ってな」

「もし、前みたいに飛び出してしまったら……」

「その時は、我が見つけてそなたを食うていたろうな。間に合わねば、誰ぞに食われていたか。食われなくて良かった」

 それは、環の無事を喜んでいるというよりも、横取りされなくてよかった、という意味合いが強いように感じた。

「……」

「今のそなたには、ここに居てもらう理由ができたのだ。目出度いことだろう」

 素直に目出度いと喜べはしなかった。

 世の人々は善と悪にきれいに分かれはしない。善だけの人間もいなければ、悪だけの人間もいない。皆それぞれに、良いところと悪いところが混在している。

 篝もそうだ。環に対して親切な面もあれば、彼の利を優先する面もある。それが環にとって良いことか、悪いことか。彼を善悪で決めつけるのは、環の主観でしかない。篝にとって小川家は約束を違えた悪人の一家なのだろうし。

 すぐに食われてしまうことはないというだけで御の字とするのが一番だ。

「それでは、參ろうか」




 玄関を出て、表の通りは静かな住宅街。

「どこに行くんですか?」

「楽しいところだ」

 楽しいところ。それ以上の説明はない。

 静かな住宅街を歩いて、以前、環が曲がった細い路地を横に見て大通りに出る。

 住宅街は江戸時代でいう武家屋敷のようであったけれど、通りを曲がった途端に店が並ぶのは見たことがない。

「へ……妙な……いや、変わった……いや、その、現世には珍しい、町割りですね」

 変な、と言いかけて言葉を選ぶが、どれも失礼に当たるような気がして言い直す。が、言い直してみてもあまり変わらない。環に悪意はないけれど、かといって篝が嫌な思いをしないとは限らない。

「だろう」

 篝はというと、全く気にした様子もなく応じる。

「常世には官職がないと言ったろう」

「はい。あの、時代劇とかで聞く……あ、内匠頭(たくみのかみ)とかそういうのですよね」

「そうだな。故に城もない。皆が皆、好きなように好きな所に住んでいる。敬われるとすれば、長く生きている者か」

「お年寄りを大切にしているのは私の所と一緒ですね」

 そこは変わらないのか。共通点を見つけて喜んでいると、隣を歩く篝の眉が寄った。

「……年寄りと言うな」

 低い声音で不機嫌そうな声が帰ってきた。

 会話はそこで途切れる。雰囲気が悪くなったというよりも、遮られたのだ。通りを行き交う常世の住人たちによって。

「ああ、狐屋敷の旦那じゃないですか」

「近頃、とんと姿を見ませんでしたねえ」

 狐屋敷の旦那。それが篝の字なのだろう。

 通りには、店がずらりと並んでいた。裏通りからちらりと見た時にも感じたが、江戸時代の町並みをそのまま持ってきたような雰囲気だ。

 筆の形をした看板や、天秤をかついで歩く商人。行き交う者たちは皆、江戸の頃を懐かしんでいるのだろう。環には珍しいばかりだが。

 篝を取り巻く者たちも、日本髪や髷を結っていた。久しぶりだというから積もる話もあるだろう。邪魔にならないよう、篝から少し距離を取る。いい香りが鼻腔を擽った。その源をたどると、小さな屋台がある。

「見慣れない顔だねえ。ここいらは初めてかい」

「はい」

 着物姿で、月代(さかやき)を剃っている男。顔を伏せているから表情は見えないけれど、声に敵意は感じられなかった。

 あの日、壁の外から話しかけてきた影も敵意はなかったけれど──。

「どこから来たの」

「はい。私──あの、狐屋敷に……」

 言いかけた言葉が途切れたのは、顔を上げた屋台の主の様相だった。

 顔に、和紙が貼ってあるのだ。ちょうど習字に使う半紙の大きさで。和紙にはへのへのもへじで顔が書かれている。眉のや悪割を持つへの字は眉尻を下げ、のの字は細めて書いてある。どことなく笑っているように見える。

 だが、和紙だ。その紙の下に顔があるだろうに──それを綺麗に隠している。

「狐屋敷の。旦那の所に住んでいるのかい」

 だが、主は何事もないように話を続ける。思わず後退る環がおかしいのか。

「どうだい、お嬢さん。蕎麦でも食べていくかい。うちの蕎麦は美味しいよ」

「いや、私は……」

 環の反応に主は顔を伏せる。

「蕎麦は嫌いかね」

 そして、顔をあげるとそれまで笑顔のようだった和紙の顔は、悲しげな表情に変わっていた。

「いや……そういう、訳では……」

 主は環との間を隔てていた屋台をぐるりと回り、詰め寄ってくる。へのへのもへじ顔に詰め寄られる。そんなことが起こるなど、誰が想像しただろう。

 悲しげな声音を発しているが、和紙の顔は微塵も変化しないのだ。

 気味が悪い。

 ぞくりと背筋が凍るのが分かった。じりじりと後退し、けれど蕎麦屋の主は距離を詰め──環の背にぶつかるものがあった。


「蕎麦屋、もう許してやれ。それは我の妻だ」


 頭上から降ってくるのは篝の声。

 名を呼ぼうとして開けた口は、容易に閉じられなかった。か、と出そうになる言葉を懸命に飲み込む。

「そうだろう」

 同意を求められ、何度も頷いた後。

「はい──……だんな、さま!」

 そう返事をした。

 周りからはどよめきが起こり、目の前の蕎麦屋の主は顔の和紙が剥がれる。主の顔は、つるりと綺麗なむきたてのゆでたまごのようだった。

「──……!」

 狐屋敷の旦那が妻を娶った。それは界隈には大事件のようで、辺りは喧騒に包まれる。その中で一番の悲鳴を上げたのは、他でもない環だった。




 蕎麦屋の主をはじめ、篝に事の経緯を確認しようとする者たちは環の悲鳴に固まってしまった。

 そしてざわめく。

 ヒトではないのか。

 まさか。

 いや、ヒトだ。

 狐屋敷の旦那はヒトを娶ったのか。

 そんな声を聞きながら、篝は挨拶をして場を立ち去ったのだった。

 その話は、いずれまた、と。

「いや、傑作だった」

「……笑い事じゃありません」

 その様子を思い出しながら、篝はずっと笑っている。

 蕎麦屋の主の顔はつるりとしていた。俗に言う、のっぺらぼうだ。昔から落語や講談にも出てくる。『狢』では今の通りに屋台の蕎麦屋の主だったが。

「でも、和紙を貼り付けるなんて」

「顔がないと不便なのだそうだ。嬉しい、哀しいが伝わらぬだろう」

 それで、表情が分かるようにと和紙に顔を書いてその都度貼り付けていたのだという。

「我は慣れてしまったから何とも思わなんだが。驚くものなのだな」

「そりゃあ……そうです」

 篝はまだ楽しそうに肩を震わせている。

「やはり、そなたを生かしておいて良かった。食うてしまえばすぐに終わるが、こうも長く楽しめるとは」

「それはどーも」

 気遣ってくれてはいるけれど、篝との間に価値観の相違は否めない。

「しかし、良いものだな。旦那さま、と呼ばれるのは」

 環が驚いたことに加えて、いつもと違う風に呼んだことも気に入っているのだ。

「屋敷でもそう呼んではもらえぬか」

「……嫌です。私じゃなくて、あの子に頼めば良いじゃないですか」

「あの子、とは」

「あの、お世話をしてくれる、私の友達の役目の……」

「ああ。あれは死んでも呼ばんよ」

「か……あの、あなたに仕えているのに?」

「呼びたくない事情があるのだ」

 そいうものなのか。それ以上篝は語ろうとしなかったから、会話が途切れる。

 篝の足はまだ止まらない。辺りを冷やかす様子もないから目的の場所があるようだった。

「それで、どこまで歩くんですか」

 通りに店は少なくなり、辺りは土壁が続いている。どのくらい歩いたかは分からないが、慣れない下駄に指の間が痛くなってきていた。

「もうすぐだ。──ほら、見えてきた」

 指さした先にあるのは、瓦葺きの一軒の店。暖簾が下がり、中の様子は見えない。

 看板には、どうにか読める癖のある字が書かれている。


 うせもの屋


「うせもの、や」

 これまで通りに並んでいた店は、小間物屋や道具屋、呉服屋といったもので現世に住んでいた環にも分かるものばかりだった。

 だが、このうせもの屋とは初めて聞く。

 篝は暖簾を潜り、中に声を掛けた。

「まだ代替わりしていなかったのか、蒐集家(しゅうしゅうか)

 薄暗い店内には、眼鏡をかけた男の姿。その眼鏡も、レンズを繋ぐブリッジを額に当てて紐で結ぶような──博物館に展示されているような代物だ。

 髪も肌も白い篝に対し、男は癖のある黒い髪を長く伸ばし、ひとつに結んでいる。そして褐色の肌。全てにおいて対照的だった。

 眼鏡の奥の瞳が細められる。男は口の端を釣り上げて笑った。

「お前こそ。近頃見なかったからくたばったと思ったぞ、漁色家(ぎょしょくか)

 ここでの篝の呼び名は漁色家であるらしい。

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