一、興味
大きなため息を付いて、環は畳の上に寝転がった。本来ならばそれは息抜きになるはずだったのだが、帯の結び目のせいで太鼓橋のような格好になり苦しいだけ。寝返りをうち、すぐに身体を起こした。
「……今日のぶん終わった……」
吐き出した声は疲労に満ちていた。今日は早く終わった。まだ昼過ぎだ。外は変わらず夕暮れだけれど。
筆が乗っていたというよりも、以前に書いていたメモが役に立った箇所だったからだ。遅い時は寝る間際──篝に横で催促されながら無理やり終える日もある。
文章を書くことがこんなに難しいとは思わなかったのだ。
まあそうだろう、とは思う。
これまでは何も考えず、ただ書きたいものを書いていたのだから。
今は篝を楽しませるという目的がある。その目的ができた途端、目が気になって仕方がない。篝は満足するだろうか。喜ぶだろうか。明日を楽しみにしてくれるだろうか。
物語の展開どころか、篝のことばかりを考えている始末だ。
『七日間の街』
いつか書こうと思い、物語のかけらを書き留めていた。それがこういう形でまとめることになるとは思いもしなかったけれど。
環の命を繋ぐ、細い細い蜘蛛の糸。
彼と彼女では味気ないから名前を付けた。さて、二人がどう動いてくれるのか──書き手としての希望はあるけれど、その道標の通りに歩いてくれるのか、自信はない。
「環さま」
何の前触れもなく名を呼ばれ、環は飛び上がる。文字通り、畳の上から数センチは浮いてしまったのではないかと思うほど驚いた。
千代だ。
「はっ、はい!」
環の友人として童女から同じ年頃の姿に変わったけれど、態度は軟化していない。篝の前では友人らしい振る舞いをしてくれるが、二人きりになると途端に堅苦しい態度に変わる。
「篝さまがお呼びです」
言葉遣いも敬語のまま。友人ならば、用事があるらしいからちょっと来て、というような軽い調子で構わない。
実際、そうしてほしいという旨を伝えた。
これからは友達として、よろしくね、というように。
けれど返答は格式張ったもの。
善処いたします。
これは本来の意味──適切に処置してくれるのではなく、ビジネス用語としてのやんわりとした拒否なのだと分かった。
「はい、分かりました」
千代につられて環も堅苦しい敬語での応対となる。
環の欲しいものは与えられているようで何も手に入っていないような気がする。
小説を書くのは苦しい。友人も、さあどうぞとそれらしい姿をした相手がいるだけ。
千代と友人関係が築けないと篝に訴えればどうにかなるのか。千代に命じるかもしれない、もっと友人らしくしなさい云々と。だがそうして作られた態度が欲しいのではない。馴れ合いの友人関係が欲しいのでもない。
そもそも、友人とは──なんだ。
与えられるものなのか。いや、違う。断じて。相手のことを知って徐々に距離を詰めていって、気付けばかけがえのない存在になっている。それを友人と呼ぶのだ。
篝に相談してどうなるものではない。環がどうにかすることだ。
そんな渦巻く思考に溺れる環は、人形のように動かず千代をじっと見つめていた。
「……何か」
千代は怪訝そうに形良い眉を寄せる。何でもないというには凝視しすぎていた。適当な嘘を諦める。
「いや、その……千代、さん……のことが、もう少し知りたいなあって……思いまして」
せめてこの現状くらいは打破したいと思う環なのだ。
「それよりも、篝さまがお呼びです」
そんな環の願いは、すぐに一蹴されてしまう。環の願いよりも篝の指示が重要なのだ。順番は篝の方が先だから当然だけれど。
「はい……」
ここで大人しく返事をするだけでは先がない。
友人とは、なりなさい、と命じられて築かれる関係ではない。互いを知って、話をして、知らないうちに一緒に居て楽しい相手となっているのが友人だ。
篝は年格好が近い方が友人となりやすいだろうと舞台設定をしてくれた。ここから先は環がどうするか。
「じゃあ、それが終わったら話をしませんか!」
必要以上に大きな声が出てしまった。千代はいっそう眉間の皺を深くする。嫌がっているのはひしひしと伝わってきた。嫌ならかまいません、と引き下がりそうになる気持ちを奮い立たせた。
「ご無理をなさらなくても構いません」
それに対する返事はすげないものだった。
「環さまが私に興味がないのは承知しております」
「そんなことは……」
ない、と断言できないのが情けなかった。現状、友人となりうる一番近い存在が千代しかない。失礼だが、それが事実なのだ。
屋敷には使用人らしい使用人は千代の他にいない。本当にいないのか、それとも単に姿が見えないのかは分からないが。
口ごもる環に対し、千代が続ける。
「正直に申しますと、環さまと友人関係が築けるとは……難しいと思っております」
環は黙って頷く。千代もまた篝から命じられている。環の友人となるようにと。だから姿形を変えているのだ。
「元の姿がいい、ですよね……」
「そういう訳ではありません」
「だったら、今の姿がいい……?」
「私は、どんな姿でも──……」
千代はそこまで言いかけて、続きを飲み込む。誤魔化すような咳払いをした。
「申し訳ございません。難しい、という先ほどの言葉はお忘れ下さい」
「友人関係が難しい、という?」
「はい。友人関係を築く努めを怠る発言でした」
「でも、友達って努力してなるものでもないと思う、んですが……」
「申し訳ございません。ですが私には難しいものなのです」
「でも、努力はしてくれるんですか」
「はい。篝さまのご命令ですから」
千代は篝の命令で動いている。友人になれと命じられたから、そうあるように努めている。無理矢理に。
それは不幸ではないのか。
篝の従者だから命令に従うのが役目だけれど、それでも──多少は彼女の気持ちが反映されても良いと思うのだ。
主従関係が何たるかを知らない環だから、そう感じるのだろうけれど。
そこまで篝に従う彼女の気持ちが知りたくなった。真面目で実直な仮面の下にはどんな感情があるのか。
一度湧き上がってしまう、もう抑えられない。
「やっぱり、興味が出ました」
「何にでしょうか」
「あなたに。私がこれまで会ったことのない人だから」
「私はヒトではありません」
「ヒトじゃなくても、感情はあるでしょう。だから、話がしたい」
抑えられない感情は行動にも表れる。にじり寄るように千代に距離を詰める。対して千代は、環に押されるように後退し、柱が背にぶつかり逃げ場がなくなる。
千代は少し考えるように顔を伏せた後、仕方がなさそうに頷いた。
「篝さまのご用件が全てお済みになりましたら」
「ありがとう!」
「先に、篝さまのご用件が先ですよ、宜しいですね」
そう何度も念を押されながら、篝の許へと案内されたのだった。
篝は環の顔を見るなり、口元を綻ばせた。
「何やら楽しそうだな、環」
「ちょっと良いことがありましたので」
「そうか」
篝は中々用件を切り出さない。そわそわと落ち着かない環を楽しげに見るばかり。
「あの、用事は。──今日のぶん、もう読みましょうか」
用件は何だと急かすと、後ろからちくちくと視線を感じた。篝の用件を蔑ろにするな、と千代が睨んでいるのが伝わってくる。確かにそれは篝にも千代にも失礼だと思い直し、深呼吸をして座り直す。
それは篝にも伝わっていた。用件を切り出さなかったのは環が落ち着くのを待っていたのだろう。
「楽しいことがある矢先に申し訳ないのだが」
そう前置きをして、用件を告げた。
「環、外に出ようか」
「そと?」
急な提案に、初めての外出──というよりも、あれは逃亡だが──を思い出し、身震いする。
環を食べようとする影。脚から這い上がってくる感触を思い出し、たまらず脚を掻きむしる。
「いえ、外は……ちょっと」
「案ずるな。我と一緒ならば誰も何もできん」
何もできなかろうと、あの黒い影のようなものがいるのではないか。そう思うと楽しめはしない。
「それに、顔見知りを作っておけば、環ひとりでも外出できるようになる」
一人で外出などしようとも思わない。思い切り首を横に振って断固拒否を訴える。
「いえ、大丈夫、大丈夫ですから──」
「大丈夫なはずもなかろう」
「でも」
「篭りきりでは気が滅入る」
環の拒否を遮って篝が続ける。
「それにな、環。常世もそう悪い所ではないのだ」
やっと気付く。
これは篝の気遣いなのだと。毎日部屋に篭って物語を書く環を案じてくれている。外は怖い所だと縮こまっている環の手を引いて、息抜きをしてみろと言ってくれている。
初めて顔を合わせた時は、環を食べようとしたというのに。そして、物語を書かせているのは他でもない篝だというのに。
取り決めがあるとはいえ、その矛盾がおかしくて肩を震わせた。
「どうした、何か妙なことを言ったか」
「ちっとも」
勝手なようでいて、篝は気遣いの塊だ。長年、小川の家を栄えさせてきたのだから、環の気分など顔を見ればすぐに分かるのだ。
段々と小説を書く楽しみを忘れてしまっていることも、環よりも先に気付いていたのかもしれない。
ならば、千代との間にちっとも友人らしい関係が築けないのも知られていたのだろうか。それでも口を出さなかったのは、篝が言ってどうなるものでもないから。
物は何でも与えられるけれど、気持ちまでは動かせないから。
全ては環の想像だが、当たらずといえども遠からず、だろう。
「お言葉に甘えさせていただきます」
篝の気遣いに、心からの礼を伝えた。