幕間、七日間の街(一)
規則正しい振動に、いつの間にか眠っていたようだった。彼は浅い眠りから目を覚まし、外を眺める。
薄ぼんやりと靄がかかっていた。窓ガラスは鏡の代わりになり、彼の顔を映している。
見慣れているつもりで、見慣れていない三十代にさしかかる男がいた。それが誰かすぐには分からず驚き、そして自分だと気付いて苦笑した。
旅のきっかけは思いがけないものだった。いずれ出るとは分かっていても、その時は急に訪れる。
だから慌てて同伴者のきっぷを送り、一足先に出発したのだった。
面と向かって渡す勇気がなかったとも言える。断られるのが怖かったのだ。
この国は、この世界は、七日間の休暇が認められている。皆に等しく。
一人でも良いし、誰かを誘っても良い。ただし、一人だけ。皆、その休暇の同伴者を誰にするかと悩み、事前に君にするからと約束をする。
彼のように、なんの前触れもなく送ってしまう者もあるけれど。
休暇の間は何をしてもいい。思い出話に花を咲かせるのもいいし、好きなものを食べてもいい。
一生に一度の旅なのだから。
列車は徐々に速度を落とし、目的の駅に近付いていると車内アナウンスが告げた。
列車が停まり、駅名を告げる。乗客はそれぞれ持っていた荷物を手に降りる支度を始めた。ここの駅で乗客はほぼ入れ替わる。そのために停車時間は長く、そう急ぐこともなかった。
彼は網棚のトランクを下ろし、降車する列に加わった。
古めかしい駅だった。自動改札などというものはなく、改札口に駅員が立って一人ひとりきっぷを確認している。
彼の番になり、ポケットに入れていたきっぷを渡した。駅員は渡されたきっぷと彼とを交互に見て訊ねる。
「ミチダ、ハルユキさんですね」
「はい」
彼──ハルユキは頷く。
「お一人ですか?」
「はい」
「同行者の方は……」
「来るかもしれませんし、来ないかもしれません」
だが、一人しか思い浮かばなかったのだ。七日間、一緒に過ごしたい相手は他にはなかった。
「もし、来なければ……」
「知っています、大丈夫ですよ」
全て承知の上だった。
きっぷは二枚で一組。一度渡してしまうと、別の誰かに譲渡することは許されない。また、再発行もできない。
一枚きりの大切なものなのだ。
「このきっぷは、なくなさないように気をつけてくださいね」
きっぷには三角のハサミが入れられた。
駅員は帽子を上げて軽く会釈をする。
「それでは、良い七日間を」
乗客が降りて空になった車両に、今度はホームで待っていた客が乗り込む。様々な別れの光景が見られた。抱き合って涙する者。手を取り合って列車に乗り込む者。
それぞれが、ここで──いや、ここだけでなく、元の暮らしで培ったものを手に次の駅に向かう。
彼らは七日後の自分だ。
七日後の自分はどうなっているのだろう。皆目見当がつかなかった。
何しろ、彼女が来るのか分からないのだ。
彼女が来ないのならば、それでいい。七日間、のんびりと過ごそう。山に登ってみるのもいいだろう、釣りもいい。何しろ時間はたっぷりとあるのだ。
日向ぼっこをしながら読書をして、そのまま午睡を楽しんでも構わない。
構わない、けれど──それは本心ではない。
彼女に会いたかった。ひと目で良い、言葉をかわしたかった。謝りたかったのか、感謝を伝えたかったのか、非難したかったのか、それともその全てか。
空は晴れていた。
遠くには入道雲が見える。
蝉の鳴き声が聞こえる。
夏だ。
それなのに、不思議と汗は浮いてこなかった。夏の心地良い部分だけを感じている。
どうか、彼女が来ますように。
ハルユキはもしかすると初めて神様に祈った。
* * *
生ぬるい空気が肌を撫でる。彼女は汗を拭い、ため息を付いた。惰性でつけたテレビからは、海外の美しい景色を映すだけの番組が流れていた。
特に見たかった訳ではない。ただ、うるさい番組が嫌いなだけだ。
これまで、旅というものに縁がなかった。勤め先と家との往復ばかりで、どこかに行こうという気力はなかった。美しい景色が見たければ、テレビや写真がある。
いや、一度だけ──一度だけ、旅をしたことがあったか。
昔の出来事だったけれど。
不意に画面が切り替わり、雄大な自然の景色から緊張した表情の男性キャスターが映される。
『臨時ニュースをお伝えします』
強張った声がそう伝える。
それを遮るように、呼び鈴が鳴った。ドアスコープを覗くと、黒い制服を着た青年の姿だった。
その制服でぴんとくる。鉄道会社の職員だ。
「はい」
扉を開けると、青年は手にしていた封筒とを見比べて確認をする。
「アイダ、マリコさまですか?」
「はい、アイダマリコは私ですが……」
彼女──マリコは頷く。
誰かからのきっぷが届いたのだ。職員が手にしているのは、真っ白な封筒。それが何かは、誰もが知っている。
この国は、この世界は、七日間の休暇が認められている。そのきっぷが届いたのだ。
「誰からかしら……」
だが、マリコには心当たりがなかった。仲の良い友人は一緒に行く相手を決めていると言っていた。一生に一度の大切な旅行に誘ってもらえるほど仲の良い相手は──。
友人たちの顔を一人ひとり思い出しているマリコに、職員が伝える。
「ミチダハルユキさまからです」
遠くで、臨時ニュースを伝える緊迫した声が聞こえる。