五、役目
婚姻。嫁御。
並ぶのは環の年齢にはまだ縁遠い単語ばかりだった。結婚願望どころか誰かとの交際経験もないのだ。
同級生は青春を謳歌していて、誰に告白されたとか、誰が好きだからそれとなく関係を作れるよう手伝ってとか騒いでいた。彼女たちは真剣で、だから環も手伝える範囲で手を貸していたけれど。
自分はといえば、母の愚痴を聞かされていたからか、付き合うのも面倒に思っていた。
休日は好きなことをしたいのだ。本を読んで、思いついた話をこっそりノートに書き綴って過ごしたい。
頻繁な連絡のやり取りも疲れる。
そんな、俗にいう枯れた女子高生だった環が。
「よっ……よめっ……」
「不服だろうか」
当たり前だ。何度も首を縦に振る。
篝には、けれど環の気持ちが全く伝わっていない。真剣に首を傾げているのだ。
「衣食住には困らせない。友人も用意した」
それは用意するようなものではないが、ともかく。
「本も用意する」
「そうじゃなくて」
「何だ、言うてみろ」
「言えって──……」
そう言われても、困るのだ。嫁といえば、婚姻といえば、つまりは。
床の、相手なども義務として発生するのではないか。
環が見習ったシェヘラザードも、最後には王の子を身ごもる。ただ物語を聞かせていただけではないのだ。
いくら篝が美形だろうと、そういうことは──無理だ。
「無理です」
「物語を紡ぐのが、か」
「そうじゃなくて、その……」
この場合、どう言えば良いのだろう。文字通り頭を抱えて考える。直接的な言葉を口にできる環ではない。
古今東西の文豪はどういう表現を使っていただろう。読んだ作品を思い出す。たっぷりとオブラートに包んで、それでいて意味が伝わる表現。
篝の目を見て言うなど無理だったから、顔を覆ったまま説明する。
「その、ですね……肌と肌を触れ合わせる、ような……その……」
「その?」
「もつれ、合って……」
「それで?」
「…………」
違和感を覚えた。篝の声が震えていたのだ。
恐る恐る顔をあげると、篝が口元を押さえて笑いを堪えているではないか。
「分かってるでしょう!」
環が言わんとすることは、とうに伝わっていたのだ。
「いや、済まぬ。思案している様を見ているのが愛らしくてな」
「あっ……」
愛らしい、と平静な顔で言う相手は篝が初めてだ。そんなことを口にするのは人間ではそういない。
環は自分の感情をどう処理すれば良いのか分からない。篝はそんなことはお構いなしに続ける。
「案ずるな。そういうことは取り決めの中に入っていない」
「は──……入って、ない……」
身体中の力が抜けるのが分かった。
「環の役目は、我を楽しませる物語を紡ぐことだ。嫁御としたのは、身を守るためと言ったろう」
「それだけでいいんですか?」
物語を書けばいいとは、環の好きに過ごしていいということ。金の心配もせず、日がな一日好きなことをしていればいい。
婚姻関係を結んだのも、身の保全のため。夫婦らしいことはしなくていい。
「そなたがどうしてもと望むのならば、床の相手をしても構わぬが」
「望みません!」
「そうか、そうか」
「……後からやっぱり、とかそういうのはなしですよ?」
代償となったのは日常。だが、手に入ったものはとてつもなく大きい利ではないか。
「我も同じことをそなたに願う」
篝は目を眇めて環を見る。
「後からできないとは言わせんからな」
「口が裂けても言いませんよ」
環は自信満々に頷いた。こちらに──常世に来て良かったとすら思い始めていたのだ。
篝は静かに、けれど重々しく告げる。
「我を楽しませろ」
常世は常に日暮れ。時は水時計で計るのだそうだ。
しっかりと決まってはおらず、おおよそ何時頃といったぼんやりとしていても問題はないという。
「何しろ、我らは現世のようにあくせく働いてはおらぬからな」
水時計を説明してくれた篝の弁。
常世に住む者たちは、人の時間と似たようなサイクルで生活するのだそうだ。眠らなくても良いけれど、人が眠っているから眠る。人がものを食べるから食べる。
人に作られたものだから、人に似た暮らしを好むのだそうだ。
「疲れたろう。湯浴みをして、食事にするといい」
「ありがとうございます」
外は夕暮れ時。通された湯殿は高級旅館の個室風呂のようだった。江戸時代のような、それでいて現代の和風建築のような、色々なものが混ざり合っている。
それだけ現世を見て、人に興味を持って暮らしているのだろう。
温かな湯船に身を浸し、長いような短いような今日を振り返る。
父と環がいなくなったら、街の人々はどうするのだろう。捜索隊が作られ、山を探すのだろうか。すると、学校では失踪扱いされるのかもしれない。全校集会が開かれて、泣いてくれる友人もいるのだろう。
「……悪いことをしたな」
生きているから、悲しまなくていい。ただ遠くに引っ越したようなものなのだから。せめてそれが伝えられたら良いけれど。
環の失踪が、少しでも優しく伝わればいい。そう願った。
食事は環の食べ慣れたものが用意され、常世のレベルの高さを思い知らされた。
炊きたての白ごはんに豆腐の味噌汁。アジのフライ。揚げ物が出てくるとは思わなかったから、環は何も言えなかった。揚げたてで身がふわふわのアジは、どんな豪勢な食事よりも安心した。添えられているのはタルタルソース。白身が大きく、ひと目で手作りと分かる。
「……お母さんのアジフライだ」
母はいつもアジフライにタルタルソースを添えていた。それも、手作りの。それを知っているのは父と祖父、そして母の実家くらい。アジフライにかけるのはソースが定番らしいと聞いてから、外では口にしなかったのだ。
「我らがどれほど長い間、小川の家を見てきたと思っている」
篝は得意げだった。
フライを頬張ると、サクッと心地良い音を立てる。味噌汁も、少し甘い白味噌。豆腐と油揚げのシンプルなもの。
こんな場所で懐かしい味に再会できるとは思ってもいなかった。
なんだ、常世の暮らしは思っていた以上に良いものじゃないか。
柔らかな布団に潜り込み、環は深い眠りに落ちたのだった。
次の日から、環の常世での日々が始まった。
着ていた制服の代わりに与えられたのは、肌触りの良い和服。全て千代が着付けてくれた。起こしてくれたのも千代だ。これは友人というより、身の回りの世話をしてくれる使用人でしかない。
「ありがとう、千代ちゃん」
「いいえ、私の努めですから」
見えない溝はどうやっても埋まらない。
朝食を取った後は自由時間──いや、正しくは篝のために物語を書く時間だ。
「そのうち、環が使っていたような帳面や筆記具を用意させる。しばらくはこれで我慢してくれ」
与えられたのは、蒔絵の文机に高級そうな筆。細やかな細工が施された硯、そして墨。
筆で書き綴るのは困難な作業だった。墨の香りは好きだったけれど。
彼の目的、彼女の気持ちを書き出す。
彼は彼女に会いたい。会って話がしたい。それに対して彼女は? 彼に会うのをためらっている。ためらっている理由は?
紙の上に文字がつらつらと綴られていく。
彼と彼女の目的を書き留めて、つらつらと書き始めた。
よれよれになった紙の束を持って篝の前に座ったのは、昼食を終えて一息ついた頃だった。物語は掴みが大切。謎を多く配置して、次はどうなるのかと飽きさせないことが肝心だ。それを第一にして書いた処女作。初めてにしてはうまく行ったと思っている。
篝は煙管を手にして脇息に凭れている。そんな態度でいるのも今のうち。聞いているうちに、興味を見せて、さて次はどうなるのか早く書いてくれとわくわくしてくれるだろうから。
咳払いをし、読み上げる。
《彼は、ただ彼女に会いたかった。ひと目で良い、言葉をかわしたかった。謝りたかったのか、感謝を伝えたかったのか、非難したかったのか、それともその全てか。
思いはぼんやりとしていた。
ただ、彼女に会いたいという気持ちに偽りはない。それだけは動かしがたい事実だった。
駅は古びた作りだった。自動改札もなく、硬券を駅員に渡してハサミを入れてもらう昔ながらのものだ。
「このきっぷは、なくなさないように気をつけてくださいね」
改札を通過した印のきっぷを受け取る。
ここはひと休みをするための駅だ。七日経つと、また次の駅に向かう。
彼がここまで乗ってきた列車に乗り込む人たちが、七日後の自分なのだ。
ホームを見ると、様々な別れの光景が見られた。抱き合って涙する者。手を取り合って列車に乗り込む者。
七日後の自分はどうなっているのだろう。彼には皆目見当がつかなかった。
何しろ、彼女が来るのか分からないのだ。
彼女一人で、彼の七日後が大きく変わってしまうのだから。》
何の反応もなかった。次はどうした、という催促もなければ、面白かったとも言われない。
「……今日は、ここまでです」
「そうか」
篝からの反応は以上だった。煙管を更かして細く紫煙を吐き出す。
「感想は……ありますか」
「まだ物語の始まりだろう。よく分からんな」
「そう、です……よねえ」
書いている間は楽しかった。だが、楽しかったのは環だけだ。ようやく気付いた。好きなものが書いて終わりなのではなく、篝を楽しませなければならないのだと。
環は篝のことを何も知らない。
何が好きか。何が嫌いか。
かといって、好きなものだけを詰め込んだ話が面白いとは限らない。時として嫌いなものもスパイスとなる。その匙加減が難しい。
ただ闇雲に書きたいもの、好きなものだけを考えていても役目は果たせないのだ。
環は篝のことを何も知らない。
何が好きか。何が嫌いか。
かといって、好きなものだけを詰め込んだ話が面白いとは限らない。時として嫌いなものもスパイスとなる。その匙加減が難しい。
ただ闇雲に書きたいもの、好きなものだけを考えていても役目は果たせないのだ。
「これは、恋物語なのか。それとも、私小説の類か。いや、幻想小説かな。推理小説にもなりそうだ」
篝の言う通り、どんな話にもなる。逆に言うと、全く先が見えていないのだ。受け手の篝だけでなく、書き手の環にも。
シェヘラザードには、無理矢理に話を盛り上げてくれる妹がいたし、何より王の反応が悪ければ話を切り替えられる機転があった。
対して環はどうだ。自分の想像力しか持ち合わせていない。
「篝さんは、どういう作品がお好きですか」
それとなく聞き出すような技量もなかった。
「さて、どういうものが好きかな」
篝ははぐらかす。
「強いていうならば──」
「言うならば?」
「面白いものが好きだな」
「……そう、ですよねえ……」
何の参考にもならない。
「今、そなたが語っている物語は、何という名だ」
「題名、は……」
題名は、もう決まっている。