四、約束
小川|直義は夢見がちな男だった。一人っ子でわがまま放題に育てられたのも一因だろう。
地元の大尽の跡取りとして、欲しいものは全て与えられた。
だから自分は特別だという気持ちが根付いてしまっていたのかもしれない。都会の大学を出て、就職して結婚しても何も落ち着かなかった。
夢を追い求めると言えば聞こえはいいが、それに巻き込まれる家族はたまらない。
結婚した妻は、いつも娘に言っていた。
結婚する前は良かったんだけど。
あなたはそうならないでね。
そう言い続けられた娘にも夢はある。
物語を紡ぐのが好きだった。物語を読むだけでは足りず、思い浮かんでくる言葉をしたためていた。
やめてちょうだい。
いつも娘にそう言っていた。そのうち、娘も表立っては書かなくなった。
今すぐに金にならないことは、悪いことだから。
だから、環は物語を紡いでは消し、消しては紡ぐを繰り返している。
目を覚ますと、高い天井があった。柔らかな布団に包まれている。
夢を見ていたらしい。あまり楽しくない──むしろ思い出したくないものだ。
母が出ていって、父も出ていって、そして。
「目が覚めたか」
声の主は、篝だった。
そうか、とここまでの経緯を思い返す。壁をよじ登り、外に出て──そして、篝に助けられたのだった。
「……覚めました」
言いながら、ゆっくりと身体を起こした。
目に入ったのは、橙色に染まる畳。何日眠っていたのだろう。どちらにしろ、もう戻れなくなったのだということは分かった。
「もう、夕方なんですね」
ぽつりと漏れた言葉に、篝が誘われたように外を見る。
「ああ、そうか。まだ伝えていなかったな」
「何をですか?」
「ここに日は登らない。日暮れがずっと続く」
「ずっと? 白夜とか、極夜みたいに?」
「そう。昼でもなく、夜でもない。行き交う相手の顔も分からない、この日暮れしかない」
そうか。あの影は環を騙したのだ。ここから誘い出すために。
「正式な取り決めをしよう」
篝の提案は前触れもなかった。
「取り決めはしているって……」
「それは、小川の家との間でだ」
「それとは別に?」
更に取り決めを重ねるのは、不利益になる。
「我と環の間での取り決めだ」
「……どんなものですか」
「我は、そなたが約束を違えぬ限り、その身を守ろう。そなたの望むことはできる限り叶える」
「……戻りたい」
「できる限りと言ったろう」
つまり、元の暮らしには──現世には戻れない。どうしたって。
「では訊ねるが、環。戻って何がしたい」
「戻って……」
何がしたいのだろう。改めて問われると答えに窮してしまう。
腕を組んで考えて、真っ先に思い浮かんだのは父の顔だった。夢を追い求めるばかりで、父らしいことをしてくれなかった人。
「父に文句を言いたい」
夢を追い求めるのは勝手だが、かといって娘を蔑ろにしていい理由にはならない。そのことを教えてやりたい。
篝は、もっともだと頷く。
「ふむ。ただ、父は失踪したので、これは今の所難しそうだな。他には」
頷いてくれたはいいが、あっさり流された。ここで一緒に怒ったところで何の進展もないから、当然か。
他にしたいこと。
母はもう出ていってしまったので、父に対してほどの怒りは湧き上がってこなかった。
日常を思い出す。
学校は、好きで通っていたというよりも義務感に近い。行かなければいけないから。
だから、行けなくなったらなったで、まあ仕方ないか、で済ませられた。それでも仲良くしてくれた友人はいた。
「友達に会いたい」
「友か──……友までこちらに呼ぶのは難しいな」
「それは……友達が可哀想なので結構です」
「どれ。新しい友で手を打たぬか」
「新しい?」
「千代。──おいで」
「はい」
千代は篝の隣に行儀よく座る。
「環と同じ年の頃に化けてみろ」
「えっ」
驚いたのは、千代ではなく環だった。命じられた千代は何の不満も言わず、こくりと頷いて立ち上がる。
ふわ、と辺りに白い煙が立ち込めたかと思うと、中から現れたのは環と同年代の女の子。話題が合うかは別として。
肩で切り揃えた黒髪。少し目尻のつり上がった双眸。身長や手足も伸びていた。相変わらずの着物姿だったが。
「これでよろしいでしょうか」
「どうだ、環」
「ええ……はい」
ここまでしてもらって嫌とは言えない。
「まあ……はい」
「他には」
「他に……」
惜しいと言うならば、学校の図書室。環の通っていた学校は古く、校区内では有数の蔵書数を誇っていた。だからこそ頑張って入学したのだ。
「本が読みたい」
新しい本だけでなく、古い本が読みたい。国内、国外問わず古典作品には触れておきたいのだ。
篝の返答は得意げだった。
「書物ならここにもある」
「私が読みたいのは──」
「何がいい。『伊勢物語』か? それとも『更級日記』か」
「……ダンテの『神曲』」
触れたい古典の名が出てきたので、わざと海外の作品を挙げる。
「ふむ。ここにはないが、持っている者もあるだろう。借りてくる」
そこもフォローできるとは思っていなかった。環は思わず前のめりになってさらなる要求を挙げた。
「だ……だったら、お菓子。チョコレート。ケーキ。タルト。プリン」
特別、洋菓子が好きだということはない。甘い物ならば和洋問わず好きだ。ただ、出てきそうにないものを列挙した。
「洋菓子はすぐに用意はできんが……これも手配しよう」
「は!?」
「材料があれば何とでもなる」
「……ある、んですか?」
「あるとも」
「人の食べ物なのに……」
ここに暮らしているのは人ではないのに。そう言外に含めた。篝は苦笑を漏らす。
「ここには、人を食らう者ばかりではない。人を好む者も居る。我らは人が作り出したもの。人を好いているのだ」
篝はなおも静かに続ける。大きな環状の起伏はなかった。
「常世はな、現世がなければ立ち行かぬ。あやかしなど居らぬと言われると、こちらは消えるしかないのだ」
「消える? まさか」
「環を食らおうとした影は、もうすぐ消えてしまう者だ」
「人が……信じないから?」
「そう」
「だったら、あなたも……篝さんもいずれ消えるんですか?」
「そうだな。小川の家が絶えて、また新たに取り決めをする家が現れなければ、そのうちな」
取り決めがあったから、姿を保っていられる。取り決めの間は、少なくともその家は篝が存在すると思っている人間がいるのだ。
小川の家と篝との間で結ばれた約束は、人間の側が不利なものではなく、互いの命をかけたものだったのだ。
「町並みを見たろう」
「はい。昔の……古い日本みたいでした。時代劇とか、そういうの」
「皆、あの頃が懐かしいのだ。あの頃は我らが人々の傍にいるのが当たり前だった」
対して、今は──あやかしなど、妖怪など、幽霊など、そんなものいるものかと一笑に付す。楽しむにしても、皆がいないものとして、娯楽として消費する。
「だから、人の作ったものを好んで手に入れたがるのだ」
人によって生み出され、好きで仕方がない。常世に住むのは、そんな者たちなのだろう。
だから、人の望むことを叶えようとするし、人がいないと言えば消えてしまう。そんな儚いものなのだ。
「他に、何か望みはあるか?」
篝もまた、そうなのだろう。
人が好きで、信じてもらいたいから先祖と取り決めを結んだ。手を合わせて、供物がある間は信じてもらえている。
取り決めを破った家の環でさえ、望みを叶えると言うのだから、どこまでも哀しいいきものではないか。
「何でも言え。叶えてやるぞ」
他にしたいこと、我慢していたこと。
お金にならないけれど、やめられなかったこと。
「小説が書きたい……です」
物語を想像して、言葉に紡ぎたい。誰にも見向きされなかろうと書いてしまう。もはやこれは病だ。
「それは元より約束だろう」
「いいんですか?」
「当たり前だ。そのための取り決めなのだから」
「あっ、でもいきなり語ってみせろというのは難しいので、先に一度書き起こして推敲させてください。あと、一応オチは考えているし、説明も入れるので、横から口を挟むのもやめてください」
「決まりだ」
それを待っていたかのように、千代が下がる。
戻ってきた彼女が持っていたのは、重ねられた三枚の盃。そして、銚子。
「取り決めの盃だ」
千代は黙って盃にとろりとした液体を満たす。篝が口をつけ、一気に空にした。次いで盃は環に渡された。千代は同じように液体を注いだ。ふわりと甘い香りがする。
口にしてもいいのだろうか。
「毒など入っておらん」
嘘か真か。少なくとも、あの影よりは信じられる相手だ。長い間、小川の家を支えてくれたのだから。
「いただきます」
意を決して一気に盃を傾ける。口の中に広がったのは甘い味。緊張していた気持ちを解きほぐす。
「美味いか」
「はい」
「それは良かった。──それ、二杯目だ」
そして、少し大きな盃が渡される。環が一気に飲み干すと、空になった盃は篝の手に渡る。次いだ三枚目の盃は、篝が飲み干した後で環へ。
飲み終えた後、篝が得意げに言った。
「我もそなたを利用する。そなたも我を利用せよ」
「そこそこに……利用させて頂きます」
「人の世の婚姻には、そういった利害の一致もあるだろう?」
「こ……こん、いん?」
聞き間違いか、それとも言い間違いか。首をかしげる環に、篝は笑って説明を加える。
「今の盃で、そなたは我の嫁御だ」
曰く、何もしないままでいては再び危ない目に遭うかもしれない。ならば、娶ってしまうのが一番手っ取り早い。
篝の言う、お互いの間での取り決めとは、現世で言うところの婚姻関係を結ぶということ。
環は常世で篝に嫁いだのだ。
手元から盃が落ち、畳の上に転がった。