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とこよの花嫁  作者: 甘露寺ちどり
少女と思いがけない災難
3/9

三、常世

「部屋を用意させる。好きに使え」

 篝は使用人──で良いのだろうか──を呼ぶと、何やら指示を出した。そして、環にそう告げたのだった。

「ただし、この屋敷からは出ぬように」

「どうしてです」

「外は危ないからな」

 まるで幼子に説明する理由ではないか。篝は楽しげに笑っている。


 こちらへ、と案内してくれたのは玄関からずっと離れず傍に付いてくれている女の子だった。

 小学生くらいの外見だ。

 黒い髪をおかっぱに切りそろえ、顔の横の髪をそれぞれ一房、飾り紐で結んでいる。赤い着物が可愛らしい。歩く度に鈴の音が聞こえる。見ると、帯の端に縫い付けられていた。

千代(ちよ)、と申します」

 女の子──千代は礼儀正しく名乗った。

「私は環です。よろしく、千代ちゃん」

「千代で結構です、環さま」

 渡り廊下に出た。砂利の敷かれた庭は、小川の家とは比べ物にならぬほど隅々まで手入れが行き届いている。松の木は鶴が羽を広げたように形を整えられている。広い池には小さな島が作られていた。空は夕暮れ時のような色に染まっている。

「あの」

 声を掛けると、千代は足を止めて振り返る。

「はい」

「ここ、井戸の中でしょう?」

 当たり前のことを訊いて笑われるのも覚悟していたが、女の子は首を横に振る。

「いいえ。ここは、常世(とこよ)です」

 その思いもしなかった答えに、環は何も言えなかった。

 常世。

「あなたさまがたが過ごしていたのは、現世(うつしよ)。ここは人ではないものが暮らす場所」

 静かに語る。受け止めることもできず、はあ、としか答えられなかった。



「こちらは、環さまのお座敷です。おくつろぎ下さいませ」

 そう言って、広々とした座敷まで案内して千代は下がった。座敷は、一人で使うには広すぎるほどだ。

 畳の上に大の字になる。

 ここは常世だと千代は言っていた。常世。人ではないものが住まう場所。

 それを千代の嘘だと笑い飛ばせなかった。見てきたものが、あまりにも現実離れしている。

 みるみるうちに人の顔から狐の顔へと変わった篝。大きく開けた口は、そのまま食い付かれてしまいそうだった。

 憑き物筋だという小川の家も、言われてみれば確かにと納得できる部分は多かった。

 親類縁者は少なく、それなのに盆や正月には皆が挨拶に訪れる。それはどこか義務のような、祖父の顔色を伺うような所があった。

 あれは目を付けられないためだったのだ。憑き物筋の家に羨まれると、財産を奪われてしまう。必死におもねっていたのだ。



 ここで食われるまで暮らすのだろうか。のそのそと身体を起こし、考える。

 もっと生きていたいけれど、それはここ──常世──ではなく、千代の言うところの現世で生きていたい。

 ならば、問題はどうやってここから出るか。

 篝の機嫌を取って気に入られて、そうしたら帰してくれるだろうか。


「──……」


 どこからか、かすかな音が聞こえた。気のせいかと思ったが、それはずっと細い声で呼んでいる。

 誰かを──環を?

 聞き流すにしては、それは耳元に纏わりつく。

 音の源を探して障子を開けた。庭には黄昏の日が落ちている。


「だれか、いますかー?」


 環の返事に、細い声が返ってくる。広い庭の奥だ。

 こっち、こっち、と聞こえる。

 少し考えて、靴下のまま下りる。靴を取りに玄関に戻るには順路は頭から抜けていたし、砂利敷だからそう汚れないだろうと思ったのだ。


「──こっち、こっちに来てヨ」


 飛び石を渡り、池を右に見て松の木の奥。そこには白壁があった。声はその向こうから聞こえる。

「だれ?」

「こっち。そこにいちゃ、あぶないヨ」

 舌っ足らずの声が告げる。危ないのは知っている。何しろ、食べられそうになったのだ。

「知ってますよ」

「だったら、逃げようヨ」

「どうやって」

「わたしが知ってるカラ」

 そこからは怪しい雰囲気しか伝わってこなかった。

「……でもなあ」

「食べられても、いいノ?」

「それは良くない」

 生きたいがために懸命に考えたのだ。


「日が暮れたら、帰れなくなるヨ」


 その言葉が背中を押した。空は橙色に染まり、今にも日が沈んでしまいそうだ。玄関まで戻る暇も惜しい。

 松の木によじ登り、そのまま壁に飛び移る。

 通りは舗装されていない道だった。人気はなく、静まり返っている。

 この静けさを、環は知っている。日が傾き始めた一日の終わり。夜の闇がじわじわと侵食し始めて、すれ違う人の顔を暗くする刻限。昼間の務めを終えて夜の休息へ移る隙間の時間、世界は一瞬だけしんと静まり返る。

 生ぬるい風が吹くと、土の匂いがする。


「こっちだヨ」


 角の向こうに影が伸びていた。靴下のまま、その影を追う。

 それが信頼に値するかは自信がないけれど──でも、帰れなくなるのは嫌だった。

 曲がると、そこは細く薄暗い路地が続いている。


「こっち、こっちにオイデ」

「あなたは誰なの」

「キミのミカタだよ」

「どうして助けてくれるの」

「キミが食べられないようニ」

 路地は所々で広い通りと繋がっていた。行き交う者の姿がちらりと見える。

「なんで表を通らないの」

「見つかったら、食べられるヨ?」


 常世なのだ。

 これまで環が暮らしていた社会とは全く違う、人ではない者たちが暮らす場所。

 背が高い異形は、一つ目で見上げるほど背が高い。幼い頃に祖父が聞かせてくれた妖怪そのものだった。

 この景色を忘れないように書き留めたい。無意識のうちにメモ帳を取り出し、ペンを握っていた。


《一つ目の男が着ているもの。絣の着物。足はわらじ。》


 見たそのままを書き留める。文章として精査するのは後回しにして。

 目立ってしまっては、この雰囲気が壊れてしまうから、道の角に身を隠して通りを眺める。


《お店。のれんがかかっている。居酒屋? イスが表に出ている。いい匂い。中からは騒がしい声。大勢の異形? の気配がする。

 看板は時代劇風。足袋の形。大根の形。筆の形。

 町並みは江戸時代っぽい。

 紙で顔を隠したひと? お坊さんみたいな格好のひと? 笠をかぶってるので顔は見えない。

 猫。しっぽが二股。立って歩いた。》


 手元を見ないまま書き留めた字は環自身も読めるか分からないほど踊りくねっていた。

 この全てを記すのに手が止まらない。この書き留めたことを持ち帰って物語を紡げば、リアリティのある話が書けそうだった。


《道の端に小さな鬼。お腹がぽっこりしている。手足はガリガリ。ぎょろっとした》


「はやくしてヨ」

「ちょっとまって、もう少し──」

 書きたいのだ、と続ける環に返されるのは冷ややかな声。

「お腹がすいてるんダ」


 その言葉には理性の欠片も感じられなかった。ぞわりと全身を鳥肌が駆ける。

 それまで先を走っていた影が眼の前にあった。影は、何かが照らされて生じたものではなく、そのまま()だった。

 大きく伸び上がるように環に這い寄る。口を開けるようにして。


 食べられてしまう。

 今度は本当に。


 篝も環を食べようとしていたけれど、今はあの時とは比べ物にならない恐怖があった。剥き出しの食欲を目の当たりにしたのだ。篝は食べる食べると言いながら、環の様子を伺っていたと今なら分かる。

 歯の根が合わない。カチカチと音を立てて、それが聞こえてしまいそうだった。

 篝の屋敷までそう遠くはない。踵を返して急ぎ走れば大丈夫だ。

 日が落ちたら帰れなくなる、と影は言った。篝の屋敷に戻ったところで安全かは分からない。けれど少なくともここよりはましだろうから。


「──ひっ!」


 足元に絡みつく感触に思わず声が漏れた。見ると、黒い影が這い上がってくるのだ。

 本当に余裕がなくなった時、人は身動きができなくなる。今更、それを学んでも活かす場所はないのだが。


「オイシそう」


 嬉しそうな声を上げる。

 踵を返し、逃げようとした。それを阻むのは、脚にまとわり付いた影。上体を捻ったは良いが、それについて行けなかった脚がもつれ、勢いよく転んでしまう。

 これは、もう、終わりだ。

 たとえばこれが物語ならば、こんな時は都合よく誰かが助けに来るものだ。そんな話をいくつも読んできたが、現実とは無情なもの。助けてくれそうな相手もすぐには思い浮かばない。

 そもそも、ここで、この常世で知っている顔は二人だけ。千代と、篝。

 千代は環より年少で、どちらかといえば助ける役目は環が担うものだ。ならば篝は──外出するなと言った環を助けるとは思えない。

 観念した環が聞いたのは、余裕たっぷりの低い声。


「生憎と、その娘は我のものなのでな」


 そして、地面に伏した環の身体は軽々と抱え上げられた。脚にまとわり付いていた影が剥がれ落ちる。

 環をここまで連れてきた影は、声の主の姿を見たようだった。

「早う()ね」

 その言葉に従い、影は姿を消した。辺りが少しだけ明るくなる。日はまだ傾き、黄昏のままだったが。


「言ったろう、外に出るなと」

 確かに、言われはした。危ないから、とも言っていた。だがその忠告は曖昧模糊としたもので、危険性が少しも伝わってこなかったのだ。

 もっと別の言い方──たとえば、食われてしまうかもしれないから出るな、といった──をされていれば、環だって出なかった。

 嫌だ、何もかもが。

 学校から帰ると父は不在で、井戸に落ちたら訳のわからない所に居て。憑き物筋だのなんだのと言われた挙げ句に食うの食われるのといった命の危機にさらされて。

 最初は楽しんでいた。これで知識の幅が広がると取材まがいのこともしたけれど。


「なんで、もっとちゃんと言ってくれなかったの!」


「そなたが、あんな誘いに乗るとは思わなんだ」

 篝は笑いながら言う。自分に非があるとは思っていないのが伝わってきた。

「父さんは私を放って失踪するし! わけのわからないやつは私を食べるって言うし!」

 声は次第に涙まじりになる。

「それは我のことか」

「当たり前でしょう!」

 ありったけの息を吸い込む。あれもこれも、もう──。


「もう、やだ!」


 何もかもが嫌だった。全てを環に押し付けた父も。一方的に昔の約束を突きつけて脅す狐も。親切に見せかけてやはり食べようとする化物も。この訳のわからない世界も。

 感情は涙と喚き声になって身体から溢れる。環は子供のように、ただひたすらに泣いた。

 泣いて、泣いて──泣き疲れた環はそのまま眠ってしまったのだった。

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