一、落下
小川環、十七歳。田舎の学校に通っている、ごくごく普通の女子高生。
趣味は読書、そしてひっそりと書いている小説。
日本のどこにでもいそうなありふれた十七歳。
そんな環の前に、銀髪の男──男、なのか──が言う。
「足から食べられるのがいいか。それとも、腸からがいいか」
小川環は今、命の危機に貧している。
* * *
二十畳はあろうかという和室に、環は正座している。生まれてこのかた、こんな状況は初めてだった。
梅が描かれた襖は引手に細やかな細工が施されている。庭に面した障子は張り替えたばかりなのか眩しいくらいに真っ白だ。
そして。
環の向かいには一段高い位置に御簾が降ろされている。誰かいるのか、いないのか。物音はない。
音といえば、時折ししおどしの音がカ、コン──……と聞こえるくらい。
静かだった。
思い出してみよう。
なぜこんなことになったのかを。
録画した映像を巻き戻すように、ここに座るまでの経緯を遡る。
ここに来るまでに、長い廊下を案内された。案内していたのは、釣り眼の小さな女の子。彼女に玄関で出迎えられたのだ。
「お待ちしておりました」
そう言って。
その玄関も、料亭かと思うような広さだった。
環の家も狭くはないが──なにせ、田舎の旧家なのだ──比べ物にならない。
その豪華な玄関に来たのは。
首をかしげる。気付いたら玄関の前に立っていたのだ。
それまで、環は自分の家の庭にいた。築何百年か分からない広い家。築山や池がある広い庭。学校から帰った制服姿のまま。
そう言えば聞こえはいいけれど、実際は手入れの行き届かない隙間だらけの古い家、荒れ放題の庭、というのが実態だった。
小川家は土地の名家だった。
そう、だった。
それは昭和の末頃までの話。それまでは山をいくつも持ち、何だか分からないが唸るほどの金を持っていた。
それが、祖父が亡くなり父の代になって傾き始めた。
ぼんやりと覚えている昔は、小川家は賑やかだった。盆や正月には絶えず誰かが挨拶に来ていた。
それが、祖父を亡くしてからぱったりと途切れてしまった。
あれは夢だったのかと思うほどに。
程なくして母が出ていってしまった。父は夢見がちだったのだ。これで少しは現実を見てくれればと思ったが、そう簡単にはいかないものだ。
そして、夢を見続けた結果が、今日。環が学校から帰ると、家は空っぽだった。
テーブルの上には『さがさないでください』とありがちな書き置きと、古文書らしきものが残されていた。
人というのは、こんなにも簡単にいなくなってしまえるのか、と感心すらしたものだ。
古文書らしきものはというと、開いてみたけれど全く読めず、時代劇でよく見るサイン──花押というのだったか──と割り印だけはどうにか判別できた。
書き置きがあったとはいっても、まさか高校生の娘を残して蒸発などするまい、と家中を探し回った。だが、いない。
最後の頼みの綱──幼い頃、いつもかくれんぼをする時の隠れ場所としていた庭の隅に向かったのだ。
庭の隅、そこだけ鬱蒼と木が生い茂っている。
そして朽ちかけた鳥居が並び、その先にあるのは小さな社。
ここに祀られているのは、小川家を守ってくれているお狐さまだ、と亡くなった祖父が言っていた。
守ってくれているのなら、どうしてこんなに没落してしまったのかとは思うけれど。
さすがに父の姿はなかった。
古い社の隣にある井戸の蓋が開いていた。
これまで、蓋はずっと閉められていた。落ちたりしないように。
その蓋が開いている。
まさか、そんなはずは。笑い飛ばしたかったけれど、ここ最近の様子を見ると井戸に身投げというのも冗談では片付けられそうにない。
「おとうさーん……?」
弱々しい声で呼びかけてみた。返事はない。
もう一度だけ、身を乗り出して──。
そうだ。そして足を滑らせたのだ。
井戸に落ちたら、玄関の前に居たのだった。
枯井戸の中に、こんな建物があるものだろうか。訳がわからないまま、ここに通されて座っている。
そして、はたと気付く。
これまでぼんやりと流されるままここに座っていたが、これはまたとない機会ではないだろうか。
井戸に落ちたら立派な日本家屋に通された。それだけでも二度は味わえそうにない体験である。
この座敷もまた、環のような一般庶民が通されることはそうない。
書かなければ。本能がそう告げた。
そうこうしているうちに、言葉が溢れてくる。
急いでスカートのポケットからメモ帳を取り出し、で空いているページに書き殴る。
《その座敷には、張り替えたばかりの青畳が敷かれていた。
二十畳はありそうな広間。そして上段の間。そのふたつを隔てるように御簾が下りている。
遠くで音が聞こえた。
鹿威しの音だ。
その他の音はなく、ただ静寂に満ちていた。
現とは切り離されている座敷であった。
そう、まるで──》
「小川の家の者だな」
御簾の向こうから声が聞こえ、手が止まった。低く落ち着いた声だ。
それは誰に向けられたものか。環はすぐに分からなかった。ぽかんと口を開けて呆けている。
「小川の家の者だろう、違うのか」
再びの問いかけの後、環をここまで案内してきた小さな女の子が障子の隙間から入ってきた。膝を叩かれてようやく、自分に向けられたものだと気付く。
慌ててメモ帳をポケットに仕舞う。
「あ、はい。小川家の者です。小川環と申します」
しどろもどろになりながら答えたが、相手が誰だかは一向に分からないままだ。
「あの。私の父がこちらにお邪魔してはおりませんか?」
妙なことを訊いている、とは思った。井戸の中に転がり落ちたら見知らぬ家があった。おむすびを穴の中に落とした訳でもあるまいし。
「来てはおらぬな」
「……そうですか」
「なんだ、逃げたのか」
逃げた。娘を置いて。
他人に言われてようやく、現実が滲みてくる。膝の上に乗せた手をぎゅっと握り締めた。
立派な父かと言われれば、返事に困る。それでも、捨てなくとも良いだろうに。
「そなたが今の小川家の主なのだな」
男はそう言っていた。
父が消えたのならば、血縁上はそうなるのかもしれない。
何しろ小川家は昔から縁が薄い。親戚の類も少なく、父も一人っ子、環も一人っ子。従兄弟というものがいないのだ。
「環か。環──そなた、聞いておるか」
「聞いて……とは、何を」
何を聞いているのか、そもそもあなたは誰なのか。ここはどこなのか。分からないことが多すぎて首を傾げてばかりだ。
御簾の向こうからは大仰なため息が聞こえた。そして、膝を打つ音。
それが合図だった。
するすると御簾が持ち上がる。
その向こうに座していたのは、銀髪の美丈夫だった。
切れ長の双眸。色白の肌。目元には朱がさしている。歌舞伎役者のようだ、と環は思った。
象牙色の着流し姿の男だった。肩には藍色の羽織。
銀の髪は目元にかかる程度に伸ばしていた。金色の双眸を隠すかのように。
男が動く度に衣擦れの音がする。かすかに香るのは、衣に焚きしめた香。
夢のようだった景色が、見る見る間に現となる。
男の手が伸び、頬に触れた。人のぬくもりを持つ指先に、ようやく自覚する。これは思い描いている物語ではなく、実際に起こっている出来事なのだと。
環がそれに気付いたと、男にも伝わったようだった。口の端に笑みを浮かべ、手を離す。
「それ。小川の家との取り決めだ」
環の膝の上に紙の束が放り投げられた。すぐさま女の子が駆け寄り、丁寧に環の前に広げた。
書かれているのは、古い文字。
古典の授業はあるけれど、これは別物だ。
「……」
「そなたの先祖を恨むのだな」
「…………これ!」
ブレザーの内のポケットに仕舞っていた古文書を取り出す。広げてみると、割り印はぴたりと合致した。
「おお、よく持っていたな。感心だ」
「…………あの」
「我との取り決め、果たしてもらわねば。今更、嫌とは言わさんぞ」
「すみません。全く読めないので……内容を教えて下さい」
男は形の良い眉を寄せてため息をついた。
「庭に社があるだろう」
「はい」
「我はそこに祀られている狐だ」
男──いや、狐か。名は篝といった。
篝は小川の家を守る神だといった。
遡ること百年あまり。篝は小川家の先祖と契約をした。小川家の繁栄を助けると。
ただし、それには対価が必要。篝を祀ること。朝晩の世話を欠かさず、晦日には尾頭付きの魚を供えること。
それを欠かせば、小川家は衰退する。
最後の当主には、それまでの礼としてその生命を捧げること。
ぽかんとしたまま話を聞いていた環に、男──篝は言う。
「それが、そなただ」
そなた。つまり、環。
「わたし……」
口にしてはみたが、にわかには信じられなかった。
この男が小川家の守り神で、これまで家を栄えさせてくれていたというのか。
確かに両親は稲荷社をないがしろにしていた。
「百年経とうと、二百年経とうと、取り決めは取り決めだ」
篝は立ち上がり、羽織を翻して環に近付く。
「人の肉は久方ぶりだ」
たふ、と畳を叩く音がする。見るとたっぷりとした尾が篝の背後にある。二股に分かれ、それが更に分かれて──尾がいくつにもなっていた。
徐々に篝を見上げる距離になる。その頭には、三角の耳。
これは、あまり宜しくないものだ。
長く正座をしていたせいで足が痺れて動かない。それでも必死に逃げようと畳の上を這って距離を取る。
篝の口元が裂け、まるで狐のような顔になる。
「魚を食べたのも、何年前のことか」
言っていることが、小川家との取り決めが本当なら、もう十年は食べていない。両親が稲荷社に魚を供えるところなど見たこともないのだ。
父が失踪してしまった今、小川家の当主に該当するのは環に違いない。
だが、どうして。
篝は舌舐めずりをして微笑む。半ば獣の顔になっていたが、笑っているのは伝わってきた。
「足から食べられるのがいいか。それとも、腸からがいいか」
笑みを作った口から吐き出されたのは、そんな恐ろしい言葉だった。