雨
「他に、好きな人が出来たんだ。」
ケロッとした表情で、彼が言う。
目の前が、真っ暗になった。
「だから、君とはもう、これで終わり。」
彼が続ける。
あたしは何も言わず、ただ立ち尽くしていた。
「じゃあね。」
彼が背を向ける。
泣き言、怒り…言いたいことはたくさんあるのに、言葉が出てこない。
あたしは彼の背中を、ただ黙って見つめていた。不思議と、涙は出なかった。
太陽が、嫌味なほど眩しく照り付けていた。
下校中の子供たちが、追いかけっこをしながらあたしの脇を走り抜けていった。
その子供たちの笑い声が、やけに煩わしかった。
とぼとぼと肩を落として家に向かう道のり。いつもは彼と歩いていた道。
彼といるときはあっという間に家に着いてしまうのに、一人で歩くとやけに長く感じる。
歩きながら、あたしは彼とのことばかり思い出していた。
去年、同じクラスになって、仲良くなって、付き合うようになって…。
二人で笑いながら叫んだ遊園地のジェットコースター。
学校からの帰り道、毎日のように彼と立ち寄ったカフェ。
傘を忘れたあたしが濡れないように、隣で傘を傾けて相合傘をしてくれたこの帰り道…。
あたしは再び空を見上げる。
太陽が、嫌味なほど眩しくあたしの目を焦がした。
「おかえりなさい。」
家に帰ると、お母さんがあたしに声をかける。
「ただいま」を言う気力もなくて、あたしは無言のまま靴を脱いで自分の部屋へ向かう。
部屋に戻ったあたしは、大きな溜息をついた。
いつもなら、『ただいま』ってメールを彼に打つのに…。
無性に寂しくなった。
姿見の前に立ち、
机の上のペン立てにペンに交じって立てられたカッターナイフを手にする。
カチカチカチ…と音を立てながら、カッターナイフの刃を伸ばす。
そして、左手の手首を姿見に映るように正面に向け、右手に持ったカッターナイフを…。
ゆっくりと、左手の手首に押し当てた。
すぅっと、カッターナイフを引く。
左手の手首に線が入る。少し遅れて、血が流れ出す。
まだ、足りない。
あたしは何度も、同じように左手の手首に何度もカッターナイフを走らせる。
何度も、何度もカッターナイフを走らせた左手の手首から流れ出す血が、
あたしの左腕を伝わって、肘からぽたぽたと部屋のカーペットの上に落ちる。
その景色を境に、あたしの記憶は途切れた。
・・・・・・。
目を覚ますと、あたしは病院のベッドの上に居た。
左手の手首には、ぐるぐると巻かれた包帯。
…あたしはきっと、あのまま気絶してしまったのだろう。
ふと、窓の外を見ると、外は雨。
…頬が雨に濡れてしまえば、雨水に紛れて涙を流すことが出来たのに。
木々に雨粒が降り注げば、木々の葉が鳴らす雨音に紛れて大声で泣くことが出来たのに。
そんなことをぼんやりと考えていた。
昨日が晴れていたことを悔やむのではなく、今日が雨であったことをあたしは悔やんだ。
…思いっきり泣いたら、少しは楽になれたのかな。
窓の外、病院の前の道には、傘を差して歩く人々の姿。
あたしは、その傘の列を眺めながら、彼が好きだった歌を口ずさんでいた。
「…沙希?」
不意に、声が聞こえた。
口ずさんでいた歌を止めて振り返ると、お母さんが立っていた。
「良かった…。」
そう言うと、お母さんはその場に膝をつき、ベッドの脇に頭をついて泣き崩れた。
あたしは、すぐそこにあるお母さんの頭を、そおっと撫でてあげた。
…生きていて良かった。そう思った。
今思うと、バカなことをしたなぁって…。
あたしの傷は、血の量の割にはたいしたことがなかったらしく、
意識を取り戻したあといくつかの検査を受けて、次の日には退院することになった。
退院したあたしの手を、お母さんが握って歩き出す。
外は、まだ少し雨の跡が残る、きらきらした晴れの日。
お母さんに手を引かれて歩く道。
…彼と一緒に歩いた帰り道と、同じ道。
見慣れたはずの景色は、まだ残る雨の名残のせいかどうか分からないけど、
ちょっとだけ、違って見えた。
きらきらと、木々が、アスファルトに出来た水溜りが、光を放つ。
そして、前を歩くお母さんの背中。見ていると、なんだかとっても安心できた。
こんなに綺麗な景色があったのに、どうしてあたしは気付かなかったのだろう。
こんなに綺麗な景色も知らないで、どうしてあたしはあんなことをしたのだろう。
「…ごめんね。」
あたしは、お母さんの背中に小さく呟いた。
心配かけて、ごめんなさい。バカなことをして、ごめんなさい…。
「ん?なぁに?」
お母さんが、振り返ってあたしの顔を見る。
そして、目が合うと、ちょっとだけ照れ臭かった。
「ううん、なんでもない。」
「なによー、教えなさいよ。」
そう言って笑うお母さんに、あたしはようやく笑顔を向けた。
あたしとお母さんを追い抜いて、下校途中の子供たちが走ってゆく。
その笑い声が、とても心地よく感じられた。
空を見上げると、太陽さえも笑っているように見えた。