連続婦女暴行殺人事件 ♯1
普段から静かなオフィスだが、今日に限っては珍しく一際しん、と静まり返っている。赤城夏希、二十二才。彼の定刻出社時間は八時四十五分ほぼぴったりで、それ以前には他のメンバーは既に出勤している様な状態が常である。今日も犬の散歩をし、母の作った朝食を取り、見損ねたニュースを携帯でチェックしながら電車に揺られてきた。今日の見出しは夕べ発見された女性の変死体についてで飾られていて、以前から起こっている連続暴行犯の仕業か、警察の捜査は未だ難航し、犯人のめども立っていないとの事。なんて出ていた。自分で出来るならなんとかしてやりたい。けれど、管轄外である夏希にはその権限がない。けれど。
オフィスに足を踏み入れた時には既に夏希を除く三名が司令である柳のデスクの前に背をぴんと張って立っていた。それだけでも非常事態である事は明白だった。
と言うより、公的機関、正義の味方レッドアロウズには朝礼というものはあってなきが如しなのだ。と言うより、室長の柳が、以前居たSATや、後の天下り先であるSIT……いわゆる警察官内のテロ対策組織だが、その慣習が好みでなかった、から、とさっぱりとした理由がある。ある種体育会系の業種で珍しい事だが、監査が入る時以外は室長の柳の意向なのだ。それぞれがまず一番最初に室内に入る柳に挨拶し、各々訓練なり情報収集の後に、部屋に揃った時点で柳が皆を揃え、短く二、三言話をして終わる。因みに帰社時もほぼ同様で、事件がない日は柳が一番最初に「定時だ。各々仕事がある者以外は直ぐに帰りなさい」とさっさと追い出される。いわゆる公務員、その上警察よりも自由気ままと言えばそうなのだが、そう言った職場なのだ。代わりにひとたび事件が起きればどこへでも飛んで行かなくてはならないし、非常事態には夜分は疎か深夜まで、なんて事はままある。
ただ基本、通常の事件は警察が処理してしまうし、簡単に定時で上がれてしまうのが現実である。きっと今日もそんなもんだろうなぁ。早く帰れたら犬の散歩に行ってやろう。と思ってオフィスに入った夏希としてみたら、張り詰めた空気に一瞬動揺した。慌てて肩掛け鞄をソファに放り投げ列に加わると、司令が溜息交じりに眼鏡を正した。
「……さて、全員揃ったところで続ける。警察からの応援要請の件だが……」
前回の事件同様に、何か要請でも来たのだろうか。定刻通りの出社とは言え話にあぶれた夏希としては、何の事だかさっぱり解らないままでいた。
今日は天気予報通りの曇り。梅雨入り宣言はまだにしろ、雨季に片足を突っ込んだ六月で、上がりっぱなしのブラインドから、日差しが差し込んでこなくて良かった、と思っている。何しろ室長であり司令である柳のデスクはオフィスの中で一番大きな窓際の席にあり、日差しが強い日には煌々と照らされる。流石にこの緊張感の中、眩しいです、と閉めに行く事も叶わないだろうからだ。
「確かに三件……もう充分過ぎる件数だと思います。しかし司令、自分は動く事には賛成出来るのですが……本当に我々が介入して宜しい案件なのですか?」
それに、柳に次いで年長である、背の高い男、藤堂が一歩前に進み出る。
「どうもこうも、前回同様、向こうが指名してきたのだから、致し方がないだろう。……流石に、ここまで騒ぎになる前に捕まえるつもりだったのだろうが、そろそろ民間の非難の声も大きくなってきてしまっているからな。それで、今更の要請な訳だ」
もっと早く情報を出してくれれば良かったと言うのに。面倒そうに細長いデザインの眼鏡を正しながら、柳が溜息を吐いた。
そもそも、レッドアロウズは合同とは言いつつも、独自の機関である。しかし母体は警察庁、防衛省、法務省の三つから成り、そのどれか一つからでも要請が下れば従わなくばならない。勿論、その全てが恐らく市民の平和を守る為だろうから、夏希としてはいつでも、喜んで! と言いたい所なのだが。
「……あの」
おずおずと夏希が手を上げると、ちらりと柳の視線がこちらに向いた。
「あ、え、えー……す、すんません、事件って、なんの事件の要請が来たんすか……?」
何しろ夏希がオフィスに入ったのはついさっきで、何の事件かも聞いていない。警察が関与していると言う事は刑事事件である事は間違いないのだが、D―クラウンが動いた、と言わない所を見ると、レッドアロウズの事件と言う訳でもなさそうだ。
それに柳が一層重い溜息を吐いて、「桂木」と名を呼んだ。すると一番端でタブレットを抱えていた麗花が、普段ののんびりした体ではなく、ぴんと背を張って「はい」と頷いた。
非常事態だ、と感じたのは、もう一つ、この時間、彼女がデスクに座っておやつを食べていないから、という理由があった。どれだけ忙しくとも、書類をまとめている時でも、都内の監視カメラの情報を頭に入れているにしろ、彼女がルーチン・ワーク“朝の日課”を欠かす事は通常あり得ないのだ。
麗花は柳のデスク脇に立つと、「ええと」と小さく呟いた。
「余り良いお写真ではありませんから、一部分のみ映しますね。ナッちゃんも見たら解ると思う。……ええと、こちらは最初の被害者さんのもの」
そうしてタブレットの液晶部分をこちらに向けた、次の瞬間。直ぐ隣の女が口元を抑え、息を飲み込む音が聞こえた。夏希自身も胸の中がさっと冷え、「わ」と思わず声をすりつぶしてしまった程なのだ。
夏希は刑事ドラマを良く見る。何もなければ仕事は定時に終わるし、家に帰って犬の散歩をしても時間は有り余るし、母にたまには残業くらいしてきなさいよ。と帰ってこないなら帰ってこないで文句を言うと言うのに、そんな事を言われる程た。オフィスにあるテレビも、ニュース番組が終わり、誰もチャンネルを変えなければ刑事ドラマの再放送を眺めながらパソコンを叩いたりしている。コメディ、シリアス、どちらのタッチにしろ扱われる事件は様々で、爆弾魔から銀行強盗、乗り物ジャックや殺人予告、殺人も衝動的から企画的までバラエティに富んでいる。その中で綰クールの中に一話は高確率で入っている事件がある。
映し出された液晶には“人の背中”が血だらけのまま映っている。その上、余程細身でない限りは女だ。何故それが解るかと言うと、さらけ出された素肌だったからだ。
それと同時に、夏希は今朝携帯電話で浚ってきたニュースの見出しを思い出してしまった。なんて酷い事件だ、こんな事する奴、許せない。と思ってきたばかりだった。
「あ、えっと……す、すいません司令、も、もしかして要請があった事件って……」
もしかして、夕べまた新たに起きた、連続婦女暴行殺人事件の事だろうか。というより、如何に夏希が馬鹿であっても、そのくらいは容易に察しが付く。柳は辟易した様子で、改めて眼鏡を正した。
「……まぁ、そう言う事だ。同時に、我々の事件、としても下りてきた訳だ」
「へ?」
何か、テロ組織と関係があるのだろうか。突然“我々の事件”と銘打たれたのに、夏希は思わず頓狂な声で返してしまった。柳が再び目配せすると、麗花はこくん、と小さく頷いてからタブレット画面を指でスライドさせる。
「ええと、先程もお伝えした通り、これは最初の被害者女性のものです。二十三才、大学生。先程の背中と、こちらが右足、左足……ですね」
馴れた手つきで複数の写真を並べられると、更に生々しさが伝わってくる。露わになった女性の身体が土に汚れてしまっている。
もしかしてこの女の人、服を全部剥がれて捨てられてた、のか……? 刑事事件には素人の夏希でも察せてしまう。しかもそれぞれ血は拭われたとは言え皮膚を裂かれ、皮の下の肉がはっきりと見える程の傷を付けられてい。
俺でだって思わず引いてしまうくらいだ。麗花は飄々としているけれど、普通女にしてみたら、相当堪えるんじゃないだろうか。夏希の相棒は、直ぐ隣の年上の女だ。気が強く苦手なものは船酔いくらいしか知らない。けれど横を盗み見てみると、栗色の長い髪が、肩で息を吐く度に震えている。それでも目をそらさない様にしている面差しは蒼白になっていて、倒れてしまいやしないかと思ってしまう程だ。
「傷に関しては公に公表されていない事実で、他二件に関しても同様のものが見受けられた。因みにこれは……一条、気分が悪いなら席を外しなさい」
漸く真麻の様子に気がついたのか、司令が静かに声を投げかける。しかし真麻は「いえ、続けて下さい、司令」と背を張り直して返した。
真麻は元々警察でも自衛隊でもなく、民間人からの起用である。警察学校での外部委託の武術指導をしている際に、柳の目に留まった、と聞いた事がある。だからこう言ったものには馴れていないんだろう。
「……おい、無理すんなって」
小声で耳打ちしたものの、女は僅かにこちらに目配せして、ゆっくりと眉を下げた。
「大丈夫。任務だもの。……聞いておかなくちゃ」
蒼白な顔でそう言った真麻に、二、三、口をもごもごとさせたが、相棒がそう決めたのなら何も言えなくなってしまった。そして真麻がゆるり、と手を上げた、柳へと真っ直ぐ視線を向けた。
「ええと、司令。……私には、何となくですが、背中の傷がDの文字に見えました……その」
真麻が言いよどむと、柳はやれ、と一つ溜息を吐いた後に、眼鏡を正してみせた。
「……まぁ、その通りだ。同一犯と明確付けられているのは、一連の事件の殺害等、全て手口が同じだと言う事だ。が紐状のもので首を絞められた後、背にDの文字を、右足には全て異なる数字、そして左足に記号が記されている。凶器は果物ナイフくらいのもの、との見解だ。藤堂、夕べき何日だった」
「六月十日であります」
「その通りだ。因みに、同件の足裏に書かれている数字は第一被害者から並べると二十、十、二十、だ。因みに犯行日時は五月十日、二十日、そして昨晩の六月十日。いずれも推定して夜十一時から、深夜十二時に行われている。赤城、ここから導かれる答えは」
今度は夏希に振られて、思わず「へいっす!」と、ぴしっと背を正した。しかし勢いよくそうしたものの、突如振られた問いかけに、夏希はうぅん、と頭をひねらせた。一つおきにずれる数字、そして追いかける様に続けられる犯罪。何となく、ではあるのだけれど。
「もしかして、えっと、その数字って、犯行予告……って奴っすか……?」
疑問符をくっつけながらそう言うと、柳は小さく頷いた。
「あくまで見解として、だが。そう言う事だろう。そして左足の記号、と伝えたが、その形は“王冠」をディフォルメしたもの、と言う事だ。律儀にそこだけ皮膚もこそげ取られてしまっている。それで、諸君らは背中と併せてその記号の意味を、何だと思う?」
「何って……Dと、王冠……、う、え?」
柳が示した言葉に夏希は腕を組んで考え込んでみる。すると、一つ気がついた事がある。しかし、そんな事あり得ない。夏希が頭を振ろうとした、その時。
「ま。まさか、あり得ません!」
それに思わず、だろう。真麻が声を上げた。もしかして同じ見解に至ったのだろう。
政府公認テロ対策組織。以前の事件の折りに警察と一緒になり、夏希はその一人と食事をしに行く中になった。そう言うと色っぽい話かと勘ぐられるかもしれないが、相手は男で、その上来年結婚を控えている訳で、何一つ色っぽさもない。そして彼が言うには「まぁ、君らって対テロ組織って言うより、今の所奴ら専門みたいな所あるよなぁ」と言われてしまう程に、専任化してしまっている組織がある。
今年二月上旬、池袋大パネルをジャックし、声明を掲げた、ある組織が存在する。夏希達は四月から数度に渡り対峙した事があり、何度も苦汁を飲まされてきた。現在においてもたった一人しか逮捕されず、未だその相手が何も言わないせいで、結局起訴すら至れていない状況である。
謎の組織、D―クラウン。それが、夏希達の目下の抑止目標と言う訳だ。
それぞれが揃いの、とまではいかないものの黒の様相をまとい、カラスのくちばしの様な合金でできた仮面を身につけて、目元を隠している。口元まで覆わないのは、彼らがあくまで『正体がばれても、さして支障がない』と考えているからかもしれない。と言うのが藤堂の見解だ。だからこそ、逆に正体が知れずに恐ろしい。と。
そして今回の事件。背中に大きく掲げられたDの文字と、王冠。安直と言えばそれまでなのだが、余りにもそいつらの名前と類似しすぎている。
「……通常の婦女暴行殺人事件の捜査権限は我々には与えられない。本件に関しても、犯行予測日時の周辺警戒、犯人確保の為の人員としてしか考えられていない。しかし、D―クラウン関与事件、として上が見ているのだ。奴らの目的が定かでない以上“あり得ない”は通用はしない。それに本件に関与する事は、市民の平和を守ることにも繋がる」
「捜査はむしろ仲間に入りたいです。こんな酷い事する奴ら、絶対許せないっすから。け、けど……あいつらがそんな事するって、矢っ張り俺……」
信じられない。夏希が直接対面した幹部は二名。金色の髪の大男Mと、前回会った、謎の問いかけしかして来なかったN。けれどそのどちらも何か目的があり、その為に動いている様に見えた。婦女暴行、その上殺して、だなんて、テロとはまるで関係ないだろうし、志がどこかあるあいつらが行うんだろうか。そんな錯覚すらある。
「お言葉ですが、柳司令。私もD―クラウンがこんな手を使ってくるとは到底思えません……こんな……も、弄ぶみたいな真似……」
相棒である女は、夏希よりも一人多く幹部に会っていると言う。夏希自身も決して彼らを擁護する訳ではないが、何となく信じられないのだ。
「今ここで議論をしても仕方がない事だ。D―クラウンは前回麻薬検挙の折り、ニュースにも取り上げられた名だからな。そろそろ騙りが出ても可笑しくないと思っていた。捕まえて吐かせる。抑止せねばこの手の愉快犯が増える一方にもなる」
「しかし司令、この予告が実際に起こるとしてもですが、本当に次回、二十日に起きるとは限りません。しかもそれぞれ現場も異なりますし……。最初の事件が高尾、次が青梅、そして昨日は埼玉県入間市です。余りにも範囲が広すぎではないでしょうか。否……だからこそ我々にお鉢が回ってきた、というのもあるのでしょうが……」
「まぁ、そう言う事だ」
藤堂の言葉に柳が小さく頷いたのに、夏希は首を傾げてみせた。
「ええと、なんか、問題でもあるんっすか?」
夏希が問いかけてみると藤堂は少し困った様に笑いながら、真麻の頭越しにこちらへと視線を返してくる。
「警察も、県警やら何やらとあるんですよ。縄張り、と言いますか。勿論組織形態としては同じようなものですが、捜査区域が異なるとまた捜査するのに支障が出ます。たとえばそうですね、あまりいい言い方ではありませんが、運動会で白組、赤組、青組があるとします。同じ学校内でも、あえて他の陣地の点取り合戦を手伝う事はしませんでしょう? 合同捜査本部を立ち上げるにしても、手続きやら管轄やらで色々面倒なんです。因みに、特殊捜査班……柳司令が以前在籍していましたSITですが、権限はありますが、資格を持っていてもあくまで管轄所轄の応援程度しか出来ないんですよ。その点レッドアロウズは管轄の拘束制限はなく、テロ対策として自由に動けます。もちろん、万が一我々が犯人を検挙しても、管轄警察に届けなければならないので、SITより多少動ける程度のものですが。それでも、テロ対策と銘打てば、仕切りに捕らわれなくて済むのが我々です。そして今回はあまりにも管轄が多すぎる。何しろ県までまたいでいますからね」
その辺りは夏希でもぼんやりと知っている。テレビで所轄だ県警だと言い合いをしているのを見た事がある。けれど不思議なものだ。人を守る為に仕切りを作り、自由に動けない、と言うのは。何となく、こう言う時はレッドアロウズで良かったのかもしれない。と思った。
「まぁ、とにかく要請を受けたからには、我々も動かねばならない。心してくれ」
やれ、と溜息を吐いて柳は眉間のしわを指で少しでも広げようとぐっと押した。
* * *
片手でタブレットを操作しながら、もう片手で切り分け済みのビーフ・ステーキをすくい上げて頬張る姿は器用だなと思う。
夏希は普段、昼食は藤堂と摂る事にしている。まれに全員で、なんて事もあるのだが、基本的に女性陣の食いたい“洒落たランチ”と無縁の二人であるから、必然的にそうなってしまうのだ。けれど今日は珍しく、こうして二人と夏希のみで食事を摂っている。と言うのも、藤堂が気を遣ったのだ。
麗花は基本的に背が小さくて可愛い。ゆるふわ系、と言うのだろうか。外見も日によって違いはするものの今日はレースをあしらったワンピースとショート・スパッツと動きやすいんだかなんだか解らない恰好をしている。癖毛なんです。と言うふわふわの髪は肩までで清潔に切りそろえている。しかし不思議な事に、「彼氏ですか? いないです。私男の人、少し苦手で」と言う事らしい。しかし。
今は洋風定食セットを目の前にタブレットの液晶を操作しながら、ついでと言わんばかりにパンをちぎったり、先に切り分けた肉を頬張り、またぱちぱちと何かを入力したりしている。その様は、仕事に追われるやり手サラリーマンさながらで、唖然としてしまう。
因みに麗花がそんな風に食事をないがしろにする姿は、夏希にしてみたら初めてである。彼女は一日のおやつを欠かさない。「私の一日はおやつに始まり、お昼ご飯で心を落ち着けて、三時半のおやつで一息吐くんです。おいしいものって、心を穏やかにさせてくれますからねぇ」
と言うのが彼女の持論である。だからこうして、食事に仕事を持ち込むとは思わなかったのだ。しかも、優先しているのが仕事らしく、食べるのも非常に早い。夏希も同様の、和食セットの方を注文したのだが、夏希が三分の一片付けるその時には、彼女は半分ほど食べきってしまっていた。
その横で、添え付けのサラダボウルの中身をつつきながら、真麻が溜息を吐いた。
「何だよお前、全然減ってねぇじゃん」
覗き込むと、真麻は盛大に溜息を吐いた。
「……食欲、ないの。あんな写真見て、とか……取り敢えずは何とか食べるけど……。あんたも良く肉、食べられるわね」
「いやだって、ビフテキ定食残ってるとか奇跡だったし、つい……けど、こう言う時は食える時に食う! 残ってたし!」
力強く頷くと、真麻は「ああ、そう」と溜息を吐いた。
現時刻はレッドアロウズのささやかな昼食時である。
オフィスから徒歩三分の所にある、カフェ・マーガレットは、佇まいも古く、路地裏にある小さな店である。しかし食事の美味さとランチの安さで、近隣のサラリーマンに人気の店で、その中でも一押しが昼間一〇食限定ビーフ・ステーキ定食、まさしく夏希と麗花が口にしているそれである。夜出したら単品で一八〇〇円はする代物が、主菜、汁物と付いて洋風和風両方とも九八〇円で食えるのだ。しかも白米だけでなく、パンもおかわり自由と、働き盛りのサラリーマンの胃袋にも優しい。因みに夏希は殆どの場合限定にあぶれてしまい、ハンバーグ定食か、気分で他のメニューを頼む。つまり、珍しく余っていた今日頼まないと、またいつ口に出来るか解らなかったからだ。
因みに真麻は魚介のホワイトシチュー、パン、サラダの洋風セットを注文していた。けれど彼女はさっきからあまり食が進まない様子で、ずっとサラダとにらめっこしたままだった。
まぁ、確かに胸焼けするよな、あんなの見たら。一瞬脳裏に思い出されかけた写真を、頭を振って振り払った。
実を言うと、こうして三人で食事を摂っているのには訳がある。昼食時、藤堂に言われたのだ。
「真麻君は、元々我々のように、警察や軍隊から移動した訳でも、麗花君のように犯罪心理学を学んだ上で参加している訳ではありません。一般人からのスカウトですし、特に今回は事件が事件ですから、堪えてているでしょう。ですから、夏希君がいることによって、話をする事によってケアにもなるでしょうし。流石に、自分や柳司令でも、どう接していいのか解らないんですよ」
「いいっすけど、さっきの事件の話、するんじゃないっすか……? ていうか俺が居てもなんっつーか……女の気持ちって奴解ってやれる訳じゃないですし、あんまり役に立たない気がするんすけど」
それより女二人であーだこうだと言った方が気が晴れるんじゃないだろうか。夏希には三つ年上の姉がいるが、休みの日には友人を連れてきたり、相手の家にお邪魔したり、時には食事をしながら延々話をしている。外出時は解らないが、部屋に籠もっている時は夏希の隣部屋というのもあって、何となく会話が聞こえてきてしまうのだ。
それに藤堂はまた、静かに笑った。
「どちらかというと夏希君の方が適任かと思いますよ。明るく何でもない風にしていた方が、気が晴れる時もあると言う事ではないでしょうか。それに、我々の方は先程の事件の、もっと込み入った事情を話します。その……女性に面と向かって話が出来ない様な事も口に出すでしょう。君はまだそんな場面には馴れない方が良い、とも思います」
お願いしますよ、改めて言われて、こうして一緒に食事を摂っている訳なのだが。最初は、俺が居てもそれこそ何の役にも立たないだろ。と思っていたのだが、正面で無言のまま液晶を操作している麗花の姿を見ていると、一概にそうも言えないかもしれない、と思い始めてきていた。何しろ彼女はメニューを伝えてから延々とそれとにらめっこしたままなのだ。
「ていうかさ、レッドアロウズって元々テロ対策組織じゃん? なんっつーか、こう言う事件、扱ったことねぇのか?」
勿論、レッドアロウズの管轄外である事は解っている。しかし事件としたら陰惨だし、場合によっては研修DVDとかを見せられたりしなかったんだろうか。
「……流石にないわよ。レッドアロウズが出来たのは去年の十二月。まともな事件をし出したのが、四月なの。……ご遺体は一度だけ見たけれど、馴れないわ……矢っ張り……」
かちゃん、とフォークがサラダボウルを弾いて止まる音がした。夏希は残念ながら関わる事が出来なかった、四月上旬に起きた事件で、真麻はご遺体と対面した事があるそうだ。護送する子供達の父親、それと犯人らしき男で、たった一言“酷かった”としか言われなかった。多くは聞かないし、聞いて何が出来る訳でもない。だから、夏希はそれ以上言わなかった。
夏希は男だからそこまで想像が出来ない。けれど真麻は例え力が強くとも女で、力尽くで性的暴力を振るわれる恐ろしさを想像する事が出来るのだろう。実際夏希も事件概要を聞いただけで吐き気がしてくる程に酷かった。
犯行時刻は大凡二十三時から二十四時の間。閑静な住宅街の、公園付近、との事だ。手錠をかけ、口にガムテープを貼り、暴行する。目隠しはないそうだ。柳が淡々と述べたのは、後に殺害する予定だからこそ、隠さなかった。と言っていた。何となく、夏希は理由の一つが推察出来てしまい、嫌になった。声が出ないなら、見られたい。そう言う欲求もあったんじゃないだろうか。あくまで夏希が男だからこそそう思うのかもしれないけれど、とにかく解ってしまう事は嫌だった。
そして事が済んだら、紐状のもので首を絞める。しかしこれは繊維質のものではなく、ビニールだとか、粘着質の何か、と言う事である。特徴が複数あって、現在では鑑識で特定を急いでいる、との事である。そして、服を脱がせて傷を身体に刻みつける。
矢っ張り、許せる事ではない。辱めた上で殺し、その上身ぐるみ全て剥いで、尚も辱めるだなんて、きっと怖かっただろう被害者女性達を思うと、息が詰まりそうだ。
「あ、あのさ。なんつーか……こういうのって、すっごく気分悪いけど、捕まえようぜ、なんとかしてさ」
真っ直ぐに見つめると、真麻が眼差しを丸くして夏希を見返してくる。
「何とかって……」
「そ、それはこれっから、みんなで考えるとしても、だけど。もし本当にこの事件がD―クラウンのものだったとしても、別の奴が起こしたにしろ、俺は許せない。ずっと、この事件起きる度嫌な気分だったんだ。うちさ、ほら、姉ちゃんいるから、人ごとじゃねぇっていうか……。ていうか、許しちゃいけないんだ。だから、捕まえよう。次の事件、起こさせないようにしよう」
夏希には姉が一人いる。五反田でアパレル販売員をしていて、怒れば母よりも鬼の様に感じる奴だ。情けない事に、漫画の様な可愛い姉とは違い、実際姉と弟では上下関係が異なる。しかし、そんな怖い姉でも、矢張り夏希にとってしてみたら姉であり、一般人で、戦う力も何もないのだ。
自分でも行き当たりばったりだとは思うけれど、しかしそれでも矢張り許せる事ではないのだ。真麻は頬に手を当ててから、ゆっくりと息を吐いてみせた。
「あのさ、ナツ。あんたがここに入った動機、なんだったっけ」
「へ? 俺? な、何だよ藪から棒に」
突然何を言われたかと思った。流石に何の脈絡もない問いかけに、夏希はそう返してみせる。しかし横の女は「何となく、今思いついただけ」と返してくる。
「だってあんた、警察試験受かって、採用は警察庁でしょ? ……何でこっちに配属で異議唱えなかったのかなって。まぁ、上の決定に新人で異論上げたらクビになるものね」
まぁ、そりゃそうなんだけどさ。ううん、と一つ唸ってから、別に隠す理由もなかったから堪えた。
「まぁ、最初はそのつもりだったさ。最初は交番勤務でも良かったんだけど、将来的には二課とか、そう言う所に行きたかったなぁ。殺人事件担当って感じでさ、つらい思いしている人達に、なんかしてやれんじゃないかなって。まぁ、格好良いってのもちょっとあったけど」
「あー……そ。正義の味方にぴったりな志だこと」
「あのな、聞いといてなんだよ。っていうか、そうじゃなくて、なんっつーかな、正義っていろんな形あるだろ? 流石に俺もそう言うのは解ってんだけど、俺はさ、俺に胸張って生きていきたいんだ。困ってる奴がいて、何にも出来ない。それって俺は、自分に胸張れねぇ。だから、少しでも沢山の困ってる奴を助けられる立ち位置って言うか……なんっていうかな。そういうのが欲しかったんだよ、力っていうか、そういうのがさ。けど、警察とは違うけど、レッドアロウズで良かったってのは、思ってるぜ? 制約は色々あるけどさ」
それは、ちゃんと思っている。例え警察官の様な行使力はなかろうと、様々なものに縛られていようと、こうして彼らが解決出来ない事件で要請が貰える事もある。順風満帆とは言いがたいにしろ、警察や自衛隊とは異なる人を守る“力”も、夏希達レッドアロウズにはあるのだ。
厚切りに切ったステーキ肉を口に頬張ると、真麻はふぅ、と一つ溜息を吐いて、今度は自分の二の腕を掴んだ。
「……そ。良い事だと思うわ。私はただ、家から自由になりたかっただけだもの。あんたみたいに、立派な志は持ってない。だから……」
「怖い、か? 今回の事件」
どことなく、そんな風にも見えた。真麻は元々家が厳しく、実家手伝い、以外の仕事をさせて貰えなかった。だから、好機だと思い家を出た、と聞いていた。武術を心得ていても、最初からそのつもりでない一般人だったのだ。
「ちょっとね。色々、想像しちゃうの。被害者の女の子達、怖かったわよ、きっと。身体の自由が利かなくて、脅されたり、力尽くで無理やり、でしょ? 相手の影も見えなくて、ただ弄ばれるだけ。その上殺すなんて、酷すぎる。考えただけで……ちょっと」
矢張り、いくら力があろうとも、女らしい所は殆どなくても、船酔いくらいしか苦手なものがなさそうでも、きっと女だから想像してしまう事があるのだろう。
「あのさ、なんていうか、もし困ったら言えよ。今回の捜査で、もしかしたら鉢合わせすっかもしれないからさ。助けてって言えば、何とかするから。なんたって俺ら、正義の味方なんだからさ! 今回は、絶対事件起こさせない。俺たちがいるからな!」
うん、と頷くと、それに真麻は小さく吹き出して返してくる。何だよ、俺おかしなこと行ったかな。怪訝そうに問いかけると、女は先程よりも少しだけ気力を取り戻したのか、可笑しそうに笑った。
「あのね、それで言うなら私だって正義の味方です。自分の身くらい自分で守れるわよ。むしろ、犯人と会ったら全力でぶん殴るわよ」
「いや、そうなんだけどさぁ。何だよ、折角人が格好いい事言ったなって思ったのに! まぁいいや、食えよ。犯人に会ってへろへろで何の役にも立たねぇってなんてのはゴメンだぜ、相棒」
年上の相棒にそう言ってやると、真麻はそれもそうね。とやっと食う気になったのか、改めてフォークを手に取った。
「……アンタが馬鹿で良かったわ。ありがと」
「馬鹿は余計。もしこれがD―クラウンの奴らじゃなかったとしたら、あいつらに借り、作ってやろうぜ! 後民間人の起こした事件だったら、お前は全力でぶん殴るな。犯人の骨折るとか洒落になんねぇ。殺し兼ねないからな!?」
それに真麻は手加減はします。とサラダのレタスにフォークを刺した。
全く、いい事を言って悪態を吐かれるとは酷い話だ。けれど強気の言葉で返してこない真麻など相棒としても不安だし、このくらいが丁度良いのだ。
「ところで麗花は、まだ事件整理? ていうか、食べるの早いわねぇ……」
ようやっとシチューも食べる気になったのか、スプーンを拾い上げた真麻が問いかけると、今までタブレットとにらめっこしていた麗花が、最後のパンの欠片を口に放り込んだ丁度その時だった。
「ほわい」
もごもごと口を動かしながら返事をしたものの、流石にそのままでは答えられない、と思ったのか、数度租借してから飲み込んでから、改めてはい、と頷いた。
「えぇと、今までの案件を全部まとめていたんです。過去同事件データも確認してたんですけど、やっぱりこれ、単独の連続殺人事件かなって。こういう犯行声明を残すならもしかして、と思ってみたらアタリそうです。次、犯行予測地域、数カ所特定しました。もっと厳選すれば当たるんじゃないかなぁ」
三件も犯罪してくれてると、特定は楽ですねぇ。小さく頷いてから、パンのおかわりをしていいですか? と問いかけてくる麗花に、夏希も真麻も、呆然と頷くくらいしか出来なかった。




