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セイギノミカタ ~赤城夏希~  作者: 桜
二話 赤い悪魔
6/17

赤い悪魔編 #3

   * * *


 昔、この音を“小豆の入ったざるを傾げさせた様な”と比喩し、教えてくれたのは誰だっただろう。ぼんやりと眺めた夕日は赤く滲み、溶けながら水平に沈んでいく。日本海側では日が沈んでいくのを直接見るのは難しい。彼が今までいた場所では比較的簡単に見られたと言うのに、それだけが少し違和感だった。

 けれど海の広さは、どこも変わらない。例え堤防があろうと遠くに船が見えようと、そこには静かにたゆたう海面が存在するだけだ。

 紙袋から取り出したロールパンをのんびりと食べ終わって、次は、とクロワッサンを取り出した。最近の東京のパンはなかなかお洒落だ。しっとりと焼き上げたそれには生ハムとレタスが挟み込まれていて、野菜も食べろと注意されていたが、取り敢えずこれで完遂出来る。

 彼は、一人が好きだった。と言うよりも、何も難しい事を考えずとも良かったからだ。確かに兄弟達と過ごしているのも好きだったし、彼らは何も言わない青年の考えをくみ取ってくれる。けれどこうしてぼうっと景色を眺めている様で、そうでもない風が好きだった。

 昔、彼の言動は人を怒らせ、暴力を振るわせた事がある。だから青年は、幼少期から滅多な事では喋らなくなった。喋れば他人の烈火の如き怒りがこの身体全体を押し被ろうとするだろう。すっかり大人になった今でも、口を利くことは殆どない。先程兄の一人に怒られた時を思い出して、そういえば、久しぶりに声を上げた気がした。

 正しい事をした訳ではないのは解っている。けれど、身体が勝手に動いてしまった。そうすべきだと思っていた。

 優しく潮風が身体を撫でて行くと、目元まで覆う長い前髪や、身に付けている赤いジャケットを僅かに揺らした。彼は赤い色が好きだった。組織で黒を、と命じられても折れなかった。兄弟達が、「お前の趣味は解っているが、黒一色の中赤がいたら、恰好の的だぞ」そう言われた所で、これだけは決して譲らなかった。好きな色だからこそ、相応しくありたい。己の決意の為でもあった。

 クロワッサン・サンドを半分まで食べ終わった、その時。背後からこつん、と靴音が聞こえた。しかし青年は振り向かなかった。どうせわざと慣らしたんだろう。こっちが気付く様に。

 かつかつと響く紳士靴特有の足音が横にくると同時に、青年の直ぐ隣で大きな影を作る。その持ち主に何も言わず袋を差し出すと、相手は否。と返してくる。

「お前のメシだろ。ちゃんと動ける様に食っておけ……まぁ、ちょっと味気ないにしてもな」

 早口の英語で話しかけられたのに、青年はゆっくりと頷いて、クロワッサン・サンドの残りを口に入れる。そうして租借しながら次に袋からプラスチック・ケースを取り出した。厚切りのカツサンドがみっしりと詰まったふたをあけていると、再び声が投げ込まれる。

「……今は仕事前だから、Nって呼ぶか。お前の言い分もまぁ、解らなくはない。ただ、俺もあいつとほぼ同意見だ。あいつにあれだけ回りくどくねちっこく言われたら落ち込むのは解るがな。俺たちが今ここにいる目的が割れてしまっては元も子もない訳だ。流石に、お前くらいの奴が勝手ばかりしていると、下に立つ瀬がないからな」

 横の男は、彼にとっては兄の様な存在でもあった。視線をそちらに向けると短く、まとめた金髪が夕日できらきらと輝いていた。きっと、気落ちしているのを感じ取って様子を見にきてくれたのだろう。

 確かに、青年が勝手に動いた事は、今なら悪い事だった、と思える。それでも彼には、動かなければならない、と思ったのだ。

 たった一日。積み重なれば一週間にも十日にもなる、貴重な時間。青年が求めたのは、それだけだった。それを話すともう一人の兄にはこれ以上ない程に叱られたし、紙とペンと計算機を以て如何に破綻した、経費も時間も無駄に近い計画かを説明された。そして溜息交じりに、「お前がやりたいって言うんなら、僕がもっと綿密に効率がいい方法を考えてやったってのに。これじゃあ場合によっては僕らの目的をただ伝えているだけにしかならないだろ」どこか呆れがちに言われ、ついでに下のものへの示しとして、一ヶ月の減俸を命じられた。

 それにもうしない、と意味を込めてゆっくりと頷くと、一番上の兄はやれ、と肩をすくめてみせた。

「お前が相談ごとが苦手なのは俺たちも解ってるがな、頼むぜ、兄弟。とにかく、今回はお前自身の尻ぬぐいだ。いいか、お前は絶対に本気を出すなよ。俺も監視しているつもりだが、派手に予告ぶちこんだせいで、恐らくこっちも簡単に身動き出来ないだろうからな」

 それにまた一つこくん、と頷いてみせた。

 D―クラウン。恐らくその名は、まだ世間に馴染みが薄い事だろう。目的も定かではなく、定かにしてはいけない。現時点での目今日は、この日本にDの名を知らしめる。それがこの組織の役目であり、構成員幹部である、彼らの役割であった。

 そして貨物運搬船襲撃、及び四月に起きた宮城県沿岸沿いのリゾートホテル建築予定地の破壊を、全てたった一人で行ってきた、D―クラウン構成員最強の名を冠した存在。それが赤いジャケット、同様の革素材で作られたパンツに身を包んだ、細身の青年、Nである。

 くれぐれも死人は出すなよ。そう言われたのに、Nはカツサンドを頬張りながらまた一つ頷いて返した。


   * * *


 コンクリートを打ち付けてある足場は頑強で、戦闘用ブーツで歩くと鈍い音が鳴る。しかし建物が大きいおかげか、所々に響く人や機械の稼働音に混ざってか、そう大きくは響かない。そしてダサい、作業用ジャケットに似ている銀光りするスーツを着込んでいても誰も気に留めないのが有り難い。夏希はふむ、と一つ頷いてから、耳に突っ込んである通信機のボタンを押した。

「あー……こちら夏希、音声てすてすー」

 マイクを通すと、僅かに響いてくる声が自分のものでない様にも聞こえる。実際は他者からしてみたら聞こえているのはその“誰かの声”にも思えるその音なのだろう。

 すると、耳に突っ込んだコードレス・イヤホンから女の溜息が聞こえた。

『ナツ、遊ばない』

 呆れ交じりで反応してきた声に、だってさぁ。と夏希はのんびりと返した。

「だってさぁ、暇なんだって。……ええと、第一バース、なーんも異常なし」

 取り敢えず定例報告も交えて返す。夏希が配置されているのは、大井食品埠頭の第一バースである。同じく麗花も夏希の対面に配置されているのだが、何の反応もない。バース内では夜勤の従業員が荷のチェックや、時折運ばれてくる製品の確認、梱包等を行っていて、始めは巡回ついでに見ていてとても楽しかったのだが、そろそろ飽きてきたのだ。何しろ配置されてから三時間弱、現時刻は深夜に片足を突っ込んだ二十三時四十分。流石に従業員の作業量も多くないから、忙しなくバース内が活動している訳でもない。活気も多くない、淡々とした作業を見続けているのにも限界があるのだ。

『こちら第二バース、異常なし。まぁ、反応ないわねぇ……』

 口では何と言っても、真麻もそう思っているのだろう。因みに彼女は第二バース担当で、藤堂、柳はだだっ広い埠頭内を行き来する為に自動車で見回りをしている。レッドアロウズのみなら“警備が薄い”状況だが、他にも数十名の警察官が配置されている。

 すると今度は、別の声がマイクから聞こえてくる。

『……もしかして、陽動でしょうか……』

「別の積み荷を狙う為に、とかか?」

 麗花が口に出した言葉に、また夏希は返した。

『そこは解らないけど……。私はD―クラウンを一度も肉眼で確認していないので、どんな人達なのかは解らないですが。もしかしたらもっと別の目的があって大きな予告を打ち出して、目を向けさせる、なんて事もあるかも……』

『まぁ、少なくとも予告を出しておけば、D―クラウンとなると流石に放っておけないものね』

 麗花は元々犯罪心理学等も学び、人となり、行動を見て予測を立てる事がある。予告を打ち出す、顕示欲のあるタイプはどちらかと言うと男性の特徴である。麗花はそう言っていた。

 D―クラウンは、始めに声明を掲げたそれ以降、予告を出して事件を起こす事はなかった。しかしそれに、夏希は考え込む様にううん、と唸った。

『いや、でもさ。予告を出すって事は、最低限なんかやると、俺は思うんだよな。つーか、悪い事する組織っていうなら尚更っつーか……約束は守る、みたいな……。例えこっちが陽動でも、あいつは来る気がする』

 本当に、何となくそう思っただけなのだが。夏希はたった一度だが、D―クラウンと対峙した事がある。その時Mと名乗った男は剛毅だが、どことなく律儀にも見えた。「俺たちはまだ無名なんでな。名を売りたい」そう言っていた。だったら尚更、約束を破るなんて事はしない筈だ。例え、それが犯罪声明だったとしても。

 すると今度は、重厚な声が続いた。

『どの道今回に関しては海上保安庁も同時に動いている。例え陸地で何かしようとも、警察が厳戒態勢も取っている。我々の初動は遅れるだろうが、ある程度対策は取れるだろう。例え今動きがなかろうが、気は抜くなよ』

 司令である柳がそう言ったのに、各自ではい、と頷いたし、夏希もへいっす。と頷いた。そうして通信が途切れ、再び作業員の他愛もない話声や、フォークリフトが稼働する、比較的静かな構内の音のみになってしまった。

 気は抜くな。かぁ。ぐるり、とバース内を改めて見回した。高い棚も収まっている荷もまるで変わらない。ああ言った手前、何か起こるなら早めにして欲しいなぁ。と何となく思ったその時。通路の向こうから、一人の男がこちらに向かって歩いてくる。スーツの前を空けっぱなしにしているその人はああ、と手を軽く掲げて夏希に挨拶してくる。それに夏希も笑顔で挨拶を返した。

「お疲れ様っす!」

 彼は配属された警察官の一人で、山本久弥と名乗った人だ。最初に顔を合わせた時から世間話も交えて話をしていたが、夏希の三つ年上で、組織犯罪対策課に所属しているのだと言っていた。短く切られた髪はすっきりとしていて、爽やかな印象である。山本は会った時から向けてくる人懐こい笑顔で、頷いた。

「向こう側は今の所異常なしだったよ、赤城君」

「あー……ですよね。何にもないから、どうしよっかなってちょっと思ってます」

 冗談めかしてそう言うと、山本ははは、とまた小さく笑った。

「まぁ、張り込みなんてこんなもんだよ。俺たちは特に根気強く待つのは得意だけどね。ええと、新部署だっけ。事件が起きた時に対応するってなら、確かにこういうのは苦手かもね。ただ、こんな大規模な警備態勢で、D―クラウンの奴らが出てこれるのかって、どっちかっていうと不安になるけどね、俺は」

 悪い事する奴らは、大概こそこそするもんだからさ。男がそう言ったのに、怒られるのを怖がる連中はそうだろうな。と夏希も思っていた。ただ、夏希としては、あの連中がこそこそする、とは余り思ってはいなかった。

「俺、一回D―クラウンの奴らに会った事あるんです。恥ずかしながら、捕まえらんなかったっすけど。ただあいつら、何となくあんまりこそこそしなさそうっていうか、なんか、型にはまらなさそうっていうかなんっすよね」

 上手く言えない。けれど夏希が感じた事はそれだった。以前の事件では有言不実行だった犯行声明発表もあったけれど、あれはただ単に彼らの本当の目的ではなく、そんなに必要じゃなかったから言わなかった。ただ単に、それだけな気がしている。

 それに山本はふぅん。と頷いてから、へらり、と笑って返してきた。

「まぁ、今日そいつらが出てきて無事に事件が終わればいいって奴だな。ああそうだ赤城君、これが終わったらメシでも食いに行こうぜ」

「あ、いいっすね! 是非お願いします! 刑事の仕事、話聞きたいです!」

 夏希は一応警察庁からの配属であり、刑事、と言うものに憧れていた。勿論レッドアロウズに所属していて何の不満もないが、今でも憧れている。

 それに山本はへらへらと笑いながら、そんな大したもんじゃないよ。と言ってぱん、と肩を叩きながら、横をすり抜けて行った。

 本当に、このまま何もなければいいのにな。うっし、と口の中でこっそりと気合いを入れ直した、その時。

 空気が、静かに振動した、と同時に。どさり、と何かが背後で崩れ落ちる音が鳴った。きっちりと重ねられて収まっていた荷物のどれかが崩れたのだろうか。だったら誰かに教えないと。夏希が振り向いた、次の瞬間。視界に人が倒れ込んでいるのが映った。

「っう、え! ちょ、や、山本さん!?」

 さっきまで他愛もない話をしていた、スーツ姿の男は、夏希が叫んでも気付かない。しかし、夏希が声を上げた次の瞬間。再び空気が震えた。慌てて「ツバサ・リミッター解除!」叫び、システムを起動させた。警察とも、自衛隊とも異なる、レッドアロウズの矢羽根たる能力。ツバサ・システム。脳に作用し、身体中に張り巡らされる神経に強制的に“通常以上の力を出せ”と命令をかけるのだ。前回は何故かいきなり不具合が起きて起動しないなんて事があったけれど、今回はそんな事はなく、すんなりと起動してくれた。

 夏希が地を蹴って二、三歩後ずさると、今まで夏希がいた場所を追いかける様に、細長い何かが複数飛び込んでくる。

 何だ? 針金……いや、針……? 鈍く輝くそれらは避ける度床を弾き軽い音を立てたものの、夏希に当たらないと解ってからか、追いかけてくるのを止めた。追いかける様に視線を寄越したその時。

 棚の向こう側にするり、と消えて行く赤い“何か”がはためいて消えた。警戒しながらも同時に夏希は慌てて通信機のボタンを押しながら、山本の側に駆け寄った。

「すんません夏希っす! 第一バース、多分きました! 山本警察官が……恐らくそいつにやられました!」

 ついでに解りやすい様に壁に見えた番号を伝えながら、山本へと手を伸ばす。

 頭打ってるとかないよな……? ていうか、死んでないよな? 最悪のケースを考えたものの、口元に手をやると、息をしているのを確認出来て少しほっとした。けれど、一体何が起きたっていうんだ。殴られた形跡か何かあるのだろうか。するとシャツから覗いた襟足に、ぽつん、と一つ小さな赤い点が見えた。

 虫刺されかな。確認しようと指をそちらに向けかけた、次の瞬間。突然明かりが落とされ、視界が真っ暗になった。構内では作業員達の悲鳴が上がり、消灯が事前告知されたものでない事を理解する。非常灯と、通路に敷き詰められた道を象る線が闇を照らしていた。きっと、万が一非常時に暗くなったとしても人が辿れる様に蛍光テープを使用されているのだろう。夏希は慌ただしく、スーツに付いている小さなポーチを漁り、ゴーグラスを取り出した。

 それはレッドアロウズの道具の一つだ。見た目は黒に、七色のコーティングを施された、スキー用ゴーグルかと見まごう程ダサいものである。しかし見た目と反し、暗闇でも赤外線装置が発動し視界を確保する事も可能であるし、麗花のパソコンと連動して地図を出す事も可能である。携帯電話のおぼつかないライトよりも、随分頼りになる奴なのだ。

 あいつ、どこ行ったんだ? こんな暗がりの中、普通であれば簡単に動く事は出来ないだろうに。山本の存在は気になりはしたものの、取り敢えず生きている、呼吸も安定している事を確認したし、とにかく、この人を倒れさせただろう相手を探さなくてはならなかった。辺りには簡単に倒れなさそうな頑強な棚が並んでいて、その一つ一つの影に隠れているのを探さなくてはならなさそうだ。

 背中に背負っていたホルダーから獲物の木刀を引き抜いて、邪魔になるだろうから、残りは適当に側にあった棚へと立てかける。通路を覗き込むと、尻餅を付いている男性が見えた。恐らく突然の消灯で驚いたのだろう。すいません、と肩にそっと触れると、その人は「わっ」と更に驚いた様に乞えを上げた。

「すいません、俺、警備まかされてる奴です。D―クラウンの仕業だと思うんで、慌てず、ええと、蛍光テープ辿って、非常灯目指して避難して下さい。何があるかわかんないっすから! あ、後ちょっとでも余裕出来たら大声で他の人に伝わる様に叫んで貰っていいっすか、お願いします!」

 流石に一人一人に声をかける訳にはいかないのだ。すると男は一つ頷いておぼつかない足取りでテープを辿り始めた。その内、少なからず非常灯の下までくるか、道中で、声を上げてくれるだろう。

 改めて夏希が辺りを見回した、その時。この暗がりで、軽やかにはためく衣服が棚の向こうに消えて行くのを確認した。そんな事を出来るのは、ゴーグラスを付けたレッドアロウズか、“明かりが落ちる”事を知っていて、何らかの対策が出来ている相手しかいない。

「っ待て! D―クラウン!」

 慌てて地面を蹴り、追いかける。すると夏希の反対側の通路から、ふわふわとした髪が跳ねるのが見えた。

「ナッちゃん!」

「丁度良い麗花! 今、左の棚の方向かってった!」

 同じようにゴーグルを下げ、片手にライフルを掲げた麗花に手でそちらを指しながら、声をかける。そうしてD―クラウンらしき人物が逃げ込んだだろう通路を覗き込んだ。しかし直ぐ様投げ込まれた細い“何か”を避けねばならなくて、姿は確認出来なかった。棚に背を押しつけながら、同じようにしている麗花へと視線を向ける。

「ええと、なんか、細長い針みたいな奴、飛び道具で使ってくる。どんな奴かはわかんねぇけど……気ぃつけろ。俺が先に行くから」

「了解です、私がここから援護します。武器の形状と飛距離……計算出します」

 そう言って麗花がライフルを構えた。彼女は元々父の趣味のクレー射撃をたしなんでいて、唯一肉弾戦闘を行わない要員である。とは言っても、中に込められているのは実弾ではなく、ゴム制のものである。勿論人に向けて発射する事は違法だが、レッドアロウズには“対テロ組織への抑止力”としてある程度まで許されているのだ。どの道、以前対峙したD―クラウンは実弾の込められた拳銃を所持していた。生半可な装備では太刀打ち出来ないのだ。

 麗花はツバサ・システムで特に動体視力と反射力を特化させる様に設定しており、飛距離やらなにやら、夏希が苦手な難しい分野はは彼女が目算で計算してくれるのだ。

「じゃあいくぞ……今っ!」

 言うなり夏希が通路へと飛び出すと、一人、静かに棚を視線でなぞっているのが見えた。すらりとした、体系的には恐らく男だ。

“それ”はゆらり、と動き、脇に付けた、恐らくホルダーだろう。に手を伸ばすと、何かを引き抜き、流れる様に夏希へと投げ付けてくる。しかし背後からぱん、と破裂音が響いたのと同時に、投げ込まれた“何か”が弾け、影は麗花の放ったゴム弾を避ける様に僅かに身体を揺らめかせた。

「ナッちゃん、武器形状約一〇センチ、飛距離大凡一メートル!」

「りょーかい!」

 言うなり夏希はぐっ、と地面を蹴った。取り敢えず動けなくしなくちゃ! 夏希が男の胴めがけて飛び込み、木刀を振るった、次の瞬間。

 鈍い音を立て、夏希の切っ先が弾かれる。見れば男のもう片手には、夏希と同じように木刀が握り絞められているではないか。武器二つって、器用っていうかズルだ! 夏希は余り器用ではなく、獲物もたった一本、木刀のみである。ズルいとかそう言う話ではないだろうけれど、何故か微妙に悔しい気持ちにはなった。けれど、そんな悠長な事は言っていられない。

「お、お前、矢っ張りD―クラウンだな!」

 こちらへ向いた面に、改めて確信した。目元は長い髪に覆われているが、以前見たD―クラウンと同じように、烏の嘴さながらの仮面が顔の半分を覆っている。口元は結ばれたまま、何の感情も読み取れなかった。

 Mは軽快でお喋りだった。けれど、この男は――。手がゆる、と動いたが、脇の、飛び道具の収められたホルダーに伸ばされる訳でもなく、ただ静かに棚を指差した。

 ……何だ? ゴーグラスを装備していなければ、暗い構内の中にたゆたう闇に飲み込まれてしまいそうな程、静かだった。背後には、恐らく麗花がライフルを構えて動向を探っているだろう。しかし次の行動の予測が付かないからこそ、動けないのだ。

 すると。今まで結ばれてていた唇がゆるり、と動いた。

「……警察、なら……荷を、調べろ……手柄はそれで……」

 まるで、さざ波の様な静かな声色だ。

「どういう、事だ……」

 訝しげに問いかけたものの、流れる様に男の身体が揺らめき、再び踵を返し走り出した。

「っえ、お、おい待て!」

 追いすがろうと手を伸ばしたものの、男の身に付けているジャケットも掴めなかった。背中から追いかける様に破裂音が鳴り響いたものの、その背に当たる事はなかった。

「麗花! 俺は追うから、お前はそこ、場所覚えてから来てくれ! なんか……変だ!」

 彼女が了解です! と頷く声を背後に、今度は通信機のボタンを押した。

「こちら夏希! 今構内から出そうです! 海側!」

『了解、こっちもそっち側から回り込もうと思ってたとこ!』

『ならば私と藤堂で、追い込む。藤堂は左翼から、建物沿いに移動、私は右翼を回る。囲い込め。警察にも応援要請を出す』

『了解致しました』

 口々に応答が返ってくる。夏希も蛍光テープを踏みしめながら後ろ姿に追いすがろうとしているものの、全く距離が縮まらない。同じように走っているだろうに、何の音もしない。まるで狐か何かの様だ。

 開きっぱなしの出口へと飛び出る。逃げ場なんて殆どない海沿いだ。一体こいつ、どこに行く気なんだ。そう思った時、視界の端に一人の女が映り込んでくる。

「ナツ!」

「丁度良い真麻! あいつ! あの木刀以外に、飛び道具使ってくる、針みたいな奴、ええと、脇のホルダーに入ってる、約一〇センチ、飛距離一メートルくらい!」

 麗花から伝え聞いた情報を伝えるなり、真麻は「了解! 捕まえる。ツバサ・リミッター解除!」と地面を蹴った。

 長い髪がたなびき、同じくリミッターを外している筈の夏希を追い抜いていく。レッドアロウズでも機動力は随一であり、まさしく肉弾戦のエキスパートでもあるのだ。手を伸ばせるだろう所まで追いすがったその時、男の腕がホルダーに伸び、鈍く光る針を数本抜き出し、振り向きざまに投げ付けた。それを半身をずらし避けると、反動を利用して足を薙いだ。しかし。

「真麻!」

 叫ぶと同時に、男の握り絞めていた木刀が振り下ろされる。如何にツバサ・システムで神経を強化していようとも、肉体構造までは変わらない。当たったら骨が折れるだろう。それを察してか真麻が足を止め、寸でで避けたものの、バランスを崩し蹌踉めいた。

 今ここで追撃されたらまずい! そう思ったものの、男は真麻に目もくれず、再び走り出した。

「……っこっちは平気! ちょっと掠めたくらいだから!」

 そうして改めて起き上がり、駆け出した姿に安堵しつつも、再び男の背中を追いかけた。

 しかし、矢張り解らない。この男は一体どこに行くつもりなのだろうか。たった一人で自分達を倒し、警察もいる包囲網を抜けて行く過信があるのだろうか。

 埠頭の一番端、コンクリートが途切れた海沿いで、男の足がぴたり、と止まった。もう、どこにも行き場はないのだ。それを感じ取ってか、男が静かにこちらと向き直る。

「もう、逃げ場はないぜ、D―クラウン。何の為に倉庫を狙ったのか、船を襲ったのか何探してたのか、はっきり言って貰うぜ!」

 夏希が木刀の切っ先を突きつけると、男は小さく溜息を吐いた。それと同時に、今まで闇に包まれていた埠頭を、ぱっと明かりが照らし出した。恐らく落ちていた電源が復旧したのだろう。バース全体を照らす明かりに、その姿が露わになる。

 赤い悪魔。噂されるだけの事はある。以前出会ったD―クラウンとは異なる、真っ赤な革製のジャケットとスラックスに身を包んでいる。目元を覆う仮面や握り絞めた木刀すら、一貫させた様に赤く、鈍く輝いていた。異なる色と言えば肌色と、夜闇よりも黒い長い髪、下に身に付けている黒シャツ、それと靴くらいだ。

「さっき俺の事警察って言ったな、残念だけどそりゃ違う。俺たちは正義の味方って奴だ! 降参するなら戦わない! 大人しく捕まってくれよ」

「……正義の味方って言い方もどうかと思うけど、まぁ、周囲に警察もいるし、そろそろ追いついてくる頃だと思うわ。その方が利口だと思いますけどね、D―クラウンさん」

 真麻が溜息交じりに続けるのに、だって、正義の味方じゃねぇか。と内心呟きながらも、男を睨みつけた。すると。

 結ばれていた男の口が、ゆっくりと動いた。

「……正義の、味方……」

 まるで、噛みしめる様な物言いだ。男の仮面に覆われた眼差しが、確かめるかの如く夏希と真麻を交互に眺めた。そして改めて、小さく溜息を吐いた。

 何だよ。こいつまで恰好悪いって思ってんのか。確かにスーツもゴーグラスも何年前のヒーローだよと言いたいくらいだが、夏希はその“正義の味方”としての名乗りに誇りを持っている。

「……一つ……」

 再びぽつり、と男が言葉を吐いた。

「一つ、問う。正義の味方、お前は何の為……戦う……?」

「……へ?」

 突然湧いた問いかけに、思わず頓狂な声で返してしまった。

「な、何の為って……そ、そりゃみんなの平和を守る為だよ! お前らみたいな悪い奴らから、いろんな人を守る為だ!」

 そんな事、解りきっている事だ。夏希は元々刑事に、出来れば二課になりたくて目指していた。今は立ち位置は違っていても、同じように人々の平穏を守る為にこうしてレッドアロウズに籍を置いている。正義が立ち位置によって様々に変化する事は、何となく解っていた。けれど、それでも誰かに迷惑をかける、時に涙すら流させる存在を許してはおけない。

「なら……言い方を、変える……。お前達は、多分……正義の……なら、その大多数……誰を、守る……?」

 ぽつり、ぽつり、と途切れ途切れに吐かれる言葉の意図がまるで見えない。傍らにあるさざ波にすら消えそうな問いかけに、夏希は困惑した。

「だ、誰って、み、みんなだよ! 困っている奴ら全員だ!」

 何を聞きたいのか、まるきり解らない。手にした獲物を構える気もない男を見据えている、と。

「守るになにもないでしょ。こっちはそれがオシゴト。そっちはなんだか良く解らないけど、そういうのがオシゴト。だから捕まえる。ご託はその後聞いたげるわよ!」

 会話を叩き割る様に拳を握り絞めた真麻が、軽やかに地面を蹴った。男の懐に飛び込み、拳を思い切り引き絞ったものの、男がようやっと振り挙げた木刀で、真麻の肩を叩きつけ、その反動で女の身体が弾かれる。

「っ真麻! くそ!」

 俺がぼうっとしてたばっかりに! 改めて木刀を握り絞め、男へ向かって駆け出した。けれど、矢張り男は真麻に再び獲物を振り挙げようとはしなかった。ただゆっくりと夏希と、起き上がろうとしている彼女へと視線を向け、また一つ息を吐いた。

「俺は……」

 男の周囲だけ、時がゆっくり過ぎている様にも思えた。

「大多数を犠牲に……大事な人が守れるなら……俺は……」

 そうして、再び男が口をきつく結んだ。そしてゆっくりと、一歩後ずさる。もう一歩下がれば海が広がっているだけのその場所で、男の身体が、ゆっくりと後ろに倒れ込もうとしていた。

「っちょ、ま、待て!」

 そっち、海だろ! 夏希が手を伸ばし、投げ出される身体を捕らえようと、ジャケットの裾を掴んだ、ものの。

 同じように夏希も前のめりになり、そのまま黒く淀んだ海面に叩きつけられる。口の中に塩辛く、ついでに油臭い苦みのある海水が入り込む。スーツの中にも水が入り込み、ずしり、と身体中が重たく感じる。沈もうとする身体を何とか藻掻かせ、何とか海面に顔を出し、思い切り息を吸い込んだ。

 それと同時に、自分の手が何も掴んでいない事に気がついて、辺りを見回す。しかし、同様に海面に投げ打たれたの赤いジャケットの男の姿はどこにもなかった。

「っナツ!」

 上から覗き込んでくる長い髪の女へと視線を返して、「あ、あいつは!?」問いかける。しかし真麻は頭を振り、「今は見えない……」と苦々しく返してくる。

 あの時、確かに掴んだのに。男の姿を何とか捉えようと、再び海へと視線を向けたものの、夜の色を映し出した真っ暗な海が、さざ波を埠頭の明かりで照らされながらたゆたっているだけだった。


   * * *


 現場は一時騒然とした。D―クラウン騒動もあったが、それだけではない。因みに負傷者は山本警察官と、対峙した真麻の二名。幸いながら彼女は肩に打撲を負う程度の軽傷で済んでいた。山本警察官に関しては、“麻酔で眠らされていた”のだそうだ。落ちていた針を鑑定すると切っ先に高濃度の麻酔が塗られていて、恐らくそれで刺されたせいだろう、との事だった。たった一人の男は1日経った今でも発見されず、騒ぎの原因はそれでもない。

 あれから、男が示した“目的のもの”が入っているだろう荷を確認すると、出荷準備が完了していたトウモロコシ粉の中から一キログラムの麻薬が発見されたのだ。俗に言うマリファナ、グラム数で市場相場換算をすると、相当な金額になるらしい。

 現在組織犯罪対策課が総力を挙げて出荷予定の関連会社、及び関連組織への捜査、取り調べを行っているとの事だ。

 新聞や電子ニュース版では大々的に見出しが出ていたし、ついでに言うなら輸送船の遅延に関してもD―クラウンの仕業だったと報じられた。けれど、夏希は全てにおいて納得していなかった。

 第一に、捕まえたと思ったのに逃がしてしまった。第二に、男から向けられた意味のわからない問いかけ。そして。

「D―クラウンの奴ら、何でこんなもの、欲しがったんだろう」

 オフィスの大画面液晶テレビでニュースが流れているのを眺めながら呟く。全てにおいてそれこそ不明点しか残らない、後味の悪さしかない。それに報告書を打ち込んでいた麗花が、顔を上げ、こちらを見つめてくる。

「……私には、どことなく、ですが“教えている”様にも見えました。第一、麻薬が目的ならそんな事はしないと思います。何も持ち帰っていませんでしたし……」

「だよなぁ……。ああもう! D―クラウンの連中、ホンっト訳解んねぇ!」

 がしがしと頭を掻きながらうなり声を上げると、横に座って同じように画面を眺めていた女が溜息を吐いた。

「……解んないのは前からでしょ。私は、どんな理由があっても知りたくはないわ」

 流石に打撲が痛むのか背もたれに身体を預けている女に、夏希は何も返せず、ただ自分の掌を眺めていた。

 この手は、確かに掴んだ筈だった。赤くはためくジャケットを。海に落ちる時もずっと結ばれた口元が、今でも頭の中にこびりついている。

 夏希は、正義でありたい、と思っていた。自分に胸を張れる事、泣いている奴を見捨てたり、困っている人を放っておく事は、“自分の正義”に反してしまう。けれど。

「お前達、何の為に戦っているんだ」

 意図の計れない問いかけは、さざ波の様に静かだった。

 何の為って……。正義は正義、守りたいのは、守りたいってだけだろ。それ以上でも以下でもない。例えば悪事を野放しにしてもいいのなら、この世に法も警察官も必要なくなってしまう。それとも。

 あいつらは、あいつらの正義があるのか? 一瞬頭をよぎったものの、直ぐに消した。例えそうだろうと、誰かに迷惑をかける行為は許してはいけないのだ。そうでなければ、自分に胸を張ってなんていられない。

「あ、そういやさ」

 自分のモチベーションを高める為にも、話題をわざと変えようとする。

「えっと、昨日の事件で一緒に警備してた山本さんがさ、事件にキリついたらメシ食おうって言ってくれたんだよ。独身連中集めてくるから、レッドアロウズの女の子もって言ってたんだけど、どうだ?」

 彼とはメールアドレス、ラインの連絡先も交換したし、折角そう言ってくれるのだから、みんなで楽しく食事をするのもいいいと思ったのだ。実を言うと二人とも彼氏はいないし、出会いの場としても提供出来る。すると横で真麻は「そう言う系の合コンはパス」と答えたし、麗花は「私も男の人ばっかりってのはちょっと……」と苦々しく返してくるだけだった。

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