赤い悪魔編 #1
D―クラウン。その名を知っているだろうか。否、名前を挙げられ、即座に思い出せる人々は決して多くはないだろう。
彼らが動き出したのは今年二月上旬、大胆不敵に人々の足音絶え止まぬ池袋の巨大パネルをジャックし、高々に犯行声明を掲げた。
『我々はD―クラウン。この日本に宣戦布告をする、ただ一つの組織である。この一年の間に君達民衆の間にその名を植え付けるべく、目的の定まらない、いくつかの事件を起こそう。もしかしたら諸君らはテロ行為、と呼ぶかもしれない。いかに捉えられようと、我々は君達の心に名を刻む為の全ての努力を惜しまない。金も、栄光も、人命も我々は望まない。目的はただ一つ、君達にD―クラウンの名を刻ませる為に、出来うる限りの事をしよう』
それが、彼らの掲げた声明文の大凡である。便宜上テロ組織、と銘打たれているが実際はあまりにも目的が不明瞭で、一時は愉快犯だと騒がれる程度にしか過ぎなかった。しかし六月現在、テレビジョンに映された事件のみを上げれば彼らは池袋のジャックを含め三度、世間に名を伝えている。しかし、不思議な事にそのどれもが、関係者以外人々の記憶に残る凄惨で大きな事件ではなかった。
四月上旬の宮城県沿岸のリゾートホテル建設予定地の破壊、及び新人議員交歓パーティでの人質立てこもり事件。前者は取り押さえようとした関係者数名が、後者では彼らが逃走する際にホテルの窓ガラスを割り、その破片で複数の負傷者が出たものの、世間としては“少ない被害”程度の認識しかない。だから直ぐにワイドショーを騒がせる話題はワールド・カップやオリンピック問題、芸能人のスキャンダルで直ぐに塗り替えられてしまい、日々の生活に追われている人々の認識としてはそういえばそんな事もあった、そんな奴らもいた、程度の認識しかない。
だからこそ、記憶から防衛意識が薄れかけてしまった、そういえばそんな奴らがいたな、程度の認識しかない時期こそが、尤も危ういのだ。
なんて、嫌に響くんだろう。靴も捨て、なるべく足音を立てないようにしていると言うのに、古く固い鉄の床は、踏む度に酷く大きな音を立て、その度に心臓をどん、どん、と叩いた。せめて、波の音で消えてくれる様に。すっかり乾いた喉を誤魔化す様に吐く息を飲み込んで、ただひた走った。長年使用されてきた鉄の床は、いくら船員全員で掃除をしようと、直ぐに埃や砂、乾いた砂の粒で汚れてしまう。定期の塗り直し時期を来月に控えた塗装は所々はげて、靴下に引っ掛かる。けれど、そんなものはまだましだった。場合によっては折れ曲がった釘やら木片を踏む危険も孕む。通常であれば薄っぺらな靴下一枚で暗がりを走り回るなんて事は、彼らの中では自殺行為と称される様なものだし、彼自身も解っていた。けれど明かりを点ける訳にはいかなかった。そして暗がりの中で唯一彼の存在を知らせる足音を立てる靴を、身に付ける訳にはいかなかったのだ。
じっとりと汗が滲んで、首筋を伝う。ようやっと這い出た甲板は長年彼が行き来していて、僅かな明かりでも何がどこにあるのか、は解っていた。積み上げられた砂袋の山の陰に身を潜めて、は、とようやっと息を吐いた。
あんな化け物が乗ってるなんて、聞いてないぞ――――。
と言うよりも、彼が努めてきたこの十五年、ただの一度もこんな異変は起きなかった。積み荷も全てチェックしたし、異常がない事もきちんと確認した。だから、こんな異常が起きる事は、通常“あり得ない”のだ。
ここはようやっと日本海域に入った、海の上である。そして彼が今息を殺しているのは、貨物船の甲板。周囲は海しかなく、誰かが足を踏み入れられる余地も、通常であればない。
仕事は順調だった。いつも通り日本を出港した際にアメリカ行きの荷物を積み、数日航海の後荷を下ろし、再び日本に向けた商材を積み込んだ。昨今、輸送経路も一定数確保されたとは言え、空輸よりも安く大きな積み荷を運べる輸送船は一定数は減ったものの、それでも廃れる事はない。ただ実際、食品関連を運ぶ訳でもない彼らの荷の数か減った事は確かだし、最近ではいくつかの企業と固定契約をしなくてはならない程だった。勿論それは社長が様々な手を使うから、一乗組員である彼が預かり知る所ではない。今回もその契約先数社、たとえばアメリカのコンサルタント会社の子会社である建築関連家具やら資材を積んで岐路に着く最中だった。荷物の重さも大小様々、素材に寄って多少違うにしろ、“いつも通りだった。
夕飯に同僚の作った食事を摂りながら、矢っ張りお前のメシは塩辛ぇな、早く嫁の作ったメシにありついて、のんびり酒でも飲んでついでに久しぶりにヤりてぇな。と談笑をするくらい、暇だった。このまま嵐がこない限りは順調に明日昼間には日本に到着するだろうし、特に今日は快晴で、今の所海面の機嫌も非常に良かった。早く陸に上がっていつも通りかったるいな、と言いつつ荷を下ろして、再び荷を下ろして家に帰ればいいだけだった。そして遅番の見張りで倉庫を見回り、ついでに同じ遅番の操縦者が寝ぼけて海路を間違えていないか、談笑ついでに操縦室に立ち寄った、その時だった。
その時は、何の気配もなく訪れた。誰かが非常ベルを鳴らし、波音の静けさが漂っていた深淵を切り裂いた。それを皮切りに、一人一人、倒れていった。力自慢の輸送船の、海の男達。生半可な相手に簡単に倒れるヤワな精神は持ち合わせていない。筈だった。
しかし、今ではどうだ。一矢報いる所か、この船の上で意識があるのは、彼一人しかいなくなってしまった。照明は、仲間の一人が落とした。操縦席と甲板にある僅かばかりの照明しか残っておらず、周囲は夜空よりも暗い海がたゆたっているだけで、明かりも何もない。それでも彼はこの船と長年付き合ってきたし、どこに何があるのか、目を瞑っていてもある程度の事は解っているつもりだ。このまま、気付かれずに逃げおおせられれば、そこで助けを求めさえ出来れば。けれど。
この船の上で、舵取りも機能していない船の上で、誰が、どうやって逃げられる? そいつが今日限りの悪夢だと、誰が断言出来る? このまま船の上をそいつと二人きりで過ごす事になったら?
ぞ、と背筋に恐怖の虫が這い上がり、呼応する様に心臓が早鐘を打つ。次々に、何のアクションも起こせず倒れて行く乗組員達。“あれ”に見付かったら、最後の一人である俺が倒れたら、この船はどうなるんだろう。夢なら、とびきりの悪夢なら早く覚めてくれ。祈っていたその時。
かつん、と鉄板を伝い響いてきた音に、びくり、と心臓所か胃が跳ね上がった。開けっ放しの船室の入口から響いてきたそれを砂袋の影からそっと覗き見ると、一つの影が操縦室の僅かな明かりに照らし出されていて、やっと引いた筈の汗が、全身から吹き出した。
風も殆どない、爽やかな夜になる筈だった。しかし首筋を濡らす汗が身体の体温を奪って行く。
かつん、と開けている筈の海上に音が響く。足音は徐々に暗がりの、男の方へと進んでくる。その度にど、ど、と心臓が身体の奥から叩いてくる。けれどこの暗闇、猫の目の持ち主でもない限り、こちらを見付けるのは至難の業だ。
くるな、こっちに気付くなよ。あっちへ行ってしまえ。例え足音が去った所で、何とか船を陸に着け、人を呼ばない限り何の解決にもならないのは解っていた。けれど何とかこの場を凌ぎ、活路を見いだしたかったのが本音だ。
“それ”が何故こんな事をしているのか解らない。けれど船の機能を停止させるのであれば、たった一人の乗組員など捨て置いても何ら問題はない。だから、気付くな。
しかし。次の瞬間、一筋の光が闇を切り裂き、錆びた甲板を照らし出したのに、改めて息を飲んだ。
あいつ、本気で俺までを見付けようとしてやがる。
どうする、どうしたらいい? 誰も彼も、それには敵わなかった。震えが収まらない。その時、背を凭れかけさせた砂袋が、男の体重でがさりと一つ零れ落ちた、途端。
光が一点に、こちらを捉えた。逃げ場はもう、どこにもない。かつん、と緩やかな足取りが鳴り響き、こちらに近づいてくる。慌てて立ち上がると、ほんの数メートル先に一つの影がゆらめいていた。船乗り達でそんな図体の奴がいたら“もやし”とでもあだ名を付けられ、もっと体力付けろよ。と揶揄されるだろう程に、細身く、そして小さな身体だ。
「っひ! く、くるな!」
砂袋を引っ掴んで、思い切り投げつける。重さ一キロ、当たればある程度ダメージはある筈だし、重荷に馴れた彼だからこそ投げつけられる唯一の武器だった。すらりと細長い影の手には懐中電灯が握られていたし、細腕1本で払える様なものではない。しかし。
空いたもう片腕が、すらりと横一文字に振り切られた次の瞬間、袋が弾けてざらりと中に入っていた砂をぶちまけながら崩れ落ちてしまった。
何なんだ、なんで、こんな事になってるんだ。彼はただ、昨日まで何もなかった、退屈な岐路を思い出していた。同僚達とは他愛もない話をしたし、内容も忘れてしまった。普段通り荷に異常はないか、破損していないか確認するだけの、陸に着くまでの悠々とした時間。
砂煙にも動じずまた一歩、ゆっくり影が踏み出してくる。僅かな明かりに、影が纏っている短いジャケットの裾がはためいた。懐中電灯に照らされたそれの輪郭が、近づく度に良く見える様になる。最初は手元くらいだったが、次は口元。そうして、目元を確認して。
思わず、彼はひ、と喉を鳴らした。けれど影はそんな事も気にせず、ゆっくりと口を開いた。
「……最後の、一人……」
何の表情も読み取れない、静かな声色だ。再び袋を投げつけて、男は後ずさりした。しかしそれも他度、ただの砂煙に変えられてしまった。そして、その瞬間全てを悟ったのだ。
逃げられない。海にでも飛び込まない限り、こいつは俺を追ってくる。どこまでも、どこまでも。足の力が全て抜けてしまい、立つ事もままならずにぺたりと尻餅をついたまま、呆然と影を見上げた。。すると影はゆっくりと、懐中電灯の明かりに僅かに映し出された顔は、やはり何の表情も読み取れない。
「な、何なんだよ……お前……何のつもりで……い、一体誰なんだよ……何でこんな」
こんな事、しているんだよ。
一体何者なんだよ。
夜闇よりも暗いと錯覚させる様な長い髪が、海風に僅かに揺れた。しかしその目元は鳥の嘴さながらの鋭い、鈍く赤く光る仮面に覆われていて、こちらを見ているのかどうかも判断が付かない。ジャケットもつるりとした素材で出来た真っ赤な色をしていて、僅かな風にぱたぱたとはためいていた。
「……D―クラウン……たった、一日……」
ゆっくりと吐いた言葉を、男は最後まで聞き取る事が出来なかった。振りかざした手が影となり、夜闇どころか男の手元の明かりすら、全てを覆い隠してしまった。




