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セイギノミカタ ~赤城夏希~  作者: 桜
最終章 〇四一〇
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15/17

〇四一〇 ♯2

   * * *


 室内に充満する香りは香ばしくて、つい、まだかな、と七輪を覗いてしまう。伸びてきたトングが肉を掴み、ひっくり返すと、一際大きくじゅう、と音を奏でた。

「しっかし……何一つ解らなかったなー……」

 掴んだグラスに口を付けながら夏希は溜息を吐いた。Mが起こした新たな人質事件の捜査、及び科学捜査班の見解等を聞いてみたものの、現在まだ整合中との事で、ろくな意見は聞けなかった。二時間ほど現場をみっちり、些細な事でも見逃さない様見ていたけれど、ベテランの鑑識の邪魔は出来ないし、何が手伝える訳でもない。全員でオフィスに戻ってきた後撮影しておいた写真を眺めつつ今後の方針をどうするか話し合いもしたものの、結局は何の進展があった訳でもない。そもそも、もしD―クラウンを狙っての犯行ならば、彼らの動向を警戒する以外、今の自分達に出来る事は何もない。

「まぁ、捜査結果が出るのは早くても明日でしょうし、休める時に休む、が一番いいでしょうし。あ、焼けましたよー」

「あ、サンキュー! まぁ、そうだよな。取り敢えず食わないと力もつかないしな!」

 香ばしく、丁度いい頃合いに焼けた肉を麗花がそれぞれの小皿に盛る。頂きます、とぱん、と手を合わせて、キムチを突いていただけの箸で摘まみ上げた。

 所今日の所はレッドアロウズは一時解散、そして何となく流れで焼き肉屋にくる事になった訳である。因みに夏希は一回目に行った店から、肉を焼く担当にはさせて貰えない。と言うより、とにかく下手なのだ。「焼き肉の才能ないですねぇ」と何の才能かは解らないけれど麗花には溜息を吐かれたし、真麻には「」私がやるから、取り敢えず待ってる」とぴしゃりと言い切られてしまった程なのだ。家族で行くバーベキューで火を起こす係は二年前父親から譲り受けたが、結局大体母がやってしまうし、友人達と言っても、火を起こす係に任命され、例え焼いたとしても笑いながら焦げてる! と食うだけであり、腕を磨く機会もない。だからこうして肉を待ったり、時に飲み物を注文する要員にしかなれないのだが。

「まぁ、これからですよ。流石にD―クラウンをこてんぱんにした犯人さんの目的も全然ですし、何使ってあんな風になったのかとかも色々検証しなくちゃですからね」

 追加のカルビを網に並べながら麗花が続けたのに、彼女の横に座っていた藤堂が苦笑した。

「しかし、自分には流石にあれが人口で行われたのか、些か信じられませんね。犯人が何人なのか手がかりがない。足跡も検証中との事でしたが、下はカーペットが敷かれていましたし、難しいでしょうね。発砲された銃弾数も十二発、もし犯人に当たっているならもう少しあるでしょうが、血痕も殆どなかったからその線は薄い。目撃者によると影は一つとの事でしたが、一人で到底出来る事ではありませんでしょう。……新たな証言が出てきてくれるといいんですけどね」

 本当に、難解な事件だ。例えば自分達の様に、正義を胸に、市民の安全の為に戦っているなら悪いとは言い切れない。けれど現場で犯人が確認出来ていないという事は、つまる所正体を知られる事を恐れた為だろう。とにかく謎だらけで、出来る手段が今の所何もないのが非常に歯痒い。

「ん? ……どうした、真麻」

 横に座っていた相棒の様子に、夏希は顔を覗き込んでみる。いつものペースなら注文したビールジョッキを空にして三本追加、とでも言うだろうに、最初に頼んだ一杯に口を付けたままぼんやりとしていた。

「へ!? あ、え、えー……っと」

「何だよ、さっきからぼーっとして、らしくねぇな? お前が生! って言わないと俺の仕事ねぇんだけどさ。ほら肉も、食わないと次焼けるぞ」

 皿に置かれたままの肉は、もしかしたら冷めているかもしれない。真麻は「あ、うん食べる」と箸を取ったものの、それは薄い肉を摘まみ上げる事もなく、宙に浮いているだけだった。

「……どうした? なんか気になる事あんのか?」

「あ、ううん、ちょっと色々あって、疲れただけ……何でもないの」

 改めて返してやっと皿を手に取り、肉を掴むと口に入れた。ゆっくりと、今何の肉を租借しているか解らないだろう様に、違和感を覚えた。

 さっき、電話があってからだ。夏希が大丈夫だったか? と聞くと、ちょっと、まぁ、厄介ごとが出来ただけ。と返してきていたけれど、どこか上の空だった。そして帰社時、柳のデスクに一人寄り、ひっそりとした声でこう言ったのだ。

「あの、すみません。急用が出来てしまって、今週木曜、そして金曜と休みを頂いても宜しいですか……?」

 勿論夏希も、聞き耳を立てていた訳ではない。元々みんなで夕飯を摂ろうと話をしていて、帰り支度をすこしゆっくりめにしながら真麻を待っていたのだ。

 レッドアロウズは基本的に休みはシフト制である。盆も暮れも通常であればみんな一緒に、なんて事は出来ない。例え被っても誰かが出勤しているし、非常時には、例えば前回の事件、銀行データバンククラッキングの時の様に呼び出される事だってある。けれどシフトを決める柳が、どうやら面倒らしく、一日は固定されている。藤堂が月曜、火曜日が夏希、水曜日が柳、木曜が麗花、真麻が金曜。その他はまた適当に、と言うか特に誰も用事がなければ大概残りは適当に割り振られる。

 けれど真麻が突然休暇が欲しい、と言い出す事自体、初めてだったかもしれない。一身上の都合。柳もそう飲み込んだらしく、了解をした。そして木曜、その日夏希は休みだったのだが、柳に「赤城、次の木曜は予定は」と問いかけられ、休みの返上ならいいっすよ。と返した。元々彼女には四月、インフルエンザB型にて長期休暇を貰い、事件に関与出来なかった借りを返していない。その程度で済むとは思えないが、何の用事もなかった気がするし、そう返したのだ。

 四月から、流石に九月を数日後に控えている時期まで、新人だから先輩に付くようにと言われてから、かたや相棒として一緒に行動しているのだ。だから彼女がどこか気落ちしてる、もしくは焦燥しているのは見て取れたし、そもそも真麻は感情を隠すタイプの女子ではない。六月の婦女暴行事件では、怖い、と抱いた感情をなんとか押し止めようとしてたし、七月の事件でSと対峙する際にも「一人で相手出来るなんて思ってないわ。勝率上げたいの」と強がりながらも言っていた。

 夏希が聞いている彼女の実家は、元々古い空手流派の総本山であり、父が厳格で厳しく育てられたのだという。厳しすぎ、“女が働くものではない”とレッドアロウズに入るまで、アルバイトすら経験出来なかったらしい。だから我慢をする癖でもついたのだろうか、元々の彼女の気質もあるだろうが、育ちもあるかもしれない。

 けれど、自分が簡単に関われる事ではないのだろうと推測し、こう言う時の自分の気が利けなさを歯痒く思いながら、グラスを傾けようとしたものの、中はいつの間にか飲み干したのか空っぽだった。

「えーと、俺飲み物頼むけど、追加注文ある人! 真麻、お前どうする? 普通の頼むか? あ、エビあるぞエビ! エビ頼むか!? スペアリブ食うか?」

 取り敢えず、今は何でもいいから興味があるものを口にした砲がいい気がする。気分が落ちている時は美味いものを食べて落ち着く。それが一番だと夏希は思っていた。

「あのね……。じゃあ……はーもう、解った。ワインに変える。多分ビールって気分じゃないのよね、多分」

 溜息交じりに、半ば仕方なしという風に髪を掻き上げながら、真麻はじゃあこれ、とロゼワインをボトルで注文した。調子が戻ったのか、それともヤケでも起こしているのか一本丸々飲みきってから、口直し、と再びビールを注文した。その上日本酒まで二合注文しようとしたのだが、流石にそれは止めて、せめて一合にさせた。

 夏希は酒が飲めない。成人式の時に一口だけビールを飲んだけれど、その時は酷く酔ってしまった。元々弱い体質もあるんだろうし、美味さも解らなかくて飲まなくても何ら問題がないからそれ以降チャレンジをする事はなかった。対して相棒の真麻は良く飲む方で、夏希がジンジャーエールを飲みきるよりも早くジョッキを空ける。一晩で何杯飲むんだと思う勢いで、その癖滅多に酔う事はない。しかし今日は傍目で見ていた夏希でも流石にペースが早すぎだと感じていた。実際普段より良く飲んでいる様にも思えたし、店を出る時にはすっかり足取りがおぼつかなくなっていた。

「おい、どうする? 駅まで歩けるか? タクシー呼ぶか?」

 まだ歩けるにしたってどこか危なっかしい様子に、顔を覗き込むと、酒に当たりほんのりと染まった頬が、ふふ、と小さく笑った。

「いいわよぉ。今日ちょっと帰る気がなくて、適当に探して泊まってくつもり。タクシーで家に帰れたら一番楽だけど、金額馬鹿になんないだろうし。今帰ったらきっと出勤したくなくなるわねぇ」

 まぁ、確かに今一人で岐路に付けるとも思えないし、その方が無難ではあるけれど。暫く考え込み、夏希は携帯で時間を確認した。夏希が家に帰るのに必要な時間は大凡四十五分程度。終電にはまだ間に合う時間だった。

「解った。俺も宿決めんの、ついてく。心配だし」

 何しろ、会計時にも千円札と一万円札を間違えて出そうとしていたし、五百円玉の代わりに百円玉を出すていたらくなのだ。人にぶつかるのも困るだろうし、いくら真麻が強いと言え、今変なのに絡まれたら撃退出来るだろう安心感が見えない。そう思って発言したまでなのだが。

「へ? ナッちゃん?」

「は……」

 今まで「矢っ張り外に出ると暑いですねぇ」なんて後ろで話していた二人がぱっとこちらを向いた。何か変な事でも言っただろうか。ん? と首を傾げてみせると、麗花が訝しげに小さく唸った。

「……うーん、まぁ、ナッちゃんなら大丈夫だと思います……けど。私も念のためついてこうかな……」

「え、いやいいって。これ以上遅くなったらお前も危ないだろ。女なんだしさ。送るだけなら俺でも出来るって。俺、終電もまだ大丈夫だしさ。藤堂さんはギリギリじゃないっすか、大丈夫ですか?」

「あ、え、ええ……ちょっと急ぎで帰ります、が、お願いしても?」

 少なくともこのメンツの中では自分だけがしらふだし、例え真麻が電柱に頭突きをかましかけても捕まえておけるだろう。それに夏希はへいっす、大丈夫っす。と頷いた。

 何度も振り向きながらこちらを確認してくる二人に軽く手を振りながら横の相棒を見ると、溜息交じりにこちらを睨み付けてくる。

「いいわよ。別に取り敢えず歩けるし、道も解ります。ホテルなんて検索すればある程度出てきますから」

「あのな、説得力ないからな。ふらっふらしてんだろうが馬鹿! 取り敢えず肩貸してやっから掴まれよ」

 焦点のろくに合っていない目で睨まれても、別段怖くなんてないのだ。腕を引っ張ると真麻は「一人で歩けます」と言ったものの、夏希が譲らずいいから、と返すと、渋々肩に捕まってくる。

「どうする? 宿行く前に水買うか? 多分その方がいいよな」

 途中コンビニに立ち寄って水を数本買い、途中真麻が更に酒を買おうとするのを止めた。と言うよりもこんな状態でまだ飲もうと思うところが妙だった。

「あのさ、お前矢っ張り何かあっただろ。まぁ、俺が聞いても何出来るかとか、そういうのはないけどさ、なんか困ってる事あったら言えよ。……何とか出来るかもしれないし」

「嬉しい事言うわね。でも大丈夫よー。大した事じゃないし」

 へら、と笑った顔に、そんなに無理して飲む事のどこが大した事ないんだよ。と内心ごちたけれど、酔っ払いの今何を言っても伝わらないだろうから止めた。

 ホテル沢山ある所知ってるから、と案内された界隈を眺めながら、思わず口の端から「うわ……」と声が漏れてしまった。

 世間ではこう言う場の事をどう呼ぶだろう。夏希はとんと関わりがなかったものだから、良くは知らないけれど。所々にぎらぎらと輝く看板が配置されていて、夜の街を鮮やかに彩る手伝いをしている。いわゆるモーテルの集合地と言う奴だ。大通りはまだ人もまばらにすれ違ったけれど、この通りばかりは閑散としている。確かに予約もなく部屋さえ空いていれば一見様で入る事も可能にしても、だ。

「いや、俺、ど、どうかと思うぞ……? ちょっと待ってろよ、ビジネスホテル空いてるか探してやるから。ていうかせめてカプセルホテルとかあるだろなんか」

「あのね、今自分、女一人で寝てたって何にも言われないわよ。今、普通のホテル泊まりたくない気分なの。適当に物色して話のタネにでもしてくるわよ」

「い、いや、そうじゃなくて、こんな所で一人で寝てたら不用心すぎんだろ……。なんつーか、この、ほら……」

 女一人で入って、どこからともなく男が、とか、嫌な想像もしてしまう。友人の話を聞くと壁も薄く、下手すれば隣の声も聞こえるとかも聞くし、女一人で泊まるのは流石に良くないと思う。しかしそれに真麻はひらひらと手を振って、鼻で笑った。

「鍵くらいあるでしょ、ない方が不用心、ホテルとして欠陥品。どの道痴漢にも遭った事ないの。それに、遭う時は普通のホテルでだって強姦魔と鉢合うもんなんだから、気にしない。……ホント、大丈夫だから。アンタは終電、ありがと、こんなとこまで付き合わせちゃって」

「いや、いいけど……。で、でもちょっとまともそうな所、あそこ、あの端っこのとことか! ……入るまで見てるよ。変な奴こないようにさ」

 流石にここまで来て、無事を確認せずにじゃあまた、と手を振る訳にもいかないだろう。一番落ち着いた雰囲気のホテルを指差すと、「了解」と、掴まれていた肩をとん、と叩かれた。

 そして先程よりも少し酒が抜けただろう、まだましな足取りで入口へと向かっていった背中が、再びこちらに向き直る。

「……あんたも帰る。終電、困るでしょ」

「だから言ったろ。ちゃんと入るまで、へんな奴ついてかないか見とく。てか、俺は最悪カプセルとかでも漫喫でもいいし」

 こっちは男で、最悪どうとでも道は選べる。すると真麻は街頭で解るくらい真っ赤に酒に当てられた頬を、少し困った様にほころばせた。

「……ナツ、ごめん。あんた、良い奴よね。馬鹿だけど」

「馬鹿は余計、謝るのも余計だ。ほら、取り敢えず俺の終電心配すんならとっとと入れ」

 それにいつも通り「ん」と頷いて、するりと向こう側へと消えていった。携帯で時間を確認すると終電まで一〇分ほど余裕があり、今から駅まで走ればギリギリ間に合う。けれど酔っ払いが本当に部屋を選べたのか、それとも満室だったのか、選んでいる五分間の間に変な男がきたらまずい。だから結局夏希は暫くその辺りをうろうろしていたし、ある程度時間が経ってから、ロビーに誰もいない事を確認してから、携帯電話で母に電話をしてから、一番近くの漫画喫茶を探した。

 流石に、自室のベッドじゃないと寝心地が悪い。夏希が選んだのはリクライニング・ソファタイプの部屋だったが、おまけに冷房直撃という条件まで追加され、結局殆ど寝付けなかった。まだ救いだったのは、いいのか悪いのか、愛犬の散歩もなく職場近くでギリギリまでだらだら出来る事だけだった。次からはちょっと無理してでも終電目指して帰るべきだと心に誓った。

 大きなあくびを一つ点きながら「はよぉっす」とドアを開けると、部屋には珍しく柳を除いた全員が揃っていて、思い思いにパソコンを広げていたりしていた。

 そういえば、司令は捜査会議に出るから朝は不在にする。と言っていた。久しぶりの司令の不在にどこか部屋はだらけていたけれど、夏希もそんな気分だったから、少し有り難かった。荷物を棚に入れて、ついでに自分のノートパソコンを引っ張り出した。情報が何も解らないままでは動きようもないからだ。そして三人掛けのソファに身体を預けて、時折頭を押さえている女の横に腰を下ろした。

「やっぱ顔色悪ぃな、ちゃんと寝たのかよ。後滅茶苦茶酒臭ぇな。奈良漬けみたいだぞお前」

「奈良漬けは日本酒。昨日一番飲んだのは多分ワイン。ていうか……もしかしてアンタ、終電逃したの?」

 怪訝そうに視線を向けてきた名朝に、ばつが悪そうに「……まぁ」と返した。誤魔化そうとしても昨日と服が同じなのだから、言い逃れは出来ないだろう。

「やだもう、ホントゴメン。ちょっと今度埋め合わせるから……ホント、飲み過ぎてあんなになるなんて……」

「いや、次っから気ぃつけろよ。ていうか、今回は俺も帰るよりこっちいた方がいいって思っただけだから、気にすんな」

 酒が残っているのか、頭を押さえている真麻にそう言ってやると、「借りは作りたくないの、ちょっと元気な時にご飯奢る」と弱々しく返された。

 すると、挨拶をしてから再びおやつとパソコンに向かっていた麗花が、数台ある液晶の隙間からこちらを覗き込み、ふふ、と笑った。

「矢っ張り、流石に一緒に泊まるって事はなかったんですね。安心しました」

「は? 何で?」

「いえ、万が一とか、何かあるかなーって」

 ふふ、とまた小さく笑ったのに、やっと何故そんな勘ぐりをされたのか気がついて、喉から変なうなり声が出てしまった。

「あのな、酔った勢いで、とか男としてどうかと思うぞ、俺。第一、俺滅茶苦茶しらふだったじゃねぇか……」

 昨日、「大丈夫……だと思いますが」と濁された単語は、真麻を無事に送っていけるのか、と言う心配ではなく、何かあるのか、と言う邪推だったらしい。

 と言うより、何かあるなら、もっとまともに会話が出来るシーンを選びたい。酔って抵抗の出来ない相手に何かをするなんて、否定はしないけれど、夏希個人としたら避けたい事案だ。

 それに真麻が、横で酒が抜け切れていない溜息を吐いた。

「……まぁ、一緒だったらホテル代、折半して貰うわよ。見てこれ、昨日の宿代」

 荷物も棚に収めていなかったのか、真麻は脇に置いてあった鞄から財布を取り出すと、中から一枚の領収書を取り出した。洒落た筆記体で書いてあるホテル名は一見すると格好良いのだが、読んで見ると実は“ラブロマンス”とダサい名称で、後に下に記されている金額に、思わず吹き出してしまった。

「は、え、嘘だろ!? 一晩一万七千円!? 高ぇ!」

「流石に酔って部屋決めるもんじゃないわね。すっごくいいお部屋だったわー。お風呂はジャグジーは勿論、カップルどころか三人くらい入ったって問題ない広さ、ボディ・ソープもいいの使ってたし、ああいう所ってリンス・インシャンプーとかだと思ってたけど、ブランドのが揃ってたし、ベッドは天蓋付き、おまけに熱帯魚のいる水槽のおまけ。どうやら一番いい部屋選んだみたいなのよね。平日料金でこれって、休日だと一体いくらするのかしら。まぁ、タクシーの割り増し料金より安いだろうってのは救いだったけど、記念に写メ撮っとけばよかったわ……ああいう部屋は初めてだったし」

 思わず絶句していると、たった一人で代金を払った女は辟易しながら、改めて深い溜息を吐いた。酔って次の日具合が悪くなるだけでは事足りず、たった一晩で酒代の数倍の洒落たホテル代に消えていってしまった訳だ。これに懲りて飲み過ぎないようにしてくれればいいのだけれど、痛過ぎる勉強料に、夏希も乾いた笑いしか漏れない。

「えっと、奢り……いいぞ……? 男のつとめだったってのもあるけど、財布、しんどいだろ……」

 夏希だって一日にそんなに散在する事は滅多にない。気に入りのジーパンは数本二万円程度のものはあるが、そんなもの滅多に買えないし、大打撃である様子は容易に取れる。だが真麻は栗色の、明るめの髪を掻き上げながら苦笑した。

「いいから、奢られてよ。気が済まないから。今度の休みも替わって貰っちゃったし」

 私の気が済まないから。そう言った相棒に夏希はこれ以上続けても押し問答だな。真麻はこう言う時、決して譲らないのを知っていたから渋々了解してから、安い奴でいいぞ。と付け加えた。


   * * *


 学生時代は感じなかった時の流れは、年を取るごとに短いと感じる。例えいくら暇な仕事とは言え、気付いたらもう一週間経っていた、一年経っていたなんてざらである。Mが人質を取った事件から数日を経ても、事件に進展はないままである。破壊された壁を穿った際の質量は算出されたけれど、どう足掻いても什器で破壊する以外に“あり得ない”物量が加わっていたとだけは解った。捕まった連中も、一番最初の事件と同様に誰一人何も喋らず、目的も、Mの存在も解らずじまいだった。

 ただ一点。周辺を警戒していた数人の警察官が“麻酔で眠らされていた”と報告があった。彼らは全員首の付け根に針の酔うなもので刺された後があり、以前会った赤ジャケットの男の仕業だろう事は想像がついた。しかしそれ以降D―クラウンの動きもなく酷く静かに時間だけが過ぎていくだけだった。

 そして昨日は金曜、あまりにも動きがない為、夏希は休みを言い渡された。本来夏希は木曜に休暇予定だったのだが、真麻が急用で休暇を取る事になったので、変更していた。しかし“今後情報が出た時に動ける様にしておいてくれ”と柳の配慮もあって、一日ずれたにしてものんびりと羽根を伸ばす事が出来た。

 ただ、休日とはある意味で悪だ。嬉しい反面、はつらつと動いていた筈なのに夜になると出勤するのが億劫になってしまう。また次の休みまで後何日あるかな、なんて頭の中で次に訪れる休日へと思いを馳せてしまうのだ。

 出勤すると珍しい事に朝トレーニングを日課さながらにしている真麻がオフィス・ルームに居て、これまた珍しくパソコンも開かず、本日のクッキングとテロップの下で美形シェフが「暑い夏を乗り切る、スタミナ満点、さっぱり楽々レシピ」と爽やかに笑いかけている姿を見上げていた。

「おうどうした真麻、珍しいな」

 今日は麗花と柳が休みなだけで、藤堂も出勤している筈だ。それに柳が休暇の時は、上層部からの連絡は全て彼の携帯電話に入る事になっている。だから電話番をしなくてはならない、と言う事はない。

「……ていうか、顔色悪いな。どうした?」

 昨日まで二連休だった相棒に問いかけたものの、こちらを見る事はなかった。

「ちょっと色々あって寝れなかったの。大丈夫、事件が起きたらちゃんとするから」

「何だよ、事件起きるみたいな言い方だな」

 悪態をついてみせたものの、「早く解決出来ればまぁ、いいんじゃない?」とどうでも良さそうにかえされた。

 Dークラウンが、謎の組織と今だ揶揄されるのは、何の情報も得られないからだ。組織の全容はおろか、捕まった犯人グループの誰一人として口を割らない。それだけではない。“身元が解らない”のだ。勿論、世界の犯罪グループの照会も行っている。だが指紋や顔承認をしようとしても、前歴すら浮かんでこない。手口は玄人、逃げ足も速い。だからある程度、何らかの経験者であると予測出来る筈なのに、証拠が何一つとして、影すらない。もし組織がどこに繋がっているのかさえ解れば、後は多少時間がかかっても、今回の事件に何らかの糸口が見えるだろうにそれすらも許さない。目的も不明瞭で、次に何を狙って動くのかも検討がつかないから、先手を打つことも出来ないのだ。

 今日は何をしようかなぁ。ツバサ・システムの様子を眺めている藤堂に声かけて、久しぶりに朝からトレーニングでもしようかな、なんて思った、その時だった。

『速報です、先程、午前九時丁度に、新宿南口のスクリーンにてD―クラウンの声明が発表されました』

 突如画面が切り替わり、蒸し鶏のひつまぶし風、冷製茶漬けに冷えただし汁をかけようとしていたシェフから、無表情のアナウンサーが映し出される。

「え、い……っ」

 今!? いつも突然事件を起こす奴らだが、普段はこんなに早く次の事件を持ってくる事はなく、いつも人々の記憶から薄れてきた頃になにかしら騒動を巻き起こすのだ。

 今度は、現場に居合わせただろう一般市民が撮影したらしい動画へと切り替わる。新宿駅前は土曜日と、世間では休日を満喫している人々で賑わいを見せていた。テナントビル脇に填め込まれた大パネルは真っ黒く染まっており、次に何度も見た『D』の文字を浮かび上がらせていた。

『前回からお騒がせしてすまない、一般市民諸君。前回、中央区会館の一件に関しては不覚にも失敗、我らが兄弟も拘束されると言う悲しい事態に陥ってしまった。さて、これは今まで我々を退けてきたヒーロー達とは異なる、我らが兄弟を窮地に追いやった……〇四一〇と呼ぶべきかな、謎のヒーローXへの挑戦状だ。ここまで言えば柔軟すぎる君の頭でも解るだろう。是非今回のお礼をしたい。場所は東京、君の家にしよう。時刻は明日の五時、君が探している奴はそこにいる。楽しみにしているよ、X』

 そして最後に、“S”と名で結ばれ、化粧品のCM画面に切り替わってしまった。

「何だ、これ」

 一体、何を言っているんだろう。今まで彼らの予告で、レッドアロウズ以外が出てきた事はない。そして〇四一〇、Xと仮定された存在に、半ば困惑していた。

「ちょっと……ええと、俺、藤堂さん呼んでくる!」

 恐らく柳には、警察から連絡が来ている事だろう。だったらまず藤堂を呼び、真麻に麗花へ連絡を付けて貰えばいい話だ。

慌てて踵を返そうとしたものの、返事が返ってこないソファに、視線を戻した。

 普段なら「また!?」とか、「解った」と力強く返してくれるだろう相棒は口を結んだままただ静かに、アナウンサーが淡々と説明している画面を見つめていた。

 開きっぱなしのノート・パソコンには、延々と曖昧な犯行声明文が流されている。昨今投稿サイトやSNSの発展で、検索すれば簡単に情報が手に入るのは有り難い。通常そう言った情報をまとめるのは麗花の役割なのだが、連絡時「今から向かいます」と言った彼女が到着するまでは、それを眺めているしかないのだが。

「……矢っ張り解んないっすね。家ってどういう事だろ」

 夏希が首を捻ると、横で藤堂がほっそりとした目を尚細めて、小さく唸る。

「暗号……でしょうか。該当者だけにしか解らない、とかそう言う。〇四一〇と言う数字と、Xの単語と組み合わせるとか。しかし、この言い分ですと、件の人質事件の犯人が解っている口ぶりですし、そうなると身内ではないでしょうし。Sは元々愉快犯色が特に強い、その癖用意周到な人物です。さて、何を考えているのか」

 あれから藤堂を呼びに行き、というか彼の携帯電話に柳から連絡が入って鉢合わせたのだが、麗花にも連絡を入れて、こうして推測するのが得意ではない面々で画面をにらめっこしているのだが、特に夏希は言葉の端々から何かを感じ取る事は出来ない。

「司令にも、第三勢力の情報がないかも伺いましたが、該当なし、との事です。……しかし、明日とはまた、急ですね。場所の精査のしようもない……」

「ていうか、〇四一〇って、名前にしちゃ変っすよね」

 首を捻ったその時。オフィスの扉が叩かれたのに、そちらを向いた。すると柳が辟易した面持ちで入ってくる。

「すまないな、お前達。犯行声明は把握している、現在警察でも情報源を特定しようとしているそうだが、いつも通り難しいだろう事は想定している」

 淡々と告げながら、スーツのジャケットを自分のデスクに置きながら、改めて柳がこちらを向いた、その時。

 続いてばたばたと廊下から足音が聞こえて、慌ただしく扉が開いた。

「お疲れ様です!」

 麗花が飛び込んできて、これでレッドアロウズ全員、そしてまともに情報を精査出来る面々が揃った訳だ。

 二人とも通勤途中の電車の中で情報をチェックしていたらしく、話は比較的スムーズに行った。とは言っても、麗花も首を捻るばかりだったが。

「謎ですよねぇ。特定の地域は東京の“家”Xは暗号ではなく、ただ単に未知数のXとして扱っていいと思います。ただ、この〇四一〇っていう数字、何かの番地かな……」

「麗花でも解らないか?」

「というより、私達に情報が足りなさすぎるんです。前回のD―クラウン大規模検挙時の謎の勢力。今回は私達に精査の余地を与えて貰えていないんです。発信した“誰か”に解ればいいだけですから。困りましたね」

 しかも、指定時刻は明日五時。タイト・スケジュールにも程がある。

「なぁ、お前どう思う、真麻」

 腕を組みながら相棒に声をかけた次の瞬間、「えっ」と、虚を突かれた様な返事が返ってくる。

「い、いやえっじゃねぇだろ。多分、俺達があいつと一番話してんだ。Sと仲良くやる気はまぁ、ねぇけどさ、なんかこー、あいつが話してた単語で引っ掛かった事とかねぇか?」

 婦女暴行殺人から始まり、穂積銀行クラッキングと、なんだかんだと嫌な縁がある。まして真麻は四月の事件で一度Sを退けているのだ。この中で尤も因縁があるのは真麻だろう。

 というより、普段なら「馬鹿馬鹿しいわね」と言いながら会話に加わると言うのに、今回彼女が発言しているのを殆ど聞いていない。真麻は二の腕を掴み、俯いただけだった。

「……私には、解らないわ。あの人が何を考えてるのか……」

「まぁ、だよなぁ。さーてと、そうなるとしらみつぶし作戦、になるのかなぁ」

 ヒントもなしに、それこそ当て所ないこの東京を捜索するだなんて、砂丘にあるたった一粒の砂を探し当てる程、気が遠くなる作業だ。

「全く、招待状にしても、他の人間にも解る様にして頂きたいものですね。それとも、今までの事件でゆかりがある場所かもしれませんね。それか、前回の様に緯度経度で……にしては数字が足りないかもしれませんが」

「まぁ、招待状があろうとなかろうと、悪の組織が大々的に宣伝するって事は何かするって事っすよ。その上、前回の謎の組織の奴を呼び出してるってなると、正体も解る。何とか探し当てて一石二鳥を狙うしかないっすかね……どうした麗花」

 うん、と頷いて麗花を眺めると、彼女はノートにがりがりといくつかの文字を書きだしていた。

「うん、どうにもこの〇四一〇が気になって、数式とかけているのか、それとも語順なのか。流石に日付って事はないとは思いますけど……」

 時折キーボードを叩きながら、様々な文字を書き写していく。英数字はもとより漢字、カタカナ、そしてアルファベット配列から抜き出したもの、様々な羅列が丸っこい字で記されていく。その時、背後から息を飲む音が聞こえて、夏希は改めてそちらを向いた。

「どした、なんか気付いたか?」

 今まで黙っていた人が、もしかしたら何か気付いたかもしれない、と改めて問いかけたものの、真麻は口元に指を押し当てたまま、小さく頭を振った。

「……ううん、気のせい……何でもない」

「矢っ張り顔色悪いぞ、具合良くないなら、司令に言えよ?」

 いつもなら化粧っ気のない頬はほんのりと生きている色を映し出している筈なのに、今日はずっと青ざめている様に見える。しかしそれに真麻はまた静かに「大丈夫よ、気にしないで」と返してくるだけだった。

 結局午前中はまるまる犯行声明文の検証をしてから、何一つ収穫がないまま時間が過ぎていった。長い秒針が十二時も半ばにさしかかった頃、一時昼食を摂る事にする、と柳が声を上げた。午後には警察に連携要請、並びに情報をどれだけ得ているか確認する、と言っていたから、午後もきっと会議は続くだろう。

 藤堂、麗花に加え、通常一人で昼食を摂る柳が珍しく同席すると言い出した。夏希も当初、そこに加わるつもりだった。何しろその面々が揃うという事は、食事をしながら会議の延長戦を行うだろう予想は容易に付いたからだ。けれど真麻が、小さく頭を振って返した。

「突然速報が入る可能性がありますから、私は室内に残り、ニュースのチェックをしています。みんなゆっくり食事してきて下さい」

 薄っぺらな笑顔を貼り付けたままの彼女が気になって、夏希も何となく「じゃ、俺も残ります。こいつがメシ買いに行ってる時にニュース入ったら不味いですし」と理由を付けて室内に残った。

「行けば良かったのに。みんなきっと美味しいもの食べてるわよ」

「こっちの台詞だ。……矢っ張り、具合悪いんだろ。色々理由つけやがって。まぁいいや、メシ、適当に買ってくるからさ、食えるもん言えよ」

「良いわよ。食欲ないの。アンタは自分の買ってきて」

 さっぱりと言い切られたものの、それで引き下がっていられる夏希ではない。流石に付き合いもそこそこ、出勤日の半分近く一緒に過ごしているのだ。

「取り敢えず、なんか簡単に食えそうなの見てくるから、半分でも食えよ。……残してもいいからな」

 返答が返ってくるよりも先にオフィスを飛び出し、昼食のピークを迎えてしまっているコンビニに思いを馳せた。

 真麻は、一人で抱え込むと直ぐに食欲を無くす。それは恐れだったり、心にわだかまりが出来ている時に限るのだが。書くそうとしても、感情の起伏が激しいし、相棒の夏希には直ぐに解ってしまうのだ。

 何も言わないのは、夏希が動く番ではないから。そういう事なのだろう。

 商品棚の弁当の所は三分の二が片付いてしまって、残っていた鮭おにぎりと焼きそばパン、ついでに唐揚げ。それと真麻用にハムとレタスのサンドイッチ、それとゼリー飲料、飲み物にジンジャエールとウーロン茶を一本ずつ購入した。夏希がそれで半日持つのかと言うと微妙なラインだが、真麻が本当に食べたくなければ自分が片付けるだろうから、それ以上の荷物は増やさない事にした。

 オフィスに戻ると、真麻は自分のスケジュール帳を閉じ、夏希が近づく頃には鞄の中に突っ込んでいた。サンドイッチとゼリー飲料を差し出すと案の定「……いらないって言ったのに」と口を尖らせてくる。しかし夏希は直ぐ様さっきと同じように、半分食えっつったろ。と押しつけた。

「……午後はもっとちゃんと会議する筈だから、一人頭回んねぇ奴いたら、困るだろ。明日絶対滅茶苦茶動き回らなくちゃならないだろうしな」

 見下ろした眼差しが丸く象られ、夏希を見つめていた。しかし観念したのか、小さく頷いて両方を手に取った。

 夏希も満足して隣に腰を据えてから、おにぎりのフィルムをぺりぺりと剝いて、上出来にのりで挟めたそれに噛み付いた。

「あのさ、真麻」

「何」

「……いや、えーとさ、何考えてんだ、今」

 直ぐにいい言葉が思いつかなくて、へんてこな問いかけをしてしまった。

「……そうねぇ、タバコ吸う人ならきっと、こんな時に煙を思い切り吸い込みたい、って思うのかしらねってさっき考えてた所。興味はないけど」

「何だそりゃ」

 夏希も真麻も喫煙はしない。と言うか、隊内で経験者は柳と藤堂くらいなもので、前者はヘビースモーカーだったが禁煙に成功したと言っていたし、後者は付き合いで少々、だから直ぐ止めた。との事だった。だから煙草を吸う人の気持ちは解らない。けれど夏希が聞きたかったのは、そんな言葉ではなかった。

 と言うか、自分が気が利かないせいで遠回しに問いかけてしまっただけなのだ。

 ジンジャーエールで飯粒を流し込むと、しゅわっと炭酸が喉を擽った。そうして溜まった息を思い切り吐き出しながら改めて真麻を見た。

「あーもう、矢っ張り気ぃ使うとか無理だ! あのな真麻、俺前から言ってるぞ。本当に困ったら言えって。俺はお前の相棒で、仲間で、正義の味方なんだ。……話聞いてすっきりするってのもあるからさ、なんつーか、お前がそんなだと張り合いねぇんだよ」

 夏希は馬鹿で、その上空気を読むのは得意じゃない。お前の良いところだし、悪い所だな、と友人に呆れられる事もしばしばある。実際夏希が出来る事なんて一握りしかないし、聞いたところでどうしようも出来ない事だってある。けれど何とか出来る事なら何も考えずに取り敢えず相談してくれれば、一緒にどうしようと考える事だって出来るのだ。

 夏希は、レッドアロウズに配属される前は刑事になりたかった。数年はもしかしたら交番勤めをするかもしれないけれど、それでも良かった。誰かの為に何かが出来る仕事をしたかった。それは例え相手が誰だろうと、仲間だろうと変わらない。

 驚いた眼差しが、暫し夏希を見つめてきた。そして困った様に口元を綻ばせ、「ありがと」とぽつりと零した。

「……あのねナツ。もう一回聞いていい? アンタにとっての正義って、何?」

「ん? 今そんな話してたか?」

「今だから聞きたくなったの。赤いジャケットの男には、何を守るのか聞かれたでしょ。多分……Sと戦った時の答えが、アンタの決めた事なんだと思う。けど例えば、私達が“正義だ”と思い込んでいた事が、誰かが“悪だ”って叫んだらどうなるのかしら。そもそも、何が正義なのかしら……って。私が正義を貫く事で、傷つけられる人がいるとしたら、例えばそれが大事な人……例えば家族だったらどうなるのかしら。あの時の言葉は、とても重たく聞こえたから」

 Sと戦った時の答え。実弾が腹部を損傷し、ツバサ・システムを起動させても立つのがやっとだった。それでも夏希は立ち上がり、人々の平穏を守る壁として、動こうとした。

「あっちが悪事に命かけてるって事は、こっちもちゃんと正義を貫かなきゃ、ちゃんと正義の味方がここにいるって言わなきゃ、俺たちがここにいる意味なんてないです! 指くわえて見てるだけなんて、俺は俺に胸張れねぇ!」

 確かそんな事を言った筈だった。今でもそれが間違っているとは思わない。けれど唐突に問いかけられると、どう言っていいのか解らなくて、考え込んだ。

「お前が何聞きたいのか解んねぇけどさ、うーん……なんて言うんだろうなぁ。俺馬鹿だけど、正義っていろんな人の立ち位置とかで変わるって言うのは解ってるんだよ。例えばさ、D―クラウンは世間的には悪い事してても、あいつらはものすごく今の自分達の立ち位置を信じてた。だから、あれがあいつらの正義なんだろうって思う。そりゃ人に迷惑かけるって絶対良くないけどさ。俺はいつも、自分に胸張りたいんだ。俺が見たら“よく頑張った、いい事した、ちゃんと守れた”って褒めてやれるようにさ。誰に褒められなくても、俺は俺に胸張りたい。だから俺は“俺の正義”で動いてるっていうか、なんていうか。だから、どうしても悪事を働かなくちゃならなくても、大事な奴だったら守らなくちゃ、それこそ俺は俺に胸張れない。っていうか、俺の正義もあんまりいいもんじゃねぇけどな」

 夏希は子供の頃からずっと、刑事になりたかった。だから親に頼み込んで近所の剣道場に通ったし、散々素質がないと言われつつ大学まで続けた。いざとなった時、困っている人々を守る為だ。

 六月初め、赤いジャケットの男に問いかけられた。「お前は何を守る?」夏希はその時、「みんなだ」と答えた。漠然としている答えかもしれないけれど、その答えは間違っていない。そう思っている。誰かの犠牲になって人が傷つけられるのも、誰か一人を犠牲にして全ての人が犠牲になるのも、それを見ているだけの夏希は、自分に胸を張れないからだ。

 正義とは、立ち位置が違うだけで、置かれた状況が異なるだけで、がらりと色を変えてしまう。法律では様々な事が決まっているけれど、それはあくまで世間のルールであって、“正義”そのものではない。その単語はあくまで各々を計る為の尺度でしかないのだ。

 そしてD―クラウン。目的も不明瞭でおかしな組織だが、夏希が会話を交わした三人の幹部は、例え悪事を犯していても真っ直ぐ何かを信じて動いていた様に見えた。彼らには彼らの正義があり、その為なら捕まっても、例え死んでもいいと思っているのかもしれない。

 それを咎める事は出来ない。ただ、迷惑をかけられている人々がいるなら、夏希は夏希の正義を持って止めるだけなのだ。勿論死ぬのも、痛いのも真っ平御免だ。けれど何かに心を賭けているような連中には、同じような覚悟を持たなければ対等に渡り合うなんて出来ない。

「ていうか、上手く言えないけど、そんな感じだな?」

 首を傾げてみせると、こちらを見つめていた真麻が、眼差しを細め、小さく笑んだ。

「ホント、立派だわ。凄いうらやましい程、馬鹿正直に真っ直ぐ。その癖図太い」

「おい、今の流れで馬鹿って単語必要か? 格好良い! って褒めるトコだろ!?」

 突然湧いてきた単語の数々に夏希が食ってかかると、真麻はくすくすと笑った。

「いやね、褒めてるのよ。有り難う……あんたはそのままでいてよ」

「いや、何に対してお礼言われてんのも解んねぇし。ていうか、しおらしいお前はらしくねぇから止めろよ。あ、でも馬鹿も止めてくれ。ていうか食えよ! ノルマ半分!」

 照れ隠しに鼻を鳴らしながらおにぎりの残りを口に突っ込んだ。テレビ画面は午前中に発表された声明文の振り返り、各々見解を述べている様だったが、考察ではなくただの雑談や、組織が今まで犯した犯罪に関してつらつら並べているだけで、何の単語も夏希には引っかかりはしなかった。

 焼きそばパンの袋を開ける頃には真麻はもう半分のサンドイッチを手に取って、口を付ける所だったし、それでちょっとは元気になったのかな、と安堵した。

 夏希はその時それほど気にしていなかった。けれど後に、あの時ちゃんと話を、無理やりにでも聞き出せば良かった、そしたら状況はがらりと変わっていたかもしれない、と思う事になる。そしてその後悔は、全てが終わった時にしか訪れないのだ。

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