ハイ・アンド・シーク ♯3
竹芝ふ頭公園はいくらデートスポットの一つで、駅に隣接しているとは言え、平日の流石に終電間際ともなると人影も殆どない。ぽつん、ぽつん、と所々にある街頭とベンチだけが、寂しく並んでいた。
「……デートスポット指定ってのはホント……キザなのかなんつーか」
「面倒な男ってだけよ。ただ、そういう面倒くさいのは、待ち合わせはかっこつけて海沿いよ。相場的に」
高速道路上から光の早さで流れていった街の明かりを眺めながら辿り着いた公園の向こう側には、海が広がっている。不思議なもので、海とは鏡の様だ。明るい昼間なら空の色を見事に映した青々としたそれらがずっと向こう側まで広がっているだろうに、今は東京の、星も殆ど見えない深淵を映しているせいか、真っ黒で先が見えない程だ。所々にぽつん、ぽつん、とある漁船か何かの明かりで、あぁ、あのあたりが水平なのかな、と想像をつけるしかない。この海に紛れてしまったら、時折静かに打つ、銀光りする波に浚われて、もう二度と陸地の明るい場所に帰ってこれないかもしれない。そんな不安すら煽ってくる。
「麗花、生体反応確認出来る?」
真麻が問いかけると、麗花が『公園遊歩道に数人、恐らくカップルですねぇ。それと、不自然な程に離れた所に一つだけ。今、出しますね』応答し、反応を出す。衛生を経由しての、高性能サーモグラフを駆使して、どこに何があるのか、人の気配を探り当てる事の出来る装置なのだという。将来は軍事運用予定で、使用運転も兼ねてレッドアロウズの設備の一つとして使用されている。近未来って感じがして夏希はその装置が好きだったし、凄いと思っていた。
記されたのは、遊歩道のずっと先。遊覧船乗り場の隅っこだ。流石に最終便もなくなってしまったこの時間、そんな所に一人でぼんやり海を眺めているっていうのもなくはないと思うけれど、少し寂しい。ほぼアタリ。と読んで良さそうだ。
麗花は『付近の防犯カメラ、当たります。逃走経路の確認しておきますね』と言って、それきり連絡は入ってこない。
「しかし良く一人で高速ぶっとばしてかなかったな? お前の事だから、一人でも行くかなって思ってたけどさ」
遊歩道を歩きながらデートにしたらけっして洒落てはいない、同じ上着を羽織った真麻へと視線を向けると、「一人で簡単にねじ伏せられる相手ならとっととそうしてる。勝率上げたいの」と、真麻は言った。
夏希がSに会ったのは、一度きりだ。けれど真麻は二度接触している。端的に言うと夏希が流行を過ぎに過ぎたインフルエンザで欠勤していた時の事だ。Dークラウンがその時起こしたのは、二件。宮城県のリゾートホテル建築現場を粉々に破壊したものと、真麻が担当した凄惨な殺人事件の、身内の身柄確保。その時の殺人犯は解っていたしとっくに解決はしているものの、何らかの理由で動いている事は確かだった。その時は名乗りもしなかったそうだが、一度退けたらしい。真麻は多くは語らないし、出来たら喋りたくない。と言う風だったけれど、非常に大変だったらしい事は推測出来る。前回の事件でも様々な借りを作ってしまって、借りたものは返さなくちゃね。と元から意気込んでいたのだ。
ただ、おかげで助かった。夏希も前回の事件でSに遅れを取っていたし、同じく借りを返せる機会が回ってきたのだ。
前回の事件では真麻が助けられた事もあり、一度交えた刃を引っ込めるしかなかった。武器の竹刀も折れてしまったので、戦い続行、とは行かなかったけれど、今回は準備はばっちり、肩掛けのホルダーの中には馴れた木刀が入っている。もう、ちょっとやそっとの蹴りでは折らせはしない。
港といあ事もあり、人工の地場を打ち付ける為にあるんだろう巨大な杭の上に腰かけていたひとかたまりがあった。時折コンクリートに打ち付けられて、ざざ、ともぱしゃ、とも聞こえる波音を弾く様に真麻がわざとかつん、とヒールを鳴らしてみせると、真っ黒なそれがゆらり、と動いた。
「……やれ、意外と早かったな。こちらは夜通し待つつもりで、仮眠まで取ったというのに」
七月には暑すぎる真っ黒のロングコートを纏ったそれは、背中を向けているにしてもしゃんと立ってみると随分と長い影だ。ネオンに照らされて銀光りする波の様な髪の男はポケットから何かを取り出して、恐らく仮面を取り出したのだろう。ゆっくりと顔に押し当てた。
「それは残念、うちになかなか優秀な子がいてね。さて、かくれんぼはおしまいよ、S。ふざけた事はとっとと終わらせて。それと、最低五発殴らせてもらうわ」
「つまり正義の味方、そして庶民の財布の味方、レッドアロウズの勝ちって事だ! 神妙にお縄につけよ、Dークラウン、S! 次は負けねぇぞ!」
ようし、決まった! 夏希が背負ったホルダーから木刀を取り出しながら差すと、ゆっくりと、男が振り向いた。カラスのくちばしにも似た、先端の尖った、目元だけが隠れる合金製の仮面から覗いた口元が、ゆっくりと笑みを象った。
「……レディがお迎えにきてくれたのは大歓迎だが、男連れとはナンセンスだな。まぁ、それでもゲームオーバーはゲームオーバー。こちらの負けだ」
「そういうことだ! 穂積銀行のデータと爆弾、両方なんとかしてもらうぜ! こちとらめちゃくちゃ大変だったんだからな!」
大変、といってもその殆どは未だにお腹が空いたと泣いている麗花が手間をかけているだけなのだが。それでも、庶民の財布も守れず、何が正義の味方だというのか。
夏希がびしっと指を差すと、Sはふむ。とわざとらしく肩で息を吐いてみせた。
「……以前も会った奴だな? ヒーローはいつも威勢がいいな。爆弾はここに置いておく。制限時間も十分ある。さっき仲間にも連絡を入れた。ウィルス解除の準備をしているよ。それでいいだろう、ヒーロー」
大きな杭の下へと一度ちらり、と視線をやってから、こちらへ向かって歩き出してくる。ポケットに両手を突っ込んだままの男に警戒して、背負ったホルダーに手を突っ込んだ、ものの。そいつは一度手を抜き取って、ひらりと仰いで、「じゃあな、ヒーロー」と横をすり抜けて行った。
その横顔を半ば呆然と見送って、背中が闇夜に溶け込みそうになった、その時。
「いや、待て、待て待て待て! そうじゃなくって! ここで会ったが大体一ヶ月目! 今日は勝ってお縄についてもらうぜ!」
あまりにも流れる様で、うっかり逃がす所だった。夏希が声を荒げると、真麻もはっと気がついたのか改めて拳を構え直した。
すると。ぴたりと止まった背中が、輪郭だけでもはっきりと解る様に、大仰に肩で息を吐いた。
「かくれんぼは、見つかったからゲームオーバーだろう。僕の負けだよ、約束は守る。一〇分程度で穂積銀行のプロテクトも解除されるだろうさ」
「い、いやそういう問題じゃねぇよ! 悪い奴はちゃんと捕まえて、法律で裁く! 警察が直ぐに捕まえられなくても、このレッドアロウズが黙っていねぇぜ! こちとらそっちのテロ目的も解ってないんだ! 穂積銀行を敢えて狙った理由もな!」
そういうのは、捕まえて白状させなくてはいけない。少なくとも現時点で一名、Dークラウンの構成員が一名逮捕されているが結局は住所、身元、そもそも国籍すらも不明のまま、現在も拘留されている状態である。何一つとして身に付けておらず、頑として口を割らない。だから彼らの所在どころか存在意義、テロ行為を行使する目的も、何一つ解っていないのだ。
「さて。じゃあ仕方がない。ペナルティとして敢えて少しだけ答えてあげよう。一つ、穂積銀行を狙ったのは、たまたまそこに有名銀行があったから、もう一つ、僕はあくまでかくれんぼから見付けて欲しかった。ゲームをする為には、規模が大きい方が盛り上がる。結果は上々、僕の気は済んだ。以上だ」
「……また、たいそうご勝手な理由で」
真麻が舌打ちしてそいつを睨み付けると、Sはゆっくりと振り向いた。船着き場に申し訳程度に取り付けられている街灯に照らされた口元が、にこりと笑顔を作ってみせる。
「勝手な理由、結構だ。君達は見事僕まで辿り着いてくれた。あぁ、招待状は全部受け取ってくれたかね? 手間暇愛情かけて用意したものなんだ。足が着かないように、全て手作り品だよ。うちには細かい事が好きな奴がいてね。ああしかしうちのエースの事は気にしないでくれ。いくら彼女募集でも、君程のレディは紹介してやれないからね」
「結構よ。あいにく手のかかる男どもしか周りにいなくてね、これ以上増やされたらたまったものじゃないわ。さて、お喋りは止めにして、S。かくれんぼにはいくつかパターンがあるの、ご存じかしら。見付けたら勝ち、そして、見付けてタッチしたら勝ち。場合によっては適応よ!」
ぐっと握りしめた拳を引いて、真麻が駆け出した、のに、夏希もホルダーを肩から放り投げながら、木刀を抜き出す。
「そうだな。かくれんぼからの鬼ごっこ制、捕まえたらこっちの勝ち、だ!」
真麻が距離を詰め、男の胴めがけて引いた右拳を突き出したものの読んでいたのか、ひらりと横に避ける。だが、真麻もそれが当たるとは思ってもいないだろう。今度は右拳を引く反動で、左足を振り上げる。だが。
鈍い音と共に、男の僅かに上げた右脚のすねが、それを阻んだ。真麻の蹴りは、下手をすると夏希の木刀を折る程だ。しかしある程度の振動はあるだろうが、軸足も上げた脚もぴんとしっかり張っていた。恐らく、何か足に仕込んでいる。そうじゃなきゃ今頃、痛みでのたうち回っている筈なのだ。それでも衝撃はある程度伝わるだろう。
しかし、そもそも男は何も動じていない、何事もない、という風にポケットに手を突っ込んだままの涼しい体で、肩を僅かに揺らしてみせた。
「強引だ。だが、そういう所も嫌いじゃない。……僕は戦闘向きではないのだがね、誘いには乗らなくちゃ失礼だ。どのみち僕の新しい待ち合わせ時間にも少し時間があるしね……」
未だぴんと張った脚の持ち主が、先程よりも柔らかく、口元だけでにたりと笑みを作った。
「たまには少し強引に、力尽くで、勝つのも悪くない」
なんか、まずい! ぞ、と背筋が泡立った。夏希は藤堂の様に実戦経験もないし、剣道は三段で、そんなに強い訳でもない。けれど、なんだか妙に“こいつは、良くない”と感じた。
「真麻!」
男が受けている脚と反対側、夏希から見て右手側に滑り込んで、「せっ!」側頭部めがけて木刀を振るった。こんなもの実際当たれば頭蓋骨骨折どころではないけれど、何となく“当たらない”と予感していた。実際Sの脚が真麻のそれを振り払い、後ろに僅かに下がったものだから、黒いコートの端しかかすめる事は出来なかった。瞬間、男の右腕が突如抜き取られ、夏希の目の前に付き出される。真っ黒の銃口の向こうで男がにたりと笑ったと、同時に。
「っわ!」
パンっと耳をつんざく程のけたたましい音が鳴り響いて、思い切り身を逸らした。打ち抜かれた銃弾が夏希の頬をかすめる。
夏希も負けじとその隙を縫ってもう一撃振り上げたものの、今度はコートの端にも引っかからず、ひらりとかわされてしまった。
「ナツ!」
「へーきだ! くそ、聞いてたけど、銃とは卑怯だ! 銃刀法違反って奴だ!」
かすった程度だけれど、焼ける様なじりっとした痛みが響いてくる。せめて血だけでも何とかしようと、ぐいっと頬を拭った。
日本では、少なからず銃を所持するには免許がいるし、人に発砲してはならない事になっている。どうせ正当な理由で持ち込まれたものではないはずだ。夏希は銃の種類もよくわからないし、拳銃の種類はそこまで知らない。男が使っているのがリボルバー式なのか、オートマチック式なのかも見てよくわからない。けれど、事実それは、良くないルートを使って手に入れたものである事は確かなのだ。
それに、Sがはっと小さく笑って撃鉄を引いた。
「一つ言うがね、ヒーロー。君の携帯している木刀も、軽犯罪法違反だ。尤も、悪党を成敗する為、とかご立派な理由があれば可能だがね。ただ卑怯、とは、なかなかいい言葉を使う。君らはヒーロー、そうなると僕らはヒールだ。悪とは、最低限卑怯で一人前なのだよ。さて、君がレッドかな。この非人道的な武器所持者にどうでるつもりだ? 殺すつもりは今の所ないのだが、動けない程度には出来るつもりだよ」
再びけたたましい音が鳴り響いたのよりも少し早く、銃口から身を逸らす。追いかけてくる銃口よりも、夏希の方が少し早かった。銃弾は後ろにあった海に吸い込まれてしまったのだろうか。足元を撃つ音は聞こえなかった。
真麻が距離を取りながら、夏希の側に寄ってきて、「ナツ」声をかけてくる。
「あれ使う。例のブーツ。とにかく、接近戦に持ち込まなきゃ私たちに勝ち目はないわ。相手は二丁拳銃持ち、まだその一丁は出してきてもいない。とにかく、弾数減らさせる。話はそこから」
「……了解! それしか捕まえる方法はなさそうだ!」
目配せ、と言ってゴーグラスでお互いの表情は見えないのだが。一緒に組んできたし、何度も手合わせしてきた奴なのだ。真麻がどう動くのかなど、夏希には簡単に解る。
次の弾を撃たれる前に! 少し屈んで、ブーツのかかとにある三つのボタンの内の一つを押した。
それは、例によって漏れず、見た目のダサいブーツである。そこまでスキーウェア風に固執しなくても、という程、それに似た厚手のブーツである。しかし機能は折り紙付き、以前の事件でも大活躍した、能力増強ブーツである。ボタンは三つ、それぞれ役割を持っている。一番右端は純粋にジャンプ力を、真ん中は、純粋に両方兼ね備えたものだ。そして今夏希が押したのは、走る為のみ純粋に強化出来るものである。それぞれ強化するごとに、身体への負荷が非常にかかる。両者を兼ね備えた真ん中は特に、その負荷が半端ない。だから今は純粋に、弾に当たらない為の純粋な機動力の確保が必要なのだ。
「なるほど、そのダサいブーツにも仕組みがある。と。楽しみだ。本当に、コミックに出てきそうなヒーローで、Mが喜ぶ訳だな、これは」
口元だけで笑顔を作る男に、夏希は、言ってろよ、絶対に捕まえてやるからな。と内心舌打ちして、真麻が左側へと地面を蹴ったのに、夏希は右側へと走り出す。左側の銃は出してもいない。片方の相棒がびゅっと風を切って胴を狙ったその脚を、男の脚が思い切り振り上がり、鈍い音を立てて遮った。今までこちらを向いていた銃口が真麻へと向いたのに、彼女は脚をするりと滑らせる様に僅かに逸らす。それと同時に黒のスラックスに包まれていた脚が振り下ろされ、真麻の左肩を殴りつける。
「こ、の!」
夏希がその脇へと狙いを定め、叩き付けてやろうと思った、その時。今まで黙り込んでいた男の左手が銀色の銃口を向けていたのに、木刀を握りしめていた手を、思い切り上に逸らした。
と同時に、ごうん、と空気全体を殴りつける轟音が、鼓膜を揺らし、パァン、と少し離れたコンクリートが、えぐれた。
「……嘘でしょ……何この威力……」
呆然と真麻が言ったのに、は、と男が小さく笑ってみせた。
「あぁそういえばそうだったね、レディ。君には前回、こちらの銃の威力を見せていなかった。驚かせて済まなかったね、出来たら切り札として出したくなかったんだ。このレイジング・ブルは威力としては世界でもトップレベルの、殺傷能力の高いハンド・ガンだ。勿論その分反動も大きい。いいヒントをあげたろう。さて、恐らくは防弾チョッキあたり着用しているとは思うが、どこまで耐えられるかな。肉をこそげ取られないといいな」
こんなのが、テロ行為を行っているだなんて。夏希はぞっと背筋が泡立った。この平和な日本、拳銃なんてそうそうお目にかかれるものではない。隊の中でも唯一実弾を装備出来る、柳のものは、あくまでも一般の警察官が所持しているものであったし、射撃演習も見せて貰ったけれど、こんな威力は持っていない。
「お、お前ら何で、テロなんてやってんだよ……ここ、日本だぞ!」
この平和な日本に持ってきていい武器ではない。双方に、腕を交差する様に銃口を向けたまま、Sは口元だけでにたりと笑った。
「テロとは確かに、様々な道理があって起こりうるものだ。経済を含む社会的不安、政権へ対する武力不足からの実力行使、因みに一つ言おう。テロリストとは正規の武力ではなく、あくまでも非道理的に作り上げられた組織だ。それらは歴史には名を残せても、世界を変える事は出来ない。因みにテロとは、最終的に武力行使だよ。ねじ伏せられない為に、武力は貯蓄しておくものだ。命を賭けて、非人道的な事を行うのだから、こちらの安全を守らねばならないのだよ。そしてもう一つ、我らはそれを十分に解った上でその名を行使する。さて、それじゃあ質問を敢えて質問で返そうか。それを踏まえた上で、ヒーロー達は我々をどう見る?」
そんな事、知りっこない。テロを目的とする奴らが何を以てして動くかなんて! 夏希がそう返すと、Sはにたりと笑った。
「まぁ、知らなくてもいいことだ。我々は目的の為だけに動く、君らは阻止する為に動く。それでいいじゃないか。暴力対暴力、知力対抑止力、それで十分なのだよ。それ以外に何がある」
がち、と撃鉄を引く鈍い音が、さざ波が支配する暗がりで、静かに鳴った。
こんな時、二人しかここにいない事を後悔する。夏希も真麻も、銃撃戦はそう得意ではない。接近戦を主とする彼らに取っては、遠距離の、まして懐に入らせない類いの相手は苦手なのだ。身に付けているジャケットもそれだけで九ミリ弾程度なら二メートルの距離で発射されても貫通はしない。防弾ジャケットも加わって、少なからず防御は出来る。正し、反動自体は吸収できる訳ではないし、覆っているのはあくまで腹より上、手足をかすめたらそれこそ腕ごと持って行かれる。その上、こんな大物の拳銃を相手に想定されていないのだ。藤堂は完全に盾の役割を果たしてくれるが、彼の特殊合金を使った盾でも、防げるかどうか解らない。
撃たれたら、マジで死ぬな、これ。まさかのかくれんぼが、捕まえた奴が凶悪な武器所持とは、まさか思ってもいなかった。二メートルは確実に距離を取っている筈なのに、それすらも心許ない。緊迫した間合いに、夏の暑さも加わって、背中やら腹やら腿が汗だくだ。この黒コートの男だって同じくらい汗をかいているだろうに、涼しい顔で、やれ。とまた肩で息を吐いた。
「動いてくれないと、楽しみが減るんだ。僕の時間を買うつもりなら、派手に楽しませてくれよ、ヒーロー」
言い終わるかどうか。僅かに手元が動いたのに、反射的に夏希は横に避けた。今まで夏希がいた場所の煉瓦がけたたましい音を立てて弾けて、ジャケットやズボンやらに包まれた身体へと破片を投げつけてくる。
止まったらアウト、それは確実だった。とにかく、今は本体を叩くか、弾を切らせるか、それしかない。
ぎゅっと改めて木刀を強く握りしめると、夏希はまた地面を蹴った。ブーツで強化しているおかげか脚は随分と軽いし、最低限、銃弾を避けたい所だ。
重心を低くし、銃口を見定める。どん、と再度けたたましい音が鳴り響き、夏希の左肩撃った。けれど業風がかすめていっただけで、ギリギリの所で当たらなかった。
「い、や!」
夏希が思い切り木刀を振り上げた、のに。「ちっ」と舌打ちして、銀光りの、大ぶりの銃口が切っ先へと向いた。夏希が振り下ろそうとした、その時。どん、と鼓膜全体を殴りつける音が鳴り響いて、木刀の切っ先が吹き飛ばされた。
握りしめていた夏希の手からすっぽ抜けて、半分程しか残っていないそれが、がらん、と地面に落ちる。じん、と腕全体を叩き付けられてしまった様な衝撃だ。しかし、それよりも激しい衝撃が、どん、と腹を叩いた、のに。
「ぐ、えっ」
「……っナツ!」
真麻の声が、遠くで滑って聞こえる。息を吸う事も吐くことも出来ず、思わず膝を着いて、背中を丸めた。脂汗が滲む。先端のとがったハンマーで思い切り殴られた様だ。胃から熱いものがせり上がってきて、思わず吐き出すと、今まで食べた夕飯の中身どころか、昼消化されただろうそれらも、全部身体の中からかき集められたのかと思うくらい、いろんなものが喉を通って、口の端からばたばたと落ちた。
「う、え……げ、っは……」
それでも何が起こったのか確認をする為に、ぐらりと歪む視界で見上げると、塔の様にそびえ立つ黒装束の男の口元が、にたりと笑っていた。その手には今まで真麻へと照準を合わせていたもう片方の銃が向いていた。
「一人につき一丁で相手をする、ともこちらは言っていない。さて、こちら側の銃は性能がまた異なる。威力もライジングよりは低い。上手く防弾ジャケットが機能して貫通は免れた様だが。……そうだね、選ばせてやろう。どこを撃ってやろうか? 手っ取り早く動けなくするだけなら、足を狙ってやろう。安心してくれ、君が動かなきゃ動脈は外してやる」
男が笑みを作りながら、かちり、銃を鳴らした。あぁ、こいつが言う通り足じゃなくて、頭狙ったら、マジで死ぬよな。脂汗と、歪んだ視界でちゃんとマル二号はうちに帰ったかどうか、それと姉が夕飯の事を聞いてきて、渋々二千円を出してくれた事を思い出していた。その時。
「……っいいっ加減にしてよねっ!」
真麻の叫び声と共に、べぎん、と鈍い音が続く。それとほぼ同時に、銃声が鳴り響き、夏希の頭上をかすめていった。
歪んだ視界で事を確認しようとすると、彼女の振り上げた脚が黒服に包まれた思い切り脇腹に差し込まれいて、巨塔かと思えたそれが、思い切り身体を斜めに傾げていた。軸足を踏みしめて、真麻のそれが思い切り振り切れたのと同時に、身体が思い切り吹っ飛んだ。そしてたん、と再び片足が、夏希をかばう様に地面に着地する。
「ごめん! ナツ、死んでない!?」
「ハ、ハハ……ギリ……」
死にそうなくらい、痛いけど。抑えた脇腹にはジャケットごと丸く焼け焦げた小さな穴が開いていて、中の防弾ジャケットの肌触りも良く解る。もし身体に穴が穿たれているなら、傷口をえぐりたくはないから、流石に指を突っ込む事はしなかったけれど。
その時。ばたばたと足音が聞こえたのと同時に。
「な、夏希君!」
聞き慣れた男性の声に夏希は顔を上げた。一見するとぼんやりとした、しかし凄く頼りがいのある先輩だ。彼は夏希の側に寄ると、背中に手を回した。
「すみません、遅くなりました! 柳司令、夏希君負傷、救急搬送の手はずお願いします!」
「いえ、助かりました藤堂さん、これがSです! ナツが撃たれました! 相手は恐らくプロテクター装備! 胴体は割ったと思います!」
藤堂の手を借りて見上げた男は、コートを揺らしながら、よろりと起き上がった。
「成る程、ヒーローが一人増えてしまった。人数制限をすべきだったかな……これでは残りの時間、女性とのデートとしゃれ込もうとしたのに、出来なくなってしまったな。さて」
両手の拳銃を掲げ眺めたのに対し、藤堂も膝を着いて、いつでも動ける体制を取る。
真麻に蹴りを入れられたら、どれだけ骨が頑丈だろうと、それだけで骨が折れている筈だ。能力強化のリミッターを外しているなら、尚更だ。それでも立っていられる、となると、足だけでなく胴にも仕込んでいる。
「……藤堂、さん、木刀……折れたの、取ってください……っ」
「でも夏希君!」
痛いのは本当だ。口の中だって吐き出したもののせいで焼ける様だし、足を踏んばる度に全身の筋肉が腹を中心に引きつれる様に痛い。だけど。
「まだいけます。あっちが悪事に命かけてるって事は、こっちもちゃんと正義を貫かなきゃ、ちゃんと正義の味方がここにいるって言わなきゃ、俺たちがここにいる意味なんてないです! 指くわえて見てるだけなんて、俺は俺に胸張れねぇ!」
さっき男は、こう言っていた。テロリストとは正規の武力ではなく、あくまでも非道理的に作り上げられた組織で、歴史には名を残せても、世界を変える事は出来ない。命を賭けて、非人道的な事を行う。それを十分に解った上で行っているのだと。命をかけて、悪事を働いているという事だ。
夏希はずっと、刑事になりたかった。昔憧れた、テレビのヒーローの様に悪い奴らから周囲を守れる、立派な男になりたかった。最終面接までいけたし、受かれば刑事になれる! と思っていた。しかし実際配属になったのは、まだほぼ無名の、政府が管理する正義の味方だった。正義か悪か、そういうのは、実際どれが正義で悪かなんて、立ち位置が変われば意味も変わってしまうことは何となく解っている。きっと理由を聞けばこいつらの言い分も、そういうことか、と納得してしまうかもしれない。けれど。
彼らの目的がなんであろうと、人に迷惑をかけている事は確かで、そのせいで誰かが泣いている事だって考えなくてはならない。悪い事を大声を張って悪いって言って、庶民の財布だろうと自分の財布の中身だろうと、日常を守るのがレッドアロウズの役目で、その為に戦うのが自分の役目である。誰かが恐ろしい武器を持っていたら、その力が他者に向かう事だってありうるのだ。その前に食い止めなくてはならない。そうして守り切れたら、それが夏希の正義なのだ。夏希が夏希に胸を張って良くやった、といえる正義なのだ。
「……ごめんナツ。私、色々と舐めてた」
ぽつりと、背中を向けていた真麻が小さく呟いた。何で誤るのかは解らなかった。しかし、彼女の長い栗色の髪がさわ、と風に揺れたのに、へ、と小さく何とか笑って返してみせた。
「藤堂さん、武器、取ってやってください。リーダー命令ですから」
それに藤堂が諦めた様に、解りました。と頷いて、弾け飛んだ武器を拾い上げて、夏希の手に握らせた。痛みで汗が滲んでいる手で、半分になってしまった自分の獲物を握りしめながら、奥歯を噛みしめて笑った。
「ようっし! かくれんぼ延長戦、鬼ごっこ再開としゃれ込んで貰おうか、S!」
「……なるほど、ヒーロー達は揃いも揃ってなかなか苛烈だ。まぁ、そういうものは徒党を組んで強大な敵へと立ち向かう事はセオリーだし、卑怯とは言わないよ。……そうじゃなくては、楽しみ甲斐がない」
「言ってろ、よ!」
男が両手に握った銃を一振りしざま、撃鉄を引く音が聞こえた。
それと同時に、「先攻します! 藤堂さん、S左手拳銃、破壊力が半端ないです!」勢いよく真麻が駆け出した。のに、「ええ、型式見てまずい奴だと思いました。かすらないように気をつけて! 援護します。リーダーは続いて!」藤堂が背中を追う。それに夏希も後へと続いた。腹は痛い、ちょっと気を抜いたら意識を手放してしまいそうなくらい、頭の芯がぐらぐらとしている。けれど埋め込まれている増力チップへと「動け、動け、まだ倒れるな」と信号を送り続けているおかげもあって、足が止まる事はなかった。
どん、と鈍い銃声が響いたのを藤堂が腕に付いた盾で遮る。衝撃が大きかったせいか、盾がべぎん、と鈍い音を立てて、彼はぐっと息を噛みしめた。その横をすり抜けて、ただ真っ直ぐ。威力の高い銃は、その分反動も大きく、所持者への負担も多大にかかる。夏希はそんな事知らなかったが、今まで連発してこなかった所に隙がある、撃鉄を引く際時間もかかるという事だけは解っていた。だから、止まらなかった。もう片方の銃が夏希に向いたその腕を「もう、させない!」真麻のつま先がはじいて、ぱんっと軽い音が空を切る。その胴に。
「せ!」
渾身の力を込めて、随分短くなってしまった自分のただ一つの武器を薙いだ。それを男の左腕が受け止めると同時に、ばきん、と鈍い音が獲物伝いに響いてくる。またプロテクターかよ! 内心舌打ちした瞬間、思い切り振り上げられた男の右足が、真麻と夏希双方、片方でも良かったんだろう。真一文字に空を切る。真麻がぎりぎりの所で夏希の胸を抱えて押し倒したものだから、かすらずに済んだ。勿論、コンクリートに叩き付けられてめちゃくちゃ傷に響いて痛かったにしてもだ。
けれど、立ち止まれない。夏希と真麻が顔を上げた、その瞬間。ぱん、と大きな音を立てて、二人の顔の隙間を銃弾が通り過ぎ、コンクリートに銃弾が跳ねた。
「……素敵なレディに守られるとは、殺してやりたいくらい焼ける。が」
Sが一歩後ずさると、その声をかき消すかの様に。海の方から僅かだがエンジン音と、波を切り裂く音が響いてくる。それはだんだんとしぶきを上げ、こちらへと近づいてきたのに。
「駄目だ、Sから離れないで下さい! 捕まえて!」
藤堂が声を張り上げて、駆け出した。夏希も真麻も慌てて起き上がり、その姿を視線で追ったものの。
「……待ち合わせ時間だ。なかなか楽しかったよ、たまには、追いかけられて、攻められる気持ちも悪くなかった。じゃあな、ヒーロー、また会おう」
ひら、と黒コートに包まれた身体が、海上へと投げ出されたのと、同時に。
今まで離れた場所にあった筈の水しぶきがカーテン状に巻き起こり、視線はおろか、藤堂の伸ばした手すら遮ってしまった。
しぶきの波が収まったかと思うと、一台のモーターボートと、その上に佇んで手を掲げているSの姿があった。
「柳司令、海上です! すみません、S捕獲失敗。モーターボートで逃走中! 色は白字に赤ライン、番号までは確認出来ませんでした!」
慌ただしく藤堂が通信機へと発信すると、奥から、あの男の左手の様な重厚な声が応えてくる。
『了解した。……海上となると……捕まえるのは、難しいな……。こちらも爆弾処理終了だ。そちらへと向かっている。赤城は、容態はどうだ』
「お、俺は……大丈夫です……でも……」
腹はさっきから痛い。例え増力装置で多少感覚は麻痺しているかもしれないが、信号を送ろうとするのを止めれば、たちまち意識を手放してしまいそうになる程だ。しかし、夏希は呆然と海を眺めていた。ここまでして捕まえられなかった、という悔しさはあった。けれど。
今やすっかり遠くなってしまった白い水しぶきは、もう少し先へと進んでしまったら、夜と海の深淵に溶け込んで、解らなくなってしまうだろう。Sが手を掲げて笑みを浮かべていたモーターボートの操縦席には、恐らく仲間だろう一人の男が乗っていた。それは彼とそっくりな、カラスのくちばしの様な、正し驚く程真っ赤な仮面をつけていた。それは以前、大井食品埠頭で会った、D―クラウンの一人だった。しかし。
「……あの、赤いジャケット……」
水しぶきの間にあざ笑うかの様にはためいた赤いジャケット、他にどこかで見た様な気がする、と思ったが、叩き付ける様な腹の痛みに夏希はいつ見たのか、思い出せずにいた。
* * *
釈然としない。それが夏希の感想である。今日は七月第三週目の土曜日、世間的に言っても休日という奴だ。こんな日にシフト制の仕事で休みがあれば万々歳、花の土曜日休日だ! 友達誘って遊びに行こう! と普段の夏希なら大喜びする所だったが、流石にそうもいかず、歯痒い。
「休みったって、こんなんじゃ何も出来ねぇな……」
真っ白の天井を眺めながら、馴れない、自分の家のベッドではないその上で苦々しく呟いた。
ここは、東京都内の某大学病院である。昨晩Sから見舞った痛恨の一撃は、ダサいスーパースーツと防弾チョッキのおかげで、仕込んであった合金にめり込んでいただけで腹部まで到達する事はなかった。後五センチ近くで撃たれたら完全破損して、腹部までやられる所だったらしい。しかしそのせいであばらが数本折れてしまったのだ。その為担ぎ込まれて緊急手術を行う事になったし、さっき麻酔が切れて目が覚めたばかりである。熱で頭がぐらぐらするし、本当に散々だ。
因みに今日は昨日の休日出勤の代替えの休日を言い渡され、そして暫くの傷病休暇を続いて言い渡された。暫く休みがある事がいい事なのかどうかはさておいて、だ。
「……見舞いは柳司令っすか……あ、や、悪い訳でもなんでもないですって! う、嬉しいっす!」
ちらり、と横を眺めると、しかめ面の眼鏡の上司がこちらを見下ろしていた。先程傷病休暇の申請をする様に、と訪問してきたのだ。先程まで母親と姉が付き添っていたのだが、柳がきて謝罪を述べてから後、気を利かせて外に出たのだろう。夏希は、いつ今回の始末書やら残務処理やら言い渡されるのかはらはらしていた。しかし。
「流石に室内を空ける訳にはいかん。本当に、今回は赤城が活躍してくれて、被害も最小限に留められた。穂積銀行のプロテクトも解除確認が出来ている。安心しなさい」
と、ねぎらいの言葉が落ちてきたのだ。
「いや、いっすよ。こういうのの為に正義の味方ですから。とりあえず、金下ろせる様になって良かったです。Dークラウンから入院費取れないってのは悔しいですけど!」
熱でかすれた声でそう言って返すと、柳は「全く、お前らしい」と口元に僅かな笑みを浮かべた。
そうなのだ。高額医療の適応になろうとも、保険が適応されようとも、結局はある程度入院費というものは払わなくてはならないし、ついでに姉と真麻に金を返さなくてはいけない。全く、庶民と夏希の財布と身体を痛める、非常に大変な事件となってしまった。
その時。カーテンの向こう側に、小さな影が出来た。「失礼します」とそっと中をのぞき込んできた見慣れた顔に、夏希は「おー」と気の抜けた返事を返した。元々自分の返事は気が抜けているとは解っていたけれど、今回ばかりはちょっと元気がないのだ。すると新たな来訪者である真麻は、「あ、柳司令もいらしたんですね」と先客に挨拶する。
「お前が見舞いに来るとは殊勝な感じだな」
平気、という体を装ってへらりと笑ってみせると、真麻はふ、と一つ溜息を吐いてみせる。
「……振り替え休日、あんたと一緒。……ごめん、ナツ」
「何だよお前、昨日っから謝ってばっかじゃねぇか。怪我したのは俺の責任、だろ?」
責任勝手に持ってくなよ。かっこつけたんだから。しかし真麻は、小さくかぶりを振って、もう一度ごめん、とうなだれた。
「……私が一緒にいて怪我させたんだから、謝らせて。本当に、色々舐めてた……」
ぎゅ、と自分の腕を掌で掴んで唇を噛みしめたのに、「だからいいって」と返した。夏希は元々真麻の相棒みたいなものだし、気落ちしているのはなんだか気持ちが悪い。真麻は長い髪をこれでもか、とうなだれて、頬どころか、顔の表情すら解らない程頭を下げていた。
「あのね、ナツ……」
「何だよ。だからもう謝るの止めろって。怪我に響く! な、とりあえず色々良かったって事だから気にすんなよ! 俺たち正義の味方なんだから、怪我するのは当たり前! 以上って奴だ!」
もっと威勢良くしゃんと胸を張って、馬鹿ね、とののしってくれた方がこいつらしいし、これ以上謝られたらごめん、の一言で傷口がえぐられてしまう様だ。真麻はそれに「ん」と一つ頷いた。
「……そうだ、あのさ、まだ食べれないと思って、お菓子は止めたんだけど。替わりにこれ、持ってきたの」
そうして慌てて鞄の中を漁って真麻が差出したのは、ふかふかの、ぼんやりとした、しかしどこか愛くるしい眼差しの小さな犬のぬいぐるみだった。夏希はそれに見覚えがあった。
「お! マル二号の舎弟! 何だよ!」
「寂しいでしょ? 貸したげる」
それに夏希はじゃあ借りとく。ついでに名前考えてやるよ、めちゃくちゃ良い奴。と笑うと、珍しく真麻は、じゃあお願いするわ。と笑ってみせた。




