連続婦女暴行殺人事件 ♯4
* * *
なんてことだよ。走りながら夏希は何度目かの舌打ちをした。無事でいてくれよ。と握りしめた拳が汗を掻く。
先程の通信以降、暴行犯と接触したと連絡を入れた後、真麻の反応が途切れた。慌てて麗花に連絡を取り調べて貰った所、何らかの不具合が起きて、マイクも、イヤホンも使用出来なくなってしまったのだそうだ。
だからぎりぎり直前のテストでも、信用が出来ないんだ。
夏希は、丁度麗花と真麻の担当地区の真ん中を担当していた。藤堂と麗花はそもそも彼女の担当区とは真反対の路線にある駅の担当で、駆けつけるには夏希が一番近い。車である柳も念のため向かうとは言っていたけれど、信号等の邪魔を考えると、結局の所一番夏希が走った方が良いくらいだった。
街中で少し目立つとは言え、今はゴーグラスを装備したまま、こうして走っている。レッドアロウズの矢羽根、そして刃とも言えるツバサ・システムには位置情報を確認する事も出来るのだが、それで真麻の位置を確認してみても、まだ十五キロも先だった。走る度に竹刀を入れた肩掛けケースがずり落ちてきて煩わしい。本来、夏希が対D―クラウン様に使う武器は木刀である。けれど本件に関しては夏希個人としては勘でしかないにしろ彼らが相手でないと思っていた。一般人を相手にするのに、流石に木刀だと怪我をさせてしまう。竹刀も振るい方によっては怪我をするにしろ、まだ抑えられる。
真麻は、この事件を「少し怖い」と言っていた。そして同時に、非常に深い怒りを抱いていた。勿論夏希も許せない、と心底思っていたけれど、矢張り女性と男性では、ものの見方が異なる。真麻は身一つで戦う女だし、一人でも十二分だろうが、犯人はナイフを所持している様な奴だ万が一臆した時には。
ぞっとする。身内が危険に遭うって、こう言う事なんだろうな。最悪のケースは考えたくもないが、なんだか気が逸る。
ああくそ! また赤信号だ! 慌てて渡ろうとしたものの、結局は横断歩道の信号がちかちかと点滅してしまって、夏希は地団駄を踏んだ。
例えどれだけ急いでいようとも、悪い奴と赤信号だけは、見逃してはいけない。例え悪を倒しても、正義の味方が赤信号を素通りして渡っていたら、立つ瀬がないし、夏希の正義たる“自分に対して胸を張れるのが正義”という信条に背いてしまう。重たい荷物を持った年寄りのお手伝いが出来ても出来なくても、赤信号というルールを守らずして、正義の味方はやれないのだ。けれど、そう何度も赤信号や、建物を遠回りしてすり抜けているだけでも、時間は浪費するし、戦いに1分一秒のロスが出ただけで、手遅れなんて事もあるのだ。
「あーもうっ早く、早く!」
そう言っても、四つ角の比較的大きな通りの信号は、さっきから渡りたい方と反対側ばかり青くぴかぴかと光らせている。
やっぱり、使うしかないか、秘密兵器。今回の機動力要員として、特別に夏希にだけ使用を許可されたものがある。地区の見回りをしているメンバーとはまた別に、特別訓練を言い渡されたものだ。メンテナンス経費と、身体にかかる負荷が大きい為なるべくであれば控える様、柳に言われていた。しかし、今使わずしていつ使うって言うんだ。
「え、ええと」
とりあえず、人気のないところだ! まだ変わらない赤信号をくるりと背にして、すぐ側にあるビルへと駆け込んだ。深夜だし人気も少ないが、こういう秘密道具は誰にも見られない方がいいのだ。身を屈めて、夏希はお気に入りのジーパンの裾をまくり上げて、履いているブーツを探った。
レッドアロウズは、とにかく自由だ。服装に関しても市役所みたいにスーツでとか、クールビズでもオフィスカジュアルでとかうるさい事は言わない。柳は司令官だし、たまに外の人間とも面と向かって話をしなくてはならない事もあるからスーツで出勤しているものの、少なくとも夏希達は違う。ちなみに夏希はほとんどにおいてジーパンで出勤していて、今日穿いてきたのも、お気に入りの一本だった。その下に履いたブーツをまさぐった。かかとの部分に、ボタンが三つあり、それぞれに役割があるのだが、夏希はその中央のボタンを押した。
隊の中で名前がダサい。と言われ続け、実際数える程しか正式名称で呼ばれていない。夏希も紹介された当初「そのまんまだ」と思ったし、実際使用許可を下ろした柳もそう思っているらしく、「例のブーツの着用を許可する」としか言わなかった。けれど、名指しされる程のブーツは、現在隊の中ではこれしかない。
正式名称、『ジェットブーツ』。大目に見ても非常にダサい名前だが、文字通りジェット機のごとく機動力、跳躍力を一時的に大幅に上げる、名前と形さえもっと格好よければ素晴らしいブーツである。そして同時に、ツバサ・システムを起動する事によって、相乗効果となり飛躍的に能力が上がる。
「システム・ツバサ、起動!」
夏希が揚々と口にすると、頭の奥がじん、と熱くなった。
正義の味方とは、いつの時代も、どのテレビでも、どこか近未来じみていて、科学とは切り離せない。少なくとも夏希が見てきて憧れた人々は、誰かしら格好いい機械を使ったりしていた。
夏希達レッドアロウズには、増力装置と呼ばれる遠隔操作式のチップが首の、丁度背骨あたりに埋め込まれている。
夏希は馬鹿で詳しい話は出来ないのだが、首の真後ろには様々な神経が通っていて、その神経をチップによって強制的に動かすのだという。人は脳によって身体を動かす全ての信号を送っていて、また能力以上の力が出ないように同時に制御をしている。正し、一度脳が強制解除、とチップ当てに信号を送ると、そのリミッター的神経が解除され、通常以上の力を無理矢理出させる事が出来る。
警察とも、自衛隊とも異なるレッドアロウズの切り札である。そしてブーツは、リミッターを解除した上で更にチップと連動して、足の筋肉に強制的に『今以上に動け』と命令をする。そうすると、更に足は速くなるし、普段の何倍よりも高く飛べる様になる。
流石に今の日本はおろか、世界の技術では、人間が簡単に持ち運べるだけの、人間を動かせる範囲を作り出せるだけの重量調整装置的なものは作れない。あくまでチップ自体でおおよそ二倍の能力を出せる様になった夏希の足を、通常時の三倍程度まで素早く、そして高く飛べる様にする、それだけなのだ。
正し、『強制的に』限界以上に筋肉を動かす為、翌日、無茶をすれば一週間近く疲労感に襲われるし、最悪の場合身体自体が壊れる。ブーツを使用すると更に危険度は増し、制限時間は本人の能力にも応じるが、夏希の場合は最大でも一〇分と制約がある。隊の中で尤も体力のある藤堂でも、十五分が限界である。
とん、と地面を一度はねると、ゴムボールみたいに軽く自分自身の身体が跳ね上がる。これなら、いくら飛んでも跳ねても大丈夫そうだ。
「さて、と。真麻がいるとこまでは……」
飛び込んできた、自分の影になってくれている建物を見上げてみる。オフィスビルか何かかな。どの窓もすっかり明かりを落としていて、人の気配もしない。窓の数を数え、四階建てなのを確認してから、夏希はうん、と頷いた。
「いや、むしろここは飛んでくか」
その方が俄然早い。信号にも捕まらない。夏希は、馬鹿で短絡的だ。真麻にも良く「馬鹿ね」と言われるけれど、その辺りは多少自覚がある。けれど理論を無理矢理ない頭で組み立てるより、直感で動いた方が早い場合だってある。
膝に入れて地面を蹴ると、普段の二倍から三倍くらい、恐らく飛べているんだろう、ぴったりと閉まっている二階の窓の縁を掴んで、壁を地面代わりにして、また蹴り、今度は三階の窓の縁を掴む。そうして、また蹴り上げた。
ずっと昔、童話も読んでもらった事があるのだが、身軽なピーターパンってこんな感じだろうか。いいや、これは忍者かもしれないそんな事を考えながら、屋上にとん、と足を下ろして、普段通り垂直に立った時には、三〇秒が経過していた。
昇っただけ時間を食った。代わりに、屋根を蹴って走れば信号にも捕まらないし早い。正面には電信柱が数本立っていたし、うまく足がかりにすれば大通りも渡れそうだ。
「ようっし、待ってろよ真麻!」
そう言うなり、夏希は屋上を蹴った。
飛び越えたビルは最初のものも含め二本、屋根は七棟、電信柱は覚えていない。途中何度か瓦屋根の家を通ったけれど、その何度かうっかり一つ二つ落としてしまいそうになって、多少慌てた。ぎりぎりでなんとか瓦自体が保ってくれたから、助かった。できるだけ最短で、と来たつもりだった。けれど。
「な、何がどうなってんだよ」
普通の一般家庭の屋根の上から見下ろした光景は、一般的風景とは言いがたい。同時に心がざわり、と鳴いた。背中のホルダーのジッパーを開け、慌ててその中から竹刀を抜き取った。
「そいつから離れろ! Dークラウン!」
下には真麻の姿が見える。彼女は道路沿いに駐められた、暗がりで黒っぽく見える濃いめのブルーのワゴン車と、そのすぐ側に佇んでいる真っ黒のコート姿を睨み付けていた。車がこちら側に駐まっていて、中は窺えない。夏希が声を張り上げると、双方の視線がこちらへとはっと向いた。
耳に突っ込んである、ワイヤレス・イヤホンから、『ナツ君、Dークラウンと接触したんです!?』『夏希君!』口々にみんなが何かを叫んでいた。けれど喋っている間に逃げられてしまう。
昔見た格好いいヒーローみたいに家の塀まで飛び越えて、コンクリートの敷き詰められた地面に降り立った。ブーツのスイッチはまだ切っていないから着地もスムーズにいった。
そして二人へと視線を向けた、瞬間。目の前に飛び込んできた姿に、頬がかっと熱くなった。改めて近くで見た彼女は、柔らかな、夏希にはなんて言う素材か解らなかったけれど、びりびりに裂けた胸元を残りの布をたぐり寄せて何とか片手で隠していて、何があったのか、どういう状況なのか何となく想像がついたからだ。
「っくそ! 離れろ真麻!」
黒い男との距離は、ほんの一メートル弱。道の端に点々と置かれた古びた街頭の明かりで照らされた口元が、夏希の登場でも変わる事のない飄々とした体をしている。身長は夏希より十五センチ近く差があるだろうか。以前会った筋肉質の幹部と異なり、細身で長い。口元は日本人とは少し異なる作りをしていて、薄暗がりでは肌の色は白っぽい、としか解らなかった。薄い金だろうか、それとも銀だろうか。髪の色は薄く、僅かな明かりで輝いていた。初めて見る顔だ。しかし、そんな事何一つ関係なかった。今は真麻の安全を確保してから考えればいい事だ。一度竹刀を振るい、ひゅっと風を切って構え直してから、地面を蹴る。
「ちょ! 待ってナツ!」
真麻の声が真横から夏希の頬を叩いたけれど、夏希は止まらなかった。幹部クラスなら、一瞬の隙も許されないし、先制攻撃である程度力量は計らなくちゃならない。何よりも、許せなかったのだ。
少なからず夏希が敵であるDークラウンの犯行ではない、と信じていたのは、彼らに敵ながらおかしく、何か深いものを抱いていると思っていたからだ。敵に期待をするのはおかしな話かもしれないが、こんなちゃちな事をしないと、何となく思っていた。
けれどこんな風に女性を辱める行為を続けているのが本当にD―クラウンだと言うのなら、そう思っていた自分もふがいない。
「っせ!」
仮面の、大体眉間めがけて竹刀を振り下ろしたものの。男はふむ。とわずかに顎をさすりながら、身体をわずかに反らし、避ける。今度は胴! 夏希は、次に狙うべき尤も近い部位へと握りしめた自分の武器を横へと薙いだ。
と、男がすぐ側にあった車の側面へとばん、と思い切り手を付いて、身を翻す。黒のコートの裾がはためいて、狙いを定めた方とは反対側の足がひゅっと風を切り、竹刀を受け止めた、と同時に。
ぱんっ! と竹が弾けて、竹刀が中央から真っ二つに折れた。慌てて数歩距離を取りながら獲物を見下ろすと、手にはぶらん、と数本の繊維だけで繋がっている“今までは長かった”ものが握り占められていた。
こんな時、Dークラウンが相手じゃないだろと信用して、ついでに万が一の職務質問を避ける為に木刀を持ってきていなかった事を後悔する。どちらにしても恐らく折れてしまっただろうにしても、あくまで竹刀は竹刀で、それが一本筋の獲物に変われば、相手に与えるダメージは絶対的に変わる。
一見するとただの黒ズボンだが、手応え的に下に鉄板か合金を仕込んでいる。先程の衝撃でじん、と痺れている手で、なんとかきつく柄を握りしめる。そうしてぶら下がっている部分を、地面において踏みつけて、ちぎった。
短ければ、もう折れる事はねぇだろ。ぎざぎざの先端に変わった竹刀を改めて、構え直した、その時。
男の手が、待て。と言う風にゆっくり上がった。
「ここで戦闘をするのは僕は構わないが、車を傷つける可能性もあるから避けた方がいい。これは証拠品で、警察にも回される。そうなると必要以上の調書を取られて面倒なのは君達だろう。なぁ、ヒーロー」
「……へ、は?」
冷静に、笑みを含んだ声色に、思わず夏希は頓狂な声を上げてしまった。今、なんて言った? 半ば困惑していると、今度は真麻が静かに声を投げ付けてくる。
「……ナツ、一旦下がって」
「えっ、い、いや、だって!」
しかし、服を切り裂かれている真麻の眼差しは冷静で、長身の黒コートを見つめていた。男は仮面の位置がずれたのか、わずかに指で直しながら口元を綻ばせてみせた。
「初対面だと言うのに、なかなかなご挨拶だね。ああそうだ。ヒーロー、受け取りなさい」
「へ? わっ!」
男が突然、ひらりと手を翻して何かを胸元に投げつけたのに、夏希は慌ててそれを受け取った。革製の、そこそこ使い込んだんだろう、大ぶりのキー・ホルダーがぶら下がっている、鍵だった。
「この車のキーだ。恐らく駆けつけてくるんだろう仲間と警察がくるまで、被害に遭われた君の仲間と共に、守っていろ」
そうして黒コートの男がくい、と首を動かして、車へと夏希の視線を誘う。ドアが開きっぱなしの車内には何故か男が一人、おかしなパーティ用の、口の辺りだけが空いた仮面をつけたまま、手錠をかけられて縮こまっていた。その視線は怯えていて、男の動向を探っている様だ。
一体何がどうなって、こんな状況になってんだ。一人混乱していると、少しでも隠そうと、胸元を改めてたぐり寄せた真麻が肩で息を吐いた。
「ナツ。中にいるのが、一連の犯人。悔しいことにこいつに助けられたの。私のこれは、そっちの奴がやったの。この……D―クラウンの一人じゃないわ」
助けなんて必要がなかったのに。と声を低くして真麻がにらみつけたものの、男は動じる事なく、コートの両ポケットに、手を突っ込んだ。
「助けた、とはまた心外だ。行動目的が同じくして、心理が異なっただけの話だ。我々は我々に塗られた泥を拭っただけだ。何しろ今回のレイプ殺人は、Dの名を騙ったのだろう? そのくらいは知っているよ。そして、組織情報を漏らすのは癪だがね、僕らの組織には、少なからず今この国で動けるだけのメンバーだが、日本人はたった二人。僕は顔を覚えるのが得意なんだ。口元だけで自分の兄弟は解るのだがね、はっきり言って、こんな奴は知らないし、ナイフの使い方もビギナーな役立たずは組織に必要ないよ。つまり、こいつはただのちゃちな恰好をした、たった一人のイカれたお祭り野郎ってだけだね」
非常に流暢な日本語を使いながら、軽く肩をすくめた黒コートの男と、ついでに真麻に目配せをすると、相棒も小さく息を吐いた。
つまり、夏希の早とちり、という奴だったようだ。
「そ、そりゃあ悪かった……。うちの奴、助けてくれて、有り難う……」
「まぁ、ついでに目がついたからね。僕は僕のやるべき事をしたまでだよ。さて、じゃあな、ヒーローズ」
「いや待て! ちょっと待て! お前がDークラウンなのは変わらないだろ! と、とにかく正義の味方が参上だ!」
踵を返した背中に向かって、折れた竹刀を突きつけると、男の足が止まった。
「手柄はやるって言ってるだろ。そいつを警察に持って行けば片が付く。僕らは本来、こんな下らない件で顔を合わせるべきではなかった人間だ。ヒーロー、君達が動くのであれば、我々が起こした事件でバトルすべきだろ? 何しろ今回僕らは何もしていない。僕は目的を果たした、君らも同様だ。今日はこれ以上仕事をする気がないんだよ。デートが駄目になってしまって、機嫌が良くないんだ」
訳の解らない事を言う背中に、夏希はぐ、と小さく唸った。確かに今回レッドアロウズは、犯罪抑制、犯人検挙を第一としていた。D―クラウンは今回の事件には関わっていないと解ったし、真麻を助けてくれたのは、男の言い分としてはついでと言う事らしいが、本当の様だ。このまま戦ったら、借りを作って尚仇を成す事にもなる。
「……解った。とりあえずここは、こいつを助けてもらった礼として、剣は納める。正し、次は会ったら絶対やっつける」
それが、多分今は正しい。本当は犯罪者に会ったのに何も出来ないのは悔しいが。
「やっと聞き分けてくれたね。今回は、例え君達の仲間とは言え、被害に遭った女性がいる。それだけでも充分な証拠にはなるだろうが、安心してくれ、このお祭り野郎が我らDの名を再び口にしようものなら、監獄から引き摺り出し、楽しいパーティを開いてやってもいい。楽しみにしているよ、お祭り野郎」
黒コートの男がちらり、とそちらへと一瞥をくれてやると、車内にくくりつけられている男が、身体を縮めて「ひっ」と呻いた。なんだか、妙に怯えている。夏希が駆けつけるまでに、一体何があったんだろう。改めて相棒を見つめると、真麻は口を結んだまま、項垂れていた。すると。
「ああそうだ、忘れていた」
男が一つ、そう言いながら、足の向きを変えた。ポケットに突っ込んでいた左手を取り出し、真麻の方へと向かいながら、今度は懐に手を突っ込み、一枚のハンカチを取り出して差し出した。
「困ったことに、コートを貸してやろうにも、こちらには今一着しかないものでね。鑑定に出されたら少し困るものだし、すまないがこれで勘弁してくれ」
「……ハンカチなら私ももっているから結構よ。これ以上借りは作りたくないの」
真麻が男の顔を睨み付けながら、ぱん、と腕ごとそれを払ったものの、振り払われた手をひらりと翻り、夏希達と反対の方向へ歩き出した時には、いつの間にか真麻の胸元に真っ白のハンカチが挟み込まれていた。
「っちょっと! 必要ないって言って……」
「例えライバルだろうと何だろうと、男の出来る限りの行為は受け取ってくれ。この程度貸しとも思っていない、僕がやりかっただけの事だ。好きなだけ鑑定に回してくれても構わないよ。ただ、クリーニング時の柔軟剤くらいしか特定は出来ないだろうがね」
追いかける様に真麻が声を投げ付けたものの、男はそれこそ何も気にしていない、と言う風にひらひらと手を振った。
「いずれ、“僕の番”で会えるだろう。とびきりのプレゼントを準備してあるからね。それまで覚えておいてくれ、D―クラウンの名を。それと、僕はS。お前、お前達と呼ばれるのはしまりがない。まとめてD―クラウン、と高らかに宣伝してくれるのは有り難いがね」
またな、ヒーローズ。足取り軽く、闇の中へと黒いコートが角を曲がっていなくなるまで、夏希も真麻もただその背中を睨みつけているしか出来なかった。借りとも思っていないと言われた所で、真麻は借りを作った、と思っているのだろう。男に宛がわれた白いハンカチを、唇をきつく結んだままぎゅ、と握り絞めていた。
けれど、余韻に浸る暇もなかった。背後からしゃり、と金属の擦れる音が鳴ったのに、二人揃ってで振り向くと、今まで車内で怯えていた男が、両方の手首に手錠をかけられたままそろりと抜け出して、逃げようとしている姿が飛び込んできたからだ。こちらが気付いたのに、男がびくり、と身体を震わせ、走り出した。
「あっ、ちょ! くっそ、待て!」
夏希は追いかけながら、他の面々に真麻の無事と、犯人を追いかけている最中と連絡する為に、通信機のボタンを押した。
* * *
山吹慎吾、二七歳。会社員。身長一七八センチ。他にもいくつかずらずらと書き並べられていたが、それが加害者のデータである。身長はあくまで俺より三センチも高いなんて、ちょっとずるいな。と思ったから記憶していたのだが、多分昼飯を摂ったら忘れてしまうかもしれない。
「苦労しても、報告書数枚ねぇ」
真麻がぺらぺらの調書をこれまた手でひらひらとさせたのに、藤堂が缶コーヒーを片手にはは、と軽く笑った。
「まぁ、大概の事件っていうのは前半戦はその様なものです。まだ裁判も執行されてませんし、現時点では、捕まったからこそ始まったばかりですからね。どのみち、警察でもない部外者の我々には、結果程度しかこないでしょう。無事で何よりという事てじょう。真麻君にはとんだ災難でしたが」
「何よりって言ったって、こちとら事情聴取で朝までですよ。どんな風に、どこで、何が、馬鹿みたいに繰り返し。まぁ、他の女の子に被害が出なくて、私で引っかかる様な馬鹿で助かりましたけど」
辟易した顔で真麻が言うのに、藤堂は苦笑しながら、それが彼らのお仕事ですから。と穏やかに返した。
あれから追いついてきた柳に事情を話して、それよりも少し遅れて到着した警察に犯人の身柄を譲渡して、出てきた結果がこれである。
因みに不思議な程に自供は比較的すんなりと吐いているそうだ。どんな風に暴行を加えたか、切り傷はどうつけたのか、だとか。けれどそんなもの全部記載されてこちらに報告されても、実際の所夏希としては、「うわぁ」と凄惨な事件だと思い知らされるだけだったから、実際はあまり詳しい内容は欲しくない。女だから想像が容易である事があり、男にも男だから、容易に想像が出来る事が、いくつもあるのだ。
「けど、良くすんなりと認めましたよねぇ。もっと自供段階だと粘ると思ってましたけど」
「あぁ、俺もそう思ってたなぁ。……そこまでDークラウンって怖いもんかな……」
首を傾げた麗花に、夏希も頷いて返した。確かに謎めいて不気味だとはいえ、夏希にしてみたら変な奴ら、と言う印象である。
柳が電話ごしで確認を取っていた動機は、とにかく誰でも良かった、自分を知って欲しかった。今時風の曖昧なものだった。そんな事で傷つけられる人々の気持ちをまるで解ってなんていない。夏希はまた苛立ちを覚えたものの、犯人はこれから正しく法の裁きを受けるのだ。例え、失われた人々が帰ってこなくても。
そのついでに、非常に怯えた様子で、『Dークラウンが、あいつがくる、怖い、怖い』とうわごとの様にぼやいているのだそうだ。夏希は、Dークラウンの幹部を、これで二人知っただけだし、自分があの場に到着するまでの間何が起こったのかは知らない。だから自分の中では新たに現れた幹部はただのキザな、口数の多い奴、という認識だけで、この場で知っているのは、真麻だけだ。彼女に目を向けると、長い髪の女はぺらぺらの紙切れを麗花に渡しながら、「それ、聞く?」と眉を顰めた。
「その話題、思い出したくなかったからしたくなかったのに」
「だって気になるじゃんかよ。俺が行った時には犯人の奴、手錠かかってたしさ。ていうか、そんなにアレな訳か?」
後々聞くと、夏希がインフルエンザB型にかかり、参戦出来なかった四月の事件時に関与していたのがあの男だったと言う。
D―クラウンの、夏希の中では新たな幹部、S。議員交歓パーティ人質事件のMの様な剛毅さはなく、輸送船襲撃及び倉庫で出会った赤い悪魔の様な不気味さもない。どことなく細かそうには見えたが、それでも力を誇示するタイプには余り見えなかった。
「……犯人の耳元で、延々捕まえた後の拷問の仕方、囁いてたの。生々しく、どう肉を裂くか、とか、どうしたら被害にあった女性の恐怖が伝わるかな。楽しみだね。って、痛みの伝わり方とか、内臓はこのあたりだねって腹を撫でたりしながら。アンタがくるまで、眉間に拳銃押しつけてよ。……ああやだもう。思い出しただけでお昼食べられなくなるから止めて、ホント……」
口を尖らせて項垂れた真麻に、夏希はほんの少しだけ考えて、嫌になって止めた。
夏希は殺し方にどんなものがある、とか詳しく良く知らないし、知りたくはない。どういう話をしていたのかは、あくまで想像するしかない。しかし逐一説明されたら自分でも流石に、今日はビーフ・ステーキ定食を頼めなくなるかもしれない。
「あぁそういや真麻、ハンカチ、どうだった?」
お互いこれ以上嫌な気分にならないように話題を逸らそうとすると、真麻は肩をすくめてみせた。
「色も形も真っ白。で、警察本部にDークラウンの証拠品としてお預け。ブランドだったけど、百貨店で扱われている量産品だったから、おそらく追跡は難しいわ。ハンカチなんて一ヶ月で何枚売れたか解らないもの。それに、もし今月買った訳じゃないなら尚更ね。一応、防犯カメラも含めて照会するだろうけど、多分無理」
件の事件で、真麻がSから渡された、というか押しつけられた例のハンカチは丁寧に警察でD―クラウンの一人を特定する為に鑑識に回されたらしいが、あの男の言う通り、痕跡は何も出なかったようだ。
「……ホント、お節介も程があるわ。次……次会ったら、返す……次は、自分の番って言ってたから」
苦々しく真麻が呟いたのに、夏希も「うん」と頷いて返した。本当は、犯罪や迷惑行為を行う相手なら、あの場で戦って倒すべきだった。けれどあの時はあの時の事情があり、次は正々堂々と対峙する事を、胸の中で誓った。
「そういえばナツ、アンタ、身体大丈夫なの?」
「へ?」
真麻がばつの悪そうに問いかけてきたのに、何の事だろう、と思わず首を傾げてしまった。しかしそれに相棒は口の端を曲げて、小さく唸った。
「例のブーツ、使ってまできてくれたんでしょ? ……帰り、死ぬほど足、しんどそうだったもの」
「へ?」
あぁ、そういえばそんな事もあったなぁ。昨日の事なのに、事件が解決した高揚感ですっかり忘れていた。
「まだちょっとだるいけど、寝たらまぁ、元気だな?」
昨晩は確かに肉体の許容範囲以上に走ったり飛んだりしたりしたせいで、ふくらはぎや股関節がとにかくじくじく痛んでいたし、柳が車できてくれなかったら帰れなかった所だった。実際、司令官が気を遣ってか、今日は休んでも良い、と言ってくれていたのだが、夏希はどれだけ仕事が暇だろうが、朝遅刻する事なく、いつもの一〇分前にはオフィスに入った。というか、疲れているけれど、そこまでひどい訳じゃなかったからだ。
「……あぁそう。馬鹿で、元気なのはいいことね。まぁいいわ。借りは作りたくないから、今日のお昼は私の奢りで。何にする?」
「マジかよ真麻! やった! じゃあ肉!」
力強く言うと、「あんた、いつもそれねぇ」と相棒は苦笑した。それでも事件が解決した安堵もあってだろうか、落ち着いている真麻に、夏希自身も安堵していた。矢張り相棒はこうでなくては、張り合いがないのだ。
* * *
彼は、そこそこ機嫌が悪い。自慢の、そこまで大きくないオフィスにマルコムが足を踏み入れた時、そう感じた。相も変わらずパソコンの前に腰掛けている眼鏡の男の後ろを通り抜けざまに覗いてみると、片方のパソコンでは株式市場を、もう片方のパソコンでは今日も色も形も様々に並んだセクシーなランジェリーのページを眺めていた。
「まだ決まらないのか。というか、お前が今日出てくるのは珍しい。休みだろ」
「昨日も言っただろ。暇だったんだよ。本当なら今日はデートの筈だったのに。だから暇潰しに仕事でもしてやろうかと思ってね」
彼はいたく真面目にランジェリーのページへと視線を向けていたし、時々、本当にまれにもう片方の、世間体は本職の株式市場のページへと目をやって戻す。シークが機嫌が悪いのは、あくまで彼女とのデートが駄目になってしまったからなのは知っていたけれど、余程尾を引いているらしい。けれど真面目に、とはいいつつも、ランジェリーと株式どちらが本業なのか解らない程だ。マルコムは市場の動きは全てシークに任せきりだから、必ずしもはりついて見ていなければならない訳ではない事は、多少しか理解していないにしても、だ。
「そこまで厳選するんだ、いっそ、この会社を、ランジェリー販売会社にするか?」
そういうとシークは、「女性社員を雇わなくてはならなくなるだろう。面倒だろ」とため息を吐いた。
まぁ、確かにそれもそうだ。Dークラウンは男女差別をする訳ではないが、いかんせん男連中しかいないし、今から面接をして、新しく人を雇い入れるのは手間だ。機密事項も沢山ある。それに、こういった話をするなら、結局の所男しかいない方が気兼ねなく出来るのだ。
「それで、昨晩の賭けの件だ。お前は賭けに勝ったな。残念だがな」
もののついでにそういうと、彼ははっ、と小さく鼻で笑ってみせた。
「有り難いけどね、残念な事に僕は勝っても負けてもいない。言ったろう。もう一つの可能性がある、と。残念ながらもう一つの可能性の勝ちだ」
きっぱりと、昨日の汚名を返上する為の一手間をかけた功労者は言い切った。
昼間、Dークラウンと、レッドアロウズ。彼らが出てきた際にどちらが先に犯人を捕まえるか、賭けていたのだ。マルコムは勿論自分の組織、シークは残ったレッドアロウズに、だ。けれど結果として、Dークラウンは助けただけであり、レッドアロウズが犯人を検挙した。だが、双方に十分に利はあったし、それを言うなら、シークが言うとおり、どちらも勝ちではない。
「あの場でレッドアロウズを退けて犯人を引きずっていく事も可能だった。勿論、僕が助けに入らずとも、レッドアロウズはたった一人でも十分そうだったな」
「何だ、だったら放っておけばよかった。そうすればお前の勝ちだったろ」
「Dの名の泥は自らで拭うべきだった、ついでに言うなら、相手が女性ならスマートに加勢し、ハートを盗んでいくのも悪くないだろ。盗めたかどうかは期待するしかないがね」
彼が言ったのに、それもそうだ。とマルコムは頷いた。彼は嘘の報告をするようなせせこましい男ではないし、自分との間でフェアではない事は好まない。
シークが一つ考えていた可能性とは“同時に犯人検挙”もしくは、それに同等するものである。結果としてシークはそうジャッジしたんだろう。
「さて、なら賭けの権利は……あぁ、ナガレ、丁度いい所にきたな」
ノックもなしに空いたドアからは、お気に入りである赤いジャンパーと革のズボンを身につけた、一人の日本人がのそりと入ってくる。ぼさぼさの黒髪は、整えるのが面倒くさかったんだろう。ちなみに、彼は鞄を持たない。代わりに脇に、今日は男性のヘアースタイル集らしい雑誌を抱えていた。
「ナガレ、お前に権利がある。休日優先取得権が与えられる訳だが、お前は休みはいつがいい?」
ナガレ、と呼ばれた男は口を結んだままちらり、とこちらを見やり、どうでも良さそうに自分の定位置のロングソファに乗っかった。そのまま寝てしまうつもりだろう。彼は出勤しても一日中そんな感じだし、そうでなければ何かを食ったりテレビをぼうっと眺めていて、つまり休みなどどちらでもいい身分なのだ。
「さて、ナガレはどうでもいいそうだが。そうなると権利は我々二人に譲られる。チェスで決める? それとも、アームレスリングかい? 俺としては後者がいいけどな」
「後者は君に有利、前者は僕に有利。競うまでもなく結果は見えている。ならこうしよう。今後取りたい時に一日、余分に休暇を取ればいい。それでどうだ」
それに、マルコムは「いや、いい考えだ。どちらも損はしていない」と豪快に笑った。どの道形ばかりの証券会社で、実際株運用はシークしかしていないのだから、誰がいて、誰がいなくとも変わらない。まぁ、おおむね通常通りという訳だ。
「で、だ。マルコム。僕は今日休日を押して出てきているのだから、振り替え休日を希望する。明日か明後日。問題ないだろう?」
「まぁ、やることもそうそう出てくる訳じゃない。許可する。じゃあ、俺はその次の日を休みにしよう。あぁ、そうだ休みの前にお前はランジェリーを選ばなくちゃならないだろう。どうするつもりだ?」
それにシークはあごに手を当てて、小さく考え込んでから、肩をすくめたた。
「さて、どうしようかな。ただ、白地に青のドットはなしだ。後は、今日出勤中になんとかするさ」
夕べの事件より、仕事よりも重大で頭の痛い問題だ。とでも言いたそうだ。どうやら話しも終わった、と彼の中では結論づけられたのだろう。下着メーカーのページの、レースの模様一つ一つすらも吟味するかのように、真剣なまなざしで見つめていた。
マルコムはまぁ、仕方がない。と肩をすくめてから、自慢の景色が良く見える窓際のデスクに鞄を放った。




