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覆面の距離

 圭太がこの街に来てから数日が経とうとしていた。仕事では、言われたことを夢中でこなしているとすぐに一日が終わってしまう。アパートでも、流されるままに生活していると、片端から一日が終わっていった。タイプライターを扱うのにもだんだんと慣れて、ここ二日は仕事を家に持ち帰ることもなくなった。昼に眠るのも、賑やかな夜道を歩くのにも、もはや抵抗はない。この頃は眠りも深くて、目覚ましの音を聞くのに苦労する。だというのに、今晩は日が沈んだばかりにドアベルの音がした。基本的に仕事は夜早いが、この街では夜遊び感覚で昼間にふらふらと出歩くような人間はいなかったから、普段なら安心して寝こけている時間である。ベッドの中でけたたましいベルの音を聞いて、圭太は毛布をはいでむっくりと起きあがる。

「……誰だよ……」

寝ぐせの付いた頭を掻き、しょぼしょぼする目をこすって玄関に向かう。もう一度ドアベルが鳴って、今度は待ちきれなくなったようにノックの音がした。

「おーい、起きろ!いいネタが入った。取材に行くぞ」

ジーンの声がする。圭太は慌ててドアを開けた。

「今からですか?」

ジーンは急いた様子で何度も頷き、押し殺した声で言った。

「滅多に書いてくれない有名な脚本家がいてな。二年ぶりに書いてくれたんだと。それで街一番の劇団がサプライズで公演をするらしい。団長に宣伝を頼まれたんだ。行くぞ」

青めいた闇の中で早口に紡がれた言葉を聞いて、圭太は慌てて部屋に引き返した。急いで顔を洗い、この間ピエロに立て替えてもらって買った服に着替えて身支度を整える。帽子を掴み、出かける時にいつも持っている鞄にメモ帳を突っ込んで玄関を飛び出した。

 外階段を下りて門の方へ走る。ジーンは門の脇に停めた自転車に乗って、その荷台を叩いた。

「急ぐぞ、乗れ」

圭太が荷台に乗ると、ジーンが自転車をこぎ始めた。錆びたペダルがキリキリと音を立てる。大きな通りを出て小路へ入り、また大通りを上り、坂を下ってカーブしていく。速度を増していく自転車の後ろで、圭太は帽子が飛ばないように手で押さえながらジーンに聞いた。

「何で連絡入ったのが今朝だったんですか?もっと前から取材していれば、特集が組めたかもしれないのに」

風に負けない声で圭太が言うと、ジーンも負けじと声を上げる。

「知らねえよ。ネタがあったら駆けつけるだけだ!」

圭太は文句を言うのを諦めて、曲がった先に見える劇場に目をやった。ピンクがかったベージュの門の奥で、クラシカルな装飾の付いた建物がそびえている。高さはないが、横に潰したように平べったく、縦長の窓がピアノの鍵盤のようにずらりと並んでいた。坂の上から見ると中央に向かって少し天井が膨れている。入り口が切り込んだように中へと向かっており、小さな頃に一度だけ食べたフォンダンショコラを思い出した。粉砂糖がかかっていて、開場になればあの入口にたくさんの人が入っていくのだろう。

カーブの坂を下りきると、ジーンは迷わず広い門に突っ込んでいく。壁をぐるりと回り込んで、裏手側の小さな入口の脇に自転車を止めた。そっと扉を開けて中に入っていくと、暗い通路の向こうに暗幕がちらちらと遮る舞台の明かりが見えた。

「まだつまらぬ意地を張っておいでか!――あぁ、姫よ。なんてつれなく、淋しく、嘆かわしいことだろう……」

「いいえ、いいえ。意地などではございません。あなた様と添い遂げることはありませんわ。わたくしの身も、この心も、すべてはあの人のもの。……どうか、帰ってちょうだい」

明かりの向こうから稽古の声が聞こえている。圭太とジーンは顔を見合わせて、舞台袖に向かっていった。

暗幕にまみれた暗がりで舞台を見ている数人がこちらに気付いた。ジーンはちょっと手を上げて、一番奥にいた人物の肩を叩く。振り返った中年の男は、つるりとした頭を振り返らせてジーンを認めると、「おぉ」と手を上げて応じた。

「はい、はいよ。そこでいい、中断しておくれ」

男が手を叩き、舞台上の役者もこちらを向いた。男は舞台上に出て行き、ジーンもそれに続いていく。圭太は少し遅れて、ジーンの脇に隠れるようにしてついていった。熱いライトの下に出ていくと、男はきびきびとこちらに向き直り、演技がかった仕草で深々と礼をした。

「白旗新聞社の記者様、ようこそマリオネット劇団へおいでくださいました。わたくしは団長のマシューでございます」

ジーンは煙たそうな顔で手を振った。

「よせよ。今さらそんな大仰にする仲じゃねえよ」

ジーンが言うと、劇団員と思しき人たちが軽く笑いさざめいた。マシューはちょっと舌を出して肩を竦める。

「ジーン様様だからね。ここいらでちょっとうちの団の評判を上げてもらえれば嬉しいんだけどねぇ」

茶目っ気づくマシューに、ジーンは首を振りながら笑った。

「取材に対するギャラが差し引きゼロになってもいいなら、筆の限りを尽くして褒め称えてやってもいいぞ」

「またまた。僕とジーンの仲でしょう」

どうやら付き合いの長い知り合いのようだった。圭太はもじもじしながらジーンの脇に控え、ちらりと客席の方に目をやった。暗い客席に舞台の光が吸い込まれて、背もたれの赤い色がうっすらと浮き立っていた。ぼんやりとその流れを眺めていたら、ふいに見覚えのあるウサギの被り物が見えた。ぎょっとして目を見開くと、ウサギの被り物がちらちらと揺れて耳が揺れた。その隣にいた初老の女性が、眼鏡を直して腕を組む。なぜこんなところにウサギがいるのだろうか。団長と話をし始めたジーンの袖を引いて指をさすと、その先に目をやってジーンも驚いた顔をした。行け、という仕草をされて、圭太はこっそり舞台の隅から客席に降りると、ウサギが座っている客席の中央後ろ辺りに走って行った。通路を抜けてウサギのところへ行くと、ウサギは圭太に手を振った。

「やっぱりケイタも来たんだ。ジーンのお供で来ると思ったんだよね」

言いながら席の隣を叩く。

「どうせ取材はジーン一人でもできるでしょ。お喋りして待っていようよ」

圭太はぎくしゃくと頷きながらウサギの隣に座った。お喋りと言ったわりには、ウサギはそれ以上口も開かず、ジーンと団長のやりとりを楽しそうに見ている。圭太は座り直すふりをして、さらにその隣の女性を盗み見た。女性もまた腕を組んで楽しそうにしているだけで、特に口を開く様子はなさそうだった。喋ってはいけない雰囲気でもなし、さりとて誰が口を開くわけでもなし、豊かな沈黙を守るのは圭太には難しいことだった。

「……あの、」

圭太がウサギに言うと、ウサギはちょっとこちらを向いた。

「何でここに?この公演、サプライズって聞いたんですけど……」

それを聞いて奥の女性がひょこっと顔をのぞかせた。

「それはウサギちゃんと私が仲良しだからだよ」

へ、と圭太は面食らう。ウサギはひらひらした袖を揺らして女性を示した。

「この舞台の脚本家。ユウちゃん」

圭太は頷きながらも、女性とウサギとを見比べた。圭太はまだ正確に人の年が見分けられなかったが、この女性はどう見てもおばさん、もしくはおばあさんだし、ウサギさんは服装からしても声からしてもお姉さんという感じがした。友達に年は関係ないのだろうか。

圭太は再び訪れた沈黙をしばらく噛んでいたが、やはり落ち着かなくなってもう一度ウサギの方を見た。

「前から気になってたんですけど、なんでウサギかぶってるんですか?」

ぎこちなく聞くと、被り物の耳がぺこんと折れた。ウサギはそのまま首を傾げる。

「本当はネコかウサギかで迷ったんだけど、ネコをかぶる、ってなんか印象良くないじゃない。と、思ったんだけど……似合わない?」

「い、いえ!似合ってます。――ええと、そうじゃなくて」

圭太が慌てると、ウサギは先を促すように覗き込む風を見せた。圭太は詰まりながら言葉を探す。

「これはピエロにも聞いたんですけど、どうして顔を隠すのかな、って……」

言葉が尻すぼみになっていく。ウサギはきょとんとした風で言葉をとぎらせた。圭太は急に居心地が悪くなってきた。慌てたせいで、聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がした。すみません、と小声で謝ると、ウサギは慌てたように手を振った。

「違うよ、謝るようなことじゃないよ。ただ、今までそんなこと聞いてきた人いなかったからびっくりしただけだよ」

客席は赤の陰に浸っている。舞台の光から逃げてきた場所に蹲って、ウサギは続けた。圭太には、ここでは大きな声を出してはいけないような気がする。ウサギも同じ気分なのだろうか、壁を伝うような声だった。

「ここだけの話よ。……私ね、自分の顔が嫌いなの。鏡を見ると嫌な気分になる。自分が見たくないものを他の人に見せるわけにいかないでしょ。それで、隠すために。――ケイタには、顔を隠してるのがそんなに変な気がする?」

分かりません、と小声でつぶやく。それぞれいろいろな思いがあって何かが成り立っている。それを分かったようなつもりで簡単に質問をしてしまった自分が恥ずかしかった。

「せっかく知り合えたから、顔が見てみたかったんだと思います」

ピエロもウサギさんも、と小さくこぼす。

「ああ、そういうこと」

ウサギは「なんでしょげてるの」と笑いながら圭太の頭を軽く叩いた。舞台に目を向けたまま、布にこもったウサギの声がする。

「聞きたいことは好きなだけ聞いたらいいよ。ダメならちゃんと断るんだから」

ハイ、と頷く。頭を叩くウサギの手は優しい。なぜかは分からないが無性に泣きたくなって、圭太は俯き加減に口を結んだ。舞台の上では、談笑しながらジーンが取材をしている。寂しいようなあったかいような、不思議な心地がした。


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