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初仕事

 そうしてジーンが作業をしている間は、言われるままに物を取ったり、ごちゃごちゃにしてしまった資料のページ番号をそろえたりと雑事をこなし、だんだんと夜は更けていく。蛍光灯がだんだんと明るくなる。初めて会う新聞社の先輩たちにあいさつをしながら必死に頼まれたことをこなしていると、ジーンの同僚たちがこっそりねぎらってお菓子をくれた。昼前にお茶を淹れてジーンに差し出すと、ジーンはお茶をすすりながらちょっと笑った。

「オレが言うのもなんだけど、お前よく働くなぁ」

圭太は疲れた顔をジーンに向ける。ジーンは椅子の背もたれを抱えるようにして反対側に座り直した。

「先輩が頼んできたことを全部やるとこんな風になるんですよ……」

圭太がため息を吐く。ジーンは圭太が落とした肩を叩いた。

「偉い、偉い。ケイタが頑張った分、社長には給料弾んでもらおうな」

こくっと頷く圭太の後ろ頭に、さらに声がかかる。

「あ、そうだ。お前の給料はオレの給料から分配することになるから、オレの給料減ったらお前の給料も減るからな」

圭太はきょとんとジーンの顔を見る。ジーンはへらっと椅子の背もたれに肘をつく。

「一緒ですか?」

圭太が訊く。ジーンも首を傾げた。

「そう。オレの使い走りだから」

しばしの沈黙。圭太は思いっきり疑いの目でジーンの顔を見る。

「ずいぶん安月給になっちゃいそうですね、俺」

言うと、ジーンはガクッと肘を滑らせた。偏見がひどいとジーンは言うが、なかなか信用できそうにない。なぜ、と聞かれたら雰囲気、としか言いようがないのだが、それが偏見だというなら圭太はまさしく偏見を持ってジーンを評価していた。先入観は怖いものである。自分も気を付けようと圭太は思った。

 時間がちょうど頃合いだったこともあって、ジーンに近くの食堂で簡単な昼飯をおごってもらい、午後からタイプライターを打ち始めた。目の前に広がるタイプライターに緊張しながら何回か試し打ちをしてみる。ちょっと雑貨屋さんにありそうな感じのおしゃれで愛想のある形のアルファベットが重たいキーとともに貼り付けられていき、一番右端まで行くとチーンと鐘の音がする。そうしたらアームを一番左にまで戻し、もう一度打っていく。キーが重いから手の甲が疲れるが、確かな手ごたえでキーが押し付けられてインクが紙に現れると、なんとなく感動するものがあった。だが、問題は別にあった。とんでもないことに、ジーンの手渡してきた手書き原稿は英文だった。原稿を受け取るなりピクリとも動かなくなった圭太を、ジーンは必死に励ます。

「大丈夫だって。書いてあるアルファベット打つだけだし、意味はおいおい分かってくる。オレだってそんなに見づらい原稿は書いてねえしさ」

確かにジーンの言うことは事実だった。英単語は分からないが、資料は散々見たし、写真を見ればどんな事柄なのかはわかる。しかも、意外なことにジーンの原稿はすっきり整理されているし、字も綺麗だ。アルファベットだけを打つ作業に支障はなさそうであった。今日の記事がそれだけなのか、普段からそうなのかは知らないが、ジーンの書いている記事は娯楽記事だった。今日は何の見世物があるとか、どこの店で新しいメニューが出るとか、ほとんど雑誌のような内容が主であった。写真を刷ってある紙を七十枚手渡され、原稿と睨めっこしながら一文字一文字打っていく。ようやく一枚打ち終わり、二枚目を終わらせたとき、ジーンが圭太に声をかけた。

「そろそろ帰ろうぜ。もう一台うちにあるから、残りはお前の家でもやってくれよ。機材は家に持っていってやるよ。どこに住んでるんだ?」

聞かれて、圭太は手に取った三枚目の紙を落とした。

「忘れてた……」

圭太は必死に考える。仕事を探してから来いと言った大家の冷たい目を思い出す。仕事を見つけたのだから、行けば今日部屋を借りられるだろうか。いやしかし、部屋を借りられたところで家具なんて持ってない。それをそろえるまでの間どうするのか。そもそも、あの大家が本当に部屋を貸してくれるのだろうか。考えるあまり固まった圭太を、ジーンは覗き込む。圭太は視界に入ったジーンに詰め寄った。

「俺、まだ部屋借りてないんです。仕事見つけてから来いって追い返されて。でも、俺だけじゃ部屋貸してもらえない気がするんです。一緒に来てくれませんか?先輩のところで雇ったって言ってくれたらいいんです。たぶん、そうじゃないと疑われちゃう」

圭太が言い募ると、ジーンは勢いに気圧されたように顔を引き、頷いてくれた。『研修中』の札をジーンの机の上に返す。鞄を掴んでエレベーターに乗り込むジーンの後ろについていく。ビルを出て、そこで圭太ははたと足を止めた。

「おい、どうした?案内してくれよ」

不思議そうに振り返るジーンの顔が、色とりどりのライトに彩られている。圭太はぱちぱちと瞬きしながらつぶやいた。

「どうしよう、道が……」

ジーンがちょっと呆れた顔をする。それから圭太の元に戻ってきて笑った。

「どういう建物?周りにどういう店があった?」

圭太は今までの忙しさからすでにおぼろげになっている記憶を必死に掘り起こした。

「ええと、紫色の透かし彫りブロックが入った白い塀があって……黒い鉄の門があって、中に大きい建物と小さい建物があって、小さい方の建物はクリーム色で、大きい方は白い壁にいっぱい絵の具をこぼしたみたいな模様があって……。あっ、大きい方はいっぱい扉がありました」

必死に説明を続けていくと、ジーンの表情がだんだんと変わっていた。

「さっき追い返されたって言ってたな。大家に会ったってことか?どんな人だった?」

圭太は瞬く。

「え……ああ、後ろで髪をまとめた、先輩と同じ年頃のおばさんです。目つきが鋭くて、ちょっと怖い感じの」

言った瞬間、ジーンは重いため息を吐き出した。

「まさかの……あのな、お前、あの人のことおばさんとか言ったら殺されるぞ?」

「知ってる人ですか?」

知ってるどころか、とジーンはちょっと笑う。

「ま、いいや。おいおい分かる。疲れちまって、説明するの面倒くせえわ。ま、帰ろうぜ」

圭太の背を押して歩き始める。戸惑う圭太に、ジーンは笑った。

「部屋が借りられなかったら、オレの部屋で仕事してくれよ。居候させてやるからさ」

と言って、大通りに歩みを進める。細い路地を曲がった途端、大通りの喧騒が大きくなって耳の中で反響した。どこかのサーカス団が大通りの上でも見世物を出していて、見覚えのあるピエロの面が玉乗りをしながらへらへらと首を傾げている。ものすごいバランス感覚だ。大通りを進んでいく圭太にピエロが気づき、小さく手を振る。圭太も小さく振り返してみたが、見世物の人だかりにいる男の子が歓声を上げて喜んでいたから、もしかしたらそっちに向けて手を振ったのかもしれない。往来の人ごみにまぎれてジーンを見失ってしまわないように足早に人の隙間をすり抜ける。必死にジーンの背中を追って大通りから細い路地へと左に曲がる。ちょっと歩くと右にさらに細い路地があって、白いハトが地面をつついていくさまが人の影に流されていく。上を見上げるとくっきりとした建物の影に遮られて、細い月が昇っているのが見えた。上を見上げて足を弛めかけた圭太の前で、ジーンは人を避けて右に曲がる。慌てて圭太はそれを追った。すぐに白い壁が目の端に映って、圭太は内心首を傾げる。人ごみに流されそうになった圭太をジーンが掴んで引っ張り出してくれた。やっと自由になった体で目の前のものを見上げる。圭太はぽかんと口を開けた。

「なんでここだってわかったんですか?」

圭太が訊く。対するジーンはその問いには答えず、頭を掻きながらちょっと面倒臭げな顔つきをした。

「さて、大家さんに口添えしてほしいんだっけか。……行くぞ」

黒い門を入って、迷うことなく右側の建物に向かう。クリーム色の壁が、深い夜の色にふちどられてくっきりと色を分けていた。ランダムに切られた窓のうち、一番小さな窓に明かりがついている。ジーンは紫色の玄関に向かった。インターホンを押してしばし、またも勢いよく扉が開く。ジーンはピエロと同じように身を反らして避け、圭太は肩を突き飛ばされたのを、たたらを踏んでかろうじて耐えた。じんじん痛む肩を押さえて圭太は大家を見上げた。

「この人のところで雇ってもらいました。部屋貸してください」

何を言われる前に早口に言うと、大家はきょとんとして、それからジーンと圭太を見比べた。

「この人、ってコイツかい?白旗新聞社?」

ジーンを指さす。ジーンは失笑し、圭太は頷く。やはり知り合いだったらしい。大家は呆れ顔で長い前髪を掻いた。

「どうして家のモンはみんな犬を拾ってきたがるんだろうねぇ。さっきピエロが連れてきて、今度はアンタかよ」

これにもジーンは失笑するばかりで口を挟まない。大家はいきなり圭太の肩をつまむと玄関口に引き入れた。

「痛いっ!」

まさしく子犬のような悲鳴を上げたのは、大家が掴んだ肩がさきほどから痛んでいるせい、そして大家の指がしっかり食い込んだからである。大家は圭太の靴のかかとを上がり框の角にひっかけて乱暴に靴を脱がせ、引きずるついでにスリッパをはかせて奥へ引っ張り込む。ジーンはかすかに笑顔を張り付けたまま黙ってついてきた。奥の部屋は机が一つに椅子が四つ、本棚が一つ、ソファに前に小さな机があり、奥に暖炉が据えてある。カーペットは落ち着いた赤地に様々な色の花の刺繍が施してあって、おしゃれな色合いを醸している。いわゆるリビングの造作になっていて、ここでも圭太は少しホッとする。大家の家は、圭太の知っている中ではこの街で一番『普通の家』だった。ぎらぎら光る街の色も、一昼夜彷徨って慣れてきた。それでもやっぱり、こういう明かりが恋しくないわけではない。大家は戸棚の奥につるしてあった紙の束の中から一枚を引っ張り出し、圭太をソファに座らせてその前の机に紙を突きつけた。

「そこに名前書いて。家賃は月にこれだけ。食事は当番制、家具付き、洗濯機は共用、風呂と食堂が地下。私の家には用がない時以外来ないこと、来るときはインターホンを押すこと。家賃滞納したら次の月には追い出すから」

箇条書きにしてある契約書をざっと読んで、一番下にあるサイン欄に自分の名前を書いて、保証人のところにジーンの名前を書いてもらう。

「なんで同じアパート借りてる奴が保証人なんだよ、保障にならないじゃないか」

ぶつくさ言いながら圭太の契約書をひったくる。

「ハンコとかいいんですか?」

「やりたきゃ血判でも押しな」

放り投げるように大家が言う。契約書の束の中に圭太が書いた契約書を挟んで名簿のようなものに何か書付をする。

「ケッパン?」

「親指に傷をつけて、血でハンコ押すやつ」

小声でジーンが教えてくれたので、慌てて圭太は首を振る。大家はそんな圭太を鼻で笑って、戸棚の奥から鍵束を引っ張り出してきた。出て行きがけに、ぼんやりその動きを目で追っていた圭太の襟首をつかむ。もう一度ずるずると引きずられて、圭太は玄関口でまた靴を履かされた。

「ちょっ、自分で歩けます、から……うわぁっ」

段差につまづいて転びそうになる。大家は足を止めなかった。大きい方の建物をぐるりと回り込み、そこでやっと圭太の首を放した。建物の横側にいるらしい。ちょっと視線をずらすと、建物の向こう側に大家の家が見えた。目の前には地下に続く階段がある。レンガ造りのそれはなんとなく秘密組織の基地への階段みたいで、圭太は内心わくわくした。大家はその階段を下りながら、ついてきていたジーンを振り返った。

「今日の当番は誰だっけ」

ジーンはちょっと考え、声を上げる。

「……あ、オレだ」

「はぁ?」

大家が思い切りジーンを睨みつけた。ジーンは愛想笑いをしながら身を引く。ドアがあって大家はそこに手をかけていたが、すぐには回さなかった。

「だ、大丈夫だよ」

ジーンは大きな声で言った。

「ウサギちゃん、今日は仕事ないって言ってたから。今日はオレの仕事の方も詰めてあったから、ウサギちゃんには頼んである」

ふん、と大家は鼻を鳴らす。気に食わなそうにジーンを睨みつけてから、顎でドアを示した。大家がドアノブを回すと、ランプの温かそうな光が漏れてきた。圭太は恐る恐る中に踏み込む。

 どうやらそこは食堂のようで、真ん中には長いテーブルが一つ据えられていた。向かって右手側にピンクの椅子が三つ、左手側に青い椅子が三つあって、人が何人か座っていた。その中にはピエロの姿も見える。ピエロは圭太に気付くと、軽く首を傾けて手を振った。圭太も小さく手を振り返す。左手側奥にキッチンが見えた。壁が半分ほどの高さで止まっており、その向こうに布巾がたくさん吊り下げられ、食器棚や調理器具が見える。その中で、着ぐるみの頭のようなウサギの被り物をかぶった人影が立ち働いていた。


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