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夜の街

 日もまだ高いうちに、キリと圭太は連れだって家を出た。家を出た瞬間にぐらりと眩暈がした。玄関でしゃがみ込んだ圭太の背中をキリがさする。

「大丈夫?ごめんね、苦しい?」

細い声で訊くキリの手に縋って何とか立ち上がる。視界が反転してよろけたのをキリに受け止められてなんとか立てたが、歩けるほど目の前が真っ直ぐに見えない。眩暈に根負けしてもう一度しゃがみ込みそうになるのを、キリに引きずられるように腕を掴まれて無理にも立ち上がる。そうして次の瞬間には、圭太はキリの背中に引きずり上げられていた。困惑した声を上げると、キリのはっきりした声が聞こえた。

「すぐ着くから、がんばってね」

言うなり、圭太を背負ったままキリが歩き出した。針葉樹の森はキリに背負われていると不思議と体に当たらない。

「待って、大丈夫、歩ける……」

圭太が背中であたふたしだすと、キリが泣きそうな声で言った。

「やだ、圭太がいなくなったらやだ。私のせいで死んじゃったらやだぁ」

言う間にもどんどん涙声になり、しまいには本当に泣き出してしまう。圭太はさらに慌てて大人しくその背にしがみついた。

「待って、待って。大丈夫だって。生きてるって。死んでないから」

圭太が言うと、キリは一度立ち止まって涙をぬぐい、それから圭太をちょっと揺すって背負い直す。もう一歩踏み出した時には、もう鼻をすする音しかしなかった。黙々と歩きながら、キリはそれ以上泣き言を言わなかった。重いだろうに、そんな顔を一切見せない。キリは圭太よりもほんの少しだけ背が高かったが、か細いあの手足で重くないはずがなかった。現に、何度もずり落ちそうになる圭太を揺すり上げている。それでも、圭太が自分で歩くと言うと頑として首を縦に振らなかった。だんだんと森はなじみのある優しい木立に変わっていく。森を抜けて、今は静かな昼下がりの街へ。街へ出てやっと眩暈が治まった圭太は、キリの背中から降ろされて、もう一度この街に驚いた。

 昼間に見る街にはどこにも人気がなく、綺麗に塗られた壁は陽の光に当てられて優しい色合いに変わって見える。白いレンガ敷きの道も眩しく、人が多い時には見えなかったが往来の隅、色とりどりの建物の壁に寄り添うようにしていくつも鉢植えに小さな花をつけていた。真っ青な空に霞んだような雲、それにパステルカラーの背の高い建物が描く稜線がくっきりと色を分けている。どこもカーテンが閉められ、看板の色と合わせてあるかのようにその色は街に馴染んで溶ける。道端に陶器のヒツジの置物があった。見通すと、いくつかの小路の向こうにも同じような建物が並んでいる。ずっと向こうにも背の高い時計台が見えた。庇を透かして、いくつもの模様の影が建物に映る。ひっそりと静まり返った空をハトが飛んでいった。飛んでいく先に、サーカスだろうか、赤と白が交互に光る小さな気球が一つ飛んでいた。

 圭太が声を失くして街を見ていると、キリは嬉しそうに笑ってそっと手を引く。引かれるままに、圭太は建物の群れを見上げながら歩き出した。どの建物も背が高い。縦長のっぽのカラフルな建物がいくつもの道と日陰を作っている。風が吹くと、街中に漂った香ばしいような甘いようなにおいがすっきりして感じられた。街に入って眩暈が治まったこともあり、圭太は駆け出すキリの後ろを追って足を速めた。軽い足取りで坂を駆け下り、橋の下の階段を駆け上がる。キリは静かにはしゃぎながら街中を走った。

「すごい、人が一人もいない」

圭太が軽い声で笑うと、キリは跳ねるような足取りで振り返る。

「夜の街なんだよ。昼間はどこも閉まってるの」

キリが言う通り、昨日はあれほど賑わいのあった街には人が一人もいない。昼と夜が逆転しているのなら、昼下がりの今は普通の流れで言う丑三つ時なのかもしれない。夜が当たり前だから、キリもあんな寂しい時間にブランコに乗るのだろうか。

 二人してはしゃぎながら曲がり角を曲がったとき、先を走っていたキリが何かにぶつかった。尻餅を着きかけたキリの腕を、その何かが掴んだ。

「おっと、ごめんよ。大丈夫?」

目の前にいたのはごく普通の青年だった。十六、七歳に見える。青年は転ばずに済んだキリの顔を覗き込むと息を吸いこんだ。

「君、魔女の……」

ぴくん、とキリの肩が固まる。それを見て、青年ははっと我に返ってキリの前にしゃがみ込んだ。

「ごめんよ、どこも怪我してないかい」

柔和な笑顔をキリは見返す。緊張しきって探るような顔に、青年は困ったような笑顔を見せた。

「余計なこと言っちゃったかな。ほら、お菓子をあげようか。お詫びに。君も」

ポケットから綺麗に個装されたお菓子を取り出し、それを圭太にも差し出してくれる。口の中でお礼を言いながらも、圭太はなんだかキリの顔を窺わずにはいられなかった。大人しくキリがお菓子を受け取るのを見て、圭太も手を差し出す。青年は、キリの頭を撫で、圭太の頭を撫でたあとに、立ち上がった。

「ところで、そっちの子」

「……俺?」

圭太が青年を見上げると、青年は緑色の目を和ませる。

「うん。名前は?」

「け、圭太……」

圭太が答えると、青年はケイタ、と呟いて圭太の顔を覗き込むようにする。

「帰った方がいいよ。こんな時間に起きてちゃダメでしょ。おうちはどこ?送って行ってあげる」

圭太は狼狽えてキリを見た。キリもちょっと困ったようにして圭太を見返す。それを受けて、圭太は青年を見上げた。青年はちょっと瞬く。

「家がないの?」

ない、のか、はじめに森で目覚めたときにどこから来たのか分からなかったように、あっても圭太が知らないだけなのか、いまいち分からなかったがとにかく頷く。青年はさらに驚いたように動きを止めた。しばらくそうして固まっていたが、ふいに口元に手を当てた。

「そっか……うん」

ひとりごちて、それから圭太を見る。

「なら、アパートを紹介しよう」

ふわと笑う。圭太が首を傾げると、青年は自分が曲がってきた角の先を指さした。

「ここをまっすぐ行って、二つ目の角を右に曲がるとすぐに白い塀に囲まれた大きな建物がある。紫の透かし彫りブロックが入ってる塀だよ。そこの門は勝手に入ってもいいから、門を入って右手側の、小さい方の家に行ってごらん。アパートを経営してるオーナーがいるから。ちょっときつい人だけど、君みたいな子がまともに部屋を借りられるのはそこくらいしかないと思う」

青年が示した道順を、圭太は必死に覚える。

「えっと、ここを曲がって二つ目の角を右で、白い大きな建物があって右で…」

混乱し始めた圭太を笑って、青年は人差し指を立てた。

「ここを曲がって二つ目の角を右に曲がるとすぐ大きな白い塀が見える。その中の二つの建物のうちの小さい方、ね」

圭太は同じ言葉を口の中で繰り返して、それからちょっと頷いた。

「ありがとうございます。二つ目を右、白い塀の中の小さい方の家、ですね」

そう、と青年は笑って、キリに目を向ける。

「君も、昼間はこっちにいない方がいいんじゃないのかな」

言われてキリは、怪訝そうな顔をすると同時に何か気にかかることでもあるような顔をした。その表情を見守って、青年は心配そうにする。窺うような顔は優しい。圭太は瞬きを繰り返しながら青年とキリを交互に見た。

「帰れないのかい?」

小さく青年が言うと、少女はさっと青ざめた顔をする。俯いた横顔から

「分からないの」

と小さく声が漏れた。青年はうんと頷いたまま、なおも憂いを込めた眼差しを少女に向ける。キリはそれで吹っ切るように、顔を上げて圭太に笑った。

「おうち、紹介してもらえるならもう大丈夫だね。私はあんまりこの街にいちゃダメだからもう帰るけど、圭太も頑張ってね。みんなとっても優しいから、圭太もきっと楽しいよ」

ぎくしゃくと圭太が頷くのを待って、キリは踵を返して走っていく。途中、何度も振り返って圭太に手を振りながら、キリは曲がり角を曲がるまでずっと笑顔だった。対する圭太は、一人残されてしまった心細さに呆然として、阿呆みたいに口をぽっかり開けたまま肩のところで曲げた手をゆるゆると振った。街で家が見つかるまでは一緒にいてくれるような気がしていたから、なんとなく裏切られた気分だ。隣で手を振る青年を見上げる。

「あの、名前はなんていうんですか?」

静かな路地角で圭太が聞くと、青年はにこりと笑む。

「アルベルト・ルナルティ・サロ・マリクルオート二世」

「えっ?」

圭太が思わず戸惑うと、青年は肩を竦める。

「ちなみに今のは嘘」

「ええっ?」

さらに困って圭太が声を上げる。青年はさもおかしげにくすくすと肩を揺らした。圭太は戸惑ってその腕を軽くつかむ。

「本当はなんていうんですか?」

「秘密」

と笑ってやんわりと圭太の手を離すと、圭太の肩を叩いた。

「もう一回会えたら教えてあげるよ」

なんちゃって、と人好きのする笑顔を浮かべて圭太のもとを離れる。圭太は慌ててその背中に声をかけた。

「お礼、したいんですけど」

青年が意外そうな顔で肩越しに振り返る。圭太はなんとなく気まずくなってしまって、尻すぼみに付け加えた。

「アパート紹介してくれた、お礼……」

青年はふわりと笑って、それから前を向き直すと肩越しに手をひらひらと振ってみせた。

「もう一度出会う偶然があったら、その偶然に感謝してお礼ちょうだい」

言いながら先の角を曲がる。圭太は一人、ぽつんと鮮やかな昼の街に残された。呆然と立ち尽くす圭太の背中を、吹いてきた温かい風がさする。

 なんとなく心細さは強まっていたが、他にすべきこともしたいこともなかったので圭太は青年に言われたままに角を左に曲がった。先ほどより太い道を進んで、二つ目の角を右に曲がると、言われたとおりの景色が見えた。白い塀はところどころ紫の透かし彫りブロックが埋め込んであって、そこから緑の植え込みがはみ出していた。正面の門は黒く塗ってある金属の重たそうな造作で、覗き込むと右手側に普通の一戸建て、左手側に大きな建物があって、ドアが八つついていた。右手側の建物はそうたいした装飾もなく、薄いクリーム色に塗られた壁に親近感がわく。この街の中では珍しい『普通の家』だったが、大きさは圭太の知っている家の中でも大きい方だと思う。縦長のっぽの建物が多いこの街では、なおさら堂々と胸を張って建っているようだ。右手側の建物は真っ白な壁に様々な色で画家が絵を描いたような壁だった。一色ではないが、特に何かモチーフがあるようにも見えない、それでも落書きのようには見えなかった。螺旋に巻いた外階段がついていて、二階の住人はそこを通っていくらしい。それぞれ扉の上に普通の家の屋根を小さくしたみたいな庇がついていて、上の四つが水色、下の四つはピンクで塗られている。色の対比でどこかそこだけおもちゃじみて見えた。

「どうしよう……」

圭太は小さくため息を漏らす。この街は夜の街だ。当然ながら昼下がりの今の時間に起きている者はいない。いや、いるのかもしれないが、あの街の様子を見るにそうそう起きているものが多いとは言えそうになかったし、ましてや出歩いている者がいなければ家にいる者は寝ている可能性が高そうだった。困った挙句、圭太は夜が来るまで門前で待つことにした。せっかく教えてもらってたどり着けたここをみすみす見失いたくはないし、今の時間なら、もう二、三時間も待てば早起きな人が出てきてもおかしくはなさそうだった。うん、と決意を込めて頷き、圭太は門の隅の街灯の下を選んでそこに腰を下ろす。座った瞬間から、もう待つのが苦痛になるのは子供の性であろうか。それを堪えてじっと待っているうちに、塀に寄りかかった方が体が楽なことに気がついた。陽だまりに暖められた塀に体を預け、フウと息を吐く。キリはもう森に着いただろうか。優しい青年はこの街のどこに住んでいるのだろう、お礼がしたい。お礼というならば、キリにはもっとお礼をしなければならない。圭太のためにいろいろしてくれた。そんなことを温かな陽だまりの中で考えているうちに、圭太は目を閉じた。閉じた瞼の裏に、一瞬、白いベッドで眠るキリの姿が見えた気がした。


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