つなぐ夢
右手側の大家さんの家へと向かう。クリーム色の壁も、見慣れれば他の壁と大差なかった。パステルカラーの黄色だと思えば、この街に馴染んでいる気がする。圭太はキリの手を引いて玄関の前に向かった。インターホンを押して薄紫のドアの前で待つ。ややあってドアが勢いよく開いた。圭太は身を反らして避け、不機嫌そうに口を結ぶ大家さんと顔を合わせた。大家さんは圭太を見ても何も言わなかった。ただ後ろに控えているキリとピエロの顔を無言で見やり、靴を履いて外に出てくる。圭太もその後を追った。大家さんが動くということは、ついて来いという意味だと分かっている。大家さんは薄もやの漂う庭を回り込んで、食堂に続く地下への階段を下りて行った。ここに来るまでの道すがらに覚悟は決めてある。出て行けと言われても、魔女について何を言われてもきっと驚かないだろう。大家さんは食堂のドアノブに手をかけてこちらを振り返った。
「肚は決めてあるんだろうね?」
圭太は頷く。大家さんは鼻を鳴らした。何の覚悟かは分からない。何が来てもパニックにだけは陥らないと、それだけは覚悟を決めていた。大家さんがドアを開ける。圭太は中に踏み込んで、一瞬息を呑んだ。
アパートの住人が全員そろっている。見慣れた食堂のテーブルに見慣れた面々。ピエロと圭太の席にだけ、椅子の青い色が見えている。物怖じしそうになったキリの手をそっと引いて、圭太は中に入った。ジーンが頬杖をついている。ウサギが心配そうに首を揺らしていた。チコが不安そうに口を結んでいる。リオンの目が真っ直ぐこちらを射抜いていた。帰ってきたのだと、そんな気がした。大家は全員に向かって言った。
「こんな時間に呼び立てて悪いね。話がある。ホレ」
圭太はキリの手を放して大家さんの隣に並んだ。真っ直ぐ首を上げると、涙だって浮かんでこないだろうというほど背筋を伸ばす。
「まだ、どうして呼ばれたのかははっきりしてないんだけど。俺は、魔女です。たぶん、この話のことで呼ばれたんだと思うんだけど、違いますか?」
と、これは大家に。大家は鼻で笑った。
「ご名答だ」
圭太が魔女だと言っても、その場の空気は大して動かなかった。もしかしたら、事前に聞いていたのかもしれない。大家は後ろを振り返ると、黙って控えているピエロに向かって声を投げた。ピエロはいつになく口数が少ない。いることすら忘れそうだった。
「あんたも言うことがあるんだろう。そのために呼びつけたんだから」
ピエロは圭太の隣に並ぶと、ちょっと頭を掻いた。息を吐いて、圭太の顔をちらと見やる。ここでぐずったってしょうがないよねえ、小さく独り言を吐いた。
「実は、僕も魔女でした……なんちゃって」
肩を竦めて茶化した様子だったが、声には元気がない。え、と声を上げたのは圭太だけではなかった。ジーンが頬杖から顔を上げる。ウサギは顔を引き、チコは目を見開く。ただ右手奥に座ったリオンだけが、動かぬ眼差しでピエロを見ていた。
「また冗談?」
圭太が笑おうとすると、ピエロは首を振る。
「僕は夢の外を知ってる。自分がどうして夢の中にいるのかも、どうやってこの街に来たのかも、全部覚えてる」
圭太はピエロの肘を掴もうとしていた手を宙に彷徨わせた。戸惑った手首をゆっくりと下ろす。言葉が出なかった。でも、思い返せば確かにそうだ。ピエロは圭太をこのアパートに連れてきたとき、確か、大家さんをママに例えでいたから。
「でも……どうして今なの。そんなこと言ったら……」
この街にはいられなくなっちゃう。続く言葉を飲み込んでピエロ面を仰ぐと、ピエロ面の奥から笑い声が聞こえた。みんなもじっとこちらを見守っている。キリの驚いたような目線も、視界の隅に映っていた。
「ケイタを見てると、自分がいかに子供かよく分かるんだ。ケイタが覚悟を固めたんだったら、ついでに僕も大人を目指してみようかなって」
言ってから、途方に暮れたように頭を掻いた。
「そうでもしなきゃ、ずっと言わなかっただろうからね」
ピエロは言葉を止めて息を吐いた。軽い、哀しいため息だった。
「僕はさ、生きるのが嫌になって夢に来たんだ。でも、自分の街が大っ嫌いでしかたなくてさ。水たまりの日を使って街から街に移り住んできた。前に言ったのを覚えてるかい?水たまりの日は魔女の森がもろくなってるから近づいちゃダメだって。しかも、出て行った街のことは忘れないといけないみたいなんだ。それで僕はいくつ街を壊したか分からない。さしあたって、僕は性悪の魔女ってところかな」
力なく笑ってもう一度頭を掻く。
「なのに、僕の街だけはまだ水に沈んだままなんだ。人の街を壊しておいて」
誰も何も言わなかった。圭太も何も言えずにピエロの顔を見上げていた。圭太はピエロ面の下のピエロの顔を想像してみようとした。泣いているのか笑っているのか、どうしても想像がつかなかった。これがピエロの言う『夢を守る』ということなのだろうか。
「この街は居心地がよくて大好きだよ。けど、つい長居しすぎたんだ。僕はこの街に根を張っちゃった。いつ街が壊れてもおかしくない。この街の魔女でもないのに、壊すだけ壊していくんだ。こんなこと、許されるべきじゃない」
でしょ?と首を傾げるピエロの声は軽い。圭太はまたも返す言葉を見つけられずに動かぬピエロ面を見守った。ピエロは相も変わらずに笑い声をあげる。
「まあ、そんな感じで僕の今後はまだ検討中。キリちゃんと圭太はどうするの?」
「えっ、俺?」
圭太は自分を指さした。みんなの視線が圭太に集まる。
「俺、は……分かんない」
「またそれ?」
ピエロが笑って、圭太はうつむく。そうだ、圭太はいつだって分からないと答えてきた。それは自分の置かれた環境が理解できていなかったからだ。今は違う。分からないのは、考えないようにしているからだ。圭太は唇を噛んだ。考えようと思うのに、答えが出ない。
「この街を消すのは嫌です。家族を傷つけるのだとしても、帰りたい。……でも、どうしたらいいのかが、分からない」
結局そこに収まった答えに、圭太はため息を乗せた。この分からないも、甘えだろうか。ピエロは軽く笑って圭太の前に膝をついた。
「それが圭太の答え?」
頷く。テーブルに着いたみんなの顔がそれぞれに歪んだ。ピエロは苦笑してそれを見やりながら、圭太の顔を見つめる。
「だったら、さよならをしよう。それだけでいいよ。忘れなくてもいいよ」
圭太は首を振る。何度も振る。みんなの顔が泣きそうに歪んでいる。圭太との別れを惜しんでくれているのだとしたら、そんな顔は見られない。伸ばしたはずの首がいつの間にかうなだれている。涙も出ないほどに伸ばした背が丸まっていた。
「だって、帰る方法がない」
圭太が言う。
「じゃ、方法があったら帰るんだろうね?」
大家の声を聞いて、圭太はぱっと顔を上げた。大家の顔には笑顔が浮かんでいる。大家は組んだ腕をほどいて食堂を出た。慌てて後を追おうとすると、食堂にいたみんなも慌てたように立ち上がる。ぞろぞろとついてくるみんなの顔を見るふりをして、圭太は食堂を振り返った。痛いほど懐かしい。懐かしいと思えるほど、圭太はこの街から出ていくのだ。
階段を上がって地上へ。建物を回り込んで、住人全員を引きつれた大家はある扉の前で足をとめた。一〇一号室。開かずの部屋。前に男三人で肝試しに来た。
「もしかして……ここが?」
圭太が聞くと、大家は歯を見せて笑い、鍵束を取り出して鍵を差し込む。扉を開けると壁際のスイッチを手探りで付けた。部屋が明るくなって中の様子が見える。玄関はなく、一段高くなったフローリングの床。ただそれだけの部屋かと思ったが、よく見るとフローリングの奥の方に金属製の取っ手が見えた。その形に圭太は見覚えがある。肝試しの時にも、もう少しで見えそうだったのだ。床から突き出た取っ手を囲んで、四角く縁が出来ている。キリの家で見たことがあったから、圭太にはすぐにぴんときた。
「地下室……」
圭太が呟くと、大家は鼻で笑ってピエロを小突いた。
「用心深く隠したのに、こいつが勝手に見つけるからぶん殴ってやったよ」
「ここが外に繋がってるなんて思ってなかったもので、どうもどうも」
ごまかして笑うピエロを振り返る。喉に詰まって声が出ない。ここに入ったらお別れなのかと思うと、何も言えなかった。みんなの顔を見る。ジーンが鼻をすすっている。ウサギが両手を組んでいる。チコが目に涙をいっぱい溜めている。リオンが眼鏡を外して目をこすっていた。みんなが手を伸ばしてきて、肩を叩かれたり頭を撫でされたり抱きつかれたりする。圭太は泣きそうな気分も引っ込んで笑った。こんなに泣いてくれる人がいるなら、圭太は笑っていたかった。みんなが離れて行ったあと、圭太はキリを見る。
「キリはどうする?」
「私は……」
キリはおどおどと周りを見て、それからうつむく。
「ごめん、分かんない。自分がどうしたいのか」
そっか、と笑って、圭太はキリの頭を撫でる。キリが目を見開いて圭太を見た。その目に笑いかける。この手が一番つらい時に助けてくれた。だから圭太の手も、キリの心を決める手助けになればいい。
圭太は部屋に踏み込んで取っ手に手をかけた。持ち上げると、蝶番に支えられて止まる。扉の先には何もない。白いもやのようなものが立ち込めた感じで、見透かしてみても何の影も見出せなかった。ただ、風が圭太の髪を持ち上げる。この先には確かな世界があるのだと、そう思った。圭太は立ち上がると、地下への扉の脇からみんなの方を振り返った。
「お別れだね。僕はきっと、みんなのことを忘れてみせる。この街は絶対に守るから」
キリが戸惑った様子でみんなを見る。一瞬ためらい、すぐに声を上げた。
「忘れないで」
その言葉に、圭太はキリの顔を見た。みんなも驚いたようにキリの方を見る。キリは泣きそうな顔をしていた。必死で今にも泣きそうな顔をしているくせに、意志の強い顔だった。
「ここにいるのは『いま』のみんなだよ。本当のみんなだよ。忘れちゃダメ」
裏返りかけた声は続く。見守るみんなの顔に、再び泣き笑いが兆した。
「私はこの街で、圭太に会ったんだよ!」
キリはいつもよりも乱暴な仕草で涙をぬぐった。ピエロが笑う。入り口のところに少し踏み込み、演技がかった仕草でお辞儀して見せた。
「では、寂しがりの子犬にははなむけを差し上げましょう。――そういえばあの時の約束、僕は一応覚えてるんだよ」
危うく忘れるところだったけどね。言って、ピエロは面に手をかける。圭太は瞬いた。ピエロは面を外して、圭太に笑いかける。
「お久しぶり。アルベルト・ルナルティ・サロ・マリクルオート二世です」
圭太は息を呑んで手を振る青年を見つめた。アパートの場所を教えてくれた青年だった。あの青年に出会って、圭太はこの街で暮らしていくことができるようになった。ずっとお礼が言いたかった。それがこんなに近くにいたのだ。青年は柔和に笑う。
「もう一度会ったら名前を教えてあげるって、そういう約束だったでしょ?」
青年は、いやピエロは圭太に向かって拳を突き出した。気安い動きにつられて、圭太はピエロの方に歩いて手を差し出す。その手に握りこまれる紙切れ。小さくたたまれたメモ用紙だった。中に書いてある文字を呼んで、圭太はほのかに笑みをこぼす。久しぶりに見る漢字は、夢の中でできた親友の名だった。彼は笑って手を振る。
「さ、今度こそお別れだ。約束はきっちり守ったからね」
「まだ、もう一個あったでしょ」
へ、と青年は瞬く。そうか、ピエロは面の下で、いつもこんな顔をしていたのか。圭太はくしゃりと笑って肩を竦めた。
「もう一度会えたらお礼がしたいって」
言うと、ピエロも笑った。そのまま圭太の肩を押して扉のすぐ横にまで連れて行く。
「その約束なら心配いらない」
え、と振り返ろうとした圭太の肩を押す。バランスが崩れて、床が斜めに見えた。足を踏み外して落ちていく。みんなが驚いた顔で見送るのが見えた。
「お礼ならもう十分もらった。今度は僕がお礼しなくちゃいけないくらいだよ」
彼の顔は見る間にもやに閉ざされていく。落ちていく。真っ白な景色にベッドが一つ。孤独を忘れたベッドが一つ。
目を覚ますと朝だった。圭太は身を起こす。どうにも変な気分で、頭を振ったら眩暈がした。握りこんだ手の中に、小さな紙切れがある。それを丁寧に畳んでしまっていると、うつらうつらしていた母が目を覚ました。やつれきった頬に、疲れが見える。
「あら……起きたの。お前、一昨日からずっと目が覚めなかったんだけど、倒れる前のことは覚えてる?私が誰だか覚えてる?」
ずいぶんと久しぶりに聞く母の声だった。圭太は母の顔を見返した。もちろん覚えている。倒れる前のことも、倒れてから寝ている間のことも。
「覚えてる。お母さんでしょ。エレベーターで倒れて……それって、一昨日だったっけ?もっと前じゃない?」
「寝てたから感覚が狂ったのかもね。――どう、気分は?」
まあまあ、と言いながらベッドを降りようとするのを母が止めた。
「――散歩してもいい?」
圭太が言うと、母はちょっと怪訝そうにしたが、すぐにベッド脇に畳んであった車椅子を広げた。歩けるという圭太をなだめて車いすに乗せて、病院内を歩き回る。圭太はじりじりと部屋を覗いて回った。
(この部屋も違う……)
そわそわしながら次の部屋を覗いたとき、圭太は激しく瞬いた。
「ちょっと、止めて」
圭太はじっと目を凝らした。間違いない。大家がいる。いや、大家よりも少し若い気がするが、間違いなくその人だ。ベッド脇の椅子に座って腕を組み、居眠りしている。圭太は母に頼んでその病室に入ってもらった。その病室はどうやら個室のようで、圭太たちが入っていくと、すぐに大家もとい付き添いの人が目を覚ました。圭太を見て眉をひそめる。何度見直しても他人の空似などではなかった。
「桐子のお友達ですか」
調子は少し丁寧だったが、ハスキーな声は相変わらずだ。いや、同じというべきか。圭太はベッドに眠った人影に目をとめる。予想した通り、キリだった。本名は桐子というらしい。ベッドの頭にそうプレートが入っていた。はい、と頷いてベッド脇からのぞき込む。
「本当ですか。キリは事故に遭ってから三年間目を覚まさないんですが」
胡乱な目つきで見られるが、圭太は動じない。この目には何度も晒されて慣れている。いまさら丁寧な口調でじろじろ見られても怖くはなかった。
「目が覚めたら、話せばわかると思います」
言いながら、その血色の悪い寝顔を見守る。白いベッドで眠る顔に動きはなかった。キリはいつか、答えを出せるだろうか。思いを馳せながらじっとそれを見ていると、微かにその瞼が動いた。うっすらと目を開き、瞳の上に付き添いの人の姿を結ぶ。それからゆっくりと圭太の方に視線を移した。目が見開かれて大きくなる。その目に圭太の顔が映った。
「――圭、太……?」
付き添いの人は椅子から立ち上がって、キリの顔を覗き込む。
「お母さん……」
キリのお母さんらしきその人はすぐにナースコールで人を呼んだ。圭太はキリの顔を覗く。
「決めたんだね」
小さな声で言うと、頷いたキリの目に涙が浮かぶ。そうして歪みかけた顔に笑顔を浮かべた。圭太も笑い返す。三年越しの景色は、キリの目にどう映っただろうか。




