帰ろう
キリの家に辿り着いたのはもうすぐ夜明けになろうかという時間だった。やみくもに走り回って迷い、森に入ってからもなかなかたどり着けなかったのだ。走りすぎたせいかぐらぐらする頭を押さえてキリの家の玄関を叩く。返事はない。それでも辛抱強く何度もノックしていると、次第に気がめいってきた。もしかしたらキリは街の外に出かけているのかもしれないと思いかけて、水たまりの日でもないのにそれはあり得ないと思い直す。無意味にノックを繰り返して、圭太は背後に木の葉の音を聞いた。
「圭太?どうしたの、こんな時間に。もう夜が明けるのに」
キリの声だった。すぐ後ろから聞こえた。圭太はくるりと振り返ると手を伸ばしてキリを抱きしめた。キリは驚きも振り払いもせずに、されるがままになっていた。少しの間のあとに、キリは黙って圭太の肩を叩いた。
「帰ろう」
圭太は喉をくぐもらせて呻いた。キリは圭太の背に手を回して、頭を撫でてくれる。
「キリなら帰り方、分かるんだろ。教えてよ。帰ろう。今すぐ俺を帰して」
切り落とすような呻きに答える声はない。頭を撫でる手は淀みなかった。
「お願い。帰らせて。もう何も忘れたくない。ここじゃ俺はどんどん嫌な奴になる。何を言われても何を忘れても、夢だからってごまかしたくなる。俺が聞いてるのはみんなの本当の言葉だけなのに。みんな、俺がどんなに忘れたって泣かないんだ。俺が何を忘れてもそれに気付けない。それもこの街が全部夢だからって思っちゃう」
圭太を撫でる手が止まった。圭太はさらに強くキリの首に縋り付き、もれそうになる泣き声を必死に押し殺した。膨れたような鼓膜に、やっぱり、と声が忍び込んできた。
「やっぱり、ここは夢の中なんだね」
キリの声に圭太は顔を上げた。キリの顔には苦笑に似た表情が浮かんでいる。
「ずっとね、分からなかったの。分かってるような気がするのに、なんだかはっきり掴めなくて。圭太に言われたら、納得した」
キリははにかんだように笑って圭太の手を引くと歩き出した。
「どこ行くの」
圭太が聞くと、キリは「おさんぽ」と言いながら低く垂れた木の枝を掻き分けた。いつか通ったことがある。針葉樹からこぶの多い木が増えてきた。その道を抜けるとほっそりとした木が増えてくる。上を見上げると月が昇っていた。切り絵の木陰を透かした月は明るかった。前方にこんもりとした大きな木の頭が見える。キリと初めて出会ったあの木だった。キリは木立の間をすり抜けると、急に開けた景色に飛び込んだ。キリの後ろ姿を追って圭太も駆け出す。キリは大きな木の根元をぐるりと回り込むと、ふと足を止めて上を仰いだ。追いついた圭太も同じ方を見る。素朴な作りのブランコには月影が映っていた。
「あ、このブランコ……」
圭太が呟く。手を伸ばせば届くだろう。けれど、もうキリには乗れない。キリは魔女の意味を知っている。魔法を使う女という意味でないことが分かってしまった以上、キリはもう魔法で浮かび上がることはないのだ。キリもそれが分かっているのか、それに乗ろうとはしなかった。ただじっと見上げ、諦めたように息を吐いてその木の根元に腰を下ろす。圭太もその横に並んで座った。風がそよいでいる。空が青さを漂わせていた。そのまま二人は一言も交わさずに、雲が木立の隙間を流れていくのを眺めていた。長いようで短い時間だった。思うに別れとは、そんな曖昧な時間を飲み込んだ先にある。圭太は湧き上がりそうになる何かを振り払おうと、キリの方に顔を向けた。
「何してるの」
キリは伏せた顔に柔らかい笑みを刷く。
「ピエロさんを待ってるの」
圭太は一瞬言葉を失った。唇の隅に引っかかる言葉を縦にして送る。
「来るわけない」
来るよ、とキリの声ははっきりしていた。
「ここは私の夢だもん」
言った時、木立の向こうにちらりと色が動く。圭太は無条件に身構えた。色は形を成してこちらへ向かっている。ビビットの色合い、真ん中で反転した、笑っているのか泣いているのかも分からない表情。紛れもない、見慣れたピエロ面だ。細い木立を掻き分けて走ってくる。ピエロは最後の木立を掻き分けて大きな木の広場に出てくると、ちょっと辺りに目を彷徨わせた。上下した肩に呼吸が乗っている。圭太が動けずにいると、ピエロは首を巡らせて木の下にいる二人に目をとめた。
「ケイタ!キリちゃん!」
弾んだ声で叫ぶと、木の根元に駆け寄ってきた。圭太が逃げようとするのを、キリは袖を掴んで止める。ピエロは絶え間なく息を吐いてちょっと咳き込んだ。動くこともできずにピエロの顔を凝視する圭太に、ピエロはわずかに笑った風だった。
「ケイタってば、ちょっと前のキリちゃんみたいな顔してる」
言ってから草地に膝をついて圭太の顔に目線を合わせる。
「帰ろう、ケイタ。大家さんが呼んでる。ケイタに話したいことがあるって」
じっと圭太は視線を落とした。ピエロが追いかけてくるなら、理由はそれしかないだろうと思った。だから会いたくなかったのだ。こうなってしまっては逃げることもできない。あいにく、逃げ場所はキリしかなかった。圭太は頷いて立ち上がる。ひとりで歩いて行こうとすると、ピエロがその肩を押しとどめる。
「ちょっと待って。――キリちゃんも」
キリは木の下できょとんと口を噤んだ。
「私も?街に行ってもいいの?」
うん、とピエロはキリに手を伸ばす。キリは戸惑ったように圭太とピエロを交互に見た。
「おいでよ。せっかく呼んでくれてるんだし」
言いながら、圭太はそっと目を逸らした。笑顔の下で、また都合のいい流ればかりを喜ぶ自分に嫌気が差していた。そんな圭太の様子には気づいていないキリは、一層戸惑ったようにピエロを見返す。圭太がピエロと同じように手を差し出すと、おずおずと指先を伸ばしてその手を握った。その手を引いて月明かりのもとへ歩いていく。
三人で森を抜けていく間、誰もが無言だった。いつもと違って、圭太はその無言の空間に、妙に落ち着くものを感じた。他人がその場にいるからこそできる考え事があるのだと、その時初めて知った。それぞれの考え事で満たされた道を黙々と歩く。その間、圭太は思い出していた。この街に紛れ込む前の、夢の外のことを。
圭太はこの街でもそうだったように、時々記憶が一部分だけ抜けてあやふやになることが多かった。小さなときから繰り返し、はじめは物忘れが激しい子供だと笑っていた大人たちも、圭太が成長して物心つくにつれて、だんだんと笑えなくなっていった。物忘れというにはあまりに頻繁だった。記憶の落ち方も妙だった。さっきまで遊んでいたおもちゃのことを忘れていたりするのだ。記憶は次第にぽろぽろと落ちていく。ふいに思い出すこともあれば、そのまま分からなくなってしまうことも、言われれば思い出すものもあった。そのうちに、記憶がなくなる前後に意識が飛ぶようになった。貧血を起こして倒れ、目が覚めると何かを忘れてお母さんを泣かせる。それが当たり前になった。白いベッドでの記憶が多いのはそういうことなのだろう。だから白いベッドには、強い孤独のイメージがあった。記憶をなくして目を覚ますと、いつもお母さんが車いすに乗せて病院中を散歩させてくれた。病室の前を行ったり来たり、庭に出たりエレベーターに乗ったり、思えばあの儀式はお母さんの気晴らしも兼ねていたのかもしれない。その散歩のさなか、やたら静かな病室を見つけて好奇心に駆られた。お母さんに頼んで入ってもらうと、個室のカーテンの裾に守られるようにしてキリが寝ていた。白いベッドに白い顔、かたくなに動かない体にたくさんの管が繋がっていた。孤独なベッドを囲んだ機材。こんなに囲まれているのに、きっとこの子は寂しいだろうと思った。散歩を終えて自分の病室に帰ってからも、その光景を忘れることができなかった。あの子はどんな子だろうと頭の片すみで考え続け、ある日、またいつものように意識が落ちる。息苦しい空気を吸って、吐いて、目覚めたときは夜だった。身を起こした瞬間に、すべては始まった。
(キリもこうやって、抑え込んで忘れてしまった記憶を思い出したら帰れるのかな)
帰れるなら、とっくに帰っていそうな気がする。森に引きこもってまで街を守ろうとするのは、圭太と同じく帰り方を知らないからなのだろう。冷えてきた頭の中では、そういう考えが妥当だった。街に入って見慣れた道を歩きながら、圭太は思う。この街に来たばかりの圭太がもし記憶を取り戻したとしたら、夢の外に出ようと考えただろうか。
大通りはもうほとんど人がいなかった。紺青色の風をなびかせて歩く。街の明かりはほとんど落ちていて、夜明け前の道の中で家の明かりばかりが点々と温かかった。お菓子屋さんの角を折れて小路に入り込む。この暗い道を抜けるとアパートのある大通りがある。ピエロの背中を追いながら、圭太は深呼吸した。
アパートの前に出ると、ピエロは肩越しに圭太を振り返った。その視線を受けて、圭太はちょっと笑ってみせる。ピエロは何も言わずに視線を前に戻した。黒塗りの金属の門を押して中に入る。キリと圭太を中に招き入れてから、ピエロは思い切ったように言った。
「おかえり」
門を閉めるピエロを振り返る。ピエロは全くいつもの調子で肩を竦めてへらへらと首を傾げて見せた。すっかりライトの落ちた街を背後に、その面は鮮やかだ。圭太は笑う。
「ただいま」
ここでもピエロは、圭太を見捨てなかった。その気持ちが嬉しかった。




