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逃げ場

 結局、分かったことはたくさんあったのに何も分からなかったふりをした。リオンはもう少し調べると意気込みを新たにしていたようだった。圭太は空気を求めて中庭に彷徨い出る。幸いなことに、今日はチコも花壇にはいなかった。ホッとしながら零れたライトを踏んで歩き回る。今の時間なら、仕事がある人はもう出かけているだろう。仕事がない人はまだ家にいるに違いない。今はまだ、誰と顔を合わせる自信もなかった。ぼんやりと中庭の端に入ったとき、建物の陰に足跡があるのが見えた。夜のライトに照らされたその足跡はくっきりと影を残している。誰のものだろうかと、圭太は重たい気分も忘れてその足跡を見に行った。壁の陰に手を突いて覗き込むと、そこに誰かの後ろ姿が見えた。パーカーにジーンズの後ろ姿。面をかぶろうとしている。後ろを向いていて顔は見えないが、面の模様は見慣れている。ピエロだった。圭太は声をかけようとし、束の間ためらった。

 圭太が迷っている間に、ピエロは面をかぶってくすりと笑みをこぼした。

「隠れてないで出ておいでよ」

「別に、隠れてるわけじゃ……」

言いながらピエロの足跡を避けて近づく。ピエロはくるりと振り返ると、圭太の両肩に手を置いて軽く飛び跳ねた。

「さぁて、用事は終わった?キリちゃんち行こう」

意気揚々と歩いていくピエロに、圭太は慌ててついていった。

「待ってよ、なんで急にそんなこと」

ピエロがきょとんと振り返った。急に立ちどまるので、圭太もそれにぶつかりそうになってのめりそうになる足を止める。

「急にって、次の休みで連れてってくれるって言ったのに。とぼけても無駄だよ~」

ピエロがへらへらと圭太を叩いた。圭太は戸惑ってその肘を掴む。

「そんなこと言ってないって。ちょっと待ってよ、もしかしてまたからかってる?」

ピエロが首を傾げた。ちょっと間があって、ピエロの面が圭太の目線まで下がってくる。

「今日はからかってない。僕がキリちゃんちに行きたいって話をしたのは覚えてる?」

圭太は首を振る。ピエロなら行きたがるだろうと簡単に想像はつくが、そんな話は聞いていない。ピエロはまた少し黙って、今度は圭太の前に膝をついた。

「圭太は嫌がってたけど、僕が散々ごねて無理やり連れてってもらう約束をしたのは?」

またも圭太は首を振る。ピエロはさらに両膝をついて圭太の顔を覗き込んだ。

「その話をしたのはケイタとリオンが料理当番の日で、唐揚げを作ってくれたんだけど」

窺うようにされて、圭太は顔を引きながら何度も首を振った。不安が滲んできていた。

「俺、揚げ物なんてできない。ピエロの勘違いじゃないの?」

「勘違いじゃない」

言い含めるような声だった。圭太は怯えて足を半歩引いた。その肩にピエロは両手を載せる。掴まれたわけでもないのに、圭太には逃げ場をなくされたように感じられた。

「リオンが揚げたんだよ。ケイタがキャベツを刻んだりスープを作ったりしてた」

そんなの知らない、と口の中で転がす。そんなメニューは覚えていない。ピエロは圭太の肩に乗せた手で両側から頭を挟んで軽く叩いた。

「笑って、ケイタ。追い詰められた時ほど笑ってなきゃ。――その日は記念すべき日だったんだよ。ケイタが初めて自分の原稿を出した日。ケイタの記事、ちゃんと読んだよ」

「それは、知ってるけど……」

あの日、ピエロはいつの間にか圭太の記事を買っていたのだ。それを聞いて嬉しいような恥ずかしいような気分になったのを覚えている。疲れきって帰ってきて、そのあと……その先の記憶がぱったり途切れていた。覚えがある。空虚に疼くこの感覚は肌に馴染んでいる。これは記憶が抜けたときの感覚だ。ようやく全部思い出せたのだと思った。圭太は全て思い出して完全な魔女になった。この街にはキリ以外の魔女がいてはいけない。夢を壊すだけの圭太がいてはいけないのだ。この街から拒絶されるべきなのだと分かって傷ついた。だが、その一方で記憶が戻ってきたことには強い安堵感があったのだ。自分は何も忘れてはいないのだと。これで宙ぶらりんな自分はいるべき居場所を見つけたのだと。帰る場所が圭太にはあった。どうやったら帰れるのか、それは今のところ分からないけれど。その安心はこの街で過ごした全ての時を犠牲にして得たものだった。それなのに、それすら今は確かでない。圭太の記憶は、現にところどころ穴があった。同じように途切れてしまった記憶がいくつもある。思い返せばいくつだって。

 圭太は顔を覆って後ろによろめいた。逃げ出したかった。街を捨てて帰る場所を得たはずだった。その帰る場所すら、今まさになくなろうとしている。

「俺は、何を忘れたの……?」

顔を覆った指の隙間からピエロ面が覗き込んでいる。ためらいがちに伸ばされたその大きな手を払って、圭太はよろよろと後退った。ピエロとの間に距離が開く。

「ピエロ、俺はどれだけ忘れたの?お父さんのこともお母さんのことも、覚えてると思ってた。思い出したと思ったんだ。けど、ほんとは何を覚えてるの?」

「ケイタ、」

追いすがってきた手をさらに振り払って、もう一歩距離を取る。白く回る頭の中心で焦った気持ちだけが脈打っては膨らんでいく。

「この街のこと、どれだけ忘れた?この街に来てからどれくらいのことを忘れたの?キリとの約束をどれだけ忘れて、先輩との仕事で分かったことをどれだけ忘れて無駄にしたの?ピエロの言ったこと、どれだけ覚えてる?みんなに助けてもらった記憶はどれだけなくなっちゃったの?」

「落ち着いてって、ケイタ」

「嫌だ!」

圭太は自分の髪を掴んで体を折り曲げた。全身から痛みが吹き出してくる。どこもかしこも痛い。苦しい。何も忘れたくない。取りこぼした記憶の中にどれほど残しておきたいものがなかったか。なくしたくない記憶まで、全てが。

 人は誰かとの記憶を共有して生きていく。記憶は絆だ。相手の記憶の中に自分の影を見て、初めて人と人との間につながりができる。今の圭太は、そのつながりがない。あるのは途切れ途切れに点在する曖昧な思い出だけだ。自分の記憶に自信がなかった。この記憶が圭太の夢まぼろしでないとどうして言い切れるだろう。世界のすべてだと思っていたこの街がキリの夢であったのと同じように。

「普通の人はどうでもいいことから忘れちゃうんだろ。俺はそんなの関係ない、いつの間にか覚えてないんだ。思い出した時にはみんな泣いてる。いつもそうだった」

圭太は独りぼっちだった。どれほど誰かを慕おうと、どれほど周囲に愛されようと独りぼっちだ。一方的で交わることがなければ、その思いはつながりにはなりえない。その道筋が夢のように頼りない。もしかしたら何もかもかげろうかもしれない。

「もう嫌だ。こんなに人に囲まれているのに寂しいだなんて。みんな俺を気にかけてる。俺もみんなが大好きなのに、嫌われてもいないのに独りなんて、よけいに寂しい」

「落ち着けって言ってるだろ。僕の話を聞いて」

「聞きたくないよ!」

圭太は地面に叫びを吐いた。何も考えられない。だからどんな言葉も聞きたくない。これ以上胸をえぐられるのはもう嫌だった。何もかもが嘘に思える。心からの言葉なんてない気がする。圭太にだってきっとないだろう。心を縁取った記憶が信用できない。圭太はいつも、どこから出た思いを語っていたのかも分からなかった。ピエロの言葉ならなおさら聞きたくない。今、ピエロに何を言われても嘘にしか思えない。そうだ、だってピエロだって結局キリの空想でしかないんだから。

 急に圭太を何かが叩いた。遅れて冷え切った空気にさすられる。圭太は髪を掴んだ手を放して、そっと顔を上げた。目の前のピエロ面から雫が垂れていて、ピエロの服がぐっしょりと濡れているのが分かった。

「うるさい。誰の家の前で騒いでると思ってんだい?ぎゃあぎゃあ喚きやがって」

呆然と声のした方を振り返ると、大家さんがホースを片手に舌打ちをした。いつもと違って、大家さんの不機嫌そうな顔を見ても怯えや焦りは生まれてこなかった。そのかわり、冷えた肩口から切り刻まれるような哀しみが広がってきた。

「頭は冷えたかい。柄にもなく癇癪起こして自分で抑えられなくなったってのかい」

いえ、と放心した声で呟きながら、圭太は自分自身が情けなくなった。パニックを起こしてどうかしていたとはいえ、一瞬でもピエロのことをキリの想像物だと切り捨てようとしていた。ほかならぬ自分が、そうやって切り捨てられることを怯えたというのに。ピエロの顔を見上げる。ピエロはうなだれていた。赤い鼻先を伝って俯いた面から雫が落ちる。

「ピエロ、ごめん」

細い声がした。自分のものとは思えないほど頼りない声だった。今にも消えてしまいそうだった。ピエロは俯いたままゆるゆると首を振る。大丈夫、と返事を添えて返さないのは、圭太がピエロを突き放そうとしたからだろうか。

「ううん、僕こそ……今、ひどいことを言おうとした」

「お互い様だよ。ピエロ、さっき言ったでしょ。こういうときこそ笑おうよ」

ね、と笑ってみせると、ピエロ面が揺れた。圭太は一歩後ろに足を引いた。奥歯を噛みしめた網膜の裏でちらりと白い影が見えた。帰るところはない。この街にいては壊してしまう。もしも圭太のいたところに戻れても、周りの人の夢を壊してしまう。どちらへ行っても、本当の孤独しかない。もう一歩、後ろに下がる。ピエロが怪訝そうに首を持ち上げた。

「ピエロ、大家さんも、ごめんなさい。俺、ここにいたくない」

大家がちらりと圭太を見る。圭太はさらに下がる。

「――お元気で」

え、と声が聞こえたが、圭太はピエロが顔を上げる前に背を向けた。ケイタ、と呼ぶ声が背中を叩く。振り切って夜の街を駆けだした。

先輩の顔が浮かんだ。街で拾って仕事をくれて、何かと圭太を助けてくれた。あれほど魔女を複雑そうな態度で扱っていたのに、圭太が魔女かもしれないと分かっても見捨てたりはしなかった。確かに社長の言った通り、圭太をずっと心配してくれたのだ。ピエロもそうだ。この街にいる以上、魔女が嫌いで当たり前なのに、はじめから今まで絶対に距離を置いたりはしなかった。ずっと当たり前のように圭太を励まして受け入れてくれた。友達として、ずっと助言をくれた。ウサギも、圭太が苦難に陥るたびに励ましてくれた。踏み込まない態度を崩さないまま、それでも圭太が困ったときにはいつも優しい綺麗な声で慰めてくれた。チコはずっと笑顔で、あの笑顔に気分が軽くなったことなど数えきれない。不安な時も普段と変わらず人懐っこく話しかけてくれた。リオンはあんなに拒絶しているように見えたのに、圭太に心を許してくれた。この街のことが分かったのも自分の記憶を取り戻せたのもリオンのおかげだ。それに、水たまりの日に折れそうだった心を支えてくれたのは、紛れもなくあの握り返してくれた手の感触だった。大家さんは冷たいふりをしながらいつだって圭太の味方だった。関心がないように見えて、いつだって見守ってくれていたのだと思う。さっきだって水をかけられたおかげで目が覚めた。どんなにあやふやでも、圭太の信じる記憶だけは圭太の真実なのだ。何も嘘ではない。でも、だからこそ圭太はあそこにはいられない。圭太の信じる街は守りたいと、この思いも圭太の真実だった。圭太は色とりどりの影が落ちた街を駆け抜ける。目指すはあの森へ。魔女の森へ。街を壊さないためにキリが閉じこもっているあそこでなら、圭太は何を傷つけることもない。


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