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まざりもの

 それから数日が経った。水は一日で引き、翌日からは何事もなかったかのように生活が再開した。キリはどこへ行っていたのだろうか。気にならないわけではないが、何しろ仕事が忙しい。どこの飲食店もセールで忙しかった。聞いたところによると、水たまりの日のあと数日はどういうわけだか食材が傷むのが早くなるのだそうだ。ダメにしてしまうよりは安売りした方が損害も少ないということで、いつもは少し手の出しづらいような値段の店も、ここぞとばかりに値下げする。そういった情報を逃す手はなかった。白旗新聞社も情報網にかじりつき、日に何度も号外を出しては、同じ原稿を刷り直した。そんなさなか、とうとう圭太も原稿を書く羽目になった。圭太は散々断ったが、手が足りないの一点張りで押し切られた。英文の原稿なんてできないに決まっていると半泣きで取りかかってはみたものの、今までずっとジーンの原稿を見慣れていたからだろう、やってみると意外と書けてしまって、直しを入れればまあ良しとお許しを頂いた。やっとの思いで出したその原稿も、三時間後にはまた新しい情報が入って別の原稿に上書きされてしまったのだが。

目の回るような日々にやっと休みが入ったのは、その更に三日後だった。やっと水たまりの日の後始末がつき、仕事にも落ち着きが出始めたころだった。キリのもとにも行きたかったが、今日は先に予定が入っている。寂しい思いをしているだろうキリに心の中で詫びながら、圭太は夜早く起き出して玄関を出た。階段を下りて一階へ。前に忍び込もうとした部屋の手前で足を止める。ちょうど圭太の部屋の真下に当たる部屋だった。こそとも音のしないドアに向かってノックをしてみる。返事はなかったが、構わず中へ入った。そっと奥に進んでみると、電気も点けていない真っ暗な部屋の奥の窓際で小さな背中が一心に机へ向かって丸まっている。机の端に点いたスタンドライトの光がまぶしく見えた。

「リオン」

声をかけると、その小さな背中がぴゃっと跳ねた。ぱっと振り返った丸眼鏡に軽く笑う。

「ごめん、ノックはしたんだけど」

リオンはどうしたわけかドアベルの音が苦手だという。この様子を見るに、ドアベルの音が苦手というよりは大きな物音が苦手なのだろう。もうずっと前に取り外してしまったのだいう話を昨日聞いた。ノックして返事がなかったとしても構わず入ってきていいと言ったのもリオンだ。リオンは全く落ち着き払った様子で窓際に圭太を呼び寄せた。先ほど飛び上がるほど驚いたことなんてまるでなかったかのような落ち着き方だ。半ば感嘆しながら呼ばれるままに寄っていくと、リオンは机の上に据えた顕微鏡を指さした。圭太が来るまで背中を丸めていたのはこのためだろう。リオンは椅子から立ち上がって脇にどくと、圭太の袖を引いて代わりに座らせ、頭を掴んで顕微鏡の前に突きつけた。強引な示し方だが、相手が相手なので強くも出られない。それに、確かに圭太にもリオンの調べていることは興味があった。レンズを覗いてみると集めた泥だろう、いくつかの形がある粒子が見えた。圭太が顔を上げてリオンを振り返ると、リオンは顕微鏡の台の上にあった小さなガラスの板のようなものを差し替えた。ということは、あの板に泥が乗っているということか。それを差し替えたのだから、今から見る泥は、さっき見たものとは違う場所か違う日に集めた泥ということだろう。リオンは片手で圭太の頭を押しのけ、脇からレンズを覗いた。レンズを覗いた目に、眼鏡越しにひらりとした光が映りこんでいる。顕微鏡の丸いレバーを手早く調節して、圭太を振り返る。圭太が覗くと、さっきよりも縦長の粒子が多い泥が見えた。顔を上げると、リオンの無表情には微かに嬉しそうな色があった。

「……ねっ」

分かるだろうという風に頷かれて、圭太はぽかんと首を傾げた。

「ねっ、て言われても……」

圭太が言うと、リオンの眼鏡がちょっとずり落ちた。それを直しながら、リオンも困った風で瞬きを繰り返す。

「砂の形が違った」

リオンに言われて圭太も頷く。それは分かった。だが、それが外とどうつながるというのか。つながりが読めずに黙っていると、リオンは首を傾げて軽く頭を掻いた。あちこち跳ねている髪がさらにぼさぼさになる。

首をひねりながら壁際まで行くと電気のスイッチを押した。部屋が明るくなる。殺風景な部屋だった。備え付けだろう、家具は全体にクリーム色の柔らかな色合いで統一されていたが、模様という模様はない。圭太もこの暮らしに慣れてからはクッションを入れたりお菓子が置きっぱなしになっていたりする。ジーンの部屋は社長からもらったというおばけのぬいぐるみがたくさんあったり、たくさんの友達からもらう置物が飾ってあったりする。ピエロの部屋は物がたくさんあるのにカラフルな箱で整頓されていた。それなのに、この部屋にはそういったものが特に見当たらなかった。代わりに本や書きつけがたくさん積んである。棚にもベッド脇にもソファにもローテーブルの上にも。そのせいで、殺風景なのにとても散らかって見えた。

リオンは何度も首をひねりながらソファの横に行くと、手すりの上に重石代わりに乗せていた本を除けて、書きつけを一枚一枚ひっくり返していった。その中から一枚を引っ張り出すと圭太に突きつける。圭太が受け取ると、精緻なスケッチの隣にひどく汚い字でいくつもメモが取ってあった。これも英語だ。ここの人たちは基本的に英語で読み書きを行うのだろう。仕事で見慣れていたおかげで、今では正確な文章は読めなくとも大体の意味は分かるようになっていた。そうでなくともこの字の汚さだ。圭太はメモを矯めつ眇めつ、苦労しながら読んでいく。一枚目には水たまりの日の前の泥のスケッチと説明、二枚目には水たまりの日のあとの泥のスケッチと説明があった。『水たまりの日の前には見られなかった粒子、水たまりの日のあとにはどのポイントでも見られる』とある。『新しく増えた粒子は魔女の森付近に近づくにつれて含有量が多い』という説明には赤いラインが引いてあった。またも圭太が困って顔を上げると、リオンはじれったそうに口を引き結んでそのメモをひったくった。

「だから、」

リオンの声は芯がなくて頼りない。リオンの声を聞くこと自体珍しいのだ。当たり前だろうとは思ったが、芯がなくてこれほど小さいのに強い声というのは初めて聞いた。

「水たまりの日は魔女が出かける日。魔女が出かけるたびに、この街にはなかった砂が入ってくる。つまり新しく増えた砂は他の街から運ばれて来たという仮説を立てた!」

リオンとしては怒鳴ったつもりなのだろう、肩で息をしながら圭太を見た。

「魔女は、この街のほかには街がないって言ってる。でも実際に、見たことのない砂が来る。街かどうかは別として、ここと外の間にはつながりがある」

圭太は呆気にとられていた口を閉じた。街の外について調べるのなら、魔女についてはどうしても話が来るだろうとは思っていた。魔女は街の中で唯一、外と接点を持つ存在だから。だとすればそれは圭太にも関係のある話だった。自分自身を知る手がかりでもあるのだ。圭太は頷いてリオンに向き直った。リオンは手近にあった本の山をひっくり返し、その中から一冊の紙束を取り出した。紐でくくった背表紙に手ずれの跡が残っている。自分で綴じたらしいその束の表紙には『魔女の言動についての考察』とあった。手渡されたそれを開くと、魔女が街に来た日付とその行動を観察したものが記されてある。中には街や家の近くで話をした記録も残っていた。

(リオンはキリと話したことがあるんだ)

なんとなく意外だった。リオンは引っ込み思案なのだとばかり思っていたが、案外そういうわけでもないのかもしれない。圭太は記録に意識を戻す。記録の中に時折考察が混じっているから、考察と言うよりは記録や日記のようなものなのだろう。こちらもひどく汚い字でつづられていたが、四苦八苦して読むうちにコツがつかめてきた。どうやらこれは雑な字というよりもくせ字なのだと。読みづらさは変わらないが、そのくせを掴んでしまえば思っているより読めない字ではない。読み進むうちに、圭太は妙なことに気付き始めた。

(キリの言ってること、時々あやふやだな……)

別に間違ったことを言っているのではない。言動に一貫していないところがある。この街にはいつからいるのかという質問に対して、はじめは『生まれた時から』と答えているのだが、その次の時には『分からない』と答え、その次には『三年くらい前』と答えている。そのほかにも、例えば家はどこだと聞かれて、はじめは魔女の森だと答えているのに次に会った時には分からないと答えている。そうかと思えば、オカアサンが帰ってくるところだ、という答え方をしている時もある。

記述を読みながら圭太はちょっと苦笑してしまった。やはり外について調べているリオンでさえ、親という概念はないようだ。オカアサンとは何だ、という旨の質問を、言葉を変えて何度も繰り返していた。キリはその質問にはまともに答えていない。答えられなかったのだろう。時折オトウサンという言葉も出てくるようだが、キリはその言葉を発するたびに何を言おうとしていたのか忘れてしまっていた。それでも、オカアサンだけ魔女だ、という発言はたびたびあって、まるで自分は完全な魔女ではないと言い聞かせているようだった。そういえば、圭太といたときにもそんなことを言っていた気がする。

読んでいくうちに、圭太は記述の中にやたら三年前から、という言葉が多く出てくるのにも気付いた。これは最近の記録ばかりだったから、急いでページを繰る。二年前、去年と言葉は変わっているが、日付と照らし合わせてみるとどれも三年前あたりを指していた。

(俺も何か、三年前って話を聞いた気がする)

何度か眉間を刻んで唐突に記憶が開ける。オムライスの匂いと空いた食堂、まんまる目の店員さんとそのあとの胸の痛み。そうだ、思い出した。三年前まではこの街に人が時々来ていたが、ここ最近はぱったりと人が来なくなってしまったという話だった。この街に来ることは生まれることだ、というのも。もう一つ記憶が開ける。「街を作ったのが魔女なら、その街を――夢を壊せるのも、魔女だけだからだ」と言ったのは、確かピエロだったか。

(そっか……)

だんだんと圭太の中で答えが出始めていた。ピエロの言っていることが確かなら、街は夢と同じ意味なのだ。おそらく確かだろう。その前に、チコも「魔女は夢を奪う」と言っていた。夢を壊すということに嫌悪を感じる人はいても、怯える人はいないだろう。つまり、夢を壊すというのは、街を壊すということなのだ。だから魔女は嫌われる。そういうことなのだ。そこまでは分かったものの。圭太はだんだんと血の気が引いていくのを感じていた。キリは魔女だ。魔女はこの街を作った。この街を――夢を。

「じゃあ……ここはキリの、夢……?」

呟いた声はひどく小さくかすれていた。リオンには聞こえなかったのだろう。様子を窺った表情に変化はない。それを確かめながら、圭太は目の前が白い砂嵐で覆われていくのを見ていた。まさかそんなことがあるはずがない。ここで圭太は色々な経験をした。仕事もして、孤独を怖がった。そのたびに励ましてくれたのはこの街の住人たちだ。その温かさは身に染みて知っている。これが全部夢だというのだろうか。幻だったというのだろうか。目の前で圭太の様子を窺っているリオンでさえも。圭太は片手で口を押えた。目の前が歪んできた。視界がぐらぐらと回っている。圭太は奥歯を噛んで堪え、首を振って眩暈を振り払った。圭太の顔色に気付いたのか、リオンが顔を覗き込んだ。

「どうしたの。何か分かった?」

「――う」

頷こうとして、圭太は思いとどまった。夢の中の住人であるということは、つまりはキリの想像物に過ぎないということだ。お前は空想の人物だと言われてすんなり頷ける人間なんているだろうか。それにまだ、圭太だって半信半疑だ。圭太はぎこちなく笑顔を作った。

「ううん。朝ご飯食べずに来たから、貧血起こしたみたい」

「座って」

リオンは素っ気ない白の半袖から白い腕を突き出してソファの上の本の山をどかした。隙間のできたそこに圭太を引っ張り込み、ぐいと頭を押さえ込む。

「――何を……」

「膝の間に頭を伏せる。じっとして眩暈が治まるのを待って」

頭を押さえこまれたまま、圭太は貧血を起こしてよかったかもしれないとひとりごちた。やっぱり嘘を吐くのが下手だ。笑っていられない。今の自分がどんな顔をしているのか知らないが、少なくとも貧血で気分が悪いだけの顔には見えなかっただろう。

胸がひどく痛い。痛むたびに頭の隅に何かの記憶がちらつく。無意識に抑え込んでいたはずの記憶だった。思い出したくなかった。本当に魔女になりたくなかった。この街を壊したくなかった。

(ああ、そっか)

今になってキリの言動があやふやだったわけが分かった。キリは街の外のことを忘れたかったのだ。忘れて、魔女でなくなろうとした。キリがこの街に閉じこもるようになったのは、おそらく三年前なのだろう。三年の間そうしているうちに、記憶は抑え込まれた。それでもすべてを忘れることはできずに、魔女だという意識だけ残った。街の外の記憶はないから魔女ではない、でも自分は魔女だという意識が。その結果、魔女の子という肩書が残ったのだ。夢の中だから、その意識があれば魔法だって使えるのだろう。でも、キリは本当の魔女にはなりたくなかった。街を壊してしまいたくなかったのだ。

きっとどこかでそれを圭太も気づいていたのだろう。だからずっと気にかけていた。同じ気持ちを持つキリを。そして、圭太は常にこの街から追い出されるのでないかと怖かった。それは圭太が、本来ここにいるべきではなかったからだ。

記憶は絶え間なく戻ってくる。白いベッドでの記憶が一つ戻ってきただけで、鎖が次々と落ちていくように何もかもが思い出せた。忘れてはいない。全て覚えている。家族のことも、この街の外のことも。この街に来た時からずっとあった、浮き足立つような不安がすべて消えていた。寄る辺なさが消え、代わりに胸の内に会った痛みが虚ろな重さに変わっていた。胸に向けて千のあくびをしているようだった。圭太は伏せた顔の下でじっと床を見つめた。そうするほかに、どうしていいのか分からなかった。


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