街と夢と外と
気づけばずいぶんと景色が変わっている。ピエロが指差す先には森があった。建物を避けて高みを泳いできたせいで、その森すら見下ろす格好になっている。広葉樹に囲まれ、森の中央に向かうにつれて木が密になってくる。針葉樹で囲まれた小屋のような家と、ひときわ大きな木を囲んだ小さな草地。
「――魔女の森」
圭太が呟くと、ピエロは首を揺らして笑った。
「そう。圭太がしょっちゅうキリちゃんに会いに行ってる魔女の森」
うん、と頷きかけて圭太は弾かれたようにピエロの顔を振り返った。
「えっ?なんでそんなこと知ってるの!」
ピエロはくすくすと泡を吐きながら圭太のそばに寄ってきた。
「この街でキリって名前の子はあの魔女の子しかいないし~圭太は時間ができるたびにどこかに出かけてるし~大体次の日には『それ昨日キリが言ってた』とか言ってるし~?それに毎回帰り道で会うじゃない。僕が外で見世物してると、魔女の森の方から圭太がてくてく、そりゃもう楽しそうに嬉しそうに帰ってくるし~?」
圭太の顔にかあっと血が昇った。隠せているつもりだったのだ。
「そう、初めて会ったのがキリだから!街まで連れて来てくれたし、いっぱい親切にしてもらったし、それにいろいろ悩みも聞いてくれたりとか、街のこと教えてくれたりとか」
言い募るとピエロがそっくり返って笑い転げた。
「いいっていいって、そんなに必死にならなくても。大人っぽくてしっかりしてると思ってたけど、こういうところはちゃんと年相応なんだね、ケイタってば」
馬鹿笑いしながら圭太の肩を叩く。むくれる圭太を引っ張ってなぜかピエロはすぐにその場を立ち去ろうとする。危うくリオンの手を放してしまいそうになって、慌てて圭太はその手を掴み直した。
「もう行くの?」
聞くと、ピエロは頷いた。
「本当はね、水たまりの日はあそこに近づいちゃダメなんだよ。魔女がいなくて、森が一番もろくなってる日だから。水たまりの日に魔女の森に入ったら戻ってこられないって言われてるし、そうでなくてもあそこをつついたら街がなくなっちゃうかもしれない」
そういうピエロの声は、いつもより少しだけ硬かった。いつもの茶化した様子から、ほんの少し怯えに似たこわばりが覗いた。圭太の胸にまた痛みが一つ。ピエロもきっと魔女を嫌っている。圭太は手に力を込めた。思いがけず握り返される力があって、圭太は手の先へ目をやった。引いた手の先にリオンがいる。相変わらず目も合わせてはくれない。それでも握り返された力を思い出すと、不安に押されていた胸が少し楽になった。圭太は心を決めて、ピエロの方に向き直った。
「ひとつ聞いてもいい?」
我ながら、よくこんなに落ち着いた声が出せたものだと思う。ピエロが振り返って首を傾げた。無言に動く面の下で、果たして感情は動いているだろうか。
「魔女はどうして嫌われるの?」
真っ直ぐ投げた圭太の問いに、かすかに、首の後ろを糸で引かれるような動きが返った。震えたほどのその動きとともに、ピエロ面から小さな泡が一つ立ちのぼった。ピエロはゆっくりと首を巡らせて顔を背けようとし、すぐに顔を向け直すと圭太の顔を見返した。
「街を作ったのが魔女なら、その街を――夢を壊せるのも、魔女だけだからだよ。それも、わざとじゃないんだ。外の街とつながりがあると、耐えきれずに壊れちゃう」
「ゆめを、こわす」
引っかかった声で圭太が呟く。確か、いつかに聞いた覚えがある。土の匂いと金色の毛先。
(確かチコちゃんも、そんなことを言っていた)
圭太はぼんやりとピエロ面を凝視していた。そうしたところで、ピエロ面が動いたりしないことは百も承知なのに。ピエロはそっと視線を外す。面がかすかに斜め下を向いた。
「――僕にはそれ以上言えない。僕はこの街が好きだから」
そっか、と返す自分の返事が、やけに遠くから聞こえた気がした。それはただ単に、いつもよりも往来を飛び交うざわめきが大きかったせいかもしれない。喉元がやるせないのに、何かを言おうと心が焦る。目が溶け出しそうだった。圭太は自分が泣いているのじゃないかと疑ったが、涙は流れてこなかった。水の中に圭太はいたから。そこで圭太は初めて、水の中では泣くこともできないことに気付いた。圭太は手に力を込めた。また、握り返される力があって、喉元が軽くなる。
「ごめん、もう一個質問」
ピエロがもう一度こちらを向く。圭太は無理にも笑顔を浮かべて見せた。
「パプリカは嫌い?」
少しの間があった。ピエロはぞんざいに頭を掻くと、笑って泡を吐いた。
「ピーマンが自分でパプリカが他人だったっけ?」
言いながら、圭太の頭もぐしゃぐしゃと掻き回した。
「やれやれ。ケイタに励まされるなんて僕も子供だねぇ。情けなくていけないや」
圭太も笑う。戻ろう、と泳ぎ始めたピエロを追いながら、圭太はそっと顔を歪めた。胸のつかえはまだ取れていない。しかし、しょげた顔ばかりもできなかった。ピエロも圭太にそんな顔は見せない。ここに連れてきたということは、圭太が魔女であることにも気づいているのだろう。分かっていてこの話をしているのであれば、圭太ばかりが沈んだ顔をしてはいけないのだ。
アパートの近くへ行って、水中鬼ごっこをしていたアパートのみんなと合流する。
「あっリオン!ケイタにくっついてたの?どうりでいないと思ったら……流されちゃったのかと思ったよ」
ウサギが泳いできたが、リオンは圭太の後ろにすがりついただけだった。
「わ、リオンがなついてる!」
チコがぱっと笑った。その隙に後ろからジーンが忍び寄る。
「タッチ!次、チコが鬼」
「今のずるいよ!」
きゃらきゃらと笑いながら食堂に続く階段のところに潜り込む。そこからひょいと顔をのぞかせてチコが笑った。
「リオンがなついたってことは、ケイタって変人なんだ。三年前にピエロが来た時も、すぐになついてたもんね!」
にっと笑ってすばしっこく階段下に戻って行った。圭太はぽかんとしながらピエロを見上げる。ピエロは「仲間だね」と両手でピースしてみせた。
「仲間になりたくなかったんだけどなあ……」
重たくため息を吐いて口を覆った。
ピエロは嬉々として水中鬼ごっこに参戦しに行ったが、あいにく圭太は泳ぎ疲れて鬼ごっこをする元気はなかったので、みんなの邪魔にならないように花壇の縁を選んで腰を下ろす。リオンが圭太の服の裾を掴んだまま隣に座った。みんなが大声をあげて遊ぶ中、圭太はそっとリオンの方を盗み見た。リオンはかすかに顔を伏せたまま、圭太の服を掴んでいない方の手を後ろに伸ばして花壇の土をまさぐっていた。
「……何やってるの?」
躊躇いがちに圭太が聞く。リオンは顔を上げるようなそぶりを見せて、花壇から引き抜いた手を圭太の前に突きつけた。泥が雲のように広がって、圭太は思わず目を閉じる。そっと目を開けると、リオンの白い手は小さな小瓶を握っていた。中に花壇のものらしい泥が入っている。
「ど、泥を集めてるの?」
恐る恐る聞いてみると、丸眼鏡がずり落ちてかすかにうなずいたのが分かった。リオンは眼鏡を直しながら瓶のふたを閉め、斜め掛けに下げていた鞄を膝の上に乗せた。頭を突っ込むようにして中を検めるリオンの肩越しにそっと覗くと、中はポーチだらけで何が入っているのかは分からなかった。リオンは圭太の視線に気づいたのだろう、顔を上げると何やら小箱を取り出した。中を開くと先ほどと同じような小瓶がぴしりと詰まっている。それぞれラベルが貼ってあって、日付と場所が書いてあるようだった。
「集めて、どうするの?」
圭太が聞く。リオンはきょとんとしたように圭太を見上げた。初めて目が合う。すっきりした色の目だった。思いがけず真っ直ぐに目が合って顔を引くと、リオンはふと視線を切って鬼ごっこで盛り上がる階段下に顔を向けた。そのまま何も言わないので、答える気がないのだろうと思って圭太もそちらに目を向けようとしたとき、さざ波ほどの声が頬を撫でた。
「――外を」
え、と正面に向けかけた顔をリオンの方に戻すと、リオンは構わず続けた。
「街の外を、知りたい」
意外な言葉に、圭太の頭はとっさについていけなかった。口を開いて、閉じて、何度か瞬きをする。やっと出てきた言葉は自分でも意外なものだった。
「……俺も」
圭太は自分の言葉に驚いて口を噤んだ。言ってしまった後で、なんとなく納得が残る。圭太が本当は知っているはずの、この街の外。それを知れば、この街のことも分かるのではないかという気がした。この街のことを分かればキリのことも――この街を作ったキリのことも分かるんじゃないかと思った。圭太はどうしてこれほどまでに、キリのことを知りたいと思うのだろう。助けてくれたからだろうか、一人だからだろうか、それともどこか、圭太と似ている部分があるからだろうか。リオンは意外そうに圭太の顔を眺めた。それからかすかに泡を吐いて、真っ直ぐに圭太を見る。リオンの目は人を見つめ慣れていないせいか、何もかも見透かしてしまえそうなほど真っ直ぐだった。リオンは急に鞄の中に視線を戻すと、先ほど突っ込んだ小瓶の箱をもう一度引っ張りだした。
「これは、外とどう関係ある?」
分からない、と圭太は首を振った。さっぱり分からない。全く分からないが、リオンはその関係が見えているのだろうと、そう思っただけだった。リオンはまたもじっと圭太の顔を見て、それからまた視線を切った。
「調べたことを教える。ケイタの考えを聞きたい。今度、部屋に来て」
圭太はまじまじとリオンを見返した。きっとリオンは部屋に引きこもりきりで、外について調べていたのだろう。圭太よりもなお小さいリオンがそんなことを調べていたのも意外なら、それを圭太に話してくれたことも、圭太に関心を寄せて意見を聞きたがることも意外だった。圭太は頷くと、今度こそ住人たちの鬼ごっこに目をやった。歓声が水の中にこだまして、距離があるのに耳元で音が聞こえているような気がした。住人たちの輪から一歩引いて外れているのに、それすらも受け止められている。この歓声に身をゆだねていると、そんな気がする。圭太はゆっくりと上を見上げた。だんだんと水は引きはじめていて、遠く遠くに水面が揺らぐのが見えている。月か太陽かはっきりしない丸いものは、それでも碧い水の中に光を広げてそこにあった。




