水たまりの日
圭太はカラスの声を聞いた。カラスは嫌いだ。いつも白い縁の窓のそばで、女の人が嫌な顔をする。歪んだ顔に白い光が当たって、女の人はずいぶんと顔色が悪く見えた。
「やあね、またカラス。不吉だわ」
そう言ってかすかに眉根を寄せる女の人を見るのが嫌で、カラスは嫌いだった。自分はそんなに不吉を呼んでしまうのだろうかと、ついそう思ってしまう。不安で悲しくて歯が重たくなる。例えば自分がごく普通の、毎日学校に通っているような子どもだったら、カラスを見ても不吉だなんて言われないんじゃないかという気がしてしまう。黒猫がいれば不吉。靴紐がほどけても不吉。女の人の口癖は、思えば不吉という言葉だったかもしれない。だから圭太は、いろんなものが嫌いだった。カラスも、黒猫も、靴も、薬の袋もベットの白さも自分自身も。女の人は迷いを振り払うように圭太を振り返った。若草色の影が落ちる頬には、強張った笑顔が張り付いている。
「お腹空かない?アイスとか食べる?売店で買ってきてあげようか」
その笑顔を、圭太は戸惑って見返す。首の後ろを指で押されたような圧迫感があった。
「い、え……。あの、ここはどこですか?」
圭太が女の人に聞くと、女の人の顔がぐいと歪んだ。
「お前、また……」
悲痛な眉根に何か言葉を浮かべかけて、重たそうに首を振る。
「……いえ、いいえ。大丈夫。何でもないわ。ちょっと待っててね。何か甘いものでも買ってくるから。ご飯前だからちょっとだけね」
女の人はそう言い置くと、右鼻の脇に不格好な笑いじわを刻んでベット脇から立ち去った。
胸が痛い。無理やり穴をこじ開けられているような気がした。何が何だかも分からないのに、ただ痛みだけが大きく圭太をむしばんでいる。パジャマのボタンを握って背中を丸めてみる。この痛みを吐き出せないかと全身に力を込めて口を開けてみたが、出てきたのは涙だけだった。白いベットに影のような染みが出来ていく。次々に歪んでは、染みが増えていく。どうして圭太は泣いているのだろう。何が悲しいのかも分からず、ただひたすらにいたたまれない。何もかも嫌いだ。全部嫌いだ。圭太は圭太の目でしか物を見ることができない。圭太自身のことがこんなにも嫌いなら、その目に映るものだって何もかも嫌いだ。こんな目、閉じてしまえ。えいやと強く閉じた瞼の裏に白い油膜を刻んで、ようやく閉じられた、そう思った時、またカラスの鳴き声がこめかみを突き抜けた。
(――なんで、どうしたって、)
閉じることができない。瞼の隙間から涙が染み出す。こんなに閉じきったつもりなのに、カラスの声一つ切り離せない。こんなに力を込めた瞼にも、隙間ができて涙がこぼれる。
誰も傷つけたくない。圭太のせいで誰かが傷つくところなんて見たくなかった。どうすれば傷つけずに済むのかも分からない。さっきのやりとりだって、どうしようもなく何度も繰り返してきたことなのだろう。この痛みはなんとなく身に覚えのある感覚でもあった。カラスがもう一度鳴く。ケイタ、と呼ぶ声が遠く響く。その声は胸の痛みを少し和らげた。もう一度、誰かが圭太の名を呼ぶのがカラスの声に重なって聞こえた。
「……――イタ。ケイタ、起きて」
そっと目を開ける。肩を揺すっているのはピエロで、黄昏時の青い重たい空気が漂っていた。ピエロの向こうに電気のカバーが見える。
(あれ……?俺、ベッドに起き上がってなかったっけ……?今、地面ってどっち……)
ぼんやりと考えているうちに頭がはっきりしてきた。圭太は一度ゆっくり瞬きをした。こめかみから耳へくすぐったさが駆け抜けて、視界がくっきりと開ける。
「……ピエロ……?なんで俺の部屋にいるの」
ちょっと首を動かすと、夢の中のものは全てフィルムをこねたように形を失ってしまった。ピエロは茶化したように首を揺らしたが、なんとなくその面の下は笑っていないんじゃないかという気がした。面にくぐもった笑い声が聞こえたから、きっと気のせいだろうけど。
「窓、暑いからって開けっ放しにしちゃダメだよ。泥棒やらサンタやらピエロやら、入り放題じゃないか」
「ピエロは別に入り放題じゃないんだけど」
寝起きのかすれた声で言いながら、ベッドの上に身を起こす。目をこすりながら時計を見ると六時だった。目覚めはすっきりしなかったが、いつも起きるよりも遅いくらいである。圭太は目をしばしばさせながら電気の紐を引いて部屋を明るくした。ピエロの手にはゴーグルのようなものが二つ収まっている。圭太の視線に気づいてピエロが言った。
「今日は水たまりの日らしいよ。ケイタは水たまりの日、初めてでしょ」
うん、と分からないなりにも頷いた顎先に、ゴーグルを握った拳が突き出される。危うくぶつかりかけて、圭太はぐいと身を反らした。
「いずれ使うから貸しておくよ。それから、窓を全部閉めて。さぁて、急いだ急いだ!」
急かされるままに身支度を整えながら、圭太はちらりとピエロを盗み見る。ピエロ面のせいで、ピエロの考えていることは時々分かりにくくなる。油膜を解いて初めて見えたピエロ面には、何か感情が映っていただろうか。それに、ピエロはこのアパートの中では、大家さんに次ぐ不規則な生活時間帯の持ち主だった。こんな夜早くに叩き起こされることもあれば、日が昇り切ったころに帰ってくることもある。この街では珍しいことだった。仕事の時間はおおよそ決まっているだろうに、どこへ出かけているのだろう。圭太があれこれ考えるのをよそに、ピエロは窓という窓、トイレの通気口にまでカバーをかけて金具の鍵を閉める。引っ張り出されて家の鍵を閉め、ちょうど出てきたジーンと一緒に外階段を伝って地面に降りた。アパートの表側に回り込むと、ちらほらと街の人たちが外に出ているのが見えた。みんな不安そうにしている。一歩踏み出してみて、圭太は地面が足を吸い込むほどにぬかるんでいることに驚いた。
「ねえ、ピエロ。さっき言ってた、水たまりの日って何?」
足を持ち上げながら聞くと、ジーンが代わりに答えた。
「魔女がこの街の外に出かける日だ。時々あるんだよ。そうすると魔女の森から水が流れ込んできて、街が水に沈んじまう」
「街が沈む?大丈夫なんですか、それ」
他の住人たちも起き出してきて、自然と圭太たちのいる方に集まってきた。ジーンは目線で頭数を追いながらつぶやく。
「チコ、ウサギちゃん、ピエロ、ケイタ……。あれ、リオンがまだ出てきてないな。……まあ、今までも何度かあったからな。大丈夫だろうって願うしかねえよ」
ジーンが言った時、街の遠くからざわめきが上がった。魔女の森がある方からだ。
「うわあ、来たぁ」
楽しげに圭太のゴーグルを目元まで引き下げてやりながらピエロが笑う。
「ケイタ、何やってんの。早く、こっち!」
「流されちゃうよ!」
チコとウサギに言われて、圭太の顔が引きつった。街の隙間をぬって水が押し寄せてくる。柱や街灯に掴まった人たちの姿が乱れ模様に歪んでいく。混乱しながら、みんながやっているように圭太も外階段の手すりにしがみついた。水はもう目の前である。その瞬間、目の前を小さな影が駆け抜けた。大きな丸眼鏡にぼさぼさの黒髪、リオンだ。リオンはなぜか圭太めがけて他の住人たちの間を素早く駆け抜けると、せまりくる水の陰に隠れるようにして圭太にしがみついた。
「うっ、えっ?」
リオンとはまだ一言も言葉を交わしたことがない。それどころか、声を聞いたことも、目を合わせたことすらなかった。明らかに圭太を目指した動きに戸惑って、背中に張り付いたリオンの様子を確かめようとした途端、その横っ面を水しぶきが叩いた。みるみるうちに水かさは増し、あっという間に全身が水に浸る。それでも水かさは留まることなく増え続けた。息を止めたまま手すりに掴まり、浮力と押し流す勢いに逆らう。息が苦しくなってきたとき、ふいに背中にあった圧迫感が緩んだ。はっとして振り向くと、圭太よりさらに小さいリオンの体が流されそうになっている。両足はもはや地面を捉えていなかった。圭太の服を掴んだ両手が今にも滑ってしまいそうだ。圭太は息を呑むと、手を伸ばしてリオンを引き寄せた。流れに逆らってリオンを引き戻すと、自分の前側に引っ張り込み、抱え込むようにして両手で手すりにしがみついた。流れがだんだんとゆるくなる。そこで気付いた。さっきから、呼吸が楽にできていることに。
(水の中なのに……)
思いながらも、どこかでは異常だという気がしなかった。キリは魔女の子で魔法が使えた。そのキリが出かけたことによって水があふれてきたのだから、その水の中で呼吸ができてもおかしくない気がした。だんだんと緩んできた流れの中で、圭太は後ろから肩を叩かれた。振り返るとピエロが手を振っている。
「ここから動いてもいいの?」
「もう大丈夫でしょ。泳いでいろんなところ行けるから」
壺の中で話をしているようだった。往来のざわめきはいっそう大きく形があいまいで、ひどく聞き取りにくい。それでもピエロは、面の横から空気を吐いて大げさに身振りをするから、何を言っているのかは分かった。圭太は頷くと両手を差し出して水を掻いた。と、腹のあたりでそれに抵抗する何かの力がかかって、圭太は視線を落とした。リオンだった。リオンは何を考えているのか圭太のTシャツに縋り付いたまま顔を上げない。圭太は瞬きをして、固く握られた拳をつついた。
「い、一緒に来る?……ですか?」
声を出すと大量の空気が目の前を覆った。息を吸っても水は飲みこまれないくせに、なんだか不思議だ。吐くときばかり形になるなんて。腹の前でリオンがかすかに頷く。圭太はリオンの顔を窺いつつ、その手首を握ってピエロのところまで泳いで行った。リオンは水を掻くことも足を揺らすこともなく、引かれるままに流れてきた。もしかしたら泳げないのかもしれない。ピエロは圭太の先ですいすいと泳ぎながら、次第に上へと泳いで行った。その背中を追って流れてきた植木鉢を片手で押しのけながら、もう片手で引いてきたリオンの様子を振り返る。相変わらず下を見ているばかりで圭太と目が合わない。眼鏡に拒まれている気分がした。リオンの視線の先になにかありはしないかと見下ろした圭太の眼下で、いつの間にかアパートの屋根が見下ろせるくらいの高さが広がっていた。上を見上げると、月か太陽か、ぼんやり丸いものが澄んだ碧色の水に光を広げている。
(そういえば、なんだか明るい気がする)
黄昏時をそのまま止めたような明るさだった。暗くも明るくもない。ただ水で満たされた街の中に、何か光が滑っている――そんな感じ。水面は見えなかった。どこまでも水面は見えず、空も水に浸かっている気がした。ひょっとしたらあの月か太陽も、この水の中にあるものなのかもしれない。
圭太は水を蹴ってピエロに追いつくと、その足を叩いた。
「どうかしたのかい?」
泳ぎを止めて惰性で流されながら振り返ったピエロに、圭太は行き先を示して見せた。
「これ、どこに向かってるの?仕事場?こんな状態で仕事できるの?」
圭太が言うと、ピエロは泡を吐き出して笑った。
「まっさかぁ。水たまりの日は建物の中には入れないよ。部屋がひどいことになっちゃう」
言われてみれば、出かける前に窓という窓を閉めていた。あれは水が流れ込まないようにするためのものだったらしい。
「じゃ、どこに行くの?」
圭太がピエロの顔を窺うと、
「どこに行くと思う?」
そっくり同じ動きで聞き返された。圭太はゴーグルの下でくしゃりと顔をしかめた。
「……分かんないから聞いたのに。教えてよ」
「秘密」
さもおかしげに笑いながら、ピエロはまた水を掻き始めた。
「行けば分かるんじゃないかな」
圭太は顔をしかめたまま、同じようにしてピエロの後ろを追った。やっぱり何を考えているのか分からない。それなのに、分からないからと言って嫌いになれるような相手でもなかった。圭太の知る環境では、何を考えているか分からない人は嫌われるというのが当たり前だった。もしかしたらそれは、子供の見方でしかないのかもしれないけれど。この街では、何を考えているのか分からないなんてことは問題にはされなかった。
(でも、俺の知ってる環境って……?)
圭太の一番初めの記憶は、森で目覚めたあの瞬間しかなかった。記憶にある限り、圭太はこの街にいたようなものだ。なのにどうして、この街以外の環境を知っているのだろう。具体的な記憶はないとしても。そうだ、この街に来たばかりのころにも思ったのだ。この街の記憶しかないはずなのに、いろんなことが普通じゃないと思った。圭太にとって『普通』の街を知らなければ、そんな風には思えないはずだ。
(じゃあ、俺はもしかして)
胸に湧き上がってきた不安が形になる前に、圭太は激しく首を振って考えるのをやめようとした。胸がずきんと痛む。このところ、不安が浮かぶたびに胸が痛くなっている気がする。急に言葉が思い出された。『拾われた子犬はもしかしたら病気の予防注射をしていないかもしれません。そんな子犬に、飼い主はいつ噛みつかれるのかとびくびくしています。さて、子犬はいつ保健所に戻されてしまうでしょうか』という、ピエロの言葉が。あの時は何を言っているのか分からなかったが、今ならこの言葉の意味が分かる。飼い主に害をなす子犬はいつ捨てられてしまうのだろうかと、これはそういう意味だ。それが怖かったのだ。あんな風にキリを魔女というだけで冷たく切り離したジーンを見て、街の外から来た自分も切り捨てられてしまうのではないかと怖くなって、ジーンを嫌いそうになった。それでも立ち直れたのは、圭太に街の外の記憶がなかったからだ。しかしよくよく考えてみればどうだ。キリはこの街以外はないと断言していた。それでも魔女なのだ。噂によればこの街を作ったはずなのに、街からは切り離され、嫌われている。ならば自分は――。心の中が不安で塗りこめられようとしたときだった。
「ほら、着いた。見覚えがあるんじゃない?」
ピエロに話しかけられて、圭太ははっと物思いから顔を上げた。幸いにも、ピエロは圭太が不安に駆られて潰れそうになっていたことには気づいていないようだった。




