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開かずの戸

 風呂から上がったあと、ピエロの誘いを受けてジーンの部屋に向かった。

「ねえ、何でもなさそうだったし、いいんじゃない?わざわざ行かなくたって」

及び腰で階段を上りながら圭太が言うと、ピエロは圭太と肩を組んだ。ピエロは圭太よりもずっと背が高いから、自然と膝を曲げて中腰の格好になる。

「何でもないなら、部屋に上がったっていいんじゃない?……大体、ケイタの悩みがはっきりしないじゃない。僕にはもっと別なことで悩んでるように見えたよ、この件」

「別のことって?」

ピエロを見上げる。ピエロはこちらを向き、ちょっと笑ったように息を吐いただけで、何も言わずにケイタとピエロの部屋を通り越した。ジーンの部屋の前に来て深呼吸する圭太に、こっそりと耳打つ声がする。

「拾われた子犬はもしかしたら病気の予防注射をしていないかもしれません。そんな子犬に、飼い主はいつ噛みつかれるのかとびくびくしています。さて、子犬はいつ保健所に戻されてしまうでしょうか。――ケイタの思ってる現状は、こういうことでしょ」

え、と言いながら振り返ると、ピエロの面と正面衝突する。呻いて額を押さえたとき、ドアベルの音がした。遅れて、ジーンの返事も。圭太は涙目でピエロを睨む。ピエロは口笛を吹きながらそっぽを向いた。ピエロはお面越しの頭突きだからさほど痛くはないが、圭太は防具になるものなど何もない。ひりひりする額をさすって、出てきたジーンにちょっと会釈する。

「夜にすみません」

芯のない声で圭太が言う。返事を待たずにピエロが圭太の背中を押した。

「ジーン、上がってもいいかい?面白い話を持って来たんだけどね」

ピエロの申し出にジーンの眉が上がる。

「面白い話?何だ、聞かせてくれるのか?ま、上がってけよ」

ドアを大きく開いてジーンが脇にどく。お邪魔しまーす、と声を上げて、ピエロが圭太を玄関に押し上げた。逃げ腰に廊下を進みながらも圭太はピエロの顔を窺う。ピエロの言う面白い話とは、圭太のことだろうか。それに、さっき言っていた拾われた子犬の話がうまく理解できなかった。ピエロは何かと圭太を拾われた子犬に例えたがる。圭太に限らず、何でもかんでも例え話にする癖があって、時々何の話なのかが理解できないことが多かった。さっきの話も圭太のことを言っているのだろうが、予防注射とか保健所とか、いまいちよく分からなかった。

 ジーンは圭太たちをリビングに上げると電気を点けた。外はすでに明るくなっていて、街並みも穏やかな色になっている。差し込む陽射しが窓際から部屋の真ん中までを照らしていた。ジーンは冷えた麦茶をテーブルに置きながら自分のグラスに口をつけた。

「――で?面白い話って何だ」

いそいそとグラスを置いて身を乗り出す。机の端に重ねたメモ用紙に手を伸ばしながら、もう片手でポケットを探ってペンを取り出した。ジーンは取材のネタになる話は何でも好きだ。盗み見る目線に気付いているのかいないのか、ジーンは圭太に目もくれず手帳に日付を書きこんでいく。ピエロもジーンを真似て身を乗り出した。

「――ユイの隣の部屋が空き部屋だったろう」

ユイというのは、圭太が食事当番のペアを組んでいる引きこもりの女の子のことだ。食事当番の時も黙り込んだままで、大きな丸眼鏡に邪魔されてどんな子なのかがまだ掴めずにいる。ジーンは眉をひそめた。

「一階の、大家さんちに一番近い、開かずの部屋だろう。あれがどうした」

ジーンの表情を受けてピエロはさらに声を低めた。心なしか、ピエロ面もニンマリ笑みを深めたような気がする。

「実はね、あの部屋に関して大家さんの言動が変なんだ。やたらぼかして、なんだか隠し事があるみたいな感じでね。……どうだい、我がアパート最大の秘密だろう」

「なんだ、そんなことか」

予想に反して、ジーンはあっさりとペンを投げた。手帳もテーブルの上に戻して勢いよくグラスを飲み干す。ピエロはきょとんとジーンを見た。

「そんなこと、って。面白そうじゃないか」

「内輪ネタじゃ記事にはならないんだっての。前から言ってるだろうが」

ジーンの声は心底面倒臭げな調子だ。いいネタだと思って期待していたのに、裏切られた気分なのだろう。もしかしたら前にも何度かこういったことを繰り返したのかもしれない。ピエロは他人の言葉をしばしば忘れる。ジーンはグラスを置いて、飲み口を指で拭った。

「それにな、大家さん絡みならやめとけ。あとが怖いから」

手を振ってそっぽを向き、追い払う仕草をしてみせる。ピエロは何やら悔しげに肩を縮めた。その鼻先に追い払う手がぶつかり、ピエロは納得がいかない風でさらに縮こまる。そしていきなり伸び上がるようにして立ち上がると、圭太の腕を引き上げて肩を掴んだ。

「ならいいよ、ジーンは来なくても。ケイタと二人で探検しちゃうから。そんなナリしてビビりなんだし、どうせ興味がないなら無理しなくたっていいよ。てことは、あとで感想も要らないんだろうね?」

言いながら、肩を掴んだまま圭太を引きずって部屋から出て行こうとする。おい、と声を上げながらジーンがにわかにそわそわと手を泳がせ、それから手を伸ばして圭太のベルトを掴んだ。ジーンはちょっと目を逸らしたまま何も言わない。ずり落ちそうになったズボンを引き上げて、圭太はジーンとピエロに交互に目をやった。きょとんとした三秒間、先に動いたのはピエロだ。抜き足差し足でジーンのもとに忍び寄ると、笑いを抑えきれない風で口元に手をやりながらジーンの顔を覗き込む。

「大家さんに見つかると困るから監視役を買って出てくれた。なんていう筋書きなら納得できそう?どう?それとも僕たちが馬鹿なことをしでかさないように見張ってたってことにしておく?もしくはたまたま居合わせたことにする?」

どうとでも、とジーンの声は低い。ピエロ面がさらにしたり顔を深めたように見えた。面の下のにやにや笑いまで目に浮かぶようだ。ピエロが背中を丸めて笑い転げた。

大家さんに見つからないように三人連れだって件の部屋へ向かう。大家さんは食事当番を代わった日、決まって早く寝るのだという。これはチャンスとばかり、すでに昇った陽射しの中、外階段側から回り込んで開かずの部屋の前に息を潜めた。ジーンがさっさと手を伸ばしてドアノブを揺する。ああいう態度をとったところで、人一倍好奇心の強いジーンのことだ。きっと以前から気になっていたのだろう。もちろん鍵がかかっている。揺すっても開く様子はなく、だたのっぺりとした沈黙だけが返ってきた。この街に住むと、かえって昼の怖さが分かる。身を隠すところがない。隠れても影が出来てしまう。どこからも見られているような気がして落ち着かない。

「ねえ、やめようよ。隠してるならわざわざ見ない方がいいよ。それに、鍵だって」

圭太が必死に言うのにも耳を貸さない。ピエロはなだめるように圭太の肩を叩いて笑った。その手には鍵束が握られている。圭太が部屋を借りたときに大家さんの家で見たあの鍵束だった。そこから一〇一号室の鍵を選び出すと、圭太とジーンに向かって振ってみせる。圭太は無言で頭を抱えた。いつこんなものを取ってきたのか、考えるだけでも恐ろしい。人の裏をかいて遊ぶのが何より好きなこのピエロが、まともな方法でこの鍵束を入手するわけがない。もしかしたら今日、急に食事当番が大家さんになったのにも関係があるのかもしれない。だって料理を作っている間、大家さんの家はフリーだ。

「俺、大家さんに怒られたくないよー……」

情けない声を上げると、両脇からそれぞれピエロとジーンが肘を掴む。大丈夫だって、と励まされながら、鍵穴を差し込んだピエロの後ろにつく。ドアノブを回すと、微かな隙間に暗がりが染み出してきた。

「おっ、開いたよ」

ピエロがさらにドアを押し開く。さらに暗がりが溶け出して、埃っぽい冷えた空気の中に、一段高くなったフローリングの床が見えた。

「玄関じゃないな……。オレたちの部屋と造りが違うみたいだ」

フローリングの床には砂埃が積もって、触ってみると乾いた感触がした。雨戸を閉て切った暗い部屋に、淡い陽射しと三つの影が差し込んでいる。一番背の高いジーンの影が差し掛かる位置に、何か取っ手のようなものが見えた。

「……ねえ、なんかあそこにある」

「どれ?」

「あそこ」

視線の高さを合わせようとピエロが腰を落とす。部屋の中のピエロの影も小さくなる。部屋が少し明るくなる。もう少しで見えそうな明るさになったとき、ふいにピエロの影が伸びて明かりを遮った。ジーンも部屋の中をじっと見透かしながらピエロの袖を引く。

「さっきくらいにしゃがんでくれるか」

圭太が隣に目をやる。目をやった先のピエロの面は、なぜか圭太の目線の高さちょうどで止まっている。部屋の中のピエロの影は、立った時と同じ高さなのに。少し目を落とすと中腰の膝がかすかに震えている。動かぬ面に緊張が走っている。

「……ピエロ?どうしたの」

不安を呼び起こしかけた圭太の視界に、ぬっと手が現れる。日差しをまとった腕が真っ直ぐピエロの頭に向かい、大きく開かれた指先がピエロの頭を掴んだ。圭太はとっさに手が伸びてきた方に目をやり、声を飲み込んだ。

「肝試しかねぇ。こんな明るい時間に、アパートの合鍵をアタシの家から盗み出して平気でいられるなんて、十分あんたたちの肝は据わってるってのに。ねェ?わざわざ試すまでもないだろうよ」

微かにかすれのあるハスキーな声に、圭太の全身からじわっと汗が浮いた。紛れもなく大家だった。逆光でいつもの顔はさらに恐ろしい。ぎらつく目で口の端を歪め、大人しく頭を掴まれているピエロをじろりと見た。後ろにいたジーンが、動けずにいる圭太の頭を後ろから掴んで下に押し込んだ。

「すまん!噂があったんで、好奇心だ」

ふぅん、と大家の声は冷たい。頭を押し込まれた圭太も、押し込みながら深々と頭を下げているジーンの顔も強張っている。下げた頭の下でお互いに目を見交わした。とりあえずひたすら謝るしかない、とジーンの目が言っている。大家が鼻を鳴らした。

「その噂ってのはどいつが持ち込んだ?それを確かめようって提案は?」

ジーンも圭太も言葉に詰まり、しんと声が途切れる。それを教えたらどうなるかは、おおよそ見当がつく。

「言えないってのかい、え?アタシの管理してる部屋をこじ開けようとしといて?冗談じゃない。まァ、ここで吐かないならあとでそいつを叩き出すだけだ。それを良しとするなら、好きにすればいいさ」

「ピエロです!」

思わず顔を上げて圭太が叫ぶ。ピエロが頭を掴まれたまま、弾かれたように振り返った。

「ちょっと、ケイタ!なんで言っちゃうの」

「だって言わなかったらピエロが追い出されちゃうし!」

「言ったら言ったで追い出されちゃうでしょ!」

あたふたと手を振り合っていると、大家がピエロの頭めがけて真上からげんこつを叩き込んだ。両手で頭を押さえたピエロの目の前にしゃがみ込み、大家は相変わらずぎらついた目に笑みを浮かべた。

「だろうねえ。あんたの考えそうなことだよ。さぁて、主犯には説教をさせてもらうよ。あとで他の二人にも伝えてやってほしいからねェ」

言いながらピエロの肩を掴む。ピエロはしゅんとうなだれて、大人しく家に向かう大家の後ろについていった。当面の難を免れたジーンと圭太は、その背中を見送って顔を見合わせた。ジーンの顔には安堵が、圭太の顔には不安がある。

「ねえ、ピエロ大丈夫かな……」

圭太が言うとジーンは肩を竦めた。

「あれ見ろ」

ジーンの指さした方を見て、圭太はピエロへの心配を投げ捨てた。示された先には、先ほどまでピエロがいた足跡が残っている。コンクリート地に砂の積もったその場所に、爪先で何かを書いた跡があった。よくよく目を凝らすと、お茶目にウィンクしたピエロ面の絵である。なんとなく腹の立つこの絵は、おそらくさっきまでピエロが書いていたものだろう。爪先でこんなものを書いている余裕があるなら、いくら大家さんが相手と言えども大丈夫なのだろう。大丈夫でなかったとしても、心配なんかしてやるもんか。圭太は心を決めて、さっさとベットに入るべくジーンと連れ立って部屋へ戻った。明日も早い。ジーンがくれた仕事がたくさんある。日が昇った空は、一筋の輝く雲を刷いてくっきりと晴れていた。圭太が初めてこの街に来た日の空よりも、ずっと奥歯に沁みる青だった。


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