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魔女の子

 目覚めたときは夜だった。圭太は身を起こす。どうにも変な気分で、頭を振ったら眩暈がした。前髪を掻いて空を見上げる。風が吹いていた。切り絵のような木に囲まれていて、枝を透かして月が昇っている。手を突くと芝生みたいに刈りこまれた感触がして、立ち上がれば木々はざわめいた。圭太は瞬く。どうして自分がこんなところにいるのか、まるで分らなかった。どうやってここまで来たのかも、どうしてこんなところで寝ていたのかも思い出せない。ただ、ここで寝ていたことに強い安堵があった。

(ああ、よかった。これで家に――家?)

圭太は首を傾げる。家がどうしたというのか。まるで変な夢でも見ているようだと圭太は思った。

 とりあえず前に向かって歩いてみた。一歩踏み出すと、木がざわめいて道を開ける。暗いせいもあるかもしれないが、本当に圭太を迎え入れるように木立が割れたように見えた。あるいは、圭太を避けるようにして。それに引き込まれるように、もう一歩、もう二歩と歩みを進めていく。歩くたびに木立の群れが割れて、踏み込めばますます道は広くなった。だんだんと面白くなってきて、圭太は駆け出す。慌てたように割れる木々の中に夢中で突っ込んでいき、唐突に開けた場所に転げ出た。

「あれ……?」

頭にたくさん葉っぱをひっかけながら起きあがる。振り仰いだ先に見えたものに、圭太は瞬いた。

 大きな木が目の前にある。細い木立の群れに囲まれた広場の真ん中に、その木はあった。圭太が出てきたのも、その細い木立の群れの中である。太い幹に、広がった枝。枝を透かして大きな月が光っていて、逆光でその木も黒々としていた。その太い枝のうちの一本に、華奢なブランコが一つかかっている。圭太が爪先立って思い切り手を伸ばせば届きそうな長さで、華奢というよりは素朴な作りというべきそのブランコには小さな人影があった。俯き加減にブランコに腰かけて、目を伏せたままゆっくりと漕いでいる。大きな月を背景に、その人物の横顔の輪郭線だけが白くぼやけて浮かんでいた。その人物が膝を曲げるたびに、キィ、とかすかな音がする。揺れたブランコに遅れてなびくものがあった。静かな木立の広場に、ブランコの軋む音だけが響いて消える。

 圭太が呆然とその風景を眺めていると、不意にその人影が顔を上げた。それからふとこちらを見て、軽く身を引いた。

「だ、れ……?」

細い声がして、圭太はその人影が少女であることを悟った。女の子はブランコをこぐのを止めて、惰性でふらふら揺れるブランコの上で緊張した様子で身動きをしない。圭太は遠く呼びかけた。

「あの、何してるの?」

声をかけると、少女は肩を揺らした。

「だ、誰?」

焦ったような声に、圭太も慌てて返した。

「俺は圭太。こんな夜遅くに、何してるの?」

圭太が聞くと、少女は肩の力を抜いた。

「ブランコに乗ってるの。――ねえ、隠れてないで出てきて」

「別に、隠れてるわけじゃ……」

言いながらも顔が赤くなる。転げまわって頭にはっぱを付けた状態で木陰から覗いていたら、確かに隠れているように見えるだろう。髪の毛を払い、月明かりのもとに出ていく。闇に慣れ始めた目に、静かな少女の微笑みが見えた。

「泥だらけ」

うん、とくぐもった声で頷きながら頬をこする。今更ながら、なんでこんなところにいるのだろうと思っていた。圭太はブランコの下から少女を見上げた。

「どうやってそれ、上るの?…えっと、名前は、なんていうの」

圭太が聞くと、少女は少し困ったようにして、それからキリ、と小さくつぶやいた。

「キリ?」

「うん、多分……」

不安げに頷いて、それからふと手を伸ばした。

「上り方、教えてあげようか」

悪戯っぽい色のある淡い笑みに、圭太が首を傾げながら手を伸ばす。キリの手に指先がふれた瞬間、圭太の体がふわっと浮き上がった。

「えっ?あっ、これなに?…わぁっ、降ろして!」

圭太が手足をばたつかせて叫ぶ。ふわっと地面に下ろしてもらうと、圭太は眩暈がした。

「い、今のなに?どうやったの?」

キリはくすくすと笑って、長い髪を耳にかけた。

「私ね、お母さんだけ魔女なの。だから魔法が使えるの」

「えぇ?」

圭太は思い切り変な声を上げた。

「嘘だ」

笑って圭太が言うと、少女はきょとんとする。圭太はなんだかきまりが悪くなって口を噤んでしまった。圭太が会話に困って手を握ったり開いたりしていると、キリは足元にいる圭太を見下ろした。

「圭太、おうちはどこ」

「えっ」

奇妙なことを言われた気がした。家、というものが意識の外にあった気がする。今度は圭太が困って口ごもっていると、キリは少し首を傾げ、それからもう一度圭太に向かって手を伸ばした。

「なら、今日は家に泊まってもいいよ」

圭太は迷って、伸ばしかけた手を引っ込めた。戸惑ってキリを見上げると、キリは黙って手を伸ばしたままでいる。なんとなくそれに安心して、圭太はもう一度、精一杯腕を伸ばしてキリの手を取った。

 キリの家は木立の森の奥にあるという。圭太が出てきたところとは反対側の小道を進んでいく。月明かりだけが枝を透かして照らす道を、明かりもなしにすいすいと進む。道が複雑になってきた途中から、キリが圭太の手を引いてくれた。芝生のような道からだんだんと小石が増え始め、進んでいくうちにゴロゴロとした岩の多い荒れた道になっていった。

木立も初めはすらりとした枝ばかりだったのが、だんだんとこぶの多い木になってきて、今は背の高い針葉樹がうっそりと茂る重たい道になってきている。圭太が不安になって周りを見回していると、キリはうっすらと振り返った。

「私が住むところ、こわい?」

落ち着いた声で訊かれて、圭太は小さく首を振り返す。

「ううん、そんなことない」

言うと、キリはちょっと妙な顔をして、それから排気ガスの煙を吸った時のような笑顔を浮かべた。それからしばらく森の中を歩き、切り株が増えてきた辺りで山小屋のような小さな家が見えた。煙突が月の光を遮っている。それを見上げて少女がぽつりと言った。

「あ……お母さん、出かけてる」

少女の虚ろな視線を追って暗い窓を見やる。しんと静まった家にはひっそりと物音もなく、すすけた壁は月明かりに冷えている。

「どこに行っちゃったの?」

圭太が聞くと、キリは圭太の顔を見返した。

「おしごと。お母さんいつも忙しくて、あんまり家にいないの」

「へえ…」

圭太は重たい扉を押し開けるキリについていった。玄関の前は三段ほど高くなっており、中に入ると、大きな傘の付いた電球のスイッチを入れる。オレンジ色の光が部屋いっぱいに広がって、殺風景な部屋の様子が見て取れた。素っ気ない木の机に、木材を組み合わせただけの簡素な椅子が二つ。キッチンがあって食器棚があって、奥の暖炉に小さな灯がともっている。壁にいくつか釘が打ってあって、そこに何かのドライフラワーのようなものが幾束にも分けられてつるしてあった。

(外国のおうちみたいだ)

キリは慣れた手つきで暖炉の埋火を掻き起こし、ヤカンに水を入れた。

「お風呂立ててくるから、ちょっとそこで待ってて」

「泊めてくれるだけで大丈夫」

慌てて圭太が言うと、キリはちょっとため息を吐く。

「ただ泊めるのに、そんなに泥だらけじゃダメ」

言われて圭太は改めて自分の体をライトのもとで見、それからちょっと顔を赤くして頷いた。

 お風呂に入って、お茶を出してもらってやっと人心地着くと、改めて自分の状況に混乱し始めた。圭太はお茶をすすりながら記憶にある限りのことを思い返してみた。まず、目が覚めたのだ。そこからがすでにおかしい。寝る前の記憶が一切ないのだ。これはおかしなことだが、しかしなんとなく身に覚えのある感覚でもあった。それから、こんな時間に森の奥にいた少女に、信じがたいことだが魔法が使えるという事実。森の奥の荒れ地にあるおかしな家に、魔女の母を持つ女の子。

(なんだよ、もうよく分かんないや)

考え込んだ末、結局わからなくて圭太は思考を放棄した。代わりに、目の前で自分と同じようにして座っているキリに目をやった。

「お母さんって、いつくらいに帰ってくるの?」

訊くと、キリはマグカップを覗き込んでいた目を上げた。

「分からないの」

とだけ言って、紺青に沈んだ窓の外に目をやる。少し、寂しそうな眼をしていた。

「早く帰ってこないかなぁ……」

呟いて、キリはこちらに向き直る。寂しげな色は消えて、微笑みの中に悪戯っぽい光を秘めていた。

「ね、私のお母さんってこわい魔女だと思う?それとも優しい魔女かな?」

圭太はちょっと面食らう。部屋を見る限り、おとぎ話の魔女の家にあったような大きな鍋も、人間の頭蓋骨も動物の標本もトカゲの干した奴もない。けれど、魔女というくらいだ、あまり優しいというイメージもない。だが、キリを見ていると、この子が悪い魔女のもとで育っている様子というのが、ちょっと想像できなかった。困って瞬いたままキリを見ていると、キリはくすくすと笑う。

「お母さんは悪い魔女じゃないけど、とっても怖いんだよ。怒るとね、大きい声を出すの。雷みたいだねっていつもお父さんが――」

言いかけて口を噤む。圭太が首を傾げると、少女は困ったように圭太を見返した。

「なに言おうと思ってたか、わすれちゃった」

圭太は笑い返して、お茶を一口飲んだ。

「俺も時々、そういうのある」

少女も困ったように笑って、そうして席を立った。マグカップを片付け始めて、慌てて圭太もそれに倣う。

「もう寝る時間?」

眠気がまだなかった圭太はそう訊いたのだが、キリは意外そうな顔を上げる。

「ううん。まだ、全然……。さっきも思ったけど、圭太ってここの人じゃないの?」

「ここの人、って?」

キリはちょっと瞬いて気後れした顔をしただけで、これには答えなかった。代わりに圭太の手をそっと引いて玄関を押し開く。ぬるく乾いた風が吹き込んできた。

「おさんぽ、いこ」

圭太は黙って足を踏み出した。絨毯の織り目が毛羽立っている。キリに手を引かれるままに、電気も点けっぱなしの家を抜け出した。

 家の周りをぐるりと回り込み、今度は裏手の森を進んでいく。針葉樹の森はさっき通り抜けてきた小道よりもずっと密に木が生えていて、少女に手を引かれるままに進んでいくと肩や腕に固い葉が刺さっては引っかかっていく。

 先ほどは真っ直ぐな細い小道だったのが、今通っているのは道というよりは木々の隙間という感じがする。枝を潜り抜け、太い根をまたぎこす。乾いたジャングルみたいだった。なんだかずっとめまいがする気がする。足元がおぼつかなくて、不安定にぐらぐら揺れる。キリの足取りは早い。腕を引かれているから足を緩めることもできなくて、それなのにキリはどんどん離れていくように感じられる。

(待って……)

こつん、と爪先に木の根が当たる。声を上げる間もなくバランスを崩し、キリの手を引いたまま体が傾いだ。転ぶ、と思った瞬間、ふわっと体が浮かぶ。キリに抱き止められて、それで圭太にもさっきの浮遊感が魔法によるものだと知った。

「ごめん。大丈夫?」

キリが言って、圭太は頷く。

「う、うん。ごめん。なんか、変な感じで……」

圭太が言うと、キリは何度か瞬いた。それから、うんと頷き返してもう一度手を引いた。

「もうちょっとで着くの。だから、ごめんね。急がないといけないから」

言うと、圭太の手を引いたまま小走りに駆けだした。圭太は足元が覚束ない感覚を強いて無視しながら精一杯足を動かす。転んではキリに魔法で持ち上げられて、圭太は少し情けない。女の子に助けられること自体よりも、この程度の道を歩き通せない自分が情けなかった。こぶを避けて垂れた枝をのけると、唐突に目の前が開けた。見上げて圭太は目を見開く。

建物の隙間越しに色とりどりのライトが星のように広がる。狭い町並みはどこも壁が鮮やかな色で塗られていて、白いライトが当たっていても人が行き交う道に鮮やかな影を落とす。背の高さも様々な建物は小路も見出せないほどにぎっしりと詰められ、そのどれもが楽しそうな装飾をつけている。道は白いレンガ敷きだったが、どんな法則か、まばらにピンクや紫のレンガが混ざっていた。その道のあちこちに見世物の人だかりができていて、道化師や楽隊が窮屈な往来を賑わせている。それが、細い小路から顔を出すと見えた。

「なに、ここ……」

圭太は顔を引きつらせて、うずうずと物陰から街を覗き見るキリを小路の奥に引っ張り込んだ。灰色の綺麗な猫が足元をすり抜けて走り去っていく。キリは驚いて圭太を見る。

「なに?なんだよ、ここ!」

震えた声が裏返る。キリの黒いワンピースの袖を握って肩が震える。圭太が続く言葉を見つけられずに口を開けたり閉じたりしていると、キリはちょっと顔を曇らせて俯く。ふいとあげた顔には複雑な感じの笑みが浮かんでいる。

「私もわかんない。――……ごめん、帰ろう」

「俺は」

「困ってるみたいだったから、この街を見てもらいたかったの。でもびっくりさせちゃったみたい。ごめんね」

そこでちょっと言葉を切って、キリは圭太の手を握る。

「でも、うちにいたらダメなの。だから今日は家に泊めてあげられるけど、明日からはこの街に住んで」

圭太は混乱の極みにあった。キリが握った手を振りほどく。

「ここはどこ?」

初めてその問いが現実味を帯びて体にまとわりつき始めていた。キリは口を噤んで圭太を見ただけで、何も答えなかった。圭太は言い募る。

「この街以外に街はないの?住めるところなんていくらでも」

「この街しかないよ。あとはうちだけ。でもうちはダメなの」

圭太は炎を消された気分になった。なんで、と自分の細い声が聞こえた。

「お母さんが怒るから?」

圭太が小さく聞くと、キリは首を振る。

「私のうちには、私しか住めないの。うちの周りの森は魔女の森なの。他の人がいると、気が狂っちゃうって言われた。圭太、さっき具合悪かったのも、もしかしたらそのせいかもしれない。だから、泊めるのは今日だけ。お願い」

目を強く閉じて、キリは祈るようにしてみせる。圭太はそれ以上何も言えなくなって、気まずく身じろぎをした。黙った二人の間に、賑やかな音楽が流れる。人々の笑うざわめきがくぐもって、それがなお一層沈黙を際立たせる。キリはもう一度圭太の手を取って、反対側に歩き出した。魔女の森に進んでいくキリに、圭太は黙ったままついていった。何かを話すのが怖くなってしまった。この意味の分からない街でたった一人知り合えたキリに、見捨てられてしまうのが怖かった。

 二人とも黙ったままもと来た道をたどり、暗い道の先に家の明かりが見えたときは心底ほっとした。

「やっとついたね」

圭太がそっと言うと、キリもうんと頷いて家の表側に回り込む。キリは回り込む間も、家に入ってからも手を離さなかった。圭太が離そうとすると、キリがぐいと手を引く。仕方がないので、キリに手を引かれるままにソファに座った。

「これから何する?」

圭太が聞く。キリは目を合わせずに、寝る?と言った。

「まだ全然、ってさっき言ってたよ」

圭太が訊くと、キリも頷く。

「だけど、昼にまたあの街に行きたいの。だからうんと早く寝ちゃったほうがいい」

そっか、と圭太は口の中で返した。そういわれるとなんだか眠くなった気もする。気のせいかもしれないが、魔法がホイホイ使えるなら、寝た方がいいと言われた時に眠くなることはそんなに不思議なことではない気がした。

 目が覚めると、いつの間にかソファに横たわっていた。いつの間にか眠ってしまったらしかった。がばっと身を起こすと、掛けられていた薄い毛布が肩口を滑り落ちていった。日が高い。窓から差し込んだ光が窓際に細く濃い影を落としていた。どれくらい眠っていたのだろうと辺りを見回して、この家に時計がなかったことを思い出す。キリはどこへ行ったのだろうか。この部屋にも、もちろんソファの隣にもキリの姿はなかった。ソファを降りて靴を履き直し、手近な扉を開いて回る。トイレがあって、裏口があって、脱衣所があったがそのどこにもキリはいなかった。首を傾げてもう一度ソファに戻ったとき、部屋の隅の絨毯がかかってないあたりの床が突然開いた。ぽかんと口を開けていると、梯子を伝って寝ぼけまなこのキリが這い上がってくる。床に座り込んだままきちんと床の戸を閉めると、キリはソファに座って固まっている圭太に目を止めた。

「圭太、おはよう」

溶けたような声で笑みながらそう言って、キリは黒地にグレーの模様があるネグリジェを引きずって脱衣所に消えた。一階建ての小さな家と侮っていたら、床下にも部屋があったらしい。恐れ入った気分で毛布を畳む。小さく金属が軋む音がして、水が流れ出す音がした。バシャバシャと顔を洗う音がする。少しして、昨日とは少し違う黒いワンピースに身を包んだキリが出てきた。昨日は襟付きの、切り替えのあるワンピースだったが、今日はVネックの裾がひらひらしたワンピースだ。キリはふわふわと笑って、戸棚からパンとチーズを出し、ヤカンを火にかけた。いそいそと朝ごはんの支度をするらしいキリを見よう見まねで手伝いながら、圭太は横目でキリを盗み見た。

「なんか、楽しそうだね」

ためらった末に圭太が言うと、キリは笑みを深める。

「私ね、街に行くのが好きなの。これから街に行けるから。夜は人が多いからあんまり行けないし、だからとっても楽しみ」

弾んだ声でそう言いながら洗った菜を刻む。圭太は皿を出しながらちょっと黙った。あの異様な空間。暗い中に鮮やかな色をいくつも灯し、その光を浴びて闇など振り返らずに見世物を見つけては楽しげに笑う人々。壁を鮮やかな色に塗り立て、軽薄な音楽に合わせて足を運び、道化師が仕事をしているだけだと分かっていながら、そのまがい物のおどけた仕草に感じるにせものの喜び。その、圭太にはどこまでもうそ寒い光景。どうしてあんなところに行かねばならない、と寒気を催すと同時に、圭太にはあそこにしか行き場がないという事実も思い出した。

「あの街が好き?」

訊くと、キリは頷く。

「うんっ」

その笑顔を見ると、こんなことを言ってしまうのは場違いなことに思われてやはり圭太は曖昧に頷いただけだった。圭太が朝食をとっている間、キリは少し眠そうにしていたが、朝食を終えて片づけを始めるころには、昨日と幾分変わらない顔になっていった。着替えようにも、圭太は服なんか持っていない。キリは大きなTシャツとハーフパンツを貸してくれて、そのどちらも黒だった。昨日着ていた圭太の服は、泥だらけだったからキリが洗ってくれていて、まだ乾かしていない。洗い上がった洗濯かごを持って外に出、キリと二人で手伝いながら洗濯物を干した。

「ね、いつもご飯とか洗濯とか、自分でやってるの?」

長い洗濯竿にキリのワンピースの袖を通しながら圭太が聞くと、少女は頷く。困った色の笑みが浮かんでいた。

「お母さん、あんまりここが好きじゃなくって、だからおしごとって言っていろんなところ行っちゃうの。たまにしか帰ってきてくれない。だから自分でできるものは」

「そんなの、ひどいじゃん」

圭太が洗濯ばさみを弄ぶ手を止めて言うと、キリも少し困ったようにする。

「うん……でも、私はお母さんが行くところがあんまり好きじゃなくって、お母さんと一緒にいるよりここにいたいから、しょうがないの」

さびしいけど楽しいから、と少女は苦笑する。自分自身に苦笑している風でも、母の行動に苦笑している風でもあった。圭太はそんなキリを見やって、複雑な気分で空になった洗濯かごを覗く。娘を置いてまでここに住むのを嫌がるキリの母親の気持ちも、母の庇護を捨ててまでこの場所にこだわるキリの気持ちも、圭太にはちょっとよく分からなかった。


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