プロローグ (6)
「バカ公爵!!」
寝耳に水の例えはあるが、アモンにとってそれは寝耳に何であっただったろうか。
夕刻まで森での散歩を楽しんで城に帰り、夕餉を食べたところまでの記憶は残っている。
手頃に切り分けられたチーズにパン、野草のサラダと果物が数種類、豚の燻製肉と玉ねぎのソテー、きのこと山芋のスープ。
散歩の疲れか、朝食を取らなかったためか、今日のアモンは食欲旺盛で、チーズと一緒にパンを三つとスープを二杯たいらげ、燻製肉のソテーも二皿おかわりするほどであった。食事と同時に一本半も空けた林檎酒もほどよく回って良い心持ちで床に入ったのがおよそ日暮れ少し過ぎ。そのわずか二刻ほどのち、熟睡中の耳に爆弾が炸裂である。
「アルセイデスが呼んでます。急いで起きて庭に行ってください!」
今、何が起きているのか全く理解できぬまま、アモンは顔めがけて投げつけられた上着を羽織ると、あたふたと小物入れの眼鏡を取り出し、まだふらつく頭と足を引きずり、階段を階下へと早足で下ると城を出、庭園へと向かう。庭ではアルセイデスが待っていた。
「お待ちしてました殿下!」
珍しく、テオドール以上にアルセイデスが大きな声をかける。
「実は昼にお見せしたドリアードなんですが、どうやら早咲きらしく今夜にも……いや、今にも(巣立ち)を始めそうになったので、急ぎ殿下においでいただいた次第なんです」
アルセイデスの瞳が期待と好奇心にやたらと輝いているのを見て、何かを言う気も失せたアモンは、寝ぼけた頭でうんうんとうなずく。
そしてひときわ大きなあくびを声も上げずにつくと、多少は動きだした頭を回転させ、何か質問しようとした。その時だった。
庭の一角がぼんやりと光を放った。
途端、アルセイデスはアモンの手首を掴むと、強引にその光源へと引っ張ってゆく。
何度か地面に足を取られそうになりながら謎の光源に辿りついたアモンは……息を飲んだ。それは予想を上回るほどに幻想的な光景だった。
昼に見たドリアードの樹から半身を覗かせていた少女らしき物体が、全身を淡い光に包まれながら、ゆっくりと樹の幹から残りの半身を引き出していた。
それは(巣立ち)というより、(羽化)といったほうが表現として適切とも思えた。
実際、上半身のほとんどをあらわにしていたそれは、背に折りたたまれた羽がある。
まるで蝶の羽化。
声も無く見入る観察者をよそに、(巣立ち)はゆっくり、ゆっくりと、進行してゆき、やがてすぼめた傘のようになっていた羽が開くと、その時は訪れた。
広げたばかりの羽を力強く羽ばたかせると、幹の中に残された両足が一気に引き抜かれ、途端にその全身が宙を舞った。
まるでようやく得た自由に歓喜するように、淡く発光する羽の生えた少女が夜空を飛ぶ。
弓張りの七日月、鮮やかな星々、それらに自身の淡い光を伴って、夜を彩る。
闇に映える幻想的な光のショーはそうしてしばらく続いた。
アモンはとうに眠気も失せ、予想外に心躍る光景に天を仰ぎ続けていたが、ふと、背後の気配に振り返った。
そこには眼前の光のショーに気を取られている人物がもう一人。
テオドール。
粗雑で乱暴な従者。
それがまるで子供のような邪気の無い笑顔を満面に浮かべ、夜の光に見入っている。
「……今日は、珍しいものが二つも見れたな……」
つぶやくと、アモンは改めて(巣立ち)の神秘に目を向け、静かに微笑んだ。
その身の自由を満喫するように飛び回る羽の少女が夜空の彼方へ飛び去っていったのは、それからしばらく後のことだった。
あとに残るは上弦の月。数多の星々。
森を抜けてきた風が優しく頬を撫でた。