プロローグ (2)
アモンはベッドの中で目を覚まし、もうどれほど時間が経ったか分からなくなっていた。
起き上がるでもなくベッドの上で仰向けになりながら、顔にかかった自分の髪越しに天井を眺め、何とはなしに物思いにふけっていると、まるで時の流れが止まったような錯覚を覚え、奇妙な浮遊感に包みこまれるようで、それはそれでなんとも心地好く感じた。
ところで、思えば今、自分はどうしてこうしているのだろうか。体の倦怠感に反比例してすっかり覚醒した意識の中、現在の自分が置かれた立場を今一度考えてみる。
どんな世界にも権力に魅せられた人間たちによる政治抗争はあるもので、ここ大陸北東の大国ベルディニオにも、今まさに利権を巡る狡猾な争いが展開されていた。
大陸三大列強の一つに数えられる王政国家ベルディニオは前国王カムランの突然の病死によって即位した若き王、ウェイディへ利権を狙い群がる家臣団や、新王を廃し民主革命を画策する中央議会などの策略・謀略が駆け巡り、さながら静かな内戦状態にあった。
そんな中、新王ウェイディの従兄弟にあたり、王位継承権第二位にあったモルガン公爵家の当主アモンは、自分の全く知らない間に反王勢力の旗印として担ぎ上げられるらしいというあまりに不明瞭な噂により、それを恐れた家臣団の王への助言から領地と大半の財産を没収され、一夜にして王族でありながら没落貴族と成り果て、隣国のレムレス法王自治国との国境に近い、森に囲まれた古城での生活を強いられることになったのである。
己を現状に追い込んだ過去を少し腹立たしく感じつつも、不思議とアモンはさほど大きな感情の高ぶりに見舞われることは無かった。
それは生来政治欲が無く、権力に対する執着も無い彼の性格ゆえであろうか、それとも現国王に対するある種の同情心によるものか、結果として彼は最期までその理由を理解できずに生を終えることとなるが、それはまだ先の話である。
そんな煩雑とした思考をベッドで巡らしているまさにその瞬間、突然寝室のドアが乱暴に開け放たれた。
「お目覚めですか? バカ公爵」
ずかずかと寝室に押し入ってきた人物は窓際へ足早に向かうと、これまた乱暴にカーテンを開け放ちながら、かまびすしい声を上げた。
見れば、はっとするような美女である。
闇のように黒く艶やかな髪。長いまつ毛に縁取られた切れ長の目。鳶色の美しい瞳。
肌の色こそ浅黒く、お世辞にも上等とは言えないメイド服を纏ってはいたが、その顔立ちはそれらを差し引いても十分な釣りが投げ返されるほどの美貌を湛えていた。
「……テオドール、何度言ったら分かる……私のことは殿下と言え。もしくはせめて公爵と呼べ。バカは余計だ」
ベッドの上から恨めしそうな視線を送り、アモンははっきりした口調で従者を非難した。
「主人に繰り言をさせる従者など聞いたことが無いぞ。それとも何か、お前のその大きなお耳は飾りか何かか?」
アモンの言うように、テオドールの耳は確かに大きい……というより、長い。
それは彼女の種族特有の身体的特徴である。
テオドールは黒エルフの蔑称で知られる洞人の一人である。
洞人はその名の通り、洞穴などを好んで住居にするためについた名だが、亜人に対する差別の激しい昨今では、主に黒エルフという蔑称が用いられることがほとんどだ。
他にも森人の名で知られ、白エルフの蔑称を受ける種族も存在するが、同じエルフという名でくくられた彼ら種族の間には、実際は何の接点も無い。
ただ、容姿が極めて良く似ているためにつけられたなんとも粗雑な差別的名称である。
とはいえ、実際両者を見分けるのはその肌の色をもってするほかに無いほど類似しているのも事実であった。
だが、厳密には両者は肌の色以上に大きな差異がある。それは、
「眠り姫にでもなったおつもりか存じませんがね、もう昼を回ってるんです。いい加減で起きないつもりなら、次の朝まで深ぁく眠らせて差し上げましょうか?」
この好戦的性格。言いながら、ベッドまで近づいていたテオドールは、ちょうどアモンの寝ている位置から拳一つ分離れた場所を正拳で力いっぱい殴りつける。
強烈な衝撃が波のように伝わり、アモンはまるで飛び跳ねるようにベッドの斜め上へ舞い上がると、即座に硬く冷たい床へ落下した。
没落貴族の哀れな末路と見ても、さすがに不憫な光景。しかし現実である。
信じがたいことに、これが昨今のアモン公爵が床を出る際の日常的光景であった。