第四話 消失
梅雨の季節が来た。
シトシトと降る雫達を二階の窓から物思いに耽って見つめているのは赤い髪の少女、加奈。『ふぅ』と溜息をつきながら頬杖をつき、何とも言えないような顔をしている。
「インって、本当に分けが解らない人だなぁ。」
思い出すは昨日の出来事。普通に公園のベンチに座って対談していた。
ゲームも持ちかけられた。
だが、その後の彼の行動がとてもおかしかった。
いきなり驚いた表情になったと思ったら私の後ろを見つめて青ざめた顔になり、どうしたの、と聞く前に、とても良い花の香りがした。
もう一度インの方を見れば安心したような悲しそうな顔。
「お母さん...」
そう呟く彼の今にも崩れてしまいそうな虚ろな目、震える体...
どうしてそんなに悲しそうな顔をするの?
お母さんと何かあったの?
聞きたいことは山ほどあるのに...私の口はあまり動かなかった。
言葉は喉まで来ているというのに、イザとなったら喉の奥へと押し込んでしまう。
素直に干渉出来ない自分のこの性格に嫌気が差す。
彼のこんな苦痛な表情ははっきり言って見たくない。
だからさっきのゲームの続きを話した。
それでこのままじゃ、どうやって彼を呼ぶか困るので仮の名前をつけてあげた。
その綺麗なお日様のようなポカポカする雰囲気と、ヒマワリのような黄色い髪と可愛い笑顔から連想したのは黄色い薔薇の種類の一つ、インカ。
略してイン。
その提案が良かったのか、はたまた私の笑顔に釣られたのか彼は笑いながら私の髪へ手を伸ばす。
まるで宝物を大事に扱うごとく、彼は優しく私の赤い髪を指に絡ませサラリと触っていく。少し、くすぐったかった。
その内に彼の目は私の顔へと移り...
その手までもがごく普通にサラリと滑り落ちて...
彼の手が私の頬に触れ...
そこで心臓がドクンと強く脈打った。
光を灯していないその瞳が怖くも神秘的で彼から目を離せなくなる。
徐々にインの顔が近づいてくる。
彼の目は虚ろで私を見てるのかさえも解らないほど。
このまま流されても良いのだろうか。
拒否しても直ぐに誤ってくれるような気がするけれど...
不思議と嫌な感じはしなかった。
突然の事で冷静な判断が欠けていたのかもしれない。
でも、それでもいい。
インだったら良い。そう思ってた。
私の鼻と彼の鼻とがスレスレまで来ている。
彼の唇から漏れ出す震えた吐息が私の唇に掛かり始めた。
心臓が信じられないほどバクバク脈打っていて他に何も聞こえない。
と、突然、彼が酷く不安な顔をした。
そして次にくるのは小さな衝動。
彼が私の手を引き自身の腕の中へと引き寄せていた。
そして両の細い腕で私を優しく抱きしめてきた。
彼の震える体に触れて、涙声の今にも崩れてしまうような背中をポンポンとあやすように優しく叩く。
少し拍子抜けしたけど...この行動に、ああ、やっぱりコレがインだよなぁと妙に納得した。
顔が変に熱かったのは...きっと気のせい。
「絶対に...護りきってみせるから...どうか...お母さんみたく、居なくならないで...僕を置いて...いかないで...」
そうか、それがインにとってとても怖いことなんだ。
自分の側から大切な誰かが居なくなるのは本当に悲しいのだろう。
詳しく聞きたかったけれど、こんなに精神的に弱っているのに聞けるわけがない。
なんとかして彼を安心させたかった。こんな弱い部分を見せてくれた彼がとても愛おしくて...そして少し悲しくて。
あなたを襲う全ての痛みや苦しみから護ってあげたい。
どうせならあなたの背負う物を私も一緒に背負って生きたい。
あなたの悲しみを喜びに変えたい。
そう思っている内に彼は眠っていた。
「良かった。」
苦しそうな表情はもう無く。あるのは天使のような寝顔一つ。
「私も釣られて寝ちゃったけど。」
クスリと笑いながら加奈は少し考える。
「でも、何故いきなり変なゲームを...」
『じゃあ、こうしよう。君が一週間以内に僕の名前を調べる事ができたら...遊園地へデートしよう。』
もちろん、すでにインの父親には裏をとってある。
解らないのは妙に口ごもって『俺の力じゃどうすることも出来ない。』と言ってきた事だ。
知らない、言えないでは無く、どうも出来ないと悲しく呟いていた。
「どうして...自分の名前を私に探させるゲームなんか...それに一週間以内...」
何かがある。加奈は確信していた。
「一週間後って...たしか...十九日。」
この日に何かあったのだろうか。
彼の様子が変だったのにも関係しているのかもしれない。
「調べるしかないか。」
そう一言彼女は呟き、しまってあったオレンジ色で赤いリボンが付いた傘を手に取り家を後にした。
それが...彼女の両親が見た加奈の最後の姿だった...
雨が降る。段々と酷くなってくる。そのジメジメした薄暗い道をオレンジ色の傘が突き進んでいく。
「ねぇ、お姉ちゃん。」
そんな声が聞こえ、加奈はフと振り向き、声の主を見た。
そこに居たのは真っ赤な、飾りが凄いドレスを着こなした小さな少女。
十歳くらいはあるだろうその子は、黒い髪をツインテールにしていて、とても上品な印象をうけた。
しかしどこか不気味だ。
透けるような白い肌に真っ赤な唇。
その瞳は黄金の色をしている。
雨が当たってるはずなのに濡れていない。
「一緒に探して?」
ニコリと笑う様は美しくも可愛らしいがどこか刺があるような笑顔。
「何を?」
そう聞き返すと彼女はニタリと不気味に笑った。
まずい。
この子から離れなければ。
加奈がそう思い、二歩くらい後ろに後ずさりしたその時、その少女は笑いながらこう告げた。
「●君の不幸。」
え?と聞き終える前に強い風が吹いた。
オレンジ色の傘は空高く巻き上げられ...
静かに誰かの家の前に着地した。
そして...あの女の子は跡形も無く消えうせていた。
そこに居たはずの加奈と共に。
しばらくして雨が少し勢いを無くした頃。
オレンジ色の傘が着地した家のドアが開いた。
「ん?誰の傘だこれ?」
辺りを見回せども人の影も無い。
「お父さん?どうしたの、その傘...」
傘を畳みながら男は後ろを振り向く。
「玄関の前にあったんだ。」
すると少年は傘を食い入るように見つめた。
「それ...加奈がお気に入りの傘...」
そう言いながら震える足で外へ出る。
「お、おいっ!まだ雨が...!」
その時にはすでに彼は家を飛び出していた。
黄色い子供が走っていく。
息は上がっていて呼吸するのも難しい。
だが彼、インはその足を止める事は無かった。
道の角を右に左に曲がり、玄関に色取り取りの花が植えつけられている上品な家にたどり着いた。
「加奈のお父さん、お母さん!!」
まだ整っていない上がりきった呼吸でインターホンを押しながら必死に叫ぶ。
『どちら様で...』
「開けて下さい!!加奈のお父さん、お母さん!!」
掠れてしまっている声は誰の声か混乱させたが、【加奈】と言う言葉でドアを開けた。
すると息苦しく膝を手で押さえたあの黄色い少年が青ざめた顔ですがるように話してきた。
「か、加奈は...加奈は居ませんか?!」
「え、ええ、居ないわ。一時間前に家を出て行ったきりよ。」
最悪な事柄がインの脳裏に浮かぶが、それを必死になって取り除こうと頭を振った。
「それより、アナタここまで走ってきたの?ずぶ濡れだし、息も凄く上がってるわ...入って。髪の毛でも乾かした方が...」
そう言いながら手を差し伸べようとした加奈のお母さんの手をインは遮り、手に持っているオレンジ色の傘を手渡す。
「これは加奈の...出て行く前にもって行った...」
「僕のせいです...」
「え?」
そう聞こえたかと思うと彼はまた雨の降る中に飛び出していった。
嘘だ...
嘘だ...!
ドンドンと激しくなる心臓の鼓動。
加奈...居なくならないって...約束したのに!!
苦しくなる呼吸。
嫌だ...嫌だよ!
「かなぁ!!どこなのー!?」
かすれた声で叫び、彼女を探す。
全身びしょぬれで、顔は最悪な事を予測して酷い事になっていた。
「はぁ、はぁ!...かなぁああ!!」
居なくならないで。僕の側にいて。
君の笑顔をもう一度見せて。
「...!くっ...か、かなぁぁああああ!!!」
頬から流れるのは果たして雨なのか。
必死に彼女の名前を叫びながらインは走っていた。
「一人に...僕を...一人に...しないで...」
そう呟いたかと思うと彼は地面にドサリと倒れる。
息が苦しい。上手く吸えない。
目眩がするし、体が動かない。
ボウっとする意識の中、あの時の赤いドレスの女の子が言っていた言葉を思い出した。
『いつか...アナタがアタシを忘れた頃に...大切な誰かがあなたの側にいるのなら...』
雨の音も感覚も無くなっていく。
『その子を亡き者にしてあげる。』
もしかしたら...あの子が加奈を...?
『だから...待っててね?』
不意にあの不気味な笑顔を見た気がした―――...
『アタシがアナタを壊すまで』
そこで彼の意識は暗闇の中へ引きずり込まれていった。
周りには何も無く、雨のすさぶる音と風が揺らす木々の音だけ。
そして、赤いドレスの女の子―――