七話
「自分の娘をどうしようが親の勝手だ!」
十年前、そう吠えた男がいた。今まで思い出すこともなかった。
通りの片隅だった。酔った父親が殴りかかっても、テイシンは逃げることも抵抗することもなく、体を丸めてただ耐えていた。地面に叩きつけられてもけして泣きはしなかった。
そばを通りかかったのは偶然だ。当然のように男を止めたが、しかし止まらなかった。いっそう激しく娘を蹴り上げて、へらへら笑っていた。思わず殴ったのは、テイシンの腕の火傷痕に気付いたからだ。
五、六発目に、テイシンがすがりついてきた。
殺さないで、お父さんを殺さないで。お酒を飲んでない時は、とってもやさしいの・・・・・・
翌日、野菜売りのばあさんが連絡してきた。あんたなら、どうにかしてくれるだろ、と途方にくれたように言って。
テイシンは、子供が持つには大金を差し出して、言った。
これをあげますから、拾ってください。お願いです。お父さんが、そうしろって言うの。テイシンが悪いから・・・・・・
飲んだくれていた男の格好からすれば、彼にとっても高額な金だと想像できた。全財産だと言われても納得する。その金を渡され、テイシンはただ、父親の言う通りの行動をとったのだ。
そして、テイシンの父は消えた。
彼がなにを思ったのか知らない。
テイシンを捨てたかった?なら自分が消えるだけでいいじゃないか。なんであんな切ない言葉を子供に吐かせる必要があるんだ?本当に、一生懸命、吐くように、テイシンは言っていたんだぞ。
それとも、本気で誰かに娘を預けたかったのか?なら、擁護施設に行けばいい。テイシンはどこにも国籍がない。それでも、なんとかなったろうに。
テイシンがどれほどあの男を必要としていて、どれほど愛していたのか、まるでわからなかったというのか。
殺さないで。
ああ、殺さないよ。
テイシンの父は、生きていようが死んでいようが、おそらく罰を受けただろう。テイシンが父を失って傷ついた気持ちを、自身も娘を失ったことで思い知ったに違いない。そう思いたい。
そしてイもまた知る。
幼い子供が自身のすべてと言ってもいい生活、父親とやさしさと愛とその心を失ったのと同じく、イはこれからすべてを失ってゆくのだ。
一週間も経つと、メイヒという少女が事務所にいることにも慣れた。傷は残っているが一時の高熱からは立ち直り、今では、いつもテイシンの服を掴んで、あっちにもこっちにも一緒に動いていく。あの様は、金魚のうんちっていうんだろうか。
少女は時折りおびえたような表情を見せる以外、顔の筋肉をぴくりとも動かさなかったが、自家製切り干し大根のきれっぱしを噛んだ時には、ちょっと頬が緩んだように見えた。気のせいだったのかね?
テイシンがなにか少女へ言っている。
「あなたはミキよ」
なんだい、それは?
「あ、先生。この子の名前だよ。メイヒ、きっと美しい姫って書くんだよぉ。だってすっごく美人ちゃんなんだもの。だからね、ミキなの」
そしてテイシンはメイヒ改めミキへ微笑みかける。
「本名はね、いつか国に帰るか、好きな人ができたときのために取っておくの。大切なものだからね。昨日紹介したマリアさんやヒョングも、みんなそうなんだから」
内容を理解しているのかいないのか、ミキは小首をかしげている。
心の病の専門家が知り合いにいるが、連絡がとれない。あの野郎、いったいどこほっつき歩いていやがるんだ、とミキを見つめながら心で悪態をつく。
それにしても、堂々と本名を名乗るテイシンが言っても、まるで説得力のない話だ。
「先生が言ったんだよぉ、おばあちゃんの店の前でさ。ずっと前に」
そうだっけ?
「テイシン、か。性はなんて言うんだ?ま、名前なんてのはどうでもいい。適当な偽名を考えておけよ。本名って言うのはな、この街じゃ邪魔なだけだ。そして、いつか自分の国に帰るなり、惚れた相手が見つかるなりして、新しい生活を始めるときに必要なものなんだ。
本名を名乗れるようになるまでは、面倒を見てやる。お前一人じゃないからな。うちの事務所の下にいるマリアもそうだし、上にも似たようなやつがいるし・・・
ただし、自分のメシ代は自分で稼げよ。能がないなら事務所で働け。電話番くらいできるだろ。
それから、ええと・・・そう、ずたぼろになっても野菜はうまいもんなんだ。特に大根は絶品だ。
・・・・・・頼むから、もう泣かないでくれよ・・・・・・」
未熟な作品を呼んでいただきありがとうございました。精進いたしますので今後もお願いいたします。