五話
わめくイをもう相手にしなかった。彼の視線が泳いだ先にあるドアを急いで開けた。
窓に分厚いカーテンでもかかっているのか、真っ暗な部屋だった。
明かりをつけずとも、もごもごいう声で居場所はわかった。駆けつけて、テイシンの体をボンレスハムみたいに縛っている縄を切断し、口元のガムテープを剥いだ。
「先生!」
しがみついてきたテイシンの背中をさする。怪我はない。腕は?足は?無事だ。頭を調べ、頬に触れた時、指にどろりとしたものがついた。傷はない。鼻血、か。
「あの子は?あの子は大丈夫?さっき、いきなり声がやんだの。先生、あの子、まだ、生きてる?」
無事だと、そう答えた。
テイシンの表情は闇の中で見えないが、涙は、頬を挟んでいる手に流れてきた。
胸の中に風船がある。
激情によって膨らむそれが、胸郭いっぱいに大きくなっても、なお怒りというエアーをそそぎこまれ続け、体を突き破ろうと胸を苦しめる。
歩けるか訊ね、少女と二人で先に駐車場へ行くよう指示する。もう、敵はいないから、安全だ、と。
少女を見たテイシンが悲鳴を上げていた。少女の体のどこに手をかけてやればいいのか、悩むようにてのひらが宙をさまよう。
さて、イをどうしてやろうか。
両手の指を鳴らして思案していると、なんとか少女をかついだテイシンが、小さな声で言った。
「先生、その変態野郎、殺さないであげて」
なんだって?と声が出そうになって、しかしその前にテイシンが苦しそうに吐き捨てた。
「そいつ、この子のお父さんなの」
なんだって?今度は声が出た。
ただの驚きじゃない。驚愕だ。
父親?父親が、なんだってこんなことを?
「自分の娘をどうしようが勝手だろうが」
悪びれた様子もなく、イはうそぶいた。
「殴ろうが蹴ろうが殺そうが、親の勝手なんだよ。子供ってのは親の所有物なんだ」
思わず殴っていた。
「殺さないで!」
少女をかついだテイシンがしがみついてくる。
ひどく腹を立てていたが、そんな自分を冷静に見つめる落ち着いた部分が、心のかたすみにあった。そいつが囁く。
よせ。あの時にそうしたように。
テイシンを見下ろす。そうだ、あのときのテイシンはもっと小さかった。
「殺さないで」
繰り返すテイシンにうなずいてみせた。少女とテイシンとが部屋を出るまでに、三回うなずいていた。
わかった、殺さない。
特注の針を懐から取り出す。先端と頭の部分と以外を絶縁体で覆った、それでも髪の毛のように細く、特別に長い針。静電気をためて指先から放電する手袋で頭を叩くと、先端まで通電するようできている。
イは針を見つめて鼻を鳴らした。
「たかが針師が、もったいぶりやがって」
強がりだとわかった。イは震えていた。
ふと訊ねた。なぜ、自分の娘を?
「楽しいからさ」
くくくと笑ってから、イはそうだなあとテイシンたちの出て行ったドアを眺めた。
「あのガキは肌がきれいだった。きれいすぎてな、ガマンしきれずに手を出しちまった。いつも通りもう少し我慢すれば、もっと美味い娘になってたろうになぁ」
あの子一人じゃあないのか?
「子供をな、幸せいっぱいに育てるんだよ。なに不自由させることなく、世の中には悲しいことなどなにもないと、お前は人から愛されているのだと、順々に教えて育てるんだ。するとな、子供はそれはもう、真っ白に、純粋に育つ。無垢なままに」
聞いているだけで吐き気のする話というのはあるものだ。はやく針を突き刺したいと心がせっつく。だが、まあ待て。この言葉が、この男の最後のセリフだ。
「そのガラスみたいに脆くて、水晶のように透き通っていて、小さくてまっさらな心をな、この手で、潰してしまうんだよ。今まで大好きだったお父さんが豹変する、その時のあの子らの顔ったらないぜぇ。泣き叫んで、許して許してって・・・・・・」
あとは言葉にならなかった。否、薄汚い言葉を針が封じたのだ。