四話
イという名前には聞き覚えがあった。
被服輸入業者で、公然と密輸をおこなうという話だ。扱う品は麻薬から銃器、動物に人間と実に幅広い。噂ではミイラも運ぶそうだ。
イくらいの大物なら、街の情報屋に聞くだけで居所は知れた。もっと大物になると、町の情報屋程度では手に負えなくなる。イの不運は、小物でもなく、大物すぎるわけでもない立場で、テイシンに手を出したことだ。
衣服を剥ぎ取られ、両手両足をいっぱいに広げて縛られた少女が、ベッドの上にいた。あらゆるものを拒絶する凄まじいまでの無表情。メイヒという名の少女は、体の震えで、かろうじて生きていることがわかるという姿だった。
本来透き通るような白い肌は赤と青のまだらができていた。ありえない箇所が不自然に腫れ上がり、いくつもの傷から血が流れでていた。
吐き気がした。形を変えた顔など正視に耐えなかった。幼い小さな体を責め苛む人間の心が、総身の毛を逆立たせていた。
振り返った痩身の男・・・イの、どこか間抜けなきょとんとした顔が、次第に落ち着きを取り戻していった。
「何者だ、貴様」
ドアを開けた姿勢のまま、しばらく声が出なかった。
「なにをしに来た?終わるまで入ってくるなと言ったろう。あと、もう・・・一時間くらいは楽しませろ」
それだけの時間をかけて少女をなぶろうというのだろうか。すでに瞳へあらわすべき心を破壊して、なお。
「見ない顔だな、近藤の手下か?」
ようやく不審をいだいたのか、イはドアの向こうを覗き込むようにして背を伸ばした。
ドアを閉める時、少し力が入った。抑えていないと、ノブを破壊しそうだった。
「何者だ、貴様?」
イが目を細め、かたわらのナイトテーブルへ手を伸ばした。そこに拳銃があることは確認済みだ。
どちらが速いか、わかりきっていた。これでも、手ははやいのだ。
投げた針は正確に肩のツボを射抜き、瞬時にイの腕の自由を奪っていた。
咄嗟の行動として、逆の手を伸ばしたイの動きは迅速かつ冷静だったと言える。普通なら突如自由を奪われれば混乱するものだが。
拳銃を握って振り向いたイのうなじへ、今度は手に握った針を突き刺した。両手で握ってもじゅうぶん余りある「大きい仕事」用の針を。それだけで、イの首から下の動きを封じ込めていた。
「針師、か」
全身のツボを熟知し、利用することで体内の気脈を操り、病気や怪我を治療する者がいる。針師と呼ばれる彼らは、同じ要領で他人の体を自在に操り、病の発症をうながすことまでやってのける。
町の針灸師程度の腕では当然不可能だから、その数は少なく、滅多にお目にかかれない人種だ。しかし、イは周知だったらしい。なるほど、さっきの手馴れた反応は、針師の技を知っていたがためか。
ただ・・・イは大きな勘違いをしている。
そんじょそこらのただの針師ではないよ。
「誰の差し金だ。金本か、トトか、キムか、それとも・・・」
名前が出るわ出るわ、あちこちで恨みを買っているらしい。
警備が意外に厳重だったのはそのためか。おかげで時間を食った。一分でも一秒でも早くたどり着きたかったというのに。
少女の体を拘束する縄を、針でもって切断しながら・・・こいつはコツが必要なんだ・・・テイシンはどこだ?と聞いた。
イはまたきょとんとした間抜け面でこちらを眺め、やがてなにやら思いついたのかまともに驚いた。
「あの小娘の身内か?まさか、針師の身内だったとはな」
それから、イは吠えた。
「ふざけるな!少々腕が立つ程度で、誰に歯向かってるんだ、貴様は!たかが針師が、こんなことしてただで済むと思っているのか!」
悪党というのはみんな言うことが一緒だ。
俺を誰だと思ってるんだ。悪党だろう?ただで済むとおもってるのか。それはこちらのセリフだ。
叫び続けるイの耳元で、ぼそっと本名を名乗ってやった。あんまりでかい声で言いたくないんだ。
三度目のきょとんがイの表情をよぎり、視線が泳いでいく。
この名前は、いつも効果抜群だ。
「か・・・神に最も近い悪魔・・・貴様が?・・・ばかな・・・ブレインハッカーだと・・・!」