三話
慌てて・・・体裁を整える余裕はなかった・・・針灸院事務所の階下にある美容院へ駆け込んだ。テイシンがテイシンがとわめくと、奥からマリアが飛んできた。手に受話器を持っている。
「なんでケータイでないの、センセ!」
事務所に忘れてたんだ。
「テイシンちゃんと女の子が、車で連れて行かれちゃったよ!電話したのに、センセに電話したのに」
あとはなにやらカダログ語でわめき散らす。
すっかり動転している様子から、車のナンバーなんぞ控えてはおるまい、と聞くと案の定だ。
テイシンは無事に連れ戻すから、と逆にマリアをなだめすかした。
年齢不詳の美女マリアはこんな時、ひどく幼く見えてこちらを慌てさせる。昔テイシンが迷子になったときもそうだった。
昔話の記憶を振り切って、事務所に戻ると「大きい仕事」用の道具を取り出し、特注の手袋をはめた。
恨まれる心当たり?数かぎりなくある。しかし実際に襲ってくる馬鹿にはあまり覚えがない。テイシンにだってないはずだ。では誰が事務所に押し入って二人を連れ出したのか。
タイミングからして、メイヒというあの少女がらみではないかと見当をつける。
少女をさらうことが目的だった?
根拠がないわけじゃない。事務所は荒らされていたが、それは徹底したものではなかったからだ。事務所の所有者が誰なのかを探った、まあその程度だ。
ともかく少女が事務所にいると知っている人物に当たった。簡単だ。ばあさんとその仲間たちしかいないはずだ。
当たりだった。当たってほしくない推測だった。
ばあさんは、店の中といわず外といわず散乱している野菜の残骸を、ゆっくりと拾い集めているところだった。人々はそれを痛ましそうに眺めているだけだ。ばあさんの丸めた背中が小さく見えて、なんだか泣きたくなった。
「先生・・・」
殴られた痕も生々しい顔が、すまなそうにうつむいた。
「ごめんよ・・・あの子の行き先を教えろって言われて・・・あたしゃイヤだったんだ。死んでも言わないつもりだったさ。でもね・・・・・・ごめんよ」
立ち尽くしていると、周囲の誰かがぼそっと言った。
教えたのはばあさんじゃない、あいつさ、と。見てられなかったんだろうさ。あのままじゃばあさん殺されてたよ、と。
相手の暴力が老婆の次の標的を見つけ出す前に、彼らは口を開いていたのだろう。
ありゃあイさんの部下の人だからね、という声も聞こえた。
イ。聞いたことのある名前だ。
「あの子は無事なのかい?」
ばあさんはすがるような目で見上げてきた。十年前と同じ目だ。すがるような目で、ばあさんはあのとき言った。この子を頼むよ、テイシンっていうんだってさ。
「あの子は無事なのかい?」
・・・無事だ。悪いやつらはやっつけたよ。ばあさんのことが心配になって来ただけなんだ。本当だ。
それを聞いて、集まっていた者は三々五々散っていった。ああよかった、先生なら大丈夫だと思ったんだ、と話し合いながら。
「あの子が無事ならいいんだよ。うん、よかった・・・売り物かい?いいんだよ、気にしなさんな。いいかい、野菜っていうのはね、どんなにぼろぼろになったって、食べられるんだ。栄養だってさ」
言いながら、ばあさんは泣き出した。
彼女の同郷の人がよくするように声をあげて泣きはしなかったが、老婆のしわくちゃの顔の、そのしわの一本一本に、目じりから涙がしみこんでいった。
「嘘なんだろう?」
なにも言えなかった。
「・・・みんなはそれを聞いて安心するよ。あたしだってほっとする。だけど、心の中じゃ知ってる・・・みんな、あんたの顔を見ないだろ。ちらりとでも、一度は見ちまったんだ。だから、知ってる。ああ、これは嘘なんだ、って。・・・・・・わかりやすい男だよ、先生は」
ばあさんは責めるでもなく周囲の人ごみを見やった。
「だからね、みんな、あんたの顔を見ていないフリをするのさ。だって、そうだろう?知ってしまったんだ。無事だなんて嘘だ。あのかわいそうな子は、もういないんだ・・・・・・
だけれど、そうやって誤魔化さないとやっていけないんだよ・・・自分らのせいだなんて、誰だって思いたくないさ・・・ごめんよ、ごめんよ、先生。だけど、みんなを責めないでおくれね」
あの子は、まだ、生きてるよ。かろうじてそう言った。今度はうまく言えたはずだ。必ず連れ戻す、と。
ばあさんは愁眉を開いて、ようやく口元に笑みを浮かべた。
「本当かい?お願いだよ、先生、あんたならできるよ、あんただったら安心だ」
全幅の信頼を込めた顔だった。その信頼に答えるため、テイシンと少女をすくうため。
イという男には思い知らせなければならない。お前が敵に回した者が何者なのか。




